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第十一話「あなたの話、信じるよ」

 二〇二六年(令和八年)四月十二日、日曜日。


 午前十時を少し過ぎたころ。


 凛は自分の部屋で、スマートフォンの画面を見つめていた。


『…………』


 画面には、一件のメッセージが表示されている。


『……三浦、聡美』


 差出人の名前を、小さく読み上げた。


 昨日までに何度か目にした名前だった。


 山本リンの友人らしい。


 それも、どうやらかなり親しい相手のようだった。


 凛は恐る恐る、メッセージを開いた。


 そこには、短い文章が表示されていた。


「リン、今日ちょっと会えない?」


 その下には、もう一つ。


「最近なんか変だし、心配なんだけど」


 凛は黙り込んだ。


(……どうしたものかな)


 学校の生徒たちとは、少しずつ話ができるようになってきた。


 瀬戸や早川とも、仕事上の会話なら何とかなる。


 悠斗とは昨日、一緒に買い物までした。


 だが、親友となると話は別だ。


 自分には、山本リンの記憶がない。


 何年の付き合いなのか。


 普段、どんな話をしていたのか。


 二人にしか分からない思い出があるのか。


 何も知らない。


 会えば、必ずおかしいと思われる。


(……断った方がいいだろうか)


 凛は画面に指を近づけた。


 しかし、そこで手が止まった。


 メッセージの上に並んでいる、過去のやり取り。


 楽しそうな言葉。


 何気ない冗談。


 食事の約束。


 そして、何枚かの写真。


 そこには今の凛と同じ顔をした女性が、別の女性と肩を寄せ合って笑っていた。


『……これが、聡美か』


 凛は写真を拡大した。


 明るい笑顔の女性だった。


 その隣で、山本リンも楽しそうに笑っている。


 凛は、胸の奥に小さな痛みを感じた。


(……この人も、心配しているんだな)


 悠斗と同じだ。


 真由美や浩二とも同じ。


 自分が知っている山本リンとは違う人間が、突然その場所にいる。


 皆、その変化に戸惑っている。


 そして、当の本人は何も説明できずにいる。


『…………』


 凛はスマートフォンを置いた。


 窓の外は、よく晴れている。


 こんな日には、空手の稽古をしたものだった。


 あるいは、健吾と出かけたり、美咲と買い物へ行ったり。


 けれど、今はその誰にも会えない。


 会いたいと願っても、帰る方法すら分からない。


 昨日、悠斗と歩いた街並みを思い出した。


 知らない時代。


 知らない常識。


 それでも、目の前の少年は自分を助けてくれた。


 もしかしたら。


 この聡美という女性にも、話を聞いてもらえるかもしれない。


 ただし、そうすれば彼女は、自分の親友が今ここにいないと知ることになる。


 凛はしばらく迷った。


 そして、ゆっくり返信を打ち始めた。


『……今日、会えます』


 送信する。


 すぐに返事が届いた。


「やった! じゃあ、いつものカフェでいい?」


『…………』


 凛の指が止まった。


(……いつもの、とは)


 当然、分からない。


 凛は少し考えてから、返信した。


『……場所を教えてもらえるか?』


 数秒後。


「え、忘れたの?笑」


 さらに、店の位置を示す地図が送られてきた。


「ここ! 13時でどう?」


 凛は小さく息を吐いた。


『……分かった。ありがとう』


 返事を送ると、スマートフォンを机へ置いた。


『……さて』


 凛は立ち上がった。


 会いに行くと決めた。


 けれど、何を話すかは、まだ決まっていなかった。


     ◇


 午後一時。


 凛は待ち合わせのカフェの前に立っていた。


 ガラス張りの入口。


 店内には、休日を楽しむ人々の姿が見える。


 凛は一度、深呼吸した。


『……よし』


 扉へ手を伸ばす。


 しかし、そこで止まった。


(……本当に、会っていいのだろうか)


 相手にとって、自分は親友だ。


 久しぶりに会って、近況を話し、笑い合うつもりなのだろう。


 だが、今から会うのは、赤の他人だ。


 自分がその席に座ることで、相手を傷つけてしまうかもしれない。


 凛は手を下ろした。


 帰ろうか。


 そう考えた、そのときだった。


「……リン?」


 背後から声がした。


 凛は振り返った。


 そこには、写真で見た女性が立っていた。


 肩にかかる髪。


 柔らかな色合いの服装。


 そして、明るい笑顔。


「やっぱりリンじゃん!」


『……あ』


 女性が近づいてきた。


「何してんの? 入らないの?」


『……いや、その……』


「もしかして、あたし待ってた?」


『……あ、ああ。そうだ』


「何それ、外で待たなくてもいいのに!」


 女性は楽しそうに笑った。


 凛は、その笑顔を見て少しだけ胸が痛んだ。


 この人は、何も知らない。


「ほら、入ろ!」


『……ああ』


 凛は一歩遅れて、店内へ入った。


     ◇


「いやー、久しぶり!」


 席につくなり、聡美が笑った。


「新任教師どう? 生きてる?」


『……ああ。何とか』


「……何とかって!」


 聡美は笑いながらメニューを手に取った。


「絶対、大変だと思ったんだよねー。リン、運動得意じゃないのに体育教師だし」


『…………』


「ていうか、初日どうだった? 学校」


『……いろいろ、あった』


「……何それ。詳しく聞かせてよ」


『……ええと』


 凛は言葉に詰まった。


 初日のことなら、話せる。


 iPadで出席を取れなかったこと。


 体育の授業で身体が思うように動かなかったこと。


 生徒に熱くなりすぎて、怒らせてしまったこと。


 けれど、どこから話せばいいのか分からなかった。


 そもそも、自分はどんな調子で話せばいいのだろう。


 聡美は親友らしく、何の遠慮もなく声をかけてくる。


 それに対して凛は、一つひとつ言葉を選んでいる。


 その違いが、ひどく申し訳なかった。


「……リン?」


『……ん?』


「……何か、緊張してる?」


『……いや』


「……嘘。めっちゃ緊張してるじゃん」


『……そう見えるか』


「うん。初対面の人と喋ってるみたい」


『…………』


 凛の胸がどきりとした。


 聡美は、まだ冗談のつもりらしかった。


 しかし、その目には少しずつ疑問が浮かび始めていた。


「……最近、LINEも変だったしさ」


『……そうだったか』


「そうだったかって……」


 聡美は首を傾げた。


「何か、仕事で嫌なことあった?」


『……いや』


「家で何かあった?」


『……それも、少し違う』


「……じゃあ、何?」


 凛は答えられなかった。


 店員が注文を取りに来たため、会話が一度途切れる。


 凛は聡美と同じ飲み物を注文した。


 何を選べば自然なのか分からなかったからだ。


 その様子にも、聡美は不思議そうな顔をしていた。


「……珍しいね」


『……何がだ?』


「リンがそれ頼むの」


『……そうなのか』


「……うん。いつも別のやつじゃん」


『…………』


 凛は、もう何も言えなかった。


 小さな違いが、次々と積み重なっていく。


 目の前の女性にとって、自分はずっと知っている親友なのだ。


 だからこそ、何をしても違和感が残る。


 凛は、膝の上で手を握った。


(……もう、隠し通せないな)


     ◇


 飲み物が運ばれてきたあと。


 凛は、静かに口を開いた。


『……聡美』


「……ん?」


『……少し、真面目な話をしてもいいか』


 聡美は目を瞬かせた。


「……うん。いいけど」


『……信じてもらえるとは、思っていない』


「……え?」


『……だが、最後まで聞いてほしい』


 聡美は、凛をじっと見た。


 さっきまでの笑顔が少し消える。


「……分かった」


 凛は深く息を吸った。


『……私は、きみが知っている山本リンではないんだ』


「…………」


 聡美はしばらく黙った。


「……どういうこと?」


『……私の本当の名前は、山元凛という』


「……やまもとりん?」


『……ああ。山本ではなく、山元。リンは漢字で凛だ』


「……え?」


『……私は、二〇〇〇年から来た』


 聡美の表情が固まった。


『……四月六日の夜、神社で願い事をした。そして、家に帰って眠った』


 凛は、自分の手を見た。


『……翌朝、目が覚めたら、この身体になっていた』


「…………」


『……最初は夢だと思った。だが、ここは本当に二〇二六年だった』


 聡美は何も言わなかった。


 凛は続けた。


『……私は二十二歳で、体育教師になったばかりだった。大学では空手に打ち込んでいて……』


 そこで、少しだけ言葉が詰まった。


 懐かしい道場。


 稽古の声。


 畳の感触。


 仲間たちの顔。


『……空手は、私にとって大切なものだった』


「…………」


『……だが、今の身体では、以前のようには動けない』


 凛は静かに息を吐いた。


『……それでも、学校へ行かなければならない。生徒たちは私を山本先生と呼ぶし、家では家族が私をリンと呼ぶ』


 聡美は俯いた。


『……私は、どうすればいいのか分からない』


 短い沈黙。


 それから、聡美が口を開いた。


「……ちょっと待って」


『……ああ』


「……じゃあ、リンは?」


 凛は顔を上げた。


「……本当の山本リンは、どこにいるの?」


『……分からない』


「…………」


『……私も、突然ここに来たから』


「……じゃあ、入れ替わったってこと?」


『……その可能性は考えた』


 凛は頷いた。


『……だが、確かめる方法がない』


「…………」


『……彼女がどこにいるのか、無事なのかも分からない』


 聡美は、ゆっくり息を吐いた。


「……そっか」


 凛は黙っていた。


 聡美はしばらく、飲み物の入ったグラスを見つめていた。


 そして、顔を上げた。


「……ごめん」


『……何がだ?』


「……今すぐには、信じられない」


『…………』


「……だって、そんな話、聞いたことないし」


『……ああ』


「……でも、リンがこんな冗談言うとも思えないし……」


 聡美は困ったように眉を寄せた。


「……いや、そもそも、リンじゃないって言ってるんだよね」


『……そうだ』


「……もう、何が何だか……」


 聡美は両手で顔を覆った。


 凛は静かに待った。


 信じてもらえるとは思っていなかった。


 むしろ、怒鳴られることすら覚悟していた。


 大切な親友がどこにいるのか分からないと言われて、平気でいられるはずがない。


 やがて、聡美が顔を上げた。


「……ねえ」


『……何だ?』


「……もう一回、名前教えて」


『……山元凛だ』


「……山元凛」


 聡美は小さく繰り返した。


「……漢字、どんなの?」


 凛は紙ナプキンを一枚取り、ペンを借りて名前を書いた。


 山元凛。


 聡美は、その文字を見つめた。


「……同じ読み方なんだ」


『……ああ』


「……変な偶然だね」


『……私も、そう思う』


 聡美は、小さく頷いた。


 それから、ナプキンをそっと自分の方へ寄せた。


「……これ、もらっていい?」


『……構わない』


「……ありがとう」


 聡美はナプキンを鞄にしまった。


 その仕草が、凛には少し不思議だった。


 しかし、理由を尋ねることはしなかった。


     ◇


 それから、二人はしばらく話した。


 凛は、元の時代の家族について話した。


 父と母。


 姉の美咲。


 そして、恋人の健吾。


 教師として初出勤を迎えるはずだったこと。


 目覚めた瞬間、二十六年後の世界へ来ていたこと。


 何も知らない山本家の人々を、何度も心配させてしまったこと。


 そして、昨日は弟の悠斗に買い物を手伝ってもらったこと。


 聡美は、ほとんど口を挟まずに聞いていた。


「……じゃあ、今も帰りたいんだ」


『……ああ』


 凛は迷わず答えた。


『……できることなら、今すぐにでも』


「…………」


『……父さんたちに、会いたい』


 凛は静かに続けた。


『……だが、帰り方が分からない』


 聡美は目を伏せた。


「……そっか」


 しばらくして、彼女は尋ねた。


「……山本家の人たちには、話したの?」


『……いや』


「……何で?」


『……信じてもらえるとは思えなかった』


 凛は少し苦笑した。


『……それに、彼らは娘を心配している。私の話を聞けば、さらに苦しませるかもしれない』


「…………」


『……私は、あの子の代わりにはなれない』


 聡美が顔を上げた。


『……だが、皆の気持ちを踏みにじりたくはないんだ』


 その言葉に、聡美は何も返さなかった。


 ただ、凛をじっと見ていた。


 やがて、聡美が時計を確認した。


「……そろそろ、出ようか」


『……ああ』


 凛は小さく頷いた。


     ◇


 店の外へ出ると、春の風が吹いていた。


 日差しはまだ明るい。


 駅へ向かう人々が、二人の横を通り過ぎていく。


 聡美は、少しだけ歩いてから足を止めた。


「……今日は、話してくれてありがとう」


『……いや』


 凛は首を振った。


『……突然、こんな話をしてすまなかった』


「……ううん」


 聡美は、少し困ったように笑った。


「……正直、まだ整理できてないけど」


『……ああ』


「……でも、ちゃんと考えたい」


 凛は顔を上げた。


『……そうか』


「……うん」


 聡美は少しだけ笑った。


「……だから、少し時間ちょうだい」


『……分かった』


 二人は、その場で別れた。


 聡美が駅の方へ歩いていく。


 凛は、その背中を見送った。


 信じてもらえたわけではない。


 けれど、最後まで話を聞いてくれた。


 それだけでも、今の凛にはありがたかった。


『……ありがとう』


 誰にも届かないほど小さく呟いた。


 そして、家へ向かって歩き始めた。


     ◇


 同じ日の夕方。


 三浦聡美は、自分の部屋でパソコンを開いていた。


「…………」


 机の上には、喫茶店で受け取った紙ナプキンが置かれている。


 そこには、丁寧な字で名前が書かれていた。


 山元凛。


 聡美は、その文字を見つめた。


「……二〇〇〇年、か」


 信じられない話だった。


 突然、別の時代から来た女性が親友の身体に入っている。


 そんなことが起こるはずがない。


 少なくとも、昨日までの聡美なら、迷わずそう答えていた。


 けれど。


 今日会った女性は、本当に困っていた。


 今まで知っているリンとは、話し方も雰囲気も違った。


 ふざけているようには見えなかった。


 そして何より、自分が知っているリンのことを、何も知らなかった。


「……本当に、別人なのかな」


 聡美は小さく呟いた。


 その言葉を口にすると、胸の奥が少し痛んだ。


 もし本当に別人なら。


 自分の親友は、今どこにいるのだろう。


 聡美は首を振った。


「……考えてても仕方ないか」


 パソコンの検索窓へ、文字を入力した。


 山元凛。


 検索結果が表示される。


 しかし、同じ読み方の名前や、関係のなさそうな情報が並ぶばかりだった。


「……そりゃ、そうだよね」


 聡美は小さく息を吐いた。


 凛が話していたことを思い出す。


 体育教師。


 二十二歳。


 二〇〇〇年。


 そして、空手。


「……空手、か」


 聡美は検索窓へ、もう一度文字を入力した。


 山元凛 空手。


 検索結果が変わった。


 いくつかのページを開いてみる。


 道場の名前。


 大会記録。


 古いスポーツ関連の記事。


 しかし、なかなか目当ての情報には辿り着けなかった。


「……うーん」


 聡美は椅子にもたれた。


 二十六年前のことだ。


 今ほど、何でもインターネットに記録されていた時代ではない。


 しかも、名前だけでは絞り込めない。


 それでも、聡美は検索をやめなかった。


 山元凛。


 空手。


 大学。


 大会。


 少しずつ言葉を変えながら、検索を続ける。


 やがて。


「……ん?」


 画面の下の方に、古い大会の記事が表示された。


 聡美はマウスを動かした。


 クリックする。


 古いスポーツ記事をまとめたページだった。


 大学空手の大会結果が、年度ごとに掲載されている。


「……一九九九年……」


 聡美は画面をスクロールした。


 そして。


 ある名前を見つけた。


「…………」


 手が止まった。


 記事の中に、その文字があった。


 山元凛。


 しかも、そこには大会結果が記されていた。


 一九九九年。


 大学空手大会。


 女子の部。


 全国準優勝。


「……え?」


 聡美は思わず画面へ顔を近づけた。


 もう一度、名前を確認する。


 山元凛。


 漢字も、読み方も一致している。


 空手をしていたことも。


 そして、二〇〇〇年より前の記録であることも。


「……嘘……」


 聡美は、記事をさらに読み進めた。


 そこには、大会後の選手たちを写した小さな写真も掲載されていた。


 画質は決して良くない。


 それでも、若い女性の姿が確認できた。


 道着姿。


 凛々しい表情。


 首から下げたメダル。


 聡美は、画面を見つめたまま動けなくなった。


「……本当に、いたんだ」


 小さく呟いた。


 もちろん、この記事だけで、今日会った女性が未来から来たと証明できるわけではない。


 誰かが過去の記事を調べて、その人物になりきっている可能性だってある。


 けれど。


 聡美は、喫茶店での凛の姿を思い出していた。


 ぎこちない挨拶。


 知らないことを知らないと認める態度。


 山本家の人たちを心配する言葉。


 そして、元の家族へ帰りたいと話していたときの表情。


 あの女性は、自分に何かを要求したわけではなかった。


 信じろと迫ったわけでもない。


 ただ、最後まで話を聞いてほしいと言っただけだった。


「…………」


 聡美は、もう一度画面を見た。


 山元凛。


 全国準優勝。


 そんなすごい実績があることは、凛から聞いていなかった。


 ただ、大学で空手に打ち込んでいたと話していただけだ。


 もし人を騙すために昔の選手になりきっているのなら、もっと分かりやすい実績を自慢してもよさそうなものなのに。


 けれど、凛はそうしなかった。


「……変な人」


 聡美は、小さく笑った。


 その笑みは、すぐに消えた。


 もし、あの人の話が本当なら。


 自分の親友は、今、どこかで困っているかもしれない。


 そして、あの人もまた、突然家族や友人と離れ離れになったまま、一人で生きている。


「…………」


 聡美は、パソコンの画面を見つめた。


 確かな証拠とは、まだ言えない。


 分からないことも、たくさんある。


 けれど。


 少なくとも、今できることはある。


 聡美は、そっとパソコンを閉じた。


 そして、スマートフォンを手に取った。


     ◇


 午後六時を少し過ぎたころ。


 凛は自分の部屋で、机に向かっていた。


 明日の学校へ持っていく資料を確認していたところだった。


 まだ慣れない文字。


 まだ慣れない操作。


 けれど、学校の仕事を放り出すわけにはいかない。


『……これは、明日の分か』


 資料を一枚めくったときだった。


 スマートフォンが鳴った。


『……ん?』


 画面を見る。


 三浦聡美。


 凛は少し驚いた。


 さっき別れたばかりだった。


 何か言い忘れたことでもあったのだろうか。


 凛は通話ボタンを押した。


『……もしもし』


「……凛?」


『……ああ。どうした?』


 電話の向こうで、少しだけ間が空いた。


 そして。


「……あなたの話、信じるよ」


『…………』


 凛は息を止めた。


『……本当に?』


「うん」


『……だが、さっきは……』


「うん。信じられないって言った」


『……ああ』


「……でも、考えたの」


 聡美は穏やかに続けた。


「……だから、信じることにした」


 凛は、何も言えなかった。


 昼間、最後まで話を聞いてもらえただけでも十分だと思っていた。


 それなのに。


 今、聡美は信じると言ってくれている。


『……どうしてだ?』


「……ん?」


『……どうして、信じてくれる気になったんだ?』


 電話の向こうで、聡美が小さく笑った。


「……内緒!」


『……内緒?』


「うん。内緒!」


『……そうか』


 凛は戸惑った。


 理由を聞きたかった。


 けれど、聡美の明るい声を聞いていると、それ以上問い詰める気にはなれなかった。


『……ありがとう、聡美』


「……どういたしまして」


 少しの沈黙。


 それから、聡美が口を開いた。


「……ねえ、ひとつ聞いていい?」


『……何だ?』


「……今までどおり、凛って呼んでもいい?」


 凛は少し驚いた。


『……ああ。もちろんだ』


「……そっか。よかった」


『……どうして、そんなことを?』


「だって、私が呼んでたリンは、あなたじゃないんでしょ?」


『……ああ』


「……だから、一応聞いておこうと思って」


 凛は、少しだけ微笑んだ。


『……気を遣わせてしまったな』


「……別に、そんなことないよ」


 聡美は小さく笑った。


「……じゃあ、これからもよろしくね。凛」


『……ああ。よろしく頼む』


 この時代へ来てから初めて、自分の名前を知ったうえで、その名前で呼んでくれる人ができた。


 同じ「りん」という響きでも、今までとは違う。


 聡美は、山本リンの代わりとしてではなく、自分を山元凛として呼んでくれている。


 そのことが、凛には嬉しかった。


「……ねえ、凛」


『……何だ?』


「……これから、どうしたい?」


 聡美が尋ねた。


 凛は少し考えた。


『……帰りたい』


「……うん」


『……元の時代へ、帰りたい』


 聡美は、静かに頷いた。


「……そっか」


『……だが、方法が分からない』


「……うん」


 凛は少し迷った。


 そして、口を開いた。


『……一つ、頼んでもいいか』


「……何?」


『……帰る方法を、一緒に考えてほしい』


 電話の向こうで、少しだけ沈黙があった。


 凛は思わず身構えた。


 けれど。


「……もちろん」


 聡美の返事は、迷いのないものだった。


『……本当に?』


「……うん」


『……だが、迷惑ではないか?』


「……何言ってんの」


 聡美は少し笑った。


「……それにさ」


『……ん?』


「……もし本当に、誰かと入れ替わってるなら」


 凛は黙って聞いていた。


「……私のリンも、どこかで困ってるかもしれないでしょ」


『…………』


「……だから、探したいの。私も」


 凛は、ゆっくり頷いた。


『……ああ』


「……二人とも、元の生活に戻れる方法」


『……そうだな』


「……一緒に考えようよ」


 凛は、目を閉じた。


 胸の奥に、温かいものが広がっていく。


 この時代へ来てから、帰りたいと願ったことは何度もあった。


 けれど、帰る方法を誰かと一緒に考えられるのは、初めてだった。


『……ありがとう、聡美』


 聡美は、電話の向こうで笑った。


「……どういたしまして、凛」


     ◇


 通話を終えたあと。


 凛は、しばらくスマートフォンを見つめていた。


 画面には、三浦聡美の名前が残っている。


 今日の昼まで、顔も知らなかった女性。


 会うことすら躊躇っていた相手。


 その人が、今は自分の話を信じてくれている。


『……不思議なものだな』


 凛は、小さく呟いた。


 そして、机の上に置かれた学校の資料へ目を向けた。


 明日から、また一週間が始まる。


 慣れない授業。


 慣れない仕事。


 そして、まだ何も分かっていない、二十六年後の世界。


 帰る方法は、見つかっていない。


 けれど、少しだけ気持ちが変わっていた。


 すべてを一人で抱え込まなくてもいい。


 分からないことは、誰かに聞いてもいい。


 困ったときには、助けを求めてもいい。


 昨日、悠斗が教えてくれたこと。


 そして今日、聡美が教えてくれたこと。


 凛は、ゆっくり息を吐いた。


『……さて』


 資料を手に取る。


 明日は月曜日。


 また、生徒たちに会う日だ。


 神谷陸には、ちゃんと謝ることができた。


 朝倉紗奈のことも、気になっていた。


 あの子は今日も、部活動のことを考えているのだろうか。


 最後の大会で、みんなと笑って終わりたい。


 そう言っていた。


 凛は、あの笑顔を思い出した。


『……できることが、あるなら』


 小さく呟く。


『……少しでも、力になりたいな』


 自分がいつまでここにいるのかは分からない。


 元の時代へ帰りたい気持ちも、少しも変わっていない。


 それでも。


 目の前の生徒たちが、今、この時代を生きていることも確かだった。


 凛は資料を開いた。


 まだ、答えは出ていない。


 けれど、明日も学校へ行こう。


 少なくとも、今はそう思えた。


 窓の外では、春の夜が静かに更けていった。

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