第十二話「先生として、明日も」
二〇〇〇年(平成十二年)四月十七日、月曜日。
『……よし』
リンは鏡の前で、軽く頬を叩いた。
映っているのは、相変わらず山元凛の顔だった。
目を覚ますたびに、元の身体へ戻っているのではないかと期待してしまう。
けれど、今日も何も変わっていない。
『……まあ、そうだよね』
昨日、美咲にすべてを打ち明けた。
自分が山元凛ではないこと。
二〇二六年から突然やって来たこと。
そして、本当の凛がどこにいるのか分からないこと。
美咲は、すぐには信じてくれなかった。
それどころか、泣きながら妹を返してほしいと叫んだ。
その声は、今も耳に残っている。
けれど、最後には話を聞いてくれた。
自分のことを知りたいと言ってくれた。
『……お姉ちゃん、か』
リンは小さく笑った。
あの人は、本当の姉ではない。
それでも、そう呼んでいいと言ってくれた。
そのことが、今はとても嬉しかった。
リンは鞄を持ち、部屋を出た。
◇
「凛、ちょっと」
玄関で靴を履いていると、美咲に呼び止められた。
『……何?』
「今日も学校?」
『……うん。月曜日だし』
「……そっか」
美咲は、リンの鞄へ目を向けた。
「……大丈夫なの?」
『……分かんない』
リンは苦笑した。
『……でも、行かなきゃ。担任だし』
「…………」
『……休んだら、もっと大変になりそうだしね』
美咲は少し困ったように笑った。
「……あんた、意外と真面目なのね」
『……意外とって何!?』
「いや、何となく」
『……ひどいなぁ』
二人は少しだけ笑った。
しかし、美咲の表情はすぐに真剣なものへ戻った。
「……ねえ」
『……うん』
「……昨日のこと、父さんと母さんにはまだ話してないから」
『……分かってる』
「……健吾くんにも」
『……うん』
リンは頷いた。
健吾の名前を聞くと、少し胸が痛んだ。
あの人は、まだ自分を凛だと思っている。
そのことを考えると、申し訳ない気持ちになる。
『……ねえ、お姉ちゃん』
「……何?」
『……昨日の話、やっぱり変だと思う?』
美咲は少し考えた。
「……変に決まってるでしょ」
『……だよね』
「……でも」
美咲はリンを見た。
「……困ったら帰ってきなよ」
『…………』
「学校で何かあったら、無理しないで」
『……うん』
「……私でよければ、話くらい聞くから」
リンは、目を伏せた。
山元家は、自分の家ではない。
本当の両親も、弟も、二十六年後にいる。
それでも。
今、帰ってきていいと言ってくれる人がいる。
『……ありがとう』
リンは顔を上げた。
『……行ってきます!』
美咲は少し笑った。
「……いってらっしゃい」
玄関の扉が閉まる。
リンは春の空を見上げた。
帰りたい気持ちは、変わらない。
けれど、昨日までとは少しだけ違う朝だった。
◇
東京都立青葉高校。
三年二組の教室へ向かう途中、リンは何度か深呼吸した。
今日は月曜日。
また、一週間が始まる。
授業。
提出物。
連絡事項。
そして、空手部。
(……考えること、多すぎない?)
リンは教室の前で立ち止まった。
中から、生徒たちの賑やかな声が聞こえてくる。
四十人。
その全員が、自分のクラスの生徒なのだ。
『……よし』
リンは扉を開けた。
『おはようございまーす!』
「おはようございまーす!」
「先生、おはよー!」
生徒たちが、それぞれ返事をする。
リンは教卓へ向かった。
そのときだった。
「おっ、凛ちゃん! おはよー!」
『……え?』
リンは足を止めた。
声のした方を見る。
森田翔平が、机に頬杖をつきながら笑っていた。
『……ちゃん付け!?』
「え、何? 駄目?」
『駄目っていうか、あたし、先生なんだけど!?』
「知ってる知ってる!」
『知ってるなら先生を付けなー!』
「はーい、凛ちゃーん!」
『……全然聞いてないじゃん!』
教室に笑い声が広がった。
「森田、先生いじりすぎ!」
「えー、だって凛ちゃんって呼びやすくね?」
『……呼びやすさの問題じゃないでしょ!』
リンは思わず額に手を当てた。
(……何なの、この距離感……)
しかし、森田はまったく悪びれていない。
「いやー、凛ちゃんって怒っても怖くないんだよな」
『……怒ってるんですけど!?』
「ほら、面白い!」
また笑い声が起こる。
リンは大きく息を吐いた。
『……はいはい! そろそろ席について!』
「はーい!」
生徒たちが少しずつ席へ戻る。
リンは出席簿を開いた。
ふと、教室の後ろを見る。
小川真理が、自分の席で静かに準備をしていた。
その近くには、森田の姿がある。
先週、彼が真理の髪をからかった場面が頭をよぎった。
本人は「いつものこと」と言っていた。
だから、リンも深く考えなかった。
けれど。
(……あれ、本当に大丈夫だったのかな)
少しだけ気になった。
ただ、今はホームルームが始まる時間だった。
リンは出席簿へ視線を戻した。
『……じゃあ、出席取るよー!』
◇
午前中の授業を終えたころ。
リンは職員室で、提出物の整理をしていた。
『……一、二、三……』
三年二組の生徒たちから集めた書類。
数を確認し、名簿と照らし合わせる。
四十人分となると、それだけでも結構な量だった。
『……三十八、三十九……』
リンは手を止めた。
『……あれ?』
もう一度数える。
『……三十九』
一枚、足りない。
(……誰の分だろ)
名簿を確認する。
提出済みの生徒には印をつけてあった。
しかし、一人だけ空欄になっている。
『……西野さん、か』
リンは名前を確認した。
西野沙織。
三年二組の女子生徒だった。
リンは名簿を閉じ、次の休み時間に本人へ声をかけることにした。
「山元先生」
小野寺修一の声がした。
『……あ、はい!』
「提出物の確認ですか?」
『……はい。一人分、まだ出ていないみたいで』
「そうですか。では、本人に確認してください」
『……はい』
小野寺は机の上の書類を見た。
「……きちんと整理できていますね」
『……え?』
「先週より、随分慣れてきたようです」
『……あ、ありがとうございます』
リンは少し照れくさくなった。
特別なことをしたわけではない。
ただ、提出物を数えていただけだ。
それでも、褒められると嬉しかった。
「……ただし」
『……はい!』
「書類を集めたら、提出期限までに必ず確認すること。遅れるとほかの先生の仕事にも影響しますから」
『……分かりました』
小野寺は頷いた。
「お願いします」
そして、自分の席へ戻っていった。
リンは小さく息を吐いた。
(……やっぱり、先生って大変だなぁ)
子どものころ、教師という仕事は授業をするものだと思っていた。
けれど、実際にはそれだけではない。
書類を集める。
出席を確認する。
生徒の話を聞く。
保護者への連絡事項を整理する。
そして、ほかの教員との連携。
どれも地味な仕事だ。
でも、一つでも抜ければ誰かが困る。
『……さて』
リンは名簿を閉じた。
『……西野さんに、確認しよ』
小さく呟いて、席を立った。
◇
次の休み時間。
リンは三年二組の教室へ向かった。
教室の中では、生徒たちが思い思いに過ごしている。
友達と話している生徒。
次の授業の準備をしている生徒。
机に突っ伏している生徒。
リンは名簿で確認した席へ近づいた。
『……西野さん、ちょっといい?』
女子生徒が顔を上げた。
「……はい、凛先生」
『……提出物、まだ出てないみたいなんだけど』
「あ、すみません。忘れてました」
沙織は少し申し訳なさそうに笑った。
『……そっか。じゃあ、明日忘れずに持ってきてね』
「はい、分かりました」
『……よろしくね』
「……はい。すみません」
沙織は軽く頭を下げた。
リンは頷いて、教室を後にした。
廊下へ出ると、名簿を開く。
西野沙織の欄に、未提出の印をつけた。
『……よし。明日もう一回確認しよ』
リンは小さく頷いた。
まだ、四十人分は揃っていない。
けれど、誰が出していないのかは分かった。
明日、もう一度確認すればいい。
そんな当たり前のことが、少しずつ自分でできるようになってきた。
◇
放課後。
体育館の隣にある道場では、空手部の練習が始まろうとしていた。
リンは入口で、深呼吸した。
(……今日は、ちゃんと報告する)
先週、怪我をした二年生の男子部員を休ませたとき、荒川から厳しく叱られた。
怪我をしている生徒を練習させるわけにはいかない。
その判断は、今でも間違っていたとは思わない。
けれど、顧問へ何も伝えずに進めたことについては、反省していた。
リンは道場へ入った。
『……お疲れさまです!』
「おう、山元」
荒川剛が腕を組んで立っていた。
相変わらず、近づくだけで緊張する。
『……荒川先生。少し、よろしいでしょうか』
「何だ」
『……先週、足を痛めた二年生の部員のことです』
荒川の眉が動いた。
「……ああ」
『……今日は、練習前に状態を確認したいと思っています』
「……それで?」
『……まだ痛みが残っているようなら、無理に参加させず、養護教諭の先生にも確認していただきたいです』
リンは続けた。
『……そのうえで、練習への復帰を判断したいと思っています』
荒川は黙って聞いていた。
リンは少し身構えた。
また怒鳴られるかもしれない。
そう思ったが、荒川は短く答えた。
「……分かった」
『……え?』
「本人の様子を見てこい。何かあったら俺に報告しろ」
『……はい!』
「……それと」
『……はい』
「先週みたいに、一人で勝手に判断すんなよ」
『……分かりました』
リンは頭を下げた。
荒川はそれ以上何も言わず、部員たちの方へ向かった。
リンは小さく息を吐いた。
(……怒鳴られなかった……)
それだけで、少し安心した。
しかし、まだ仕事は終わっていない。
リンは怪我をした二年生の部員のところへ向かった。
『……足、大丈夫?』
「……あ、凛先生」
男子部員が振り返った。
「先週より、だいぶ良くなりました」
『……そっか』
リンは足元を見た。
『……でも、まだ痛む?』
「……少しだけ」
『……少しでも痛いなら、今日は無理しない方がいいと思う』
男子部員は少し迷った。
「……でも、練習が……」
『……焦る気持ちは分かるよ』
リンは穏やかに答えた。
『……だけど、ここで悪化させたら、もっと長く休まなきゃいけなくなるかもしれないでしょ?』
「…………」
『……だから、まずはちゃんと治そう』
男子部員は、ゆっくり頷いた。
「……はい」
『……じゃあ、荒川先生にも報告してくるね』
「……ありがとうございます」
リンは小さく笑った。
『……どういたしまして』
男子部員のもとを離れると、今度は荒川へ報告に向かった。
それだけのことだった。
特別な技術を教えたわけでもない。
強い選手を育てたわけでもない。
それでも、生徒が安心して練習に取り組めるようにすることも、教師の仕事なのだろう。
リンは、少しだけそう思えた。
◇
練習の途中。
「凛先生!」
声をかけてきたのは、女子部員の相原菜月だった。
先週、道場で顔を見かけた二年生だ。
『……あ、相原さん』
「さっき、足を怪我した子の様子を見てくれたんですよね?」
『……うん。まだ少し痛みがあるみたいだったから』
「ありがとうございます!」
菜月は元気よく頭を下げた。
『……いや、そんな大したことじゃ』
「大したことですよ!」
菜月は真剣な顔になった。
「……あの子、まだ足が痛いのに、無理して練習に出ようとしてたんです」
『……そうだったんだ』
「……だから、先生が言ってくれてよかったです」
リンは少し驚いた。
同じ二年生の部員のことを、菜月も心配していたらしい。
『……そっか』
リンは微笑んだ。
『……教えてくれて、ありがとう』
「いえ!」
菜月は少し照れたように笑った。
それから、興味深そうにリンを見た。
「……あの、凛先生」
『……何?』
「……先生って、やっぱり空手すごいんですよね?」
『……えっ』
リンの笑顔が固まった。
「全国大会で準優勝したって聞きました!」
『……あ、ああ……』
「私、まだ全然強くないんですけど、先生みたいになりたいんです!」
『…………』
リンは困った。
今の自分には、そんな技術はない。
山元凛の身体であっても、どう動けばいいのか分からない。
しかし、目の前の少女は期待に満ちた目で見つめている。
(……どうしよう)
リンは一瞬迷った。
そして、ゆっくり口を開いた。
『……あのさ、相原さん』
「はい!」
『……強くなるために大事なことって、何だと思う?』
「……え?」
菜月は少し考えた。
「……練習すること、ですか?」
『……うん。それも大事だと思う』
リンは頷いた。
『……でも、怪我をしないことも大事だよ』
「…………」
『……強くなりたいなら、長く練習を続けられる身体でいなきゃ』
菜月は真剣に聞いていた。
『……だから、無理しないでね』
リンは少し笑った。
『……あたしも、できることは手伝うから』
菜月は、ぱっと表情を明るくした。
「……はい!」
そして、元気よく頭を下げた。
「……ありがとうございます、凛先生!」
『……うん。頑張って!』
菜月は練習へ戻っていった。
リンは、その背中を見送った。
(……何とか、答えられたかな)
自分が山元凛本人ではないことを、菜月は知らない。
いつか、本当に空手の技術を教えてほしいと頼まれるかもしれない。
そのときは、きっと困るだろう。
それでも。
今の自分にできることまで、何もないわけではない。
『……少しずつ、だよね』
リンは小さく呟いた。
◇
その日の夕方。
リンは学校から帰宅し、自分の部屋で鞄を机に置いた。
『……疲れたぁ……』
椅子に腰を下ろし、大きく息を吐く。
今日も、帰る方法は見つからなかった。
相変わらず、山元凛の身体のままだ。
空手もできない。
学校の仕事だって、まだ分からないことばかり。
それでも。
今日は、提出物を確認できた。
未提出の生徒へ声をかけられた。
怪我をした部員の様子も、確認できた。
荒川へ報告することもできた。
生徒たちから、ありがとうと言ってもらえた。
『……あたし、まだ全然だな』
リンは小さく笑った。
それから、机の上の書類を見た。
『……でも』
少し考えてから、呟いた。
『……明日も学校だしね』
廊下から、美咲の声が聞こえた。
「凛ー! ご飯できたよー!」
『……はーい!』
リンは元気よく返事をした。
この時代で暮らすことに、まだ慣れたわけではない。
帰りたい気持ちだって、変わらない。
それでも。
今日も一日、教師として仕事をした。
その事実だけは、自分のものだった。
◇
二〇二六年(令和八年)四月十三日、月曜日。
凛は、朝の光が差し込む部屋でスマートフォンを手に取った。
画面には、三浦聡美からのメッセージが届いていた。
「おはよう、凛! 今日も仕事頑張って!」
『…………』
凛は小さく笑った。
昨日、聡美は自分の話を信じてくれた。
どうして信じる気になったのかは、教えてもらえなかった。
それでも。
今、聡美は自分が誰なのかを知ったうえで、こうして声をかけてくれている。
凛は、ゆっくり返信を打った。
『……ありがとう。行ってくる』
送信する。
すぐに返事が届いた。
「いってらっしゃい!」
凛はスマートフォンを置いた。
『……よし』
今日は月曜日。
また、一週間が始まる。
帰る方法は、まだ分からない。
けれど、昨日までとは少しだけ違う朝だった。
◇
東京都立桜丘高校。
職員室へ入ると、瀬戸湊が声をかけてきた。
「リン先生、おはようございます!」
『……おはよう、瀬戸』
「……何か、今日は元気ですね」
『……そうか?』
「はい。先週より表情が明るい気がします」
『……そうかもしれないな』
凛は少し笑った。
瀬戸は不思議そうに首を傾げた。
「……何かいいことありました?」
『……ああ』
「……おっ、何ですか?」
『……少し、話を聞いてくれる人ができた』
瀬戸は目を瞬かせた。
「……え?」
『……いや、こちらの話だ』
凛は笑った。
瀬戸も、つられて笑った。
「……何だか分かりませんけど、よかったですね」
『……ありがとう』
凛は自分の席へ向かった。
机の上には、今日の授業資料が置かれている。
そのとき、職員室の前方から声がした。
「先生方、少しよろしいでしょうか」
教頭だった。
朝の打ち合わせが始まるらしい。
凛は手を止め、顔を上げた。
「本日から、生徒対象の学校生活アンケートを実施します」
教頭は、手元の資料を掲げた。
「各担任の先生方には、ホームルームで生徒へ回答を指示していただきます」
続けて、職員室の前から一枚ずつ紙が配られた。
凛もそれを受け取る。
『……ん?』
紙の中央には、白と黒の小さな四角形が複雑に並んだ模様が、大きく印刷されていた。
その下には、学校生活アンケートと書かれている。
(……何だ、これ?)
凛は紙を持ち上げた。
四角形。
黒い模様。
文字らしいものは、ほとんどない。
(……これが、アンケートなのか?)
どう見ても、質問が書かれているようには思えなかった。
凛が困惑している間にも、教頭の説明は続く。
「生徒には一人一台のiPadから、こちらのQRコードを読み取って回答させてください」
『…………』
(……きゅー、あーる……?)
凛は紙へ視線を戻した。
聞いたことのない言葉だった。
QRコード。
これが、そういうものなのだろうか。
「回答期限は今週金曜日です。各クラスでご確認をお願いします」
教頭の説明が終わる。
周囲の教員たちは、慣れた様子で資料を片づけ始めた。
しかし、凛だけが紙を見つめたままだった。
『……瀬戸』
「はい?」
『……少し、聞いてもいいか』
「何ですか?」
凛は紙を差し出した。
『……この模様は、何だ?』
瀬戸は紙を見た。
「……QRコードですけど」
『……ああ。それは聞いた』
「……はい?」
『……どうやって使うんだ?』
瀬戸は、少し不思議そうな顔をした。
けれど、すぐに自分のスマートフォンを取り出した。
「こうやって、カメラを向けるんです」
画面に、紙の模様が映る。
次の瞬間。
画面の上部に、文字が表示された。
「ほら。ここを押すとアンケートのページが開きます」
『……おおっ』
凛は思わず声を上げた。
「……え?」
『……いや、すごいな』
瀬戸は目を瞬かせた。
「……普通ですよ?」
『……そ、そうか』
凛は咳払いした。
『……とにかく、ありがとう』
「……いえ!」
瀬戸は笑った。
凛は、もう一度QRコードを見た。
(……二十六年で、世の中はどれだけ変わったんだ)
アンケート用紙に質問も回答欄もない。
それでも、生徒たちは答えられるのだという。
自分の知っている学校とは、随分違っていた。
◇
朝のホームルーム。
三年四組。
凛は教卓の上に、先ほど渡された紙を置いた。
『……おはよう』
「おはようございまーす」
生徒たちが返事をする。
凛は出席を確認したあと、紙を持ち上げた。
『……今日は、学校生活についてのアンケートがある』
生徒たちが、ちらほら顔を上げる。
『……この紙にある……』
凛は、一瞬言葉を止めた。
『……QRコードを読み取って、回答してほしい』
「はーい」
生徒たちは、それぞれ机の上のiPadを手に取った。
凛は紙を教卓の前に掲げた。
すると、前の席の生徒が口を開いた。
「先生、それもうちょっと高くしてもらっていいですか?」
『……ああ、すまない』
凛は紙を持ち上げた。
生徒たちが次々とiPadのカメラを向ける。
何人もの生徒が、ほとんど同時に画面を操作していた。
(……本当に、これだけでいいのか)
凛は内心驚きながら、その様子を見守った。
そのときだった。
「先生、それ貼っといた方がよくないですか?」
一人の女子生徒が手を挙げた。
凛は、その生徒を見た。
整えられた髪。
明るい表情。
周囲の女子生徒たちとも自然に会話を交わしている。
橘莉子だった。
『……貼る?』
「はい。黒板とかに。先生、ずっと持ってるの大変じゃないですか?」
莉子は笑った。
「まだ読み取ってない人もいるみたいだし」
『……ああ、確かに』
凛は黒板へ目を向けた。
『……そうしよう』
マグネットを使い、紙を黒板へ貼る。
莉子はにこりと笑った。
「ありがとうございます、先生!」
『……いや、こちらこそ助かった』
凛が答えると、莉子は隣の女子生徒へ顔を向けた。
「ほら、これで見えるでしょ?」
「うん、ありがと!」
周囲からも何人か、莉子へ声をかけていた。
凛は、その様子を少しだけ見ていた。
(……気が利く生徒だな)
莉子は、クラスの中でも人望がありそうだった。
声をかければ周囲が応じる。
その姿には、何か特別なことをしているわけでもないのに、人を集める力があった。
「先生、終わりました!」
「私も!」
生徒たちが次々と回答を終える。
凛は頷いた。
『……ありがとう。まだの人は、忘れずに答えてくれ』
そして、黒板の紙を見た。
あの小さな四角形の集まりから、三十二人分のアンケートにつながる。
どうにも不思議だった。
『……便利なものだな』
思わず呟く。
前列の男子生徒が笑った。
「先生、QRコード初めて見たんですか?」
『……いや、そういうわけでは』
「えー、絶対初めてみたいな反応だったじゃん!」
教室に小さな笑いが起こった。
『……と、とにかく! 回答した人は次の授業の準備をしてくれ!』
「はーい!」
生徒たちが笑いながら動き始める。
凛は教卓の前で小さく息を吐いた。
(……まだまだ、知らないことだらけだ)
けれど、瀬戸に聞けば教えてもらえた。
莉子の提案にも助けられた。
教師だからといって、何もかも知っていなければならないわけではない。
そんな当たり前のことが、少しずつ分かってきた。
◇
午前中の体育の授業。
凛は体育館で、生徒たちを見守っていた。
『……無理に力を入れなくていい! まずは正しい姿勢を意識してみよう!』
「はーい!」
生徒たちが練習を続ける。
凛は、一人ひとりの動きを確認していた。
以前なら、自分で手本を見せて終わりだったかもしれない。
しかし、今の身体では思うように動けない。
だからこそ、言葉で説明する工夫が必要だった。
『……そうだ。その調子!』
声をかける。
生徒が小さく笑った。
「先生、今日も熱いですね!」
『……そ、そうか?』
「はい!」
凛は少し苦笑した。
先週、神谷陸に言われたことを思い出す。
熱意だけで相手を動かそうとすること。
自分の考えを押しつけてしまうこと。
教師として、それが正しいとは限らない。
だから、今日は生徒が困っていないかを確かめながら声をかけるようにした。
練習に集中したい生徒には、必要以上に口を出さない。
助言を求められたときは、できるだけ丁寧に答える。
自分から声をかけるときも、相手の様子を見て判断する。
それだけでも、先週とは少し違った授業になった気がした。
授業終了の合図が鳴る。
『……よし、今日はここまで!』
「ありがとうございましたー!」
生徒たちが片づけを始める。
凛は、その姿を見ながら小さく頷いた。
(……少しずつ、だな)
まだ、教師として未熟なことは分かっている。
それでも、学べることはある。
自分が生徒へ教えるだけではない。
生徒たちから教わることも、たくさんあるのだ。
◇
放課後。
凛は、再び体育館へ足を運んだ。
先週の金曜日、早川に連れられて見学した女子バレー部。
あのときの光景が、ずっと頭に残っていた。
体育館へ入ると、ボールの弾む音が響いていた。
「ナイス!」
「もう一本!」
「次、サーブレシーブ!」
朝倉紗奈の声だった。
凛はコートの端で足を止めた。
紗奈は部員たちへ声をかけながら、自分も練習に参加している。
その近くでは、副主将の宮野千夏が練習メニューを確認していた。
「次、二人組に分かれて!」
千夏が声をかける。
部員たちが動き始めた。
すると、別の後輩が紗奈へ駆け寄った。
「紗奈先輩、こっちの組、人数が一人足りないです!」
「あ、じゃあ私が入る!」
紗奈がすぐに答える。
また別の部員が声をかけた。
「先輩! 次のメニュー、時間短くしてもいいですか?」
「うん、ちょっと待って!」
紗奈はボールを置き、練習表を確認した。
その間にも、別の後輩が何かを相談している。
凛は、その様子を静かに見ていた。
(……よく動く子だな)
千夏も、ほかの部員たちも、それぞれ自分の役割を果たしている。
決して、紗奈だけが働いているわけではない。
ただ、迷ったときの最終的な判断が、自然と紗奈へ集まっているようだった。
そして、紗奈自身も、それを当然のように引き受けている。
その一方で。
「結衣先輩、今日の記録、これで合ってますか?」
「……うん。ここの数字だけ直しておいて」
「ありがとうございます!」
水瀬結衣が、後輩へ記録の付け方を教えていた。
凛は、その姿を見つめた。
結衣は、教室では比較的静かな生徒だ。
あまり自分から目立とうとはしない。
しかし、ここでは違う。
部員たちが自然に声をかけ、結衣も迷いなく答えている。
別の部員が、結衣へ声をかけた。
「結衣先輩、テーピングってまだあります?」
「あるよ。ちょっと待ってね」
結衣は用具箱から必要なものを取り出した。
「はい。足りなかったら言って」
「ありがとうございます!」
凛は、少し微笑んだ。
(……頼りにされているんだな)
教室で見る姿とは、また違う一面だった。
そして、コートの中では。
「よし、もう一本いこう!」
紗奈が声を上げた。
後輩たちが返事をする。
凛は、しばらくその姿を見つめた。
先週も思ったことだった。
紗奈は、選手でありながら、指導者のような役割まで担っている。
その負担は、決して小さくないはずだ。
それなのに、彼女は一度も不満を口にしない。
(……なぜ、そこまで背負おうとするのだろう)
凛は少し考えた。
その理由を、まだ自分は知らない。
◇
「おや、山本先生」
藤沢和彦が声をかけてきた。
『……藤沢先生。お疲れさまです』
「お疲れさまです。今日も見学ですか?」
『……はい。少し、様子を見させていただこうと思いまして』
「どうぞどうぞ」
藤沢は穏やかに笑った。
「いやあ、今日もみんな元気でねえ」
『……そうですね』
凛はコートへ目を向けた。
『……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか』
「はい?」
『……紗奈は、随分多くのことを自分で引き受けていますね』
藤沢は少し困ったように笑った。
「……ええ」
『……何か、理由があるのでしょうか』
藤沢は、しばらく紗奈を見つめた。
そして、静かに口を開いた。
「……昨年の秋、新人大会がありましてね」
『……新人大会、ですか』
「ええ。三年生が引退して、今の三年生たちが中心になった最初の大きな大会です」
凛は頷いた。
「……そこで、思うような結果が出なかったんですよ」
『……そうだったのですか』
「試合中に連携が乱れてしまいましてね。お互いの動きが噛み合わなくなった」
藤沢は、少しだけ目を伏せた。
「……結果は、初戦敗退でした」
『…………』
「試合が終わったあと、紗奈さんは随分落ち込んでいましたよ」
凛は、コートへ目を向けた。
紗奈は、今も部員たちへ笑顔で声をかけている。
『……それで、今のように?』
「……ええ」
藤沢は頷いた。
「……自分がもっとしっかりしていれば、負けなかったんじゃないかと」
『…………』
「……そんなふうに考えてしまったようです」
凛は、静かに息を吐いた。
試合に負けることは、珍しいことではない。
自分も、大学時代に何度も負けた。
全国大会の決勝でも、負けた。
その悔しさは、今でも覚えている。
けれど。
負けた理由をすべて自分の責任だと思い込んでしまえば、次の試合までの時間が、どれほど苦しいものになるだろう。
「……あの子は、責任感が強いんですよ」
藤沢は続けた。
「……誰かが困っていれば、すぐに動く。誰かが迷っていれば、自分が決める」
『……はい』
「……それ自体は、悪いことじゃないんですがねえ」
藤沢は苦笑した。
「……どうも、全部自分で背負おうとしてしまう」
凛は、もう一度紗奈を見た。
そこには、真剣な表情でボールを追う少女がいた。
仲間を励まし、指示を出し、自分も練習する。
その姿は頼もしい。
けれど、少しだけ危うくも見えた。
『……なるほど』
凛は小さく頷いた。
『……あの子は、もう二度と同じ思いをしたくないのですね』
「……そうかもしれませんねえ」
藤沢は、少し寂しそうに笑った。
「私も、もっと上手く支えてやれればよかったんですが」
『…………』
「……競技の専門的な指導となると、どうしても難しくて」
凛は首を振った。
『……いえ。藤沢先生が、あの子たちを大切に思っていらっしゃることは、伝わってきます』
藤沢は、少し驚いたようだった。
『……ですが、紗奈が一人で背負わなくてもいい環境は、必要なのかもしれません』
藤沢は静かに頷いた。
「……そうですねえ」
凛は少し考えた。
紗奈が背負っているのは、単なる練習の進行だけではない。
昨年の敗北。
仲間たちへの責任。
そして、最後の大会への思い。
それらを、一人で抱え込んでいるのだとしたら。
(……少しでも、軽くしてやりたいな)
凛は、藤沢へ向き直った。
『……藤沢先生』
「はい?」
『……少し、ご相談があります』
藤沢は首を傾げた。
「……何でしょう?」
凛は、深く息を吸った。
『……女子バレー部のことで、私にも何かお手伝いできることはないでしょうか』
「……お手伝い、ですか?」
『……はい』
凛は続けた。
『……紗奈は、練習の進行や後輩への指導まで、多くのことを引き受けています』
「……ええ」
『……もちろん、主将としての役割はあると思います』
凛はコートへ目を向けた。
『……ですが、できることなら、あの子自身にも選手として練習へ集中してほしいのです』
藤沢は、しばらく黙っていた。
凛は続けた。
『……私は、バレーボールの専門的な指導には自信がありません』
「…………」
『……それに、まだ新任で、学校の仕事にも慣れていません』
凛は、少しだけ苦笑した。
『……できないことも、多いと思います』
それから、顔を上げた。
『……ですが、練習の進行や用具の準備、部員たちの体調管理など、手伝えることはあると思うのです』
藤沢は静かに聞いていた。
『……もしよろしければ』
凛は、はっきりと言った。
『……私を、女子バレー部の副顧問にしていただけないでしょうか』
藤沢は目を丸くした。
「……副顧問、ですか?」
『……はい』
「……山本先生が?」
『……はい』
藤沢はしばらく考えた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「……ありがたいお話ですが」
『……はい』
「……山本先生、三年生の担任もお持ちでしょう?」
『……はい』
「まだ、お仕事も慣れないでしょうし」
『……そのとおりです』
凛は頷いた。
藤沢は少し驚いたようだった。
凛は続けた。
『……無理をすれば、かえって皆さんに迷惑をかけると思います』
「…………」
『……だから、できることから、少しずつ手伝わせていただければと考えています』
藤沢は、小さく息を吐いた。
「……なるほど」
それから、少し笑った。
「……山本先生は、随分生徒思いなんですねえ」
『……いえ』
凛は首を振った。
『……まだ、教師としては未熟です』
そして、もう一度コートを見た。
紗奈が、後輩たちへ声をかけている。
その表情は、真剣だった。
『……ですが、目の前で頑張っている生徒たちを、少しでも支えたいのです』
藤沢は、静かに頷いた。
「……分かりました」
『……ありがとうございます!』
「……ただし、私一人で決められることではありませんからねえ」
『……はい』
「学校として、担当を調整する必要があります」
『……承知しています』
藤沢は微笑んだ。
「……まずは、早川先生にも相談してみましょうか」
『……はい。よろしくお願いいたします』
凛は頭を下げた。
◇
練習が終わったあと。
凛は職員室へ戻り、早川奈緒に声をかけた。
『……早川先生。少し、お時間よろしいでしょうか』
「……はい。どうしました?」
『……女子バレー部の件で、ご相談があります』
早川は少し首を傾げた。
凛は、藤沢に話した内容を説明した。
紗奈に負担が集中していること。
昨年の新人大会以来、彼女が強い責任感を抱いているらしいこと。
自分にも手伝えることがあるのではないかと思ったこと。
そして、副顧問を希望していること。
早川は、最後まで聞いてから静かに頷いた。
「……なるほど」
『……はい』
「山本先生らしいですね」
『……そうでしょうか』
「……ええ」
早川は少し笑った。
「……ただ、一つだけ心配です」
『……何でしょうか』
「……頑張りすぎないでくださいね」
凛は顔を上げた。
「……山本先生、まだ新任でしょう?」
『……はい』
「担任の仕事もありますし、体育の授業もあります」
『……はい』
「……そのうえで部活動まで全部抱え込んだら、身体がもちませんよ」
凛は、少し考えた。
先週の体育の授業。
自分の身体が思うように動かず、息を切らしたことを思い出す。
そして、神谷陸とのやり取りも。
以前の自分なら、きっとこう答えただろう。
大丈夫です。
気合いで何とかします。
しかし。
今は、そんなことを言えなかった。
『……そうですね』
凛は頷いた。
『……自分の限界も、きちんと考えなければならないと思っています』
早川は少し驚いたように見えた。
「……そうですね」
『……だから、無理のない範囲で、相談しながら進めたいです』
凛は続けた。
『……まだ分からないことばかりですから』
早川は、ゆっくり頷いた。
「……分かりました」
『……ありがとうございます』
「……私からも、管理職の先生へ相談してみます」
『……よろしくお願いいたします』
凛は頭を下げた。
まだ、副顧問になれると決まったわけではない。
しかし、自分の思いを伝えることはできた。
そのことに、小さな達成感があった。
◇
その日の夜。
凛は自分の部屋で、女子バレー部の練習日程を見つめていた。
今日、藤沢と早川へ副顧問を希望することを伝えた。
正式に決まるかどうかは、まだ分からない。
自分が本当に役に立てるのかも、分からない。
それでも、何もしないまま見ているだけでは終わりたくなかった。
紗奈の真剣な表情。
千夏や部員たちが、互いに声をかけ合う姿。
そして、マネージャーとして頼られていた結衣の姿。
凛は、ゆっくり目を閉じた。
『……皆、頑張っているんだな』
自分がいつまでここにいるのかは分からない。
明日、突然元の時代へ戻るかもしれない。
あるいは、もっと長い時間をこの世界で過ごすことになるのかもしれない。
けれど。
今、目の前にいる生徒たちの時間は、確かに進んでいる。
その中で、自分にも何かできることがあるのなら。
『……明日も、頑張ろう』
凛は静かに呟いた。
そして、机の上の授業資料を開いた。
帰りたい。
その気持ちは、少しも変わらない。
けれど、帰る方法を探すことと、目の前の生徒たちを大切にすることは、きっと両立できる。
二十六年前の世界にも、同じように教師として一日を終えた女性がいる。
互いの存在を知ることもなく、それぞれの学校で生徒たちと向き合っている二人。
まだ、完璧な教師ではない。
失敗もするし、迷うこともある。
それでも。
教師としての明日は、もう始まっていた。




