第十四話「くせ毛の女の子」
二〇〇〇年(平成十二年)四月十八日、火曜日。
東京都立青葉高校。
『……よし、今日も頑張りますか!』
リンは校門の前で、小さく気合いを入れた。
四月七日。
見知らぬ身体で目を覚ましてから、もう十日以上が経っていた。
相変わらず、元の時代へ戻る方法は分からない。
山元凛という名前にも、教師という仕事にも、すっかり慣れたわけではなかった。
それでも、最近は少しずつ分かることが増えてきた。
出席簿の扱い方。
職員室での仕事。
生徒への連絡。
そして、四十人のクラスの顔と名前。
昨日だって、提出物が一枚足りないことを自分で確認できた。
(……まあ、普通の先生なら当たり前なんだろうけど)
リンは苦笑した。
自分にとっては、それでも大きな進歩だった。
『……さてと』
鞄を持ち直し、校舎へ向かう。
今日も三年二組の担任としての一日が始まる。
◇
『おはようございまーす!』
三年二組の教室へ入ると、いつもの賑やかな声が迎えてくれた。
「おはようございまーす!」
「おはよー、先生!」
「凛ちゃん、おっはよー!」
『……森田さん!』
リンは教卓へ鞄を置いた。
『……だから、先生を付けなさいって昨日言ったでしょ!』
「えー、凛ちゃんの方が親しみやすいじゃん!」
『……あたしは友達じゃなくて先生なの!』
「分かってるって!」
『……絶対分かってない!』
教室に笑い声が広がる。
森田翔平は、今日も楽しそうだった。
昨日から突然始まった「凛ちゃん」呼び。
どうやら、すっかり気に入ってしまったらしい。
(……もう、ほんと調子いいんだから)
リンは小さく息を吐いた。
そのとき、教卓の前へ一人の女子生徒がやって来た。
「あの、凛先生」
『……ん?』
「昨日の提出物です」
西野沙織だった。
手には、一枚の用紙を持っている。
「あの、遅くなってすみません」
『……あ! 西野さん!』
リンは表情を明るくした。
『……ちゃんと持ってきてくれたんだね! ありがとう!』
「いえ、昨日忘れてただけなんで……」
『……でも、約束どおり持ってきてくれたじゃん』
リンは用紙を受け取った。
『……これで四十人分、揃った!』
思わず嬉しくなってしまう。
沙織は、少し不思議そうに笑った。
「……先生、そんなに嬉しいんですか?」
『……そりゃ嬉しいよ! 昨日、何回も数えちゃったんだから!』
「あはは……すみません」
『……次から気をつけてね』
「はい!」
沙織は軽く頭を下げ、自分の席へ戻っていった。
リンは用紙を出席簿に挟む。
(……よし。これで一件落着!)
たった一枚の書類。
けれど、それが揃うだけでも、ちょっとした達成感があった。
「ねえ、凛ちゃん!」
『……今度は何!?』
声の方を見ると、森田が笑っていた。
「俺も提出物忘れたら、そんな喜んでくれる?」
『……忘れないでください!』
「えー!」
『……えー、じゃない!』
また笑い声が起こる。
リンは呆れながらも、少し笑ってしまった。
森田は、確かに賑やかな生徒だった。
誰にでも気軽に声をかける。
教師にも遠慮がない。
その場にいる人を笑わせるのが好きなのだろう。
ただ。
その冗談が、いつも相手を楽しませているとは限らない。
リンがそのことを改めて思い知るのは、もう少しあとのことだった。
◇
二時間目と三時間目の間の休み時間。
リンは、次の授業で使う資料を取りに三年二組へ戻ってきた。
廊下まで、生徒たちの笑い声が聞こえていた。
(……元気だなぁ)
何となく微笑みながら、教室の扉へ手をかける。
そのとき。
「小川さぁ、それ毎朝セットしてんの?」
森田の声だった。
リンは足を止めた。
「……別に、普通にしてるだけだけど」
答えたのは、小川真理だった。
「いやいや、普通にしててそれってすげえよな!」
笑い声が起こる。
「寝る前に何か仕込んでんじゃねえの?」
「……仕込んでないよ」
「じゃあ、朝起きたら勝手にそんな頭になるわけ?」
リンは、扉の向こうへ目を向けた。
森田が、真理の机の近くに立っている。
真理は椅子に座ったまま、自分の髪を片手で押さえていた。
「……もう、やめてよ」
真理が小さく笑いながら言った。
しかし、森田は止まらなかった。
「いや、ちょっと気になるじゃん!」
彼は、自分の頭の上で両手を広げた。
「ブラシ通したら、途中で引っかかって折れそうじゃね?」
「ちょっと森田、やばいって!」
近くにいた男子生徒が笑った。
「いや、マジで! 一回思いっきり伸ばしてみてよ!」
「……やだよ」
「どこまで伸びんの? 離したらバネみたいに戻る?」
周囲の笑い声が大きくなった。
片岡美奈も、近くの女子生徒たちと一緒に笑っていた。
「森田、ほんと失礼!」
そう言いながらも、口元には笑みが残っている。
「いやいや、悪口じゃねえって!」
森田は笑った。
「そんな髪、普通できないじゃん! ある意味すげえって!」
真理は、俯いた。
「……もういいってば」
その声は、さっきより小さかった。
それでも、森田は気づかない。
「てか、湿気すごい日とかどうなんの? 倍くらいになる?」
再び、笑い声が起こった。
真理はもう笑っていなかった。
リンは、扉を開けた。
『……森田さん』
思っていたより低い声が出た。
森田が振り返る。
「あ、凛ちゃん!」
『……何してるの?』
「え? 別に。小川と話してただけだけど」
『……話してただけ?』
「うん。ちょっと髪の話してただけ」
森田は、悪びれる様子もなく笑った。
リンは、真理を見た。
真理は俯いたまま、毛先を握っていた。
『……小川さん、嫌がってたよね』
「え?」
森田が目を丸くする。
「いや、冗談じゃん」
『……冗談?』
「だって、小川だっていつも笑ってんじゃん!」
その言葉に、リンは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
笑っている。
だから、大丈夫。
だから、何を言ってもいい。
そんなふうに考えていたのだろうか。
『……森田さん』
「……何?」
『……人の見た目を、そんなふうに言うのはよくないよ』
「いや、だから悪口じゃないって」
『……悪口のつもりがなかったら、何を言ってもいいの?』
森田の笑顔が消えた。
「……いや、そういうわけじゃ」
『……小川さん、やめてって言ってたよね』
「…………」
『……聞こえてなかった?』
森田は口を閉じた。
リンは、周囲を見渡した。
何人もの生徒が、こちらを見ている。
さっきまで笑っていた生徒たちも、急に静かになっていた。
『……ねえ、みんな』
リンは言った。
『……今の、面白かった?』
誰も答えなかった。
『……小川さん、嫌だって言ってたよね』
生徒たちが視線を逸らす。
『……どうして、誰も止めなかったの?』
教室は静まり返った。
美奈も、口を閉じている。
『……笑ってたら、嫌じゃないってことになるの?』
リンは続けた。
『……誰かが嫌だって言ってるのに、周りが笑ってたら、その子はどうすればいいの?』
返事はなかった。
ただ、何人もの生徒が俯いていた。
リンは、真理へ目を向けた。
そこで初めて、気づいた。
教室中の視線が、真理に集まっていた。
真理は、小さくなったように椅子へ座っている。
その指は、まだ髪を握ったままだった。
(……あ)
リンの胸が、きゅっと縮んだ。
自分は森田を止めたかった。
真理を守りたかった。
けれど。
今、真理は教室中から見られている。
それが、どれほど居心地の悪いことなのか。
リンは、少し遅れて気づいた。
『……森田さん』
「……はい」
『……小川さんに、ちゃんと謝って』
森田は、真理を見た。
「……悪かった」
真理は顔を上げないまま、小さく答えた。
「……うん」
『……もう、人の嫌がること言わないでね』
「……分かった」
リンは頷いた。
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
チャイムが鳴る。
生徒たちが、それぞれ席へ戻り始めた。
リンは、真理の横顔を見た。
真理は何事もなかったように教科書を取り出していた。
けれど、その表情は硬かった。
(……あたし、余計なことしたのかな)
正しいことを言ったつもりだった。
間違ったことをしたとも思っていない。
それでも。
真理のためになったのかと聞かれたら、自信がなかった。
◇
昼休み。
リンは、三年二組の教室を覗いた。
真理の姿が見当たらない。
近くの女子生徒へ尋ねると、廊下の奥にある窓際で昼食を取っていると教えてくれた。
リンは、そちらへ向かった。
真理は、一人で窓の外を見ていた。
膝の上には、小さな弁当箱が置かれている。
『……小川さん』
真理が振り返った。
「……凛先生」
『……隣、いい?』
「……はい」
リンは、少し間を空けて腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
窓の外では、校庭を歩く生徒たちの姿が見える。
遠くから、運動部の掛け声も聞こえていた。
『……さっきは、ごめんね』
リンが口を開いた。
真理が首を傾げる。
「……何がですか?」
『……みんなの前で、森田さんを注意しちゃったこと』
「…………」
『……小川さん、余計に嫌だったよね』
真理は、少し考えた。
そして、小さく首を振った。
「……先生は、悪くないです」
『……でも』
「……止めてくれたのは、嬉しかったです」
リンは顔を上げた。
真理は、窓の外を見ていた。
「……ただ、ちょっと恥ずかしかったです」
『…………』
「……みんなに見られちゃったから」
『……そっか』
リンは、ゆっくり頷いた。
『……ごめんね』
「……いえ」
真理は、小さく笑った。
その笑顔は、どこか頼りなかった。
『……ねえ、小川さん』
「……はい」
『……髪のこと、前から言われてたの?』
真理は、少し目を伏せた。
「……はい」
『……ずっと?』
「……小さいころから、です」
リンは黙って聞いた。
「……幼稚園のころから、こんな髪なんです」
真理は、自分の毛先に触れた。
「……小学校でも、中学校でも、いろいろ言われて」
『…………』
「……高校に入ったら、少しは変わるかなって思ってたんですけど」
真理は、小さく笑った。
「……あんまり、変わんなかったです」
リンは、胸の奥が痛くなった。
『……嫌だったんだね』
「……はい」
真理は頷いた。
「……でも、森田さんだけじゃないんです」
『……うん』
「……ほかの子にも言われるし。知らない人に、じろじろ見られることもあるし」
真理は、指に絡んだ毛先をゆっくり引っ張った。
「……朝、頑張って整えても、学校に着くころには広がっちゃうんです」
『…………』
「……雨の日なんか、もっとひどくて」
真理は困ったように笑った。
「……だから、なるべく目立たないようにしてるんですけど」
リンは、何も言えなかった。
真理の髪は、確かによく目立つ。
けれど、それが悪いことだとは思えなかった。
むしろ、柔らかく波打つ髪には、どこか可愛らしさがあった。
しかし、それを今伝えても、真理の気持ちが軽くなるとは思えなかった。
「……私が気にしなければ、いいんですけどね」
真理は、ぽつりと言った。
『……そんなこと』
リンは言いかけて、口を閉じた。
気にしなければいい。
そんな簡単な話ではない。
真理は、何年も同じことを言われ続けてきたのだ。
「……もう、慣れたつもりだったんです」
真理は、もう一度髪を指で押さえた。
「……でも」
そこで、言葉が止まった。
窓の外へ向けられた目が、少しだけ伏せられる。
「……あたしも、普通の髪の毛がよかったな……」
その声は、ひどく小さかった。
リンは、息を呑んだ。
真理は、ゆっくり毛先から指を離した。
「……こんな髪じゃなかったら、何も言われないのに」
『…………』
「……朝、鏡を見るたびに、嫌になっちゃうんです」
真理は笑おうとした。
けれど、上手く笑えなかった。
「……何で、私だけこんな髪なんだろうって」
リンの胸が、強く締めつけられた。
真理が嫌がっていたのは、森田の冗談だけではなかった。
自分の髪そのものを、嫌いになってしまっていた。
生まれ持ったものを。
自分では簡単に変えられないものを。
何年も、何年も。
笑われるたびに、少しずつ。
「……あっ」
真理が、はっとしたように顔を上げた。
「……すみません。変なこと言っちゃって」
『……ううん』
リンは首を振った。
『……全然、変じゃないよ』
「……でも」
『……話してくれて、ありがとう』
真理は、少し驚いたようだった。
リンは、無理に笑わなかった。
何か上手いことを言って励ましたかった。
その髪だって、可愛いんだよ。
そんなふうに言えば、少しは元気になってくれるのかもしれない。
けれど、真理が何年も抱えてきた悩みに、たった一言で答えを出していいとは思えなかった。
『……あたし、上手く言えないんだけどさ』
「……はい」
『……小川さんが悪いわけじゃないからね』
真理は黙っていた。
『……そこだけは、間違えないでほしい』
リンは、真理を見た。
『……嫌なことを言われたのは、小川さんのせいじゃないよ』
真理は、ゆっくり目を伏せた。
「……はい」
その返事は、小さかった。
けれど、さっきより少しだけ力があった。
やがて、昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。
真理は弁当箱を片づけ、立ち上がった。
「……先生」
『……ん?』
「……ありがとうございました」
『……ううん』
リンは首を振った。
『……こちらこそ、話してくれてありがとう』
真理は小さく頭を下げた。
そして、教室へ戻っていった。
リンは、その背中を見送った。
真理は、最後まで泣かなかった。
怒ることもしなかった。
ただ、自分の髪を嫌いだと言った。
そのことが、リンの胸に重く残った。
◇
放課後。
職員室で仕事をしていると、一人の女子生徒が近づいてきた。
「ねえ、凛ちゃん」
『……ん?』
顔を上げる。
片岡美奈だった。
明るい髪色。
整えられたまつ毛。
流行の雑誌から抜け出してきたような雰囲気の女子生徒。
入学して間もないころから、リンにとって印象の強い生徒の一人だった。
『……って、凛ちゃん!?』
思わず聞き返す。
美奈は、きょとんとした。
「え、何?」
『……いや、片岡さんまで!?』
「何が?」
『……ちゃん付け!』
美奈は、あっさり笑った。
「だって森田も呼んでるじゃん」
『……だからって!』
「いいじゃん、可愛いし」
『……可愛いとかの問題じゃなくて!』
「えー、凛ちゃんって感じするよ?」
リンは、思わず額に手を当てた。
(……このクラス、ほんと自由すぎない?)
美奈は楽しそうに笑っていた。
しかし、少しすると表情を変えた。
「……ねえ、凛ちゃん」
『……今度は何?』
「……今日の森田のことなんだけど」
リンは、顔を上げた。
『……うん』
「……結構、怒ってたじゃん」
『……そりゃ怒るよ』
リンは、少し真剣な顔になった。
『……小川さん、嫌がってたから』
「……うん」
美奈は、机の端を指で触った。
「……でもさ、森田って、ああいうやつじゃん」
『……うん』
「……別に、本気で悪口言ってたわけじゃないと思うんだよね」
『……そうかもしれないね』
美奈は顔を上げた。
「……え?」
『……森田さんに、悪気はなかったのかもしれない』
リンは頷いた。
『……でも、嫌なものは嫌じゃん』
「…………」
『……小川さん、やめてって言ってたよね』
美奈は口を閉じた。
『……聞こえてた?』
「……うん」
『……そっか』
リンは、それ以上責めなかった。
美奈は、少し視線を落とした。
「……あたしも、笑っちゃった」
『……うん』
「……何か、いつものノリだったから」
リンは黙って聞いた。
「……そんなに嫌だったんだ」
美奈が、小さく呟いた。
リンは、ゆっくり頷いた。
『……うん』
「…………」
『……あたしも、ちゃんと気づいてなかったんだけどね』
美奈が顔を上げた。
『……前にも、森田さんが小川さんの髪のこと言ってたのを見たんだ』
「……うん」
『……そのとき、小川さんは大丈夫って言ってた』
リンは、小さく息を吐いた。
『……だから、あたしも大丈夫なんだと思っちゃった』
「…………」
『……でも、違ったみたい』
美奈は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……そっか」
それから、少し困ったように笑った。
「……何か、嫌な感じだね」
『……うん』
「……あたし、普通に笑ってたし」
リンは、美奈を見た。
『……片岡さん』
「……何?」
『……今、そう思ったなら、次は違うことできると思うよ』
美奈は、少し驚いたようだった。
「……違うこと?」
『……うん』
リンは、小さく笑った。
『……あたしも、次はもっとちゃんと考える』
美奈は少し黙ったあと、頷いた。
「……分かった」
そして、いつもの調子で笑った。
「……じゃ、凛ちゃん。また明日ね!」
『……だから、凛ちゃんは!』
「あはは! ばいばーい!」
美奈は手を振りながら、職員室を出ていった。
リンは、呆れたように息を吐いた。
『……もう』
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
森田も、美奈も、真理も。
同じ教室にいる四十人は、それぞれ違う考え方を持っている。
誰か一人が正しいことを言えば、すべてが解決するわけではない。
そんな当たり前のことを、リンはようやく少しだけ理解し始めていた。
◇
夕方。
学校を出たリンは、駅へ向かう道を歩いていた。
空は、少しずつ茜色に染まり始めている。
今日も一日が終わった。
提出物は揃った。
授業も、何とかこなした。
生徒たちと話すこともできた。
けれど。
頭から離れない言葉があった。
「……あたしも、普通の髪の毛がよかったな……」
『…………』
リンは、歩きながら小さく息を吐いた。
(……普通、か)
普通の髪。
普通の見た目。
普通の女の子。
そもそも、普通とは何だろう。
真理の髪は、生まれつきああなのだ。
本人が選んだわけではない。
それなのに、周りの人間が勝手に面白がり、笑っている。
リンは、自分の髪に触れた。
山元凛の髪。
指を通せば、まっすぐ落ちる。
少し癖はあるものの、真理のように大きく波打つことはなかった。
(……あたしが同じ髪だったら)
ふと考えた。
もし、自分が真理のような髪で生まれていたら。
毎朝、鏡を見るのが嫌になっていただろうか。
周りから笑われるたびに、下を向いていただろうか。
(……分かんないな)
リンは、唇を噛んだ。
同じ経験をしていないのだから、簡単には分からない。
それでも。
真理が、あんなふうに自分の髪を嫌いになっていることが、どうしても悲しかった。
そのときだった。
『……ん?』
リンは足を止めた。
通り沿いに、一軒の美容室があった。
ガラス張りの店先には、何枚ものヘアスタイル写真が飾られている。
ショートカット。
ストレートロング。
明るい色の髪。
そして。
『……あ』
一枚の写真に、目が留まった。
ふわふわとした髪。
柔らかく波打つ毛先。
大きくカールした、華やかなヘアスタイル。
写真の女性は、楽しそうに笑っていた。
リンは、しばらくその写真を見つめた。
(……可愛い)
素直に、そう思った。
不自然でも、おかしくもない。
むしろ、その髪型だからこそ似合っている。
リンは、もう一度写真を見た。
真理の髪とは違う。
これは、美容室で作ったパーマだ。
真理の髪は、生まれつきのものだ。
同じではない。
けれど。
くるくると曲がった髪。
ふわふわと広がる髪。
その特徴を、おしゃれとして楽しんでいる人がいる。
(……何で、こっちは可愛いって言われるんだろ)
リンは、ガラスへ近づいた。
(……小川さんの髪だって、同じように曲がってるのに)
何が違うのだろう。
自分で選んだかどうか。
流行っているかどうか。
誰がしているか。
それだけで、周りの反応は変わるのだろうか。
『……普通って、何なんだろ』
リンは、ぽつりと呟いた。
頭の中に、今日の教室が浮かんだ。
森田が笑っていた。
周りも笑っていた。
真理は、笑おうとしていた。
そして、自分が注意すると、教室中が静かになった。
けれど、真理の表情は晴れなかった。
言葉で注意することはできた。
正しいことを言ったつもりだった。
でも、それだけでは届かなかった。
(……あたし、何ができるんだろ)
リンは、自分の髪を指でつまんだ。
鏡の中の山元凛は、きれいなストレートヘアをしている。
その髪を、もう一度見た。
そして、店先の写真へ視線を戻した。
ふわふわとした髪。
楽しそうな笑顔。
リンは、少しだけ考えた。
(……あたしが、あの髪になったら)
森田は、何と言うだろう。
美奈は、どう反応するだろう。
クラスのみんなは、どんな顔をするだろう。
そして。
真理は、どう思うだろう。
『…………』
リンは、もう一度自分の髪に触れた。
山元凛の身体。
山元凛の顔。
山元凛の髪。
自分のものではない。
だから、勝手に変えていいのかという迷いも、ほんの少しあった。
けれど、今は自分がこの身体で生活している。
そして、教師としてあの教室に立っている。
(……ずっと借りてるだけ、ってわけにもいかないよね)
リンは小さく息を吸った。
もう一度、写真を見る。
やっぱり、可愛い。
だったら。
リンは、美容室の扉へ向かった。
考えていたところで、何も変わらない。
上手い言葉が見つからないなら。
自分にできることを、やってみるしかない。
……とはいえ。
リンは、自分の長い髪をひと房つまんだ。
(……これ、あたしの髪じゃないんだよね)
もし、いつか元の身体へ戻れたとして。
山元凛は、突然くるくるになった自分の髪を見て、何と思うだろう。
(……絶対びっくりするよね)
リンは、しばらく髪を見つめた。
そして、覚悟を決めたように両手を合わせる。
『……この身体の持ち主の山元凛さん、ごめんなさいっ!!』
勢いよく頭を下げた。
通りかかった女性が、不思議そうにリンを見る。
『……よしっ!』
何事もなかったように顔を上げ、美容室の扉を開けた。
小さなベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
店内から、美容師の声がした。
「今日は、どうされますか?」
リンは、壁に飾られた写真を指差した。
『……あの、すみません!』
「はい?」
『……これみたいな髪型にできますか?』
美容師が、リンの指差す写真を見た。
「ああ、パーマですね!」
『……はい!』
リンは、少しだけ笑った。
『……思いっきり、くるくるにしてください!』
美容師が目を丸くする。
「……結構、雰囲気変わりますよ?」
『……大丈夫です!』
リンは、迷わず答えた。
『……それがいいんです!』




