第十五話「その髪、かわいくない?」
二〇〇〇年(平成十二年)四月十八日、火曜日。
午後七時過ぎ。
山元家の玄関前で、リンはしばらく立ち尽くしていた。
『…………』
手には、美容室でもらった小さな紙袋。
その中には、ヘアケア用品と、パーマを長持ちさせるための注意書きが入っている。
そして、頭には。
『……すごいことになったなぁ』
リンは、くるりと曲がった毛先を指でつまんだ。
肩より下まで伸びていたストレートヘアは、強めのパーマによって、ふんわりと大きく広がっている。
髪の色は、そのまま。
長さも極端には変えていない。
それでも、鏡に映る自分は、朝とはほとんど別人だった。
(……いや、元から別人なんだけどさ)
リンは思わず苦笑した。
美容師には、何度も確認された。
本当にこれくらい強くかけていいのか。
仕事に支障はないのか。
もう少し自然なカールにした方がいいのではないか。
そのたびに、リンは同じ答えを返した。
思いっきり、くるくるにしてください。
そして今。
望みどおりの髪型になった。
『……よし』
リンは深呼吸した。
『……ただいまー!』
玄関の扉を開ける。
「おかえり、凛。今日は遅かった……」
奥から顔を出した和子が、言葉を止めた。
『……ん?』
「…………」
『……お母さん?』
「……凛?」
『……はい』
「……あんた、その髪どうしたの!?」
予想どおりの反応だった。
リンは、にっこり笑う。
『……パーマかけてきた!』
「見れば分かるわよ!」
和子の声が、家中に響いた。
「ちょっと! 何でそんな急に!」
『……えーっと、気分転換?』
「気分転換でそんなに変わる!?」
和子は、リンの周囲をぐるりと回った。
右から見る。
左から見る。
正面へ戻る。
「……すごいわね」
『……でしょ?』
「褒めてないわよ!」
『……えー!』
その騒ぎを聞きつけ、居間から正志が顔を出した。
「何だ、どうした?」
「お父さん、ちょっと凛を見て!」
「……ん?」
正志はリンを見た。
そして、固まった。
「…………」
『……ただいま、お父さん!』
「……凛?」
『……だから、凛だってば!』
「……何だ、その頭は」
『……パーマです!』
「それは分かる」
正志は眉間に皺を寄せた。
「……お前、教師になったばかりだろう」
『……うん』
「学校で何か言われないのか?」
『……まだ分かんない』
「まだ分からないって……」
正志は大きく息を吐いた。
「……思い切ったことをするな、お前は」
そのとき。
「何なに? どうしたの?」
階段から美咲が下りてきた。
「お父さんもお母さんも、何騒いで……」
リンを見た。
「…………」
『……お姉ちゃん、おかえり!』
「……うわっ!」
美咲が思わず声を上げる。
「凛!? 何その髪!」
『……パーマ!』
「いや、それは分かるけど!」
美咲は口元を押さえた。
それから、こらえきれなくなったように笑い出した。
「あははは! すごい! めっちゃ変わってる!」
『……そんなに!?』
「だって、朝まで全然違ったじゃん!」
和子が腰に手を当てる。
「美咲、笑ってないで何か言ってやってよ」
「えー? 私はいいと思うけどなぁ」
「あなたまで!」
美咲は、リンの髪をじっと見た。
「結構似合ってるし」
『……ほんと!?』
「うん。インパクトはあるけどね」
『……やった!』
リンは嬉しそうに笑った。
その横で、正志が呆れたように呟く。
「……明日、学校で注意されても知らんぞ」
『……大丈夫だって!』
「その根拠は何だ」
『……えっ』
リンは一瞬考えた。
『……気合い?』
「……まったく」
正志は肩を落とした。
美咲が、また吹き出した。
「……ほんと、面白い」
リンは頬を膨らませた。
『……みんな、そんなに笑わなくてもいいじゃん!』
「だって、あんたが急にそんな頭で帰ってくるからでしょ!」
和子まで、とうとう笑ってしまった。
玄関は、しばらく賑やかな声に包まれた。
◇
夕食を終えたあと。
リンが自分の部屋へ戻ろうとすると、美咲が声をかけてきた。
「凛、ちょっといい?」
『……ん?』
「部屋で話そ」
『……うん』
二人は階段を上がった。
美咲が部屋へ入り、扉を閉める。
廊下に人の気配がないことを確かめてから、リンへ向き直った。
「……改めて見ると、すごいね」
『……えへへ』
「いや、褒めてるんだけどさ」
美咲は、リンの髪をまじまじと見つめた。
「……妹の凛なら、絶対選ばない髪型だね」
『……えっ』
「いいじゃん。面白い!」
『……それ、褒めてる!?』
「褒めてる褒めてる!」
美咲は笑った。
「……あんたらしくて、いいと思うよ」
『…………』
リンは、少し驚いた。
『……あたしらしく、か』
「うん」
美咲は頷いた。
「少なくとも、私の知ってる凛はこんなことしない」
『……そうなんだ』
「空手と仕事ばっかりだったしね。髪も、邪魔にならないようにまとめるくらいで」
『……へぇ』
リンは、くるりとした毛先を見た。
山元凛。
空手の全国準優勝者。
体育教師。
真面目で、熱血で、一直線。
そんな女性なら、確かにこの髪型を選ばないのかもしれない。
美咲は、ふと思い出したように目を細めた。
「……って、ちょっと待って」
『……ん?』
「……妹の髪、勝手に変えたってこと!?」
『…………』
リンの笑顔が固まった。
『……はい』
「……はい、じゃないでしょ!」
『……ごめんなさいっ!!』
リンは勢いよく頭を下げた。
美咲は、思わず笑った。
「だから、私に謝られても!」
『……だってぇ!』
「戻れたとき、凛が鏡見たらどうすんのよ」
『……それは、あたしも考えないようにしてた……』
「あははは!」
美咲はベッドに腰を下ろし、お腹を抱えた。
「……もう、本当に変な子!」
『……ひどい!』
リンも、つられて笑ってしまった。
しばらくして、美咲が顔を上げる。
「……で?」
『……ん?』
「……何で、急にパーマなんかかけたの?」
リンは、少し黙った。
そして、美咲の隣に腰を下ろした。
『……学校でさ』
「……うん」
『……髪のことで、からかわれてる子がいるんだ』
美咲の表情が少し変わった。
『……天然パーマの女の子なんだけど、クラスの子たちが面白がって、いろいろ言うの』
「…………」
『……あたし、今日それを見ちゃって』
リンは、自分の毛先へ指を伸ばした。
『……止めたんだけどさ。みんなの前で注意したら、余計にその子が目立っちゃって』
「……そっか」
『……あとで二人で話したら、その子、自分の髪が嫌いなんだって』
美咲は黙って聞いていた。
『……普通の髪がよかった、って』
「…………」
『……何か、それがすごく悲しくて』
リンは、俯いた。
『……でも、あたし、上手く言えなかったんだよね』
その髪だって可愛い。
気にしなくていい。
そんな言葉なら、簡単に言える。
けれど、それで真理が救われるとは思えなかった。
『……それで、帰りに美容室の前を通ったら、くるくるのパーマの写真があって』
「……うん」
『……めっちゃ可愛かったんだ』
リンは顔を上げた。
『……だから、あたしもやってみようかなって』
美咲は、少し考えた。
「……なるほどね」
『……変かな』
「……変」
『……即答!?』
「だって、普通そこまでしないでしょ!」
美咲は笑った。
けれど、その声は優しかった。
「……でも、嫌いじゃないよ」
『…………』
「その子のこと、放っておけなかったんでしょ?」
『……うん』
「……じゃあ、いいんじゃない?」
美咲はリンの髪へ目を向けた。
「少なくとも、私は似合ってると思うし」
『……ほんと?』
「うん」
美咲は小さく笑った。
「……ただし」
『……はい』
「これでその子の悩みが全部なくなるなんて、思わないこと」
『…………』
「その子には、その子がずっと嫌だった時間があるんだから」
リンは、ゆっくり頷いた。
『……うん。分かってる』
美咲は立ち上がった。
「……じゃ、明日頑張ってね」
『……うん!』
扉を開けようとした美咲が、ふと振り返る。
「……あ、そうだ」
『……何?』
「もし本物の凛が戻ってきたら、私からも一緒に謝ってあげる」
『……ほんと!?』
「うん。笑いながらね」
『……絶対笑うじゃん!』
美咲は楽しそうに笑い、部屋を出ていった。
リンは、自分の髪をつまんだ。
強く曲がった毛先が、指の間で弾む。
『……よし』
鏡の中の自分へ、小さく笑いかけた。
『……明日だね』
◇
二〇〇〇年四月十九日、水曜日。
東京都立青葉高校。
リンが職員室へ入った瞬間、近くにいた教師が顔を上げた。
「……山元先生?」
『……おはようございます!』
「……え?」
教師の視線が、リンの頭へ向く。
「……髪、どうされたんですか?」
『……パーマかけました!』
「……そ、そうですか」
教師は、何とも言えない表情で頷いた。
リンは自分の席へ向かう。
途中、別の教師が振り返った。
「……山元先生!?」
『……おはようございます!』
「……随分、雰囲気が変わりましたね」
『……ありがとうございます!』
「……いや、褒めたというか……」
リンは気にせず歩いた。
(……やっぱり、めっちゃ見られるな)
予想はしていた。
しかし、ここまで反応されるとは思わなかった。
席に着こうとしたところで、声がした。
「……山元先生」
小野寺修一だった。
『……あ、おはようございます!』
小野寺は、リンの顔を見た。
次に、髪を見た。
そして、もう一度顔を見る。
「…………」
『……あの?』
「……その髪は?」
『……パーマです!』
「……それは見れば分かります」
『……あっ、昨日も同じこと言われました』
「……でしょうね」
小野寺は、少し困ったように額へ手を当てた。
「……随分、思い切りましたね」
『……はい!』
「……何か、理由が?」
『……えーっと』
リンは少し考えた。
『……可愛いと思ったので!』
「…………」
小野寺は、しばらく黙った。
それから、小さく息を吐いた。
「……そうですか」
『……はい!』
リンは、自分の席へ鞄を置いた。
そのときだった。
「山元先生」
少し厳しい声がした。
顔を上げると、年配の男性教師が立っていた。
「……その髪型は、少々派手すぎるのではありませんか」
『……え?』
「教師は、生徒の手本になる立場です。身だしなみというものを、もう少し考えた方がよろしいのでは」
リンは、少し目を瞬かせた。
そして、自分の髪へ触れた。
『……あの』
「何でしょう」
『……パーマって、先生らしくないんですか?』
男性教師の眉が動いた。
「……そういうことを言っているのではなくてですね」
『……でも、髪が真っすぐか、くるくるかで、先生の仕事って変わらないですよね?』
職員室の空気が、少し静かになった。
小野寺も顔を上げる。
「……山元先生」
男性教師は、声を低くした。
「教師には、教師にふさわしい身なりというものがあるでしょう」
『……ふさわしい身なり、ですか』
「ええ」
リンは、少し考えた。
真理の顔が浮かんだ。
昨日、髪を握りしめながら呟いた言葉。
普通の髪の毛がよかった。
リンは、ゆっくり口を開いた。
『……例えば、髪がくるくるしてる子は、真っすぐにしないといけないんですか?』
「……は?」
『……あたしは自分でパーマをかけましたけど、生まれつきこういう髪の人だっているじゃないですか』
「……それは、話が違うでしょう」
『……そうですか?』
リンは、まっすぐ相手を見た。
『……あたしには、あんまり違わないように思えるんですけど』
男性教師は、少し顔をしかめた。
「……とにかく、教師としての自覚を持ってください」
リンは、一瞬黙った。
それから、はっきりと答えた。
『……はい。教師としての仕事は、ちゃんと頑張ります』
「…………」
『……でも、この髪型が駄目な理由は、まだよく分かりません』
男性教師は、それ以上何も言わなかった。
小さく息を吐き、自分の席へ戻っていく。
リンは、しばらくその背中を見送った。
(……言いすぎたかな)
少しだけ不安になった。
まだ新任だ。
仕事もろくにできない自分が、年上の教師へ言い返してしまった。
けれど。
(……でも、変なことは言ってないと思うんだけど)
リンは、自分の髪へ触れた。
すると、小野寺が静かに声をかけてきた。
「……山元先生」
『……はい』
「……先ほどの先生が気にされたのは、髪質そのものより、職場での身だしなみについてだと思いますよ」
『……はい』
「……ただ、おっしゃりたいことは分かりました」
リンは顔を上げた。
小野寺は、少しだけ笑った。
「……学校の規則など、気になることがあれば確認しておきましょう」
『……ありがとうございます』
「……それと」
『……はい』
「……今朝のような場面では、もう少し落ち着いて話してくださいね」
『……あ、はい。すみません』
リンは頭を下げた。
小野寺は頷き、自分の席へ戻った。
リンは、そっと息を吐いた。
(……先生同士でも、距離感って難しいなぁ)
でも。
今日だけは、自分の言葉を引っ込めたくなかった。
◇
朝のホームルーム。
三年二組。
教室の前に立ったリンは、扉の取っ手へ手をかけた。
(……よし)
昨日までと、同じ教室。
同じ四十人。
同じ朝。
変わったのは、自分の髪だけだ。
『……おはようございまーす!』
勢いよく扉を開けた。
教室の中から、いつもの返事が返ってくる。
「おはようございまー……」
途中で、声が止まった。
何人もの生徒が、リンを見つめている。
「…………」
「……え?」
「……先生?」
リンは、にっこり笑った。
『……おはよ!』
その瞬間。
「……えええええっ!?」
森田翔平の声が、教室中に響いた。
「凛ちゃん!? 何その頭!!」
『……おはよう、森田さん!』
「いやいやいや! おはようじゃなくて!」
森田が立ち上がった。
「昨日まで普通だったじゃん!」
『……普通?』
「え?」
『……普通って何?』
「……いや、だから!」
森田はリンの髪を指差した。
「めっちゃくるくるじゃん!」
『……でしょ?』
リンは、くるりと曲がった毛先を指で弾ませた。
『……かわいくない?』
「…………」
森田が固まった。
リンは、楽しそうに笑っていた。
恥ずかしがる様子もない。
隠そうとする気配もない。
むしろ、自分の髪型を気に入っている。
「……いや、何か……」
森田は、返す言葉を探しているようだった。
そのとき。
「え、待って!」
女子生徒の声が上がった。
「凛ちゃん、その髪かわいくない!?」
片岡美奈だった。
美奈は席を立ち、リンへ近づいてきた。
「ちょっと見せて!」
『……いいよー!』
美奈は、リンの髪をあちこちから眺めた。
「えー! すごい! めっちゃ雰囲気変わったじゃん!」
『……でしょ!?』
「どこでかけたの!?」
『……駅の近くの美容室!』
「へぇー! いいじゃん! すっごい似合ってる!」
『……ありがと!』
リンは嬉しそうに笑った。
近くの女子生徒たちも集まってくる。
「ほんとだ、かわいい!」
「先生、急におしゃれになった!」
「昨日までストレートだったよね?」
『……うん! 思い切って変えてみた!』
教室の空気が、少しずつ賑やかになった。
森田は、その様子を呆然と見ていた。
「……え、マジで?」
美奈が振り返る。
「何が?」
「……いや、そんな褒めるほど?」
「えー、普通にかわいいじゃん」
「……そうか?」
「そうだよ。森田、センスないなー!」
「はぁ!?」
笑い声が起こる。
けれど、昨日とは違う笑い声だった。
誰か一人の見た目を面白がるためではない。
ただ、リンの大胆なイメージチェンジを楽しんでいる。
リンは、美奈たちと笑いながら、教室の後ろへ目を向けた。
小川真理が、自分の席に座っていた。
真理は、こちらをじっと見つめていた。
驚いたような顔だった。
少し、戸惑っているようにも見えた。
リンは、真理に向かって特別な言葉をかけなかった。
ただ、いつもどおり笑っていた。
『……はいはい! そろそろ席についてー!』
「はーい!」
「先生、あとで髪触らせて!」
『……授業中は駄目だからね!』
「えー!」
『……えー、じゃない!』
生徒たちが笑いながら席へ戻っていく。
リンは教卓に立った。
くるくると曲がった髪が、肩のあたりでふわりと揺れた。
そして、いつものように出席簿を開いた。
『……じゃあ、出席取るよー!』
真理は、その姿を見つめていた。
自分がずっと嫌いだった髪と、少し似た特徴。
それを、先生が笑いながら楽しんでいる。
周りの女子たちも、かわいいと言っている。
(……何で)
真理は、そっと自分の毛先に触れた。
昨日と同じ髪。
くるくると曲がった、いつもの髪。
何も変わっていない。
けれど。
さっきまでの教室には、確かにその髪型を褒める声があった。
真理は、もう一度リンを見た。
リンは、何事もなかったように出席を取り始めていた。
◇
二時間目が終わったあとの休み時間。
リンが廊下で授業資料を確認していると、森田が近づいてきた。
「……なあ、凛ちゃん」
『……ん?』
「……その髪、マジで気に入ってんの?」
『……うん!』
リンは即答した。
「……へぇ」
『……何?』
「いや、何か……」
森田は、少し言葉を探した。
「……すげえ思い切ったなって」
『……でしょ?』
リンは笑った。
『……あたしも、ちょっとドキドキした!』
「……だろうな」
森田は、リンの髪を見た。
昨日まで、真っすぐだった髪。
今は、強く曲がっている。
その変化を、リンは恥ずかしがっていない。
むしろ、楽しんでいる。
『……ねえ、森田さん』
「……何?」
『……あたしがこの髪にしたのって、おかしい?』
森田は、一瞬黙った。
「……いや」
『……うん』
「……別に、変ってほどじゃねえけど」
『……そっか!』
リンは笑った。
『……ならよかった!』
「…………」
森田は、拍子抜けしたような顔になった。
『……じゃ、あたし次の授業あるから!』
「……おう」
リンは手を振り、廊下を歩いていく。
森田は、その背中を見送った。
何となく、調子が狂っていた。
いつもなら、何か言えばすぐに言い返してくる。
今日も、髪のことで少しからかってみるつもりだった。
けれど、凛ちゃんは最初から笑っていた。
しかも、自分でその髪型を選んだという。
「……変じゃねえ、か」
森田は、小さく呟いた。
ふと、昨日の小川真理の姿が頭に浮かぶ。
俯いたまま、髪を握っていた真理。
そして、教師に叱られたときの教室の空気。
「…………」
森田は、何も言わずに教室へ戻った。
◇
放課後。
リンは職員室で、翌日の授業準備をしていた。
『……よし、これで終わり!』
資料を揃え、鞄へ入れる。
今日は朝から、何度も髪のことを話題にされた。
驚かれた。
笑われた。
褒められた。
注意もされた。
正直、少し疲れていた。
(……パーマ一つで、こんなに大変なんだ)
リンは、自分の毛先をつまんだ。
けれど、不思議と後悔はなかった。
少なくとも、自分はこの髪型が好きだった。
それは、変わらなかった。
「……凛先生」
控えめな声がした。
顔を上げると、小川真理が立っていた。
『……あ、小川さん!』
リンは微笑んだ。
『……どうしたの?』
「……あの」
真理は、少し迷っているようだった。
「……先生、髪、変えたんですね」
『……うん!』
リンは、自分の髪を指で弾ませた。
『……どう?』
真理は、しばらくリンを見つめた。
それから、小さく答えた。
「……かわいいと、思います」
『……ほんと!?』
「……はい」
『……やった! ありがと!』
リンは、素直に喜んだ。
真理は、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……先生、すごく嬉しそうですね」
『……そりゃ嬉しいよ! 自分で選んだ髪型だし!』
「…………」
真理は、リンの髪へ視線を向けた。
柔らかく曲がった毛先。
ふんわりと広がる形。
自分の髪とは違う。
美容室で整えられた、きれいなパーマ。
それでも、少しだけ似ていた。
「……先生」
『……ん?』
「……こういう髪、好きなんですか?」
『……うん!』
リンは頷いた。
『……かわいいと思ったから、かけたんだよ』
「……そう、ですか」
真理は、小さく笑った。
その笑顔は、昨日とは少し違っていた。
けれど、すぐに何かを言うわけではなかった。
リンも、それ以上理由を説明しなかった。
なぜ急に髪型を変えたのか。
誰のためなのか。
そんなことを、わざわざ話すつもりはなかった。
ただ、自分がこの髪型を気に入っていること。
それだけは、ちゃんと伝わればいいと思った。
「……あの、凛先生」
『……何?』
「……明日も、その髪ですか?」
リンは、きょとんとした。
『……え?』
それから、思わず笑った。
『……もちろん! しばらくはずっとこれだよ?』
真理は、少し驚いたようだった。
「……そう、ですよね」
『……うん! せっかくかけたんだし!』
リンは、自分の毛先を軽く持ち上げた。
『……もったいないじゃん!』
真理は、ふっと笑った。
ほんの少しだけ。
けれど、今度は無理に笑ったようには見えなかった。
「……先生」
『……ん?』
「……似合ってます」
『……ありがとう!』
リンは笑った。
真理は、ぺこりと頭を下げた。
「……それじゃあ、失礼します」
『……うん。また明日ね!』
「……はい」
真理は職員室を出ていった。
廊下へ出ると、窓ガラスに自分の姿が映っていた。
真理は、そっと髪へ手を伸ばした。
くるりと曲がった毛先。
いつもと同じ髪。
朝、鏡を見たときと、何も変わっていない。
それでも。
今日、凛先生は自分からくるくるの髪になった。
周りの女の子たちは、かわいいと言っていた。
先生自身も、とても嬉しそうだった。
(……好き、なんだ)
真理は、指先で毛先に触れた。
昨日までは、できるだけ伸ばそうとしていた髪。
少しでも真っすぐに見せたくて、何度も引っ張っていた髪。
今日は、引っ張らなかった。
ただ、くるりと曲がった毛先を見つめた。
そして。
「……かわいい、か」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
真理は、少しだけ笑った。
その髪は、昨日と何も変わっていなかった。
けれど、自分の髪を見つめる目は、ほんの少しだけ変わり始めていた。




