第十話「姉にだけは」
二〇〇〇年(平成十二年)四月十六日、日曜日。
『……はぁ』
リンは自分の部屋で、何度目か分からないため息をついた。
机の上には、昨日持ち帰った仕事の書類が広がっている。
三年二組の生徒名簿。
来週の授業予定。
そして、空手部の練習日程。
どれも、山元凛にとっては大切な仕事なのだろう。
けれど、リンにはまだ、そのすべてが自分のものだとは思えなかった。
『……月曜日、普通に来ちゃうんだろうなぁ』
昨日、神社へ行った。
自分が二十六年前の世界へ来る直前に訪れた、あの神社へ。
もう一度願えば、何かが起こるかもしれない。
そんな期待を抱いていた。
しかし、何も起こらなかった。
朝になっても、部屋は変わらない。
鏡に映る顔も、山元凛のままだ。
(……どうしよう)
月曜日になれば学校へ行かなければならない。
授業をして、担任として生徒たちに向き合って、放課後には空手部へ行く。
そして、家へ帰れば、山元家の人たちが自分を凛として迎えてくれる。
今までなら、どうにか一日ずつやり過ごせばよかった。
けれど、それをいつまで続ければいいのだろう。
リンは机に突っ伏した。
『……もう、無理かも』
ふと、健吾の声が頭に浮かんだ。
――お前、本当に凛か?
何気なく言われた言葉だったのかもしれない。
それでも、あのときの視線を思い出すたび、胸の奥が苦しくなる。
自分は、彼が大切にしている人ではない。
なのに、彼は自分を心配していた。
そして、山元家の人たちも。
リンはゆっくり顔を上げた。
机の隅には、家族写真が飾られている。
父親と母親。
美咲。
そして、今の自分と同じ顔をした女性。
写真の中の凛は、満面の笑みを浮かべていた。
『……あたし、こんなふうに笑えてないよね』
そのときだった。
コンコン、と扉が叩かれた。
「凛、入っていい?」
美咲の声だった。
『……うん』
扉が開く。
美咲は部屋の中を覗き込み、机の書類へ目を向けた。
「……あら、仕事してたの?」
『……一応』
「休みの日まで大変ねえ」
美咲は笑いながら入ってきた。
けれど、その表情はすぐに少し真剣なものになった。
「……ねえ、凛」
『……何?』
「ちょっと話せる?」
リンは顔を上げた。
『……うん』
美咲はベッドの端に腰を下ろした。
そして、何かを考えるように、しばらく黙っていた。
◇
「……昨日の神社、どうだった?」
『……え?』
「行ってきたんでしょ?」
『……あ、うん』
「何かお願い事でもしたの?」
『……まあ、そんな感じ』
「……何を?」
リンは答えに詰まった。
『……仕事のこと、とか』
「……ふうん」
美咲は頷いた。
しかし、納得しているようには見えなかった。
「……ねえ」
『……うん』
「最近、何かあった?」
リンは少し身構えた。
『……何かって?』
「学校で嫌なことがあったとか。健吾くんと喧嘩したとか」
『……別に、そういうのは』
「じゃあ、何でそんなに変わっちゃったの?」
『…………』
美咲はリンを見つめた。
「前はさ、休みの日なんて朝から身体動かしてたじゃない」
『……うん』
「空手部の副顧問になるって、あんなに楽しみにしてたのに」
『…………』
「健吾くんとも、変な距離ができてるみたいだし」
美咲は小さく息を吐いた。
「……それに、話し方も違う」
『…………』
「なんか……最近、凛と話してる気がしないのよ」
リンは目を伏せた。
ずっと、気づかれていた。
当たり前だ。
美咲は、この身体の持ち主と二十二年間一緒に暮らしてきた姉なのだから。
学校の人たちとは違う。
少し会話をしただけで、相手の変化が分かってしまう。
「……隠し事してるんじゃない?」
『……してないよ』
反射的に答えた。
美咲は眉を寄せた。
「……凛」
『…………』
「私にまで、無理してごまかさなくていいんだよ?」
その言葉に、リンの胸が詰まった。
自分が隠していることは、美咲が考えているような些細な悩みではない。
話してしまえば、この家の何もかもが変わってしまうかもしれない。
それが怖かった。
けれど。
(……もう、嘘つきたくない)
昨日、神社で願った。
帰りたいと。
それでも、帰れなかった。
だったら、明日からもここで暮らさなければならない。
いつまでか分からないまま。
リンは膝の上で手を握った。
『……あのさ』
「……何?」
『……変なこと言っても、怒らないでくれる?』
美咲は少し驚いた顔をした。
「……何よ、急に」
『……約束は、できないかもしれないけど』
「……うん?」
『……最後まで聞いてほしい』
美咲の表情が真剣になった。
「……分かった。聞くよ」
リンは深く息を吸った。
そして、ゆっくり口を開いた。
『……あたし、凛じゃないんだ』
◇
「…………は?」
美咲が固まった。
リンは続けた。
『……あたしの名前は、山本リン』
「……何言ってるの?」
『……漢字が違うの。山元じゃなくて山本。凛じゃなくて、カタカナのリン』
「…………」
『……あたしも二十二歳で、体育の先生になる予定だった』
「……ちょっと待って」
美咲が片手を上げた。
「……何の話?」
『……あたし、二〇二六年から来たの』
「…………」
『……四月六日の夜、神社でお願い事をして、家に帰って寝たんだ。そしたら、次の朝……』
リンは自分の手を見た。
『……この身体になってた』
美咲は何も言わなかった。
その沈黙が怖かった。
『……信じてもらえないと思う』
「……当たり前でしょ」
美咲の声が少し強くなった。
「……何それ。冗談?」
『……違う』
「じゃあ、何なの?」
『……本当のこと』
「二〇二六年って……未来から来たってこと?」
『……うん』
「……凛」
美咲は困ったように笑った。
「……そんなわけないじゃない」
『……あたしだって、そう思いたいよ』
「……どういうこと?」
『……目が覚めたら、知らない家で、知らない人たちがいて……』
リンは言葉を探した。
『……鏡を見たら、自分じゃない顔だった』
「…………」
『……でも、みんなあたしを凛って呼ぶから……』
美咲は立ち上がった。
「……もうやめて」
『…………』
「仕事で何かあったんなら、ちゃんとそう言ってよ」
『……ねえ、お願い。聞いて』
「そういう冗談、笑えないから」
『……冗談じゃない』
「……じゃあ何!?」
美咲の声が大きくなった。
リンは思わず肩をすくめた。
美咲は、そんなリンの反応を見て一瞬言葉を失った。
いつもの凛なら、こんなふうに怯えたりしない。
少なくとも、美咲が知っている妹なら。
「……本気で言ってるの?」
『……うん』
「……あんた、本当に……」
美咲は言葉を途切れさせた。
そして、しばらくリンの顔を見つめた。
「……じゃあ」
『……うん』
「……凛は?」
リンの胸が締めつけられた。
「……本当の凛は、どこにいるの?」
『……分からない』
「…………」
『……あたしも、突然ここに来たから』
「……分からないって、どういうこと?」
『……ごめん』
「……あんたがここにいるなら、凛は?」
『……本当に、分からないんだ』
美咲の目が揺れた。
「……じゃあ、私の妹は?」
『…………』
「……凛は、どうなったの?」
リンは答えられなかった。
自分が山元凛の身体にいる。
それだけは間違いない。
けれど、本来の凛がどこにいるのか、自分には分からない。
もしかしたら、自分の身体に入っているのかもしれない。
そう考えたことはあった。
しかし、確かめる方法はない。
今、目の前の姉へ言えるほど確かなことではなかった。
『……ごめんなさい』
「……返してよ」
美咲が呟いた。
『…………』
「……私の妹、返してよ」
リンは顔を上げた。
美咲の目には、涙が浮かんでいた。
「凛は? 凛はどこにいるの!? あんたがここにいるなら、あの子はどこに行ったのよ!」
『……分からない……』
「分からないじゃないでしょ!」
『……ごめんなさい』
「謝ってほしいんじゃない!」
美咲の声が震えた。
「……返してよ。いつもの凛を……」
その場に、重い沈黙が落ちた。
リンは何も言えなかった。
凛を奪おうとしたわけではない。
望んで、この身体に入ったわけでもない。
自分だって被害者なのだと、言い返すことはできたかもしれない。
けれど。
目の前で泣いている美咲に、そんなことは言えなかった。
『……ごめんなさい』
もう一度、呟いた。
美咲は顔を覆った。
肩が小さく震えている。
リンは、その姿を見ていることしかできなかった。
◇
どれくらい時間が経ったのだろう。
美咲はベッドの端に腰を下ろし、何も言わなくなっていた。
リンも机の椅子に座ったまま、俯いていた。
部屋の外から、生活音が聞こえてくる。
母親が何かを片づけている音。
テレビの声。
ごく普通の日曜日の午後だった。
その何気ない音が、今はひどく遠く感じられた。
「……ねえ」
美咲が口を開いた。
『……うん』
「……あんたの話が本当だとして」
『…………』
「どうやって証明するの?」
リンは顔を上げた。
『……証明?』
「未来から来たんでしょ? だったら、何か知ってることとかあるんじゃないの?」
『……あるとは思うけど』
「例えば?」
『……えっと……』
リンは考え込んだ。
二〇二六年の出来事。
社会の変化。
テレビや音楽のこと。
知っていることは、たくさんある。
けれど、それをどう証明すればいいのか分からなかった。
今ここにないものの話をしたところで、作り話だと言われればそれまでだ。
『……スマホがあれば……』
「……スマホ?」
『……あ、携帯電話のこと』
「携帯?」
『……でも、持ってきてないから』
リンは自分の手を見た。
『……身体ごと、ここに来たわけじゃないし』
美咲は黙っていた。
『……あたし、何も持ってないんだ』
リンは小さく笑った。
『……身分証も、自分の服も、家の鍵も。全部、あっちに置いてきちゃった』
「…………」
『……あたしがあたしだって証明できるもの、何もない』
その言葉を口にした瞬間、胸が詰まった。
今、自分が着ている服も。
座っている椅子も。
目の前の机も。
すべて、山元凛のものだった。
『……あたしだって』
小さな声が漏れた。
美咲が顔を上げる。
「……え?」
『……あたしだって、帰りたいよ』
リンは膝の上で手を握った。
『……お父さんにも、お母さんにも、弟にも会いたい』
声が震えた。
『……あたし、まだ一回も先生の仕事してなかったんだよ』
「…………」
『……やっと教師になれたのに。これから頑張ろうって思ってたのに……』
リンは俯いた。
『……朝起きたら、知らない家にいて、知らない人たちがあたしを凛って呼んで……』
涙が一滴、膝の上に落ちた。
『……学校に行けば、みんなあたしが空手の全国準優勝だって言うし……でも、あたし、空手なんて全然できないし……』
「…………」
『……健吾さんって人だって、あたしのこと、ずっと心配してくれて……』
そこで、声が詰まった。
『……あたし、本当はあの人のことも知らないのに……』
リンは俯いたまま、首を横に振った。
『……どうしたらいいのか分かんないよ……』
涙が止まらなかった。
『……元の家に帰りたい。自分の身体に戻りたい。お父さんとお母さんに会いたい……』
リンは両手で顔を覆った。
『……でも、帰り方が分かんない……』
美咲は動かなかった。
目の前の女性を、ただ見つめていた。
先ほどまで、自分の妹を返してほしいと叫んでいた。
今も、その気持ちは変わらない。
凛がどこにいるのか知りたい。
無事なのか確かめたい。
今すぐ、いつもの妹に戻ってきてほしい。
けれど。
目の前の女性も、自分と同じように泣いていた。
突然、家族に会えなくなったのだという。
誰にも本当のことを話せず、知らない人たちの中で、毎日を過ごしてきたのだという。
もし、それが本当なら。
この女性も、自分の家族を失ったような思いでいる。
しかも、自分にはまだ両親がいる。
妹の行方は分からなくても、心配を分かち合える家族がいる。
けれど目の前のリンには、その家族さえいない。
自分のことを知っている人間が、一人もいないのだ。
美咲は、握りしめていた手をゆっくり緩めた。
「……ごめん」
リンが顔を上げた。
『……え?』
「……今、怒鳴ったこと」
『…………』
「……でも、納得はできない」
美咲は目を伏せた。
「凛がどこにいるのかも分からないし、あんたの話が本当なのかも、まだ分からない」
『……うん』
「……正直、怖い」
『…………』
「……凛が本当にいなくなってたら、どうしようって」
美咲の声が震えた。
リンは頷いた。
『……うん』
「……でも」
美咲は、少しだけリンへ身体を向けた。
「……あんたも、怖いんだね」
『…………』
「……帰りたいんだよね」
リンは小さく頷いた。
『……うん』
美咲はしばらく黙っていた。
それから、リンの隣へ移動して腰を下ろした。
「……じゃあ、もう少し話してよ」
『……話すって……?』
「……あんたのこと」
美咲はリンを見た。
「……どんなところから来たのか。どんな生活してたのか」
『…………』
「……聞かなきゃ、分かんないでしょ」
リンは目を瞬かせた。
『……信じてくれるの?』
「……まだ分かんない」
『…………』
「……でも、ちゃんと聞くから」
リンは唇を噛んだ。
そして、ゆっくり頷いた。
『……ありがとう』
◇
しばらくして。
二人はベッドの端に並んで座っていた。
リンの目元は、まだ少し赤い。
美咲も同じだった。
しかし、先ほどまでの張り詰めた空気は、少しだけ和らいでいた。
「……ねえ」
『……うん』
「……あんた、本当に二〇二六年から来たの?」
『……うん』
「……二十六年後?」
『……そう』
美咲はしばらく考えた。
それから、真剣な顔で尋ねた。
「……車は空飛んでる?」
『…………』
リンは思わず美咲を見た。
『……え?』
「だから、車。空飛んでる?」
『……飛んでないよ』
「えー! 何で!?」
『……何でって言われても……』
「二十六年も先なんでしょ? 普通に飛んでると思うじゃん!」
『……未来に期待しすぎじゃない?』
「……そう?」
『……そうだよ』
美咲は少し残念そうに頬を膨らませた。
「……何よ。夢がないわねえ」
『……あたしに文句言わないでよ!』
リンは思わず笑った。
美咲も、少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、ロボットは?」
『……ロボット?』
「家事とか全部やってくれるの?」
『……掃除してくれるのはあるよ』
「……えっ、本当に!?」
『……うん。勝手に床を掃除してくれるやつ』
「すごっ!」
美咲が目を輝かせた。
「じゃあ、ご飯も作ってくれる?」
『……それは自分で作って』
「何よ、中途半端な未来ねえ」
『……だから、あたしに言わないでって!』
今度は、美咲も声を出して笑った。
二人は、しばらく笑い合った。
そして。
笑い終わったあと、美咲は少しだけ不思議そうな顔をした。
凛ではないという女性と、自分は今、こんなふうに笑っている。
そのことに戸惑いがないわけではなかった。
けれど、目の前のリンもまた、ごく普通の二十二歳の女性なのだと感じられた。
『……じゃあさ』
「……何?」
『今って、音楽聴くときは何使ってるの?』
「……は?」
『……音楽』
「CDでしょ。家ならコンポとか」
『……ああ、CDか』
「……何、その反応」
『……いや、何でもない』
リンは少し笑った。
『……じゃあ、映画は?』
「……映画?」
『家で観たいとき』
「レンタルビデオ借りてくるとか。最近はDVDもあるけど」
『……そっか』
「……何?」
『……ううん。じゃあ、写真撮るときは?』
「……カメラでしょ?」
『……例えば、友達と遊んでるときとか』
「写ルンですとか使うんじゃない?」
『……懐かしい』
「……懐かしい?」
『……あ、いや! 何でもない!』
美咲は眉を寄せた。
しかし、リンはそのまま続けた。
『……じゃあ、買い物は?』
「……何を買うのよ」
『服とか、日用品とか』
「普通に店行くでしょ。通販もあるけど」
『……なるほどね』
リンは何かを確かめるように頷いた。
美咲の眉間に皺が寄る。
「……ねえ、さっきから何?」
『……え?』
「音楽は? 映画は? 写真は? 買い物は? って……」
『……うん』
「……そんなの、あんただって知ってるでしょ!」
『……まあ、そうなんだけど』
「じゃあ何でいちいち聞くのよ!」
リンは、にっと笑った。
『……それ全部、携帯電話でできるようになるよ』
「…………」
美咲が固まった。
「……は?」
『音楽も聴けるし、映画も観られるし、写真も撮れるし、買い物もできる』
「……携帯電話で?」
『……うん』
「……全部?」
『……全部』
「…………」
美咲はしばらく考えた。
そして、リンの顔をまじまじと見つめた。
「……嘘でしょ?」
『……本当だよ』
「……だって、あの携帯でしょ? 電話したりメールしたりするやつ」
『……二〇二六年の携帯は、もっとすごいんだって』
「……どうやって映画なんか観るの?」
『画面で』
「……あんな小さい画面で?」
『……未来のは、もうちょっと大きいよ』
「……何でもありじゃない」
『……便利でしょ?』
美咲は考え込んだ。
「……じゃあ、写ルンです要らなくなるじゃない」
『……まあ、使う人もいるけどね』
「……CDも?」
『……買う人は買うけど、スマホで聴く人が多いかな』
「……何、そのスマホって」
『……スマートフォンの略』
「……名前まで格好つけてる」
『……そんなこと言われても』
リンは笑った。
美咲はまだ疑わしそうだったが、先ほどまでよりずっと興味を示していた。
「……ねえ、それ、一台あれば全部できるってこと?」
『……うん』
「……すごいわね、未来って」
『……まあね』
リンは少し得意げに笑った。
美咲も、つられて笑った。
それから、ふと思い出したように尋ねた。
「……でもさ」
『……何?』
「……そんなに便利なら、みんな幸せになってる?」
リンは、すぐには答えられなかった。
『……うーん』
少し考える。
『……便利にはなったと思う』
「……うん」
『……でも、それで全部が楽になるわけじゃないかな』
「……そうなんだ」
『……うん』
リンは小さく笑った。
『……仕事も大変だし、人間関係も難しいし。新しい悩みもあるし』
「……ふうん」
美咲は頷いた。
「……未来も、そんな感じなんだ」
『……そんな感じ』
リンは笑った。
美咲も、少し笑った。
◇
窓の外では、春の日差しが少しずつ傾き始めていた。
美咲は、リンの話を聞きながら何度も驚いた。
知らないものの名前。
想像もできない生活。
まだ実現していない技術。
その一つひとつが、本当なのかどうかは分からない。
けれど、リンが話す未来には、不思議なほど普通の日常があった。
学校へ行く。
友達と遊ぶ。
家族と喧嘩する。
好きなものを食べる。
便利な道具が増えても、人々の生活そのものがまったく別のものになったわけではないらしい。
美咲は、ふと尋ねた。
「……あんたの家族って、どんな人?」
リンは顔を上げた。
『……え?』
「……さっき、お父さんとお母さんと弟に会いたいって言ってたでしょ」
『……うん』
「……仲いいの?」
リンは少し考えた。
『……普通、かな』
「……普通?」
『……うん。喧嘩もするし、うるさいなって思うこともあるし』
リンは小さく笑った。
『……でも、好きだよ』
「…………」
『……お父さんもお母さんも、あたしが教師になるの、喜んでくれてた』
リンは膝の上で手を組んだ。
『……弟は、あんまり興味なさそうだったけど』
「……弟って、いくつ?」
『……十六歳』
「……高校生か」
『……うん』
リンは少し笑った。
『……生意気なんだけどね。帰ったら、たぶん最初にあの子に文句言うと思う』
「……何て?」
『……あたしがいない間、ちゃんと家のこと手伝ってた? って』
美咲は小さく笑った。
「……それ、お姉ちゃんっぽいじゃない」
『……そうかな』
「……うん」
二人は、少しだけ笑い合った。
それから、リンは俯いた。
『……会いたいな』
小さな声だった。
美咲は、何も言わなかった。
ただ、その横顔を見つめていた。
先ほどまで、妹を返してほしいと叫んでいた。
その気持ちは、今も変わらない。
目の前の相手が本当に未来から来たのかも、分からない。
けれど。
この女性にとっても、家族は大切な存在なのだ。
会えなくなれば、寂しくて当然なのだ。
美咲は、ゆっくり口を開いた。
「……ねえ」
『……何?』
「……私も、凛に会いたい」
『…………』
「……だから、あんたの話を全部信じるって言ったわけじゃないからね」
『……うん』
「……でも」
美咲はリンを見た。
「……あんたが一人で困ってるのは、分かった」
『…………』
「……どうしたらいいのか、一緒に考えるくらいならできると思う」
リンは目を見開いた。
『……本当に?』
「……何ができるか分かんないけど」
『……うん』
「……少なくとも、話を聞くくらいは」
リンは唇を噛んだ。
涙が出そうになる。
今度は、悲しいからではなかった。
『……ありがとう』
美咲は少し照れくさそうに顔を背けた。
「……別に。まだ信じたわけじゃないし」
『……うん』
「……それに、凛が帰ってくる方法だって、探さなきゃいけないでしょ」
『……うん』
リンは何度も頷いた。
美咲は小さく息を吐いた。
「……それで、ひとつお願いがあるんだけど」
『……何?』
「……父さんと母さんには、まだ言わないでおこう」
リンは少し驚いた。
『……いいの?』
「……よくないかもしれないけど」
美咲は考えながら続けた。
「……今の話、いきなり聞かせたら、きっとすごく心配するから」
『……うん』
「……私だって、まだ何が何だか分かんないし」
『……分かった』
リンは頷いた。
『……あなたがそう言うなら』
美咲は、少しだけ不思議そうな顔をした。
「……あなた?」
『……あっ』
リンは慌てて口を押さえた。
『……ごめん。何て呼んだらいいのか、分からなくなっちゃって』
美咲は、何も言わなかった。
◇
しばらくして、リンは遠慮がちに口を開いた。
『……ねえ』
「……何?」
『……ひとつ、聞いてもいい?』
「……うん」
リンは美咲の顔を見た。
『……お姉ちゃん……で、いいのかな?』
美咲は動きを止めた。
『……あたし、本当の妹じゃないんでしょ?』
「…………」
『……だから、嫌だったら……』
リンは言葉を途切れさせた。
美咲は、すぐには答えなかった。
凛ではない相手。
まだ信じ切れない、未来から来たという女性。
その人に、お姉ちゃんと呼ばれること。
複雑な気持ちがなかったわけではない。
けれど。
この数日間、目の前の女性はずっと自分をそう呼んでいた。
不器用で、遠慮がちで、少し頼りない。
それでも、助けを求めるときには自分を頼ってくれた。
美咲はゆっくり口を開いた。
「……いいよ」
リンは顔を上げた。
『……本当に?』
「……呼びたいなら、いい」
『…………』
「……別に、呼び方まで変えなくてもいいでしょ」
リンの目に、また涙が浮かんだ。
『……ありがとう』
美咲は少し困ったように笑った。
「……ほんと、よく泣くわねえ」
『……だって……』
「……凛だったら、こんなに泣かないわよ」
『……そうなんだ』
「……うん」
美咲は小さく頷いた。
そして、少しだけ寂しそうに笑った。
「……強がりだからね、あの子」
リンは何も言わなかった。
ただ、美咲の言葉を聞いていた。
この身体の持ち主が、どんな女性だったのか。
まだ、知らないことばかりだ。
けれど、美咲が大切に思っていることだけは、よく分かった。
◇
廊下から、母親の声が聞こえた。
「美咲ー、凛ー! お茶にしない?」
美咲とリンは、同時に扉を見た。
美咲が小さく息を吐く。
「……行こっか」
『……うん』
二人は立ち上がった。
リンが扉へ向かおうとしたとき、ふと思い出したように足を止めた。
『……あ、そうだ』
「……何?」
『……未来のこと、もう一つだけ言っておいていい?』
美咲が振り返った。
「……何よ。今度こそ空飛ぶ車ができるとか?」
『……違うよ』
リンは少し真剣な顔になった。
『……二〇二〇年ごろ、世界中で大きな感染症が流行るの』
「……感染症?」
『……新型コロナウイルスっていうんだけど』
「……コロナ?」
『……うん。すごく大変なことになる』
リンは美咲を見た。
『……学校が休みになったり、外出を控えたり。みんなマスクをするようになるんだ』
「……世界中で?」
『……うん』
美咲の表情が少し硬くなった。
「……そんなに大変なの?」
『……うん。マスクが買えなくなった時期もあったから』
リンは少し考えた。
『……もし、そのころまで覚えてたら、流行する前に家族が使う分を少し用意しておいて』
「……二十年後のために?」
『……まあ、そうなるけど』
美咲は苦笑した。
「……そんな先のこと、覚えてるかしら」
『……だよね』
リンも少し笑った。
それから、人差し指を立てた。
『……あ、でも!』
「……何?」
『……買い占めたり、転売したりしちゃ駄目だからね!』
「……は?」
『……必要な人が買えなくなっちゃうから』
「……いや、しないわよ!?」
『……ならいいけど』
「……あんた、私を何だと思ってるのよ!」
美咲が呆れた声を上げた。
リンは笑った。
『……ごめんごめん!』
「……もう、変なことばっかり言って」
美咲は小さく息を吐いた。
それでも、その表情はどこか柔らかかった。
リンは、もう一度美咲を見た。
『……ねえ、お姉ちゃん』
「……何?」
『……未来の話、まだ聞きたい?』
美咲はしばらく考えた。
そして、少しだけ笑った。
「……うん」
『……本当に?』
「……だって、さっき途中だったじゃない」
『……何が?』
「……ほら。携帯電話で映画が観られるってやつ」
『……ああ』
リンは笑った。
『……あれ、説明するの結構難しいんだけど』
「……いいじゃない。時間ならあるんだから」
『……そうだね』
美咲は扉を開けかけて、少しだけ振り返った。
「……あんたのことも、もうちょっと知りたいし」
リンは、その言葉に胸が温かくなるのを感じた。
まだ、何も解決していない。
帰る方法も分からない。
美咲も、本当の凛がどこにいるのか分からず、不安を抱えたままだ。
それでも。
この時代で初めて、自分のことを知ろうとしてくれる人ができた。
リンは、ゆっくり頷いた。
『……いいよ、お姉ちゃん』
美咲は少しだけ笑った。
「……じゃあ、お茶飲みながらね」
『……うん!』
二人は並んで部屋を出た。
階下から、母親が呼ぶ声がする。
そこには、まだ何も知らない家族がいる。
そのことに胸が痛まないわけではなかった。
けれど、リンはもう、一人で全部を抱え込まなくてもいいのかもしれないと思った。
日曜日の午後。
山元家には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
その中で、二人だけが知る秘密が、静かに生まれていた。




