第十三話「大丈夫、の意味」
二〇二六年(令和八年)四月十四日、火曜日。
東京都立桜丘高校、職員室。
『……ふむ』
凛は机の上に並べた書類を見比べていた。
今日の授業予定。
出欠確認の資料。
それから、昨日渡された学校生活アンケートの案内。
黒い四角形が集まった、あの奇妙な模様もある。
(……きゅーあーるこーど、だったか)
昨日、瀬戸に教えてもらったばかりだ。
紙に印刷された模様をカメラで読み取るだけで、アンケートの質問が画面に現れる。
今でも少し不思議だった。
しかし、今日の凛には、それより気になることがあった。
女子バレーボール部の副顧問。
昨日、藤沢と早川に希望を伝えたものの、まだ正式な返事はもらっていない。
(……駄目だったら、どうするかな)
もちろん、部員たちを支える方法はほかにもあるだろう。
だが、できることなら、もう少し近くで力になりたかった。
「山本先生」
『……はい!』
顔を上げると、早川奈緒が立っていた。
「昨日の女子バレー部の件なんですけど」
『……はい』
「朝の打ち合わせが終わったら、少し時間を空けておいてください」
『……何か決まったのでしょうか』
「校長先生から直接お話があるそうです。藤沢先生も一緒に」
『……校長先生から、ですか』
「ええ。そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ」
早川は微笑んだ。
しかし、凛の背筋は自然と伸びていた。
『……承知しました』
新任教師が、校長から直接呼ばれる。
それだけで、少し身構えてしまう。
早川が席へ戻ったあと、凛はそっと息を吐いた。
(……何を言われるんだろうな)
◇
朝の職員打ち合わせを終えたあと。
凛と藤沢は、校長室の前に立っていた。
「そんなに固くならなくても大丈夫ですよ、山本先生」
藤沢が穏やかに笑った。
『……いえ、その』
「悪いことをしたわけではありませんからねえ」
『……はい』
凛は頷いたものの、緊張は解けなかった。
藤沢が扉をノックする。
「失礼します」
『……失礼いたします!』
校長室には、校長と教頭が待っていた。
二人が席に着くと、校長が口を開いた。
「藤沢先生、山本先生。お忙しいところありがとうございます」
「いえいえ」
『……とんでもありません』
「昨日、女子バレーボール部の副顧問について相談があったと聞いています」
『……はい』
凛は姿勢を正した。
「現在の部活動の状況も踏まえ、校内で調整しました」
一拍置いて、校長が続けた。
「山本先生には、女子バレーボール部の副顧問をお願いすることにしました」
『……本当ですか!』
思わず声が大きくなった。
凛は慌てて口元を引き締める。
『……失礼しました。ありがとうございます!』
藤沢が隣で小さく笑った。
「私としても助かりますよ。よろしくお願いしますね、山本先生」
『……こちらこそ、よろしくお願いいたします!』
胸の奥が温かくなった。
昨日、思い切って相談してよかった。
あの子たちのために、自分にも何かできる。
そう思った。
しかし。
「ただし、山本先生」
校長の声が、少し改まったものになった。
『……はい』
「いくつか、確認しておきたいことがあります」
凛は背筋を伸ばした。
「まず、生徒との関わり方についてです」
『……はい』
「部活動では、生徒の自主性を尊重してください。熱心に指導することは結構ですが、必要以上に生徒へ干渉することのないようお願いします」
『…………』
「生徒が自分たちで考え、判断する機会を奪わないことです」
凛は静かに頷いた。
『……承知しました』
教頭が言葉を継いだ。
「山本先生は、まだ新任ですからね。生徒のために頑張りたいという気持ちは分かりますが、何でも教師が背負えばいいというものではありません」
『……はい』
「困っている生徒がいれば、もちろん対応してください。ただ、必要に応じて学年やほかの教員とも連携すること。一人で抱え込まないように」
『……分かりました』
内容そのものは、理解できた。
自分も先週、神谷陸に熱意を押しつけてしまったばかりだ。
良かれと思って口を出すことが、相手のためになるとは限らない。
それは、すでに学んだ。
けれど。
(……必要以上、か)
どこからが必要で、どこからが過干渉なのだろう。
その線引きは、思っていたより難しそうだった。
「次に、部活動と学業の両立についてです」
校長が続けた。
「本校は、生徒の学習を最優先に考えています。部活動は大切な教育活動ですが、あくまでも学校生活の一部です」
『……はい』
「特に三年生は、進路を決める大切な時期です。大会で結果を残すことだけを目標に、学業をおろそかにさせることは避けてください」
『……承知しました』
「部活動に熱心になるあまり、授業や家庭での生活に支障が出るようでは困りますから」
凛は頷いた。
学業が大切なのは、当然だ。
生徒の本分は勉強。
それを否定するつもりはない。
ただ、校長の言葉を聞いているうちに、胸の奥に小さな引っかかりが生まれていた。
(……大会で結果を残すことだけが、部活動じゃないんだがな)
勝つために努力する。
仲間と励まし合う。
負けた悔しさを知る。
そのすべてが、自分にとっては大切な学びだった。
けれど、今は口を挟む場面ではない。
凛は静かに話を聞いた。
「それから、もう一点あります」
校長は机の上の資料を手に取った。
「本校でも、今後の部活動の在り方を見直していくことを検討しています」
『……在り方、ですか』
「ええ。部活動の地域展開についてです」
『…………』
凛は、わずかに眉を動かした。
(……地域、展開?)
聞き慣れない言葉だった。
「近年、学校だけで部活動を維持することが難しくなってきています。本校でも、地域との連携を含めて検討を始める予定です」
校長は続けた。
「まだ何かが正式に決まったわけではありません。しかし、今後は学校と地域が役割を分担することも考えていかなければなりません」
『……はい』
「お二人にも、その点を理解しておいていただきたいのです」
藤沢が頷いた。
「承知しております」
凛も少し遅れて頭を下げた。
『……承知しました』
けれど。
(……どういうことだ?)
地域と、役割を分担する。
部活動を、見直す。
その言葉が何を意味しているのか、凛にはよく分からなかった。
「以上です。よろしくお願いします」
校長が話を締めくくる。
凛は立ち上がり、深く頭を下げた。
『……よろしくお願いいたします』
副顧問になれた。
それは、間違いなく嬉しいことだった。
なのに、校長室を出るころには、胸の奥に別の感情が残っていた。
◇
「……山本先生?」
廊下を歩きながら、藤沢が声をかけてきた。
「どうかしましたか?」
『……いえ』
凛は少し迷った。
そして、思い切って尋ねた。
『……藤沢先生。一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか』
「ええ、何でしょう」
『……先ほどの、部活動の地域展開というのは』
藤沢が足を止めた。
『……具体的には、どういうことなのでしょうか』
「……ああ」
藤沢は納得したように頷いた。
「そうですねえ。少し分かりにくい言葉かもしれませんね」
『……すみません』
「いえいえ。私も最初は、何がどう変わるのかよく分かりませんでしたよ」
藤沢は廊下の端へ寄り、凛にも立ち止まるよう促した。
「簡単に言えば、学校だけで部活動を支えるのではなく、地域のクラブや指導者にも協力してもらおうという考え方です」
『……地域の、クラブ?』
「ええ。例えば、学校の先生ではなく、地域のスポーツ指導者が練習を教える。学校の部活動と地域クラブが連携して活動する。そういった形ですね」
『……それは』
凛は言葉を探した。
『……学校の部活動を、外の人に任せるということですか?』
「そういう形もあります。ただ、すべてを一度に学校の外へ移す、という話ではありませんよ」
『…………』
「特に高校は、中学校とは事情も違いますからねえ。本校でどうするかは、これから検討する段階です」
『……なぜ、そのような動きがあるのでしょうか』
藤沢は少し考えた。
「理由はいくつもあります。少子化で部員が集まらない学校もありますし、専門的に指導できる先生がいない部もあるでしょう」
『……はい』
「それに、教員の負担も大きいんです」
『……負担』
「ええ。授業をして、担任の仕事をして、放課後は部活動。休日には大会や練習試合の引率もあります」
藤沢は穏やかに続けた。
「先生方にも、ご家庭がありますからねえ。休みの日まで学校の仕事に追われ続けるのは、やはり考えなければなりません」
『…………』
「地域の力を借りることで、子どもたちが活動を続けられるようにする。それも、一つの目的なんですよ」
凛は黙っていた。
言っていることは分かる。
教師の負担。
少子化。
専門的な指導者の不足。
どれも、無視できない問題なのだろう。
けれど。
『……藤沢先生』
「はい」
『……先生は、それでいいとお考えですか』
藤沢は、すぐには答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
校庭では、朝の体育の準備が進められていた。
「……難しいですねえ」
やがて、藤沢が口を開いた。
「私は、長いこと学校で生徒たちを見てきました」
『……はい』
「部活動でしか見られない表情というものがあります。授業では静かな子が、部活では誰より大きな声を出していたりね」
藤沢は微笑んだ。
「昨日の水瀬さんなんかも、そうでしょう?」
『……ああ』
凛は頷いた。
教室では控えめな結衣が、女子バレー部では後輩たちから頼られていた。
あの姿は、確かに印象に残っている。
「……ですからね、寂しい気持ちはありますよ」
藤沢は静かに言った。
「学校の先生と生徒が、放課後も一緒に汗を流す。そういう時間には、私も意味があると思っています」
『…………』
「ただ、山本先生」
藤沢は凛を見た。
「学校の部活動を残すことと、子どもたちがスポーツを続けられることは、必ずしも同じではないんです」
『……どういうことでしょうか』
「学校に部員が足りなければ、やりたい競技ができない子もいます。専門の先生がいなければ、十分な指導を受けられないこともある」
『…………』
「地域に受け皿があれば、そういう子たちにも活動する機会が生まれるかもしれません」
凛は目を伏せた。
その考え方も、分からなくはなかった。
むしろ、競技を続けられない生徒がいるのなら、何とかしてやりたいと思う。
だが。
『……学校で、仲間と過ごす時間は』
思わず、言葉がこぼれた。
『……どうなるのでしょうか』
藤沢は、静かに凛を見た。
『……同じ教室で学んで、放課後は一緒に練習して。負けたら悔しくて、勝ったら嬉しくて』
凛は、途中で口を閉じた。
自分でも、少し熱くなっていることが分かった。
『……すみません』
「……いいえ」
藤沢は首を振った。
「大切なことだと思いますよ」
『…………』
「だからこそ、簡単には決められないんでしょうねえ」
藤沢は少し笑った。
「まだ本校では、具体的なことは何も決まっていません。今いる部員たちの活動が、明日から変わるわけでもありませんから」
『……はい』
「まずは、目の前の生徒たちを見ていきましょう」
凛は、ゆっくり頷いた。
『……そうですね』
藤沢は職員室へ向かって歩き始めた。
凛も、そのあとに続いた。
けれど、胸の奥に生まれた感情は、簡単には消えてくれなかった。
◇
職員室へ戻っても、凛の頭から校長室での話は離れなかった。
学業が大切なのは分かる。
教師にも、休む時間が必要なのだろう。
生徒の自主性を尊重することも、正しいと思う。
それでも。
(……部活動は、学校生活の一部、か)
凛は、机の上に置いた手を見つめた。
今の身体は、かつての自分のようには動かない。
空手の構えを取っても、足がついてこない。
少し走っただけで、息が上がる。
そんな身体になって初めて、自分がどれほど空手に支えられてきたのかを思い知った。
道場の床の感触。
稽古着の擦れる音。
先生の叱咤。
隣で歯を食いしばっていた仲間。
試合に勝った日の喜び。
全国大会の決勝で負けたときの、あの悔しさ。
自分は、あの時間を通して育った。
空手がなかったら、今の自分はいない。
体育教師になろうとも、思わなかったかもしれない。
(……あの時間が、もし学校になかったら)
凛は唇を結んだ。
もちろん、地域の道場やクラブでも、大切な仲間はできるのだろう。
それを否定するつもりはない。
けれど、自分の知っている部活動には、同じ学校で過ごす仲間と、一つの目標へ向かう特別な時間があった。
それが、少しずつ変わろうとしている。
そのことが、悲しかった。
そして、少し腹立たしくもあった。
(……学校から切り離さなければ、守れないものなのか)
だが、藤沢の言葉も忘れられない。
指導する教師がいなければ、競技を諦める生徒がいる。
部員が集まらなければ、チームを作れない生徒もいる。
自分の経験だけで、今の制度を間違いだと決めつけることはできなかった。
『……難しいな』
凛は小さく呟いた。
自分は、二十六年後の学校へ突然放り込まれた。
便利になったことも、理解できないことも、たくさんある。
けれど、今日ほど強く時代の隔たりを感じたことはなかった。
黒い四角形の模様が何なのか分からなくても、笑って教えてもらえばよかった。
しかし、部活動の在り方は、そう簡単に飲み込めるものではなかった。
凛は深く息を吐いた。
そして、次の授業の資料を手に取った。
(……今は、目の前の生徒たちだ)
藤沢の言葉を、もう一度思い出す。
凛は立ち上がった。
◇
午前中。
三年四組の体育の授業。
凛は体育館で、生徒たちへ説明していた。
『……今日は、二人一組になって練習してもらう』
「はーい!」
『……まずは、無理のない動きから始めよう。相手の様子も確認しながらやってくれ』
生徒たちが動き始める。
友人同士で声をかけ合い、二人組を作っていく。
「一緒にやろ!」
「うん!」
「こっち空いてるよー!」
体育館のあちこちで声が上がった。
凛は、その様子を見守っていた。
しかし。
(……ん?)
一人だけ、動いていない生徒がいた。
水瀬結衣だった。
結衣は周囲を見回している。
近くでは、橘莉子がほかの女子生徒と組んでいた。
莉子は楽しそうに話しながら、練習の準備をしている。
結衣も、何か声をかけようとしたように見えた。
けれど、結局何も言わなかった。
凛は、体育館全体を見渡した。
(……一人、余っているのか)
三十二人のクラスだから、全員が出席していれば十六組になる。
だが、今日は一人欠席していた。
そのため、人数が奇数になっていたのだ。
それ自体は、珍しいことではない。
ただ、結衣は誰かと組もうとする前から、一人になることを受け入れているようにも見えた。
『……水瀬』
「……はい」
『……こっちへ来てくれるか』
結衣が顔を上げる。
凛は、近くの組へ声をかけた。
『……悪いが、ここだけ三人でやってもらってもいいか? 順番に交代してくれ』
「はい、大丈夫です!」
女子生徒が返事をする。
結衣は小さく頭を下げた。
「……お願いします」
「うん、よろしく」
練習が始まる。
結衣も指示されたとおりに動いていた。
相手の生徒と必要な会話を交わし、特に問題が起こる様子はない。
凛はしばらく見守った。
(……大丈夫そうだな)
だが、少しだけ引っかかった。
誰も、結衣を嫌がっているようには見えなかった。
露骨に避けている様子もない。
なのに、結衣は最初から誰にも声をかけなかった。
それが、妙に気になった。
◇
授業が終わり、生徒たちが体育館を出ていく。
凛は用具の片づけを確認しながら、結衣へ声をかけた。
『……水瀬。少し、いいか』
結衣が振り返った。
「……はい、山本先生」
『……さっきの練習、どうだった?』
「……普通にできました」
『……そうか』
凛は少し考えた。
『……一つ、聞いてもいいか?』
「……はい」
『……クラスで、何か困っていることはないか?』
結衣の表情が、わずかに変わった気がした。
しかし、それはほんの一瞬だった。
「……特に、ないです」
『……そうか』
「……はい」
凛は続けた。
『……さっき、組む相手を探していたように見えたからな』
「…………」
結衣は少し目を伏せた。
そして、小さく首を振った。
「……大丈夫です」
『…………』
「……たまたまですから」
凛は、その顔を見つめた。
無理に笑っているわけでもない。
泣きそうなわけでもない。
ただ、静かな表情だった。
『……分かった』
凛は頷いた。
『……何か困ったことがあれば、遠慮なく言ってくれ』
「……はい」
『……一人で抱え込まなくていいからな』
結衣は、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
そして、体育館を出ていった。
凛は、その背中を見送った。
(……大丈夫、か)
本人がそう言っている。
無理に聞き出すのも、違うのだろう。
今朝、校長から言われたことも頭をよぎった。
生徒の自主性を尊重すること。
必要以上に踏み込まないこと。
(……ここで問い詰めても、困らせるだけかもしれないな)
凛は、ゆっくり息を吐いた。
けれど、結衣の言葉が胸に残った。
大丈夫です。
その一言は、本当に安心していいという意味だったのだろうか。
◇
放課後。
凛は職員室で簡単な仕事を終え、体育館へ向かっていた。
今日は、正式に女子バレーボール部の副顧問として顔を出す初日だ。
まだ少し緊張していた。
校長から言われたことも、藤沢から聞いた話も、頭から消えたわけではない。
それでも、部員たちに会えるのは楽しみだった。
『……さて』
凛は廊下の角を曲がった。
そのとき。
「ねえ、今日どうする?」
「駅前寄ってかない?」
「いいね! ちょっとお腹空いたし!」
楽しそうな声が聞こえてきた。
廊下の向こうから、数人の女子生徒が歩いてくる。
その中心にいたのは、橘莉子だった。
制服姿の莉子は、友人たちと笑いながら話している。
「じゃあ、先にあそこ行こっか」
「うん!」
凛は、その様子を見て小さく笑った。
(……楽しそうだな)
莉子は、昨日のアンケートのときにも気を利かせてくれた生徒だ。
クラスの中でも、自然と人が集まる。
そんな印象があった。
そのとき、反対側から一人の女子生徒が歩いてきた。
ジャージ姿。
肩には、部活動用の鞄。
水瀬結衣だった。
結衣は体育館へ向かっているらしい。
凛は、声をかけようとして足を止めた。
結衣と莉子が、ちょうどすれ違おうとしていたからだ。
莉子の視線が、一瞬だけ結衣へ向いた。
結衣も、莉子に気づいたようだった。
ほんのわずかな時間。
二人の目が合った。
けれど。
「……行こっか」
莉子は友人たちへ声をかけた。
「うん、行こ!」
女子生徒たちは、そのまま歩いていく。
結衣も、何も言わずに通り過ぎた。
挨拶はなかった。
会話もなかった。
ただ、それぞれの進む方向が違っていた。
凛は、思わず振り返った。
制服姿の莉子たちは、楽しそうに話しながら校門の方へ向かっていく。
ジャージ姿の結衣は、一人で体育館へ向かう。
二人の背中が、廊下の先で遠ざかっていった。
(……同じクラス、だよな)
凛は少し首を傾げた。
もちろん、同じクラスだからといって、誰とでも親しいわけではない。
挨拶をしないことだってあるだろう。
それなのに。
(……何だろうな)
ほんの一瞬、二人の間に何かがあったように感じた。
仲が悪いのか。
単に話す機会がないだけなのか。
凛には分からない。
ただ、互いに相手の存在を意識していたように見えた。
『…………』
凛は、少し考えた。
けれど、答えは出なかった。
やがて、体育館へ向かう結衣の背中を追って歩き始めた。
◇
体育館の中には、すでに部員たちが集まっていた。
ボールの弾む音。
シューズが床を擦る音。
明るい掛け声。
凛は入口で足を止めた。
懐かしい感覚だった。
競技は違う。
場所も、時代も違う。
それでも、放課後の体育館に満ちる熱気は、自分が知っているものとよく似ていた。
「おや、山本先生」
藤沢が近づいてきた。
『……藤沢先生。お疲れさまです』
「お疲れさまです。ちょうど、皆に紹介しようと思っていたところです」
『……よろしくお願いいたします』
藤沢は頷き、部員たちへ声をかけた。
「皆さん、少し集まってください」
練習を始めようとしていた部員たちが、コートの中央へ集まる。
朝倉紗奈が、真っ先に前へ出た。
その隣には、副主将の宮野千夏。
どちらも三年一組の生徒だ。
少し離れたところでは、マネージャーの結衣も話を聞いていた。
「昨日も少しお話ししましたが、本日から山本先生に副顧問として入っていただくことになりました」
部員たちの間から、小さな声が上がった。
「よろしくお願いします!」
紗奈が元気よく頭を下げた。
ほかの部員たちも続く。
「よろしくお願いしまーす!」
凛は、少し緊張しながら前へ出た。
『……山本です』
部員たちの顔を、一人ずつ見渡す。
『……今日から副顧問として、皆と一緒に活動することになった』
凛は続けた。
『……私は、バレーボールの専門家ではない。皆に教えてもらうことも、たくさんあると思う』
紗奈が頷いた。
『……だが、皆が安心して練習に取り組めるよう、できることは精いっぱいやりたい』
凛は少し笑った。
『……これから、よろしく頼む!』
「よろしくお願いします!」
部員たちが元気よく返事をする。
凛は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
すると、紗奈が一歩前へ出た。
「山本先生!」
『……ん?』
「私たち、今年こそ都大会でベスト8に入りたいんです!」
『……ああ。藤沢先生から聞いている』
「なので、これからよろしくお願いします!」
紗奈は、もう一度頭を下げた。
凛は、その真剣な表情を見た。
昨年の新人大会。
初戦敗退。
あの子が、その結果をどれほど悔やんでいたのか。
昨日、藤沢から聞いたばかりだった。
『……分かった』
凛は頷いた。
『……一緒に頑張ろう』
紗奈は、ぱっと笑った。
「はい!」
その笑顔を見て、凛も自然と笑顔になった。
◇
練習が始まった。
凛は、藤沢の指示に従って用具の準備や練習の進行を手伝った。
ボールを集める。
練習時間を確認する。
部員たちの様子を見る。
自分ができることは、思っていたより多かった。
「山本先生、ボールこっちで大丈夫ですか?」
『……ああ、ありがとう』
「はい!」
部員が笑顔で返事をする。
凛は、少しずつ緊張が解けていくのを感じた。
そして。
「結衣、さっきの記録見せてもらっていい?」
紗奈が声をかけた。
「うん。ちょっと待って」
結衣は手元の記録用紙を確認し、紗奈へ渡した。
「ここ、昨日より成功率上がってるよ」
「本当!?」
「うん。特に後半」
「やった! 千夏、見て!」
「お、いいじゃん!」
三人が、楽しそうに記録を覗き込んでいる。
凛は、その様子を見つめた。
結衣が笑っていた。
教室で見るときより、ずっと自然な表情だった。
別の部員が近づいてくる。
「結衣先輩、次の練習の記録って私が取ってもいいですか?」
「うん、お願い。分からなかったら聞いてね」
「はい!」
結衣は、後輩へ記録の付け方を説明した。
その声には、迷いがなかった。
必要とされている。
信頼されている。
そして、本人もその役割を自然に引き受けている。
(……やっぱり、部活では違うな)
凛は、少し安心した。
結衣には、ちゃんと居場所がある。
そう思えたからだ。
しかし、すぐに別の光景が頭をよぎった。
体育の授業。
一人だけ組む相手が決まらず、立っていた結衣。
放課後の廊下。
互いに気づいていながら、何も言わずにすれ違った結衣と莉子。
(……でも)
凛は、結衣の横顔を見た。
今、あの子は笑っている。
それは、確かだった。
けれど。
部活動で笑っているからといって、教室でも同じように過ごせているとは限らない。
そのことに、凛はまだ確かな答えを持てなかった。
◇
練習を終え、部員たちが片づけを始めた。
凛は、体育館の端で藤沢と今日の活動を振り返っていた。
「初日、お疲れさまでした」
『……ありがとうございます』
「どうでしたか?」
『……思っていた以上に、皆がしっかりしていますね』
凛は笑った。
『……私の方が教えてもらうことばかりでした』
「ははは。最初はそんなものですよ」
藤沢も笑った。
「それに、あの子たちは自分たちで動ける力を持っていますからねえ」
『……そうですね』
凛は頷いた。
今朝、校長から言われたことを思い出す。
生徒の自主性を尊重すること。
過度に干渉しないこと。
学業を最優先にすること。
そして、部活動の地域展開。
どれも、まだ自分の中で整理できていない。
ただ。
目の前の体育館には、今日も懸命に練習する生徒たちがいた。
結果を求めて努力する紗奈。
副主将として動く千夏。
マネージャーとして皆を支える結衣。
その姿を見ていると、この時間が無意味なものだとは到底思えなかった。
『……藤沢先生』
「はい?」
『……私、まだ分からないことばかりです』
「……ええ」
『……今朝のお話も、すぐには納得できない部分があります』
藤沢は、黙って聞いていた。
『……ですが、きちんと知っていきたいと思っています』
凛は体育館を見渡した。
『……この子たちにとって、何が一番いいのかを』
藤沢は、ゆっくり頷いた。
「……そうですねえ」
そして、小さく笑った。
「一緒に考えていきましょう」
『……はい』
凛も微笑んだ。
◇
その日の夜。
凛は机に向かい、今日の出来事を振り返っていた。
副顧問に就任した。
嬉しかった。
部員たちに歓迎された。
それも、嬉しかった。
けれど、校長室で聞いた言葉は、今も胸に引っかかっている。
生徒へ踏み込みすぎないこと。
学業を優先すること。
学校と部活動の関係が、これから変わっていくかもしれないこと。
凛は、自分の手を見つめた。
自分にとって、部活動は人生そのものと言ってもよかった。
だからこそ、簡単に割り切ることはできない。
それでも、今の時代には今の時代の事情がある。
それを知ろうとせず、自分の考えだけを押しつけるのは違うのだろう。
『……距離、か』
凛は小さく呟いた。
教師と生徒の距離。
学校と部活動の距離。
自分の信じてきたものと、今の時代との距離。
どれも、思っていたより難しい。
そして。
『……大丈夫、です』
凛は、昼間の結衣の言葉を思い出した。
静かな声だった。
困っているようには見えなかった。
けれど、気になった。
本人が大丈夫と言うなら、それ以上は聞かない方がいいのだろうか。
それとも。
大丈夫と言うからこそ、気づかなければならないことがあるのだろうか。
『……分からないな』
凛は、ゆっくり息を吐いた。
教師になれば、生徒のことを何でも理解できると思っていたわけではない。
それでも、目の前の生徒に何かあれば、自分が力になれると思っていた。
しかし、今は違う。
何が起きているのかさえ、分からないことがある。
どこまで踏み込むべきなのかも、分からない。
凛は、机の上に置いた授業資料を見た。
明日も、学校がある。
結衣も、莉子も、同じ教室にいる。
そして、自分はそのクラスの担任だ。
『……明日、もう少し様子を見てみよう』
凛は静かに呟いた。
何も決めつけない。
けれど、気になったことを忘れない。
今の自分にできるのは、まずそれくらいだった。
凛は資料を開き、翌日の準備を始めた。
大丈夫。
その言葉が、本当に安心していいという意味なのか。
まだ、答えは分からなかった。




