第一話「二人のリン」
二〇〇〇年(平成十二年)四月六日、木曜日。
東京都立青葉高校、職員室。
「山元先生。初めての担任、どうですか?」
不意に声をかけられ、山元凛は顔を上げた。
声の主は、三学年の学年主任を務める小野寺修一だった。
四十九歳。国語教師として長年教壇に立ってきた、穏やかな雰囲気の男性である。
『押忍! 楽しみで仕方ありません!』
凛は勢いよく立ち上がった。
その声に、近くの教師たちが何事かと顔を向ける。
小野寺は苦笑した。
「ははは。相変わらず元気ですね」
『はい! 明日から、いよいよ生徒たちと顔を合わせられますので!』
「三年生の担任ですからね。進路指導もありますし、何かと大変ですよ」
『承知しています!』
凛は胸を張った。
『ですが、生徒たちの高校生活最後の一年を任せていただけるのです。これほど光栄なことはありません!』
「……なるほど」
『四十人全員と真剣に向き合い、全員が胸を張って卒業できるよう、全力を尽くします!』
再び、職員室に響き渡る声。
小野寺が感心したように頷いた、そのときだった。
「山元先生」
背後から、低い女性の声がした。
凛は反射的に背筋を伸ばす。
『押忍!』
「……その返事です」
そこに立っていたのは、教頭の黒田美津子だった。
五十七歳。厳格な表情と隙のない身だしなみで、生徒だけでなく教師からも恐れられている人物である。
「あなたは空手の指導者ではなく、高等学校の教員です。職員室でそのような大声を出す必要はありません」
『申し訳ありません!』
「声も大きいです」
『……申し訳ありません』
凛が声を落とすと、隣で小野寺が笑いをこらえた。
黒田は手元の書類へ目を落とした。
「それから、三年二組の進路関係資料は確認しましたか?」
『はい! 全員分、目を通しました!』
「明日の予定は?」
『始業式、新任者の紹介、学級でのホームルームです。入学式の準備についても確認済みです!』
「結構です。期待していますよ、山元先生」
『ありがとうございます!』
黒田はそれ以上何も言わず、職員室の奥へ歩いていった。
その背中が十分に遠ざかってから、小野寺が小さく笑う。
「教頭先生にも物怖じしないんですね」
『いえ! 正しいご指摘をいただきました!』
「はは。そういうところも、あなたらしいですね」
凛は少しだけ照れくさそうに笑った。
この学校へ着任して、まだ四日目。
もともと三年二組は経験豊富な教師が受け持つ予定だったが、その教師が急病で長期療養に入ることとなり、急遽、新任の凛に担任の役目が回ってきた。
周囲には心配する声もあった。
教師になったばかりの若者に、高校三年生の担任が務まるのか。
そんな不安があることは、凛自身も理解している。
それでも、断ろうとは思わなかった。
任されたからには、全力で応える。
それが、彼女の生き方だった。
「山元先生」
『はい!』
「一つだけ、覚えておいてください」
小野寺の口調が、少し真剣になる。
「担任は、生徒四十人の人生を全部背負う仕事ではありませんからね」
凛は瞬きをした。
『……はい?』
「何でも一人で解決しようとしなくていい、ということです。私もいますし、副担任の相沢先生もいます」
『お気遣い、ありがとうございます!』
凛は深く頭を下げた。
『ですが、まずは自分にできる限りのことをやり抜きます!』
「……ええ。まあ、それも大切ですけどね」
小野寺は、どこか心配そうに笑った。
その言葉の本当の意味を、凛はまだ知らない。
◇
午後五時を少し回った頃。
凛は三年二組の教室に立っていた。
夕方の光が窓から差し込み、整然と並んだ机を照らしている。
四十人分の机。
四十人分の椅子。
明日になれば、ここに四十人の生徒が座る。
どんな生徒たちなのだろう。
明るい子もいれば、おとなしい子もいるだろう。
勉強が得意な子。
運動が好きな子。
将来の夢が決まっている子。
まだ、自分の進む道を見つけられていない子。
そして、誰にも言えない悩みを抱えている子もいるかもしれない。
凛は教卓に手を置いた。
『……よし』
小さく息を吸い込む。
『一年間、よろしく頼むぞ』
誰もいない教室に向かって、そう告げた。
もちろん、返事はない。
それでも凛は満足そうに頷く。
大学時代、彼女は空手に打ち込んできた。
厳しい稽古を重ね、全国大会では準優勝を果たした。
だが、武道で培ったものは、試合の勝敗だけではない。
礼節。
忍耐。
相手への敬意。
自分自身と向き合うこと。
その大切さを、今度は教師として伝えていきたい。
凛は黒板を見つめた。
明日、最初に書く言葉は決めている。
山元凛。
二十二歳。
新任体育教師。
そして、三年二組の担任。
『……楽しみだな』
思わず、頬が緩んだ。
◇
青葉高校を後にした凛は、春の夕暮れの街を歩いていた。
薄手のジャケットに、肩から下げた鞄。
街角のレコード店からは流行の歌が聞こえ、駅前には仕事帰りの人々が行き交っている。
明日から、いよいよ本格的な教師生活が始まる。
そう考えると、自然と足取りが軽くなった。
ふと、凛は足を止めた。
『……ん?』
住宅街へ続く細い道。
その奥に、小さな鳥居が見えた。
何度か通ったことのある道だったが、今まで気に留めたことはなかった。
『……神社か』
立派な神社というわけではない。
古びた石段があり、その先に小さな社が建っている。
辺りは静かで、街の喧騒が少し遠く感じられた。
凛は腕時計を確認した。
まだ、帰宅を急ぐ時間ではない。
『……よし』
何かの縁かもしれない。
明日から始まる教師生活を前に、気持ちを整えるにはちょうどいい。
凛は鳥居の前で一礼し、石段を上った。
賽銭を入れ、姿勢を正す。
二礼。
二拍手。
そして、静かに目を閉じた。
明日から、自分は教師になる。
これまでの人生で、何度も大きな目標に挑んできた。
厳しい稽古も、全国の舞台も、簡単なものではなかった。
だが、これから始まる一年間は、それらとはまったく違うものになるだろう。
相手は試合で向き合う選手ではない。
四十人の生徒たちだ。
それぞれ違う夢を持ち、違う悩みを抱え、違う人生を歩んでいる。
その一人ひとりに、自分はどれだけのことができるのだろう。
凛は心の中で呟いた。
(どうか、立派な教師になれますように)
だが、すぐに考え直した。
違う。
願っているだけでは、何も変わらない。
自分の道は、自分の足で歩くものだ。
そして、努力した先に結果がある。
凛は、もう一度心を整えた。
(一人前の教師になれたら、また来ます)
それは、神様への願いというより、自分自身への約束だった。
凛は目を開け、深く一礼した。
『……押忍!』
小さく気合いを入れ、社を後にする。
明日が楽しみで仕方なかった。
◇
同じ日の夜。
山元凛は、翌日の準備を終えて布団に入った。
目覚まし時計を確認する。
午前六時。
寝坊は許されない。
『……よし』
凛は天井を見上げた。
明日から、自分の受け持つ生徒たちと会える。
四十人の顔と名前を、できるだけ早く覚えよう。
まずは全員と話をしたい。
一人ひとりの目を見て、きちんと挨拶をしよう。
考えたいことは、いくらでもあった。
『……楽しみだな』
小さく呟き、目を閉じる。
まもなく、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
◇
二〇二六年(令和八年)四月六日、月曜日。
東京都立桜丘高校、職員室。
『……三年生の担任って、コスパ悪くないですか?』
山本リンは、机の上に積まれた書類を見つめながら呟いた。
「え?」
隣から、拍子抜けしたような声が返ってくる。
体育科の先輩教師、早川奈緒だった。
三十六歳。面倒見がよく、まだ学校の仕事に慣れていないリンの指導役を務めている。
「いや、リン先生。もう一回言って?」
『いえ、授業以外にも随分仕事があるんだなと思って』
「まあ、担任だからねえ」
『まず授業があって、進路指導もあって、保護者対応やら面談やら、行事の準備やら……』
「そうね」
『しかも三年生ですよ? 受験とか就職とか卒業とか、一番大事な時期じゃないですか』
「そのとおり」
『で、これ全部、新人がやるんですか?』
「全部一人でやるわけじゃないわよ。学年の先生たちもいるし、私たちだって手伝うから」
『あ、よかった。そこ重要です』
リンは心底安心したように頷いた。
「もう。そんなに心配しなくても大丈夫よ」
『いや、心配はしますよ。普通に』
「まあ、そうよね」
『仕事量が多いのは仕方ないとしても、効率よくできるところは効率よくしたいですし』
「例えば?」
『去年の資料で使えるものは使いたいですし、同じ情報を何回も手書きするような作業は減らしたいですね』
「ああ、なるほど」
『その分、生徒と話す時間に使えた方がいいじゃないですか』
早川が、少し意外そうな顔をした。
「……リン先生、ちゃんと考えてるのね」
『えっ。逆に考えてないと思われてたんですか?』
「そういう意味じゃないって!」
早川が吹き出した。
リンもつられて笑う。
二十二歳。
今年大学を卒業したばかりの新任体育教師。
もともと、運動が大好きだったわけではない。
それどころか、できれば激しい運動は避けたい。
汗をかくのも好きではないし、意味もなく走らされるのはもっと嫌いだった。
それなのに、なぜ体育教師なのか。
その疑問をリン自身も、ときどき抱く。
大学進学の際、親友の三浦聡美に誘われたことが大きかった。
聡美は昔から運動が大好きで、教師になることにも強い憧れを持っていた。
一方のリンは、そこまで明確な夢を持っていなかった。
大学で教職課程を履修し、実習を経験し、採用試験を受ける。
気づけば、教師になっていた。
ただ、それを後悔しているわけではない。
人と話すことは嫌いではない。
誰かに何かを教えるのも、それなりに楽しい。
何より、まだ自分の将来を決めきれていない高校生たちと過ごす日々には、少し興味があった。
そんなわけで、なんだかんだと教師になってしまったのである。
「そういえば、リン先生」
早川が尋ねた。
「初めての担任、どう?」
『え?』
「明日から、いよいよ生徒たちと会うでしょ。楽しみ?」
『……うーん』
リンは少し考えた。
『正直、まだ実感ないですね』
「そうなの?」
『だって、昨日まで自分が学生だったような気分ですもん』
「それは分かるなあ。私も最初はそうだった」
『しかも、いきなり高校三年生の担任ですよ? あたしより四つしか年下じゃないんですよね』
「そう考えると近いわね」
『ですよね。でも……』
リンは机の上の資料へ目を向けた。
三年四組。
三十二人の生徒たち。
その名前と顔写真が、一人ずつ並んでいる。
『どんな子たちなのかな、とは思いますね』
リンは一枚の資料を手に取った。
『三十二人もいたら、全員タイプ違うでしょうし』
「そうだね」
『仲良くなれる子もいれば、絶対合わない子もいるだろうし』
「まあ、それはそうだろうね」
『でも、せっかく一年間一緒にいるんですから、できれば楽しく過ごしたいじゃないですか』
早川が微笑んだ。
「うん。それはいいね」
『あと、名前を間違えるのは普通に失礼なんで、明日までに覚えたいです』
「……え?」
早川はリンの手元を覗き込んだ。
そこには、生徒の氏名と写真を照らし合わせながら書かれた、小さなメモがあった。
「……もうそんなに覚えたの?」
『まだ半分くらいです』
「十分すごいと思うけど」
『いや、三十二人ですから。やれば覚えられますよ』
リンは何でもないことのように答えた。
早川は、少しだけ感心した表情になる。
「リン先生って、なんだかんだ真面目よね」
『そうですか?』
「うん」
『いやー、別にそんなことないですよ』
リンは照れ隠しのように笑った。
『ただ、生徒からしたら先生が新人かどうかなんて関係ないじゃないですか』
「……そうね」
『だったら、できることはやっておこうかなって』
そう言って、再び資料に目を落とす。
『えーっと……水瀬結衣さん、朝倉紗奈さん、橘莉子さん……』
「そこまで予習するなんて、感心するわ」
『初日から名前間違えたら、めちゃくちゃ気まずいじゃないですか』
「ふふ。それもそうね」
リンは顔写真へ視線を戻した。
『仕事は効率よく。生徒にはちゃんと向き合う。それが理想です』
「なるほどねえ」
早川は楽しそうに頷いた。
「じゃあ、明日から楽しみにしてるわ」
『え、何をですか?』
「リン先生の担任生活」
『いや、ハードル上げないでくださいよ!』
二人の笑い声が、職員室に響いた。
◇
夕方。
リンは最後の書類を片づけ、椅子から立ち上がった。
『……よし。終わり!』
スマートフォンを取り出し、画面を確認する。
親友の聡美からLINEが届いていた。
「明日からついに生徒と対面だね!」
「お互い頑張ろうね!」
リンは思わず笑った。
『そっちも頑張ってねー』
『あたしはとりあえず無事に初日終わらせるwww』
送信。
すぐに既読がついた。
「リンなら大丈夫!無事に終わって落ち着いたら買い物付き合ってよ。この前迷ってたM.Oの新作ワンピースやっぱり欲しくなっちゃって」
『いつものキャラメルラテ一杯で手を打つよ』
「出た出たwwっていうかなんだかんだ、ちょっと楽しみにしてるでしょ?w」
『……ばれてるし』
リンは小さく呟いた。
確かに、少し楽しみではある。
どんな生徒がいるのだろう。
自分の授業を、どう思うのだろう。
一年間、どんなことが起こるのだろう。
もちろん、不安もある。
それでも。
『……まあ、悪くないかもね』
リンはスマートフォンを鞄にしまった。
◇
桜丘高校を後にしたリンは、駅へ向かって歩いていた。
夕方の街には、仕事帰りの人々や学校帰りの学生たちが行き交っている。
すれ違う高校生の一人が、スマートフォンを見ながら笑っていた。
その隣の友人も、画面を覗き込んでいる。
リンは何気なく、その姿を見送った。
明日から自分も、あの子たちと同じくらいの年齢の生徒たちを受け持つのだ。
そう考えると、少しだけ不思議な気分になる。
何しろ、自分だって四年前までは高校生だった。
『……大丈夫かな、あたし』
思わず呟く。
自信満々というわけではない。
教師として、何でも知っているわけでもない。
むしろ、分からないことばかりだ。
それでも、明日からは先生と呼ばれる。
『……ま、なるようになるか』
リンは肩をすくめた。
そのときだった。
『……ん?』
住宅街の一角。
細い道の奥に、小さな鳥居が見えた。
『え、こんなところに神社あったんだ』
リンはスマートフォンで時刻を確認した。
急いで帰らなければならない理由は、特にない。
どうせ帰ったら、動画を見たり、ゲームをしたりして過ごすだけだ。
『……ちょっと寄ってみよっかな』
なんとなく気が向いた。
理由は、それだけだった。
リンは鳥居へと歩いていく。
古びた石段。
小さな社。
周囲には高い建物も増えていたが、その場所だけは、時間がゆっくり流れているようだった。
『……なんか、いい感じじゃん』
リンは呟き、石段を上った。
社の前まで来ると、財布から小銭を取り出した。
『……えーっと』
首を傾げる。
『こういうのって、何お願いすればいいんだろ』
恋愛運。
金運。
健康運。
いろいろ思い浮かぶ。
だが、どれもしっくりこない。
『……まあ、明日から先生だしなあ』
リンは賽銭を入れた。
二礼。
二拍手。
少しぎこちなく手を合わせる。
(とりあえず、一年間無事に過ごせますように)
そう願いかけて、思い直した。
無事に過ごす。
それはもちろん大切だ。
でも、ただ何事もなく一年が終わればいいというわけでもない。
明日から出会う三十二人の生徒たち。
その全員が、自分にとって初めての担任生徒になる。
自分がどんな先生になるのかは、まだ分からない。
熱血教師には、たぶんなれない。
生徒のために何でも犠牲にするような働き方も、正直したくない。
それでも。
せっかく教師になったのだから。
どうせなら、生徒たちから「この先生でよかった」と思ってもらいたい。
『……うん』
リンは小さく頷いた。
(一人前の教師になれたら、また来ます)
その言葉は、不思議と自然に浮かんできた。
リンは目を開け、一礼する。
『……ま、頑張りますか』
少しだけ気分が軽くなった。
明日は早い。
帰って夕食を食べて、早めに寝よう。
リンはそう考えながら、石段を下りていった。
◇
同じ日の夜。
『……やば、もうこんな時間』
山本リンは、ベッドの上でスマートフォンを眺めていた。
明日から早起きだというのに、気づけば動画を何本も見てしまっていた。
『これはさすがに寝よ』
スマートフォンを充電器につなぎ、枕元へ置く。
明日から、三年四組の担任。
三十二人の名前。
体育の授業。
進路指導。
学校行事。
考えることは山ほどある。
でも、まだ会ってもいない生徒たちのことで、今からあれこれ悩んでも仕方がない。
リンは布団を引き上げた。
目を閉じても、明日のことが少しだけ気になった。
ちゃんと自己紹介できるだろうか。
生徒に変な先生だと思われないだろうか。
そもそも、三十二人の名前を全部覚えられるだろうか。
(……ま、なんとかなるっしょ)
リンは寝返りを打った。
そして、ふと思い出す。
帰り道に立ち寄った、小さな神社。
自分でも少し意外だった、あの願い事。
(……一人前の教師、ね)
何をもって一人前というのか、正直よく分からない。
でも、明日の自分より、一年後の自分の方が少しくらいマシになっていたら。
それは、それで悪くないのかもしれない。
『……おやすみ』
誰にともなく呟き、リンは眠りに落ちた。
枕元では、充電中のスマートフォンが小さく光っている。
明日から始まる新しい生活。
少しの不安と、少しの期待。
その両方を抱えたまま、リンは静かな寝息を立てていた。
彼女はまだ、知らない。
二十六年前の同じ日。
自分と同じ名前を持つ、同じ二十二歳の新任体育教師が、同じ神社でまったく同じ願いを捧げたことを。
山元凛。
山本リン。
同じ読み方の名前を持ちながら、性格も、生き方も、教師としての考え方も正反対の二人。
その二人の運命が、静かに交わろうとしていた。
そして――翌朝。
『……スマホ、どこ?』




