第十六話「最後の夏が来る」
二〇二六年(令和八年)四月十五日、水曜日。
東京都立桜丘高校。
朝の職員室で、凛は一枚の書類と格闘していた。
『……なぜ、ここだけ文字が動くんだ……?』
画面の中で、表の幅が勝手に変わる。
昨日まで整っていたはずの列が、何度直してもずれてしまう。
『……くっ……!』
「……リン先生?」
隣から、瀬戸湊の声がした。
「……何と戦ってるんですか?」
『……表だ』
「……表?」
『……この表、何度直しても元に戻るんだ!』
湊が画面を覗き込む。
「ああ、セル結合してるからですね」
『……せる?』
「……ちょっと貸してください」
湊がマウスを操作する。
数回クリックしただけで、表はあっさり整った。
『……おお!』
「はい、直りました」
『……すごいな、湊!』
「……いや、普通ですよ」
凛は画面を見つめた。
どうやら、令和の教師には、教科書を読む以外にも必要な技術が山ほどあるらしい。
そんなことを考えていると。
「山本先生、少しよろしいですか」
藤沢和彦が、書類を手に近づいてきた。
『……はい!』
「今日と明日の部活動なのですが、校務の都合で私が立ち会えなくなりましてね」
『……二日間ですか?』
「ええ。できれば、副顧問の山本先生にお願いしたいのですが」
凛は勢いよく立ち上がった。
『……もちろんです! お任せください!』
「ありがとうございます。助かります」
藤沢は穏やかに笑った。
「ただ、練習内容の細かい指導は無理になさらなくて結構です。部員たちも普段のメニューは把握していますから」
『……はい!』
「活動時間と体調、それから帰宅の安全には気を配ってください。無理に練習を増やす必要もありませんので」
『……承知しました!』
藤沢は、体育館の使用予定を示した。
通常の練習は午後五時半ごろまで。
そのあとにも多少の使用可能時間はあるが、ほかの部との調整や下校時刻の確認が必要になる。
「何か困ったことがあれば、遠慮なく相談してください」
『……ありがとうございます!』
凛は頭を下げた。
藤沢が席へ戻っていく。
その背中を見送ってから、凛は小さく拳を握った。
(……いよいよ、副顧問としての仕事だな)
正式に就任してから、まだ日が浅い。
しかも、競技はバレーボールだ。
空手なら、自信がある。
構え方も、間合いの取り方も、身体の動かし方も。
何を見ればよいのか、ある程度分かる。
しかし、バレーボールとなると、そうはいかない。
それでも。
(……頑張る生徒を支えることくらい、私にもできるはずだ)
凛は、もう一度気合いを入れた。
隣で湊が、その様子を見ていた。
「……リン先生」
『……何だ?』
「……また気合いだけで何とかしようとしてません?」
『……失礼な!』
「……図星っぽいですね」
『……違う! 今回はちゃんと考えている!』
「……本当ですか?」
『……もちろんだ!』
湊は少し笑った。
「……まあ、頑張ってくださいね」
『……ああ!』
凛は、力強く頷いた。
このときの凛は、まだ知らなかった。
自分が信じてきた努力の形が、数日後には大きく揺らぐことになるとは。
◇
放課後。
体育館には、ボールの弾む音と、部員たちの声が響いていた。
「ナイスレシーブ!」
「もう一本!」
「紗奈、お願い!」
「任せて!」
朝倉紗奈が、コートの中央で声を張り上げる。
副主将の宮野千夏も、周囲を見ながら部員たちへ声をかけていた。
「次、こっちからいくよ!」
「はい!」
コート脇では、水瀬結衣が練習内容を記録している。
凛は、その様子を少し離れた場所から見守っていた。
(……いいチームだな)
動きには、まだ粗さがある。
ボールが二人の間に落ちることもあるし、声が重なって判断が遅れる場面もある。
それでも、全員が真剣だった。
何より、紗奈の存在が大きい。
「今の惜しい! もう少し前!」
「はい!」
「千夏、次の一本お願い!」
「オッケー!」
紗奈の声に、部員たちが応える。
主将として、よく周囲を見ている。
凛は、感心していた。
(……あの年齢で、これだけ仲間を引っ張れるとは)
自分が二十二歳だった頃を思い出す。
大学の空手部。
厳しい稽古。
先輩からの叱責。
後輩たちを引っ張る責任。
どれも簡単ではなかった。
けれど、仲間と一緒に目標へ向かう時間は、凛にとって何よりも大切だった。
やがて、練習の終了時刻が近づいた。
凛が時計を確認していると、紗奈が駆け寄ってきた。
「山本先生!」
『……どうした、紗奈』
「あの、ちょっとお願いがあるんですけど」
『……何だ?』
紗奈は少し息を整えた。
「……今日、もう少し練習を延ばせませんか?」
『……延長か?』
「はい」
紗奈は、コートを振り返った。
「連携が、まだ全然合わなくて。あと少しだけ、合わせたいんです」
『…………』
「もちろん、学校の時間を超えない範囲でいいので」
凛は、紗奈の顔を見た。
真剣な目だった。
遊びたいわけではない。
ただ、少しでも上手くなりたい。
少しでも勝利に近づきたい。
その気持ちが、痛いほど伝わってくる。
(……分かるぞ、その気持ち)
凛自身、何度も同じことを考えた。
あと一本。
あと十分。
もう一度だけ。
そうやって、納得できるまで道場に残った。
疲れていても。
腕が上がらなくなっても。
昨日の自分より、少しでも強くなりたかった。
だから、凛は思わず笑った。
『……いい心がけだな!』
「……え?」
『……納得できるまで練習したいんだろう?』
「……はい!」
凛は、もう一度時計を確認した。
学校で定められた下校時刻までには、まだ余裕がある。
体育館の使用予定も、問題はなさそうだった。
『……分かった。片づけの時間は確保して、認められた時間内でやろう!』
紗奈の表情が明るくなる。
「……ありがとうございます!」
『……私も最後まで付き合う!』
「……はい!」
紗奈は嬉しそうに頭を下げ、コートへ戻っていった。
「みんな! あと少しだけ練習できるって!」
「え、マジ?」
「やった!」
「じゃあ、もう一本やろ!」
部員たちから声が上がる。
凛は、その様子を見て満足げに頷いた。
(……やはり、意欲のある生徒はいいな)
少し離れた場所で、千夏が時計を見ていた。
「……もうちょっと、か」
その呟きは、誰にも届かなかった。
◇
翌日、四月十六日。
昼休み。
凛は廊下で紗奈と顔を合わせた。
『……紗奈!』
「あ、山本先生!」
『……昨日はお疲れさま。どうだった?』
「……はい! 最後の方、ちょっとだけ連携が合ってきた気がします!」
『……そうか!』
凛は嬉しくなった。
『……最後まで諦めずに続けた成果だな!』
「……はい!」
紗奈は笑った。
「やっぱり、練習時間って大事ですよね」
『……ああ。積み重ねたものは、必ず自分の力になる』
「……ですよね!」
凛は、力強く頷いた。
紗奈も、同じように頷いた。
二人とも、嬉しかった。
自分と同じ考えを持つ相手がいることが。
努力の大切さを、説明しなくても分かってもらえることが。
その会話を、少し離れたところから千夏が見ていた。
「……紗奈」
「あ、千夏!」
「今日さ、放課後のことなんだけど」
「うん?」
千夏は、一瞬言葉を止めた。
隣には凛もいる。
紗奈は、いつになく嬉しそうだった。
「……いや、何でもない」
「えー? 何それ」
「……あとで話す!」
「うん、分かった!」
紗奈は笑って答えた。
千夏も笑い返した。
けれど、少しだけ表情が曇っていた。
◇
その日の放課後。
女子バレー部の練習は、昨日よりも少し慌ただしかった。
連携練習でミスが続く。
「ごめん!」
「大丈夫! 次!」
紗奈は何度も声を出した。
千夏も、後輩たちに声をかける。
しかし、ボールは思うようにつながらなかった。
練習の終わりが近づいた頃。
紗奈が、再び凛のところへ来た。
「……山本先生」
『……どうした?』
「……今日も、少し延ばせませんか?」
凛は、少し驚いた。
『……今日もか?』
「……はい」
紗奈は、真剣な表情だった。
「昨日より、合わせられてない気がするんです。ここで終わったら、また振り出しに戻りそうで」
『…………』
「……最後の夏まで、そんなに時間もないですし」
最後の夏。
その言葉に、凛は反応した。
高校三年生。
この仲間で大会へ挑めるのは、あとわずか。
凛にも覚えがあった。
大学最後の大会が近づくにつれ、一日一日が惜しくなった。
終わってほしくない。
まだ練習したい。
もっと強くなりたい。
そんな思いで、道場に通い続けた。
(……紗奈も、同じなんだな)
凛は、少し笑った。
『……分かった。今日も時間内でやろう』
紗奈の顔が明るくなる。
「……ありがとうございます!」
そのとき。
「……紗奈」
千夏が近づいてきた。
「……今日も延ばすの?」
「うん。昨日と同じくらい!」
「……そっか」
千夏は、少し困ったように笑った。
「……でもさ、二日連続だし」
「……うん?」
「……みんな、結構疲れてると思うんだけど」
紗奈は、コートを振り返った。
確かに、部員たちは汗をかいている。
疲れもあるだろう。
けれど、それは自分も同じだった。
「……でも、あと少しだから!」
「…………」
「明日は藤沢先生も来るし、今日のうちに合わせておきたいんだ」
千夏は、少し黙った。
紗奈の言っていることも分かる。
去年の新人大会。
何もできないまま初戦で敗れた悔しさ。
あの試合を、千夏だって忘れていない。
「……分かった」
千夏は、頷いた。
「……じゃあ、みんなに伝えてくる」
「ありがとう!」
紗奈は、嬉しそうに笑った。
凛も、そんな二人を頼もしく思っていた。
しかし。
少し離れた場所では、別の会話が交わされていた。
「……今日も延長だって」
「……えー……」
「……私、今日塾あるんだけど」
「……昨日も遅かったじゃん」
「……でも、紗奈先輩が言ってるし」
「……先生もいいって言ってるんでしょ?」
部員たちは、小さな声で話していた。
その言葉を聞いた結衣が、顔を上げる。
「……塾、大丈夫?」
一人の後輩が、困ったように笑った。
「……ギリギリ、かな」
「……先生に言った方がいいんじゃない?」
「……でも、私だけ先に帰るのも、何か……」
「…………」
結衣は、返す言葉に迷った。
部員の事情も分かる。
紗奈が本気で頑張っていることも知っている。
けれど。
(……みんな、ちょっと無理してるのかな)
結衣は、コートへ目を向けた。
紗奈は、いつもどおり明るい声を出していた。
「よし! あと少し頑張ろう!」
その声に、部員たちが応える。
「……はい!」
けれど、昨日よりも少しだけ、返事が小さかった。
◇
練習が終わった頃には、体育館の空気も重くなっていた。
「……お疲れさま!」
紗奈が、全員へ声をかける。
「今日もありがとう! 明日も頑張ろうね!」
「……お疲れさまでした」
「……はい」
返事はあった。
けれど、いつものような笑顔は少なかった。
部員たちは、黙々と片づけを始める。
凛は、それを疲労のせいだと思った。
(……二日続けて、よく頑張ったな)
努力したあとの疲れ。
身体を動かしきったあとの充実感。
自分も何度となく味わってきたものだった。
『……皆、お疲れさま!』
「……ありがとうございました」
『……今日はしっかり休んで、明日に備えるんだぞ!』
「……はい」
凛は、満足げに頷いた。
その横を、部員たちが通り過ぎていく。
一人が、時計を見た。
「……やば、急がなきゃ」
「……塾?」
「……うん」
「……間に合う?」
「……分かんない」
二人は、急いで体育館を出ていった。
凛は、その後ろ姿を見た。
『……急いでいるな』
隣にいた結衣が、少し迷ってから答えた。
「……塾があるみたいです」
『……そうなのか』
「……はい」
凛は、体育館の時計を見た。
下校時刻には間に合っている。
だが、確かにいつもより遅い。
(……塾か)
高校三年生なのだから、受験勉強も大切だろう。
凛は、少しだけ気になった。
けれど、すぐに思い直した。
(……本人から何も言われていないしな)
練習は、学校で認められた時間の範囲内だった。
紗奈も、最後まで一生懸命だった。
ほかの部員たちも、練習についてきてくれた。
それなら、大丈夫だろう。
そう考えてしまった。
凛は、まだ気づいていなかった。
誰も反対しなかったことと、全員が納得していたことは、同じではない。
◇
二〇二六年四月十七日、金曜日。
放課後。
体育館に響くボールの音は、昨日までと変わらなかった。
しかし、部員たちの声は違っていた。
「……ごめん!」
「……もう、ちゃんと声出してよ!」
「……出してたじゃん!」
レシーブ練習で、二人の間にボールが落ちた。
普段なら、すぐに次へ進める程度のミスだった。
けれど、今日は違った。
「……そっちが取ると思ったんだけど」
「……私だって、そっちが取ると思ったし」
「……じゃあ、声出してよ!」
「……だから出したって!」
声が強くなる。
紗奈が慌てて近づいた。
「……ちょっと、二人とも!」
部員たちが振り返る。
「……喧嘩しないで! 次、ちゃんと合わせよう!」
「…………」
「……大丈夫! もう一本やればできるから!」
紗奈は、いつものように明るく声をかけた。
けれど。
「……もう一本って」
後輩の一人が、小さく呟いた。
紗奈が顔を向ける。
「……え?」
「……いつも、それですよね」
「……何が?」
後輩は、少し俯いた。
けれど、言葉を止めなかった。
「……もっと練習しようって。もう一本やろうって」
「…………」
「……昨日だって、一昨日だって」
体育館が、少し静かになった。
紗奈は戸惑った。
「……だって、連携が合ってなかったから」
「……それは分かってます!」
後輩の声が大きくなる。
「……私たちだって、勝ちたいです!」
「……うん。だから――」
「……でも、毎日遅くまで練習すれば勝てるんですか!?」
「…………!」
紗奈の言葉が止まった。
後輩は、ぎゅっと手を握っていた。
「……私、昨日の塾、遅れたんです」
「……え?」
「……先生には時間内だから大丈夫って言われたけど、いつもどおりに帰れると思って予定入れてたから」
「…………」
「……私だけ帰るって、言いにくかったし」
紗奈は、何も言えなくなった。
別の部員も、口を開く。
「……私も、昨日ちょっときつかったです」
「……練習が嫌なわけじゃないんですけど」
「……何か、最近ずっと焦ってる感じがして」
少しずつ、声が増えていく。
凛は、コート脇でその様子を見ていた。
(……何だ?)
部員たちの不満。
紗奈の戸惑い。
千夏の、苦しそうな顔。
昨日まで、自分が見ていたものとは違っていた。
「……みんな」
紗奈が、静かに口を開いた。
「……私だって、皆で勝ちたいから……」
「……分かってます」
後輩が答えた。
「……でも、紗奈先輩は、いつも自分で決めちゃうから」
「…………」
「……私たちにも、予定とかあるし……」
紗奈は、言葉を失った。
その横で、千夏が俯いていた。
凛は、思わず一歩前へ出た。
『……皆、少し落ち着こう』
部員たちが凛を見る。
『……紗奈は、チームのために一生懸命やっている。勝つためには、ある程度の練習も――』
そこまで言って。
凛は、言葉を止めた。
目の前にいる後輩たちは、怒っていた。
けれど、その目には涙が浮かんでいた。
そして、紗奈も。
自分が責められた理由を理解できずにいるようだった。
(……待て)
凛は、ゆっくり周囲を見渡した。
疲れた顔。
伏せられた目。
何かを言いたそうにしている生徒たち。
その中に、昨日までの活気はなかった。
(……私は、何を見ていた?)
紗奈が練習したいと言った。
その熱意を、嬉しく思った。
自分も最後まで付き合うと約束した。
けれど。
ほかの部員たちは、どうだった?
昨日も練習したかったのか。
一昨日も、残りたかったのか。
疲れていなかったのか。
帰宅後の予定は、なかったのか。
(……私は、一度でも聞いたか?)
答えは、分かっていた。
聞いていない。
一度も。
『…………』
凛は、ゆっくり息を吐いた。
『……今日は、ここまでにしよう』
紗奈が顔を上げる。
「……先生?」
『……練習は終わりだ。皆、片づけを始めてくれ』
「……でも」
『……紗奈』
凛は、静かに名前を呼んだ。
『……今日は、ここまでだ』
紗奈は、唇を噛んだ。
「……はい」
凛は、部員たちへ向き直った。
『……皆、すまなかった』
突然の言葉に、部員たちが顔を上げる。
『……二日続けて練習を延ばしたのは、私が認めたことだ』
「…………」
『……それなのに、皆の事情をきちんと確かめていなかった』
凛は、深く頭を下げた。
『……申し訳なかった』
誰も、すぐには答えなかった。
凛は顔を上げた。
『……今日のところは、帰って休んでくれ。今後のことは、改めて話したい』
部員たちは、互いに顔を見合わせた。
そして、静かに片づけを始めた。
紗奈も、ボールを拾いに向かった。
いつもなら、真っ先に誰かへ声をかける。
けれど、今日は何も言わなかった。
千夏が、その隣へ近づく。
「……紗奈」
「…………」
「……あのさ」
「……ごめん。あとでいい?」
「…………」
千夏は、少しだけ目を伏せた。
「……うん」
二人の間に、沈黙が落ちた。
凛は、その光景を見つめていた。
自分が二日間、良い練習だと思っていた時間。
努力を積み重ねられたと、喜んでいた時間。
その時間が、少しずつ仲間の心を離れさせていた。
(……何ということだ)
凛は、拳を握った。
力を込めても、何も変わらなかった。
◇
練習後。
凛は、藤沢のもとを訪ねた。
「……山本先生。どうされましたか?」
『……藤沢先生。ご報告があります』
藤沢は、凛の表情を見て、椅子を引いた。
「……座ってください」
『……はい』
凛は腰を下ろした。
水曜日と木曜日の延長練習。
紗奈からの申し出。
自分が認めたこと。
そして、今日の練習で部員たちの不満が表面化したこと。
一つずつ、正直に話した。
藤沢は、途中で口を挟まずに聞いていた。
「……そうでしたか」
話が終わると、藤沢は静かに頷いた。
「延長のことは聞いていましたが、そこまで皆さんの不満が溜まっていたとは……」
『……申し訳ありません』
「……私も、確認が足りませんでしたね」
『……いえ! 藤沢先生は事前に注意してくださっていました!』
凛は、顔を上げた。
『……皆の体調と、帰宅のこと。それに、無理に練習を増やす必要はないと』
「…………」
『……私は、それを聞いていたのに……』
凛は、言葉を詰まらせた。
藤沢は、少し考えてから口を開いた。
「……山本先生。一つ、お聞きしてもよろしいですか」
『……はい』
「……練習を延ばしてほしいと申し出たのは、朝倉さんですね?」
『……はい』
「……では、ほかの部員の皆さんは、何とおっしゃっていましたか?」
『…………』
凛は、答えられなかった。
藤沢は、その沈黙を急かさなかった。
やがて、凛が小さく口を開く。
『……何も、聞いていません』
「…………」
『……紗奈が希望したので、皆も同じ気持ちだと……』
言いながら、胸が苦しくなった。
『……勝ちたい気持ちは、皆同じだと思っていました』
藤沢は、ゆっくり頷いた。
「……おそらく、そうでしょうね」
『……え?』
「皆さん、勝ちたい気持ちは同じなのでしょう」
藤沢は、窓の外へ目を向けた。
「……でも、勝ちたいという気持ちが同じでも、そのためにできることまで同じとは限りません」
『…………』
「学業もあります。家庭の事情もあります。体力や疲労の感じ方も、人によって違います」
凛は、俯いた。
藤沢の言葉は、何一つ難しくなかった。
当たり前のことばかりだった。
なのに、自分は考えていなかった。
「……朝倉さんも、ほかの皆さんも、私たちにとっては同じ大切な生徒ですからね」
『…………はい』
凛は、ゆっくり頷いた。
藤沢は、少しだけ表情を和らげた。
「……今日のことは、私からも皆さんの様子を確認しておきます」
『……ありがとうございます』
「ただ、山本先生が直接伝えたいこともあるでしょう」
『……はい』
凛は、顔を上げた。
『……改めて、全員と話す時間をいただけませんか』
「……もちろんです」
『……私から、きちんと謝りたいんです』
藤沢は、小さく頷いた。
「……では、週明けに時間を取りましょう」
『……はい』
凛は、深く頭を下げた。
『……よろしくお願いします』
◇
その夜。
山本家の自室で、凛は机に向かっていた。
部屋は静かだった。
窓の外には、夜の街の明かりが広がっている。
机の上には、今日の練習記録。
部員たちの名前。
練習メニュー。
そして、二日間の延長時間。
凛は、その紙をじっと見つめていた。
(……私は、何を間違えたんだ)
答えは、もう分かっている。
けれど、簡単には飲み込めなかった。
凛にとって、努力とは何よりも大切なものだった。
小さな頃から空手を続けてきた。
何度も負けた。
悔しくて泣いた。
強くなりたくて、練習を重ねた。
大学では、朝から晩まで稽古に明け暮れた。
身体が動かなくなるほど疲れた日もあった。
休みたいと思ったこともある。
それでも、休むことは弱さだと信じていた。
周りより長く練習する。
誰よりも厳しく自分を追い込む。
それが強さにつながる。
そう信じてきた。
そして、全国大会で準優勝した。
その結果は、今でも誇りだった。
努力してきた時間を、間違いだったとは思わない。
思いたくもない。
『……だが』
凛は、小さく呟いた。
『……私は、自分のためにやっていたんだよな』
誰かに命じられた日もあった。
理不尽な練習もあった。
それでも、最後には自分が強くなりたいと思って道場に立っていた。
では、今日の部員たちはどうだったのだろう。
紗奈は、練習したいと言った。
その気持ちは、本物だった。
しかし、ほかの部員たちは。
塾へ行きたかった生徒。
疲れていた生徒。
自分だけ帰るとは言い出せなかった生徒。
彼女たちにも、それぞれの生活がある。
それを、凛は確かめなかった。
『……私は……』
凛は、机の上に置かれた練習記録を見つめた。
『……紗奈のことしか、見ていなかったのか』
頑張る主将。
努力を惜しまない生徒。
自分と同じように、最後まで諦めない人間。
その姿に、嬉しくなっていた。
だから、ほかの部員たちの声が聞こえなかった。
いや。
聞こうとすら、していなかった。
『…………』
凛は、深く息を吐いた。
ふと、机の引き出しを開ける。
中には、使っていないノートが何冊か入っていた。
凛は、そのうちの一冊を手に取った。
表紙には、何も書かれていない。
まっさらなノートだった。
(……そういえば)
この時代へ来てから、もう十日ほどが経っていた。
毎日が、知らないことばかりだった。
初めて触る機械。
聞き慣れない言葉。
自分の常識とは違う考え方。
そして、教師としての失敗。
あまりにも多くのことが起こりすぎて、昨日の出来事さえ遠く感じる。
(……書いてみるか)
凛は、ノートを開いた。
空手をしていた頃は、稽古内容を記録することがあった。
何を練習したか。
どこが悪かったか。
明日は何を改善するか。
それを、何度も書いてきた。
けれど、自分の気持ちを文章に残したことは、ほとんどない。
まして、誰にも見せない日記など。
『……日記、か』
凛は、少しだけ笑った。
『……私らしくないな』
それでも、ペンを取った。
書けば、少しは整理できるかもしれない。
今、自分が何を考えているのか。
何に苦しんでいるのか。
何を変えなければならないのか。
凛は、ノートの一番上に日付を書いた。
《二〇二六年四月十七日、金曜日》
そして、ゆっくりと文字を綴り始めた。
《今日、私は教師として大きな間違いをした。》
《女子バレー部の練習時間を、二日続けて延ばした。》
《主将の朝倉紗奈は、本気で勝ちたいと思っている。》
《私には、その気持ちがよく分かった。》
《私も空手をしていた頃、誰よりも長く練習することを誇りに思っていたからだ。》
《朝から晩まで稽古をし、身体が痛くても練習を続けた。》
《厳しい練習に耐えることを、美徳だと思っていた。》
《だが、私は紗奈の話しか聞いていなかった。》
《ほかの部員が何を考えていたのか。》
《帰宅後に、どんな予定があったのか。》
《疲れていなかったのか。》
《何一つ、確かめなかった。》
凛は、そこでペンを止めた。
昼間の光景が浮かんでくる。
紗奈へ向けられた後輩の言葉。
困ったように俯く千夏。
黙り込んだ部員たち。
そして。
自分が、紗奈を庇おうとして口にしかけた言葉。
――勝つためには、ある程度の練習も必要だ。
間違ってはいない。
今でも、そう思う。
練習しなければ、強くはなれない。
積み重ねなければ、届かない場所もある。
けれど。
(……だからといって)
凛は、再びペンを動かした。
《私は、努力することそのものが間違いだとは思わない。》
《今でも、自分が空手に費やしてきた時間を誇りに思っている。》
《しかし。》
《私にとって正しかった努力が、ほかの者にとっても正しいとは限らない。》
《自分が望んできたことを、皆も望んでいると決めつけていた。》
《それが間違いだった。》
《私は、まだまだ未熟な教師だ。》
凛は、書いた文章を読み返した。
『……未熟、か』
自分の口で言うと、少し悔しかった。
教師になるために勉強した。
免許も取った。
空手では、誰にも負けないくらい努力してきたつもりだった。
けれど。
教師として、生徒の何を見ていたのだろう。
紗奈の熱意には気づいた。
しかし、ほかの部員たちの苦しさには気づかなかった。
それでは、駄目なのだ。
凛は、ノートへ視線を落とした。
この時代へ来てから、何度も失敗している。
神谷陸の進路についても、そうだった。
自分の考えが正しいと信じ、本人の気持ちを聞こうとしなかった。
あのとき、謝ったはずだった。
生徒の声を聞くことが大切だと、学んだはずだった。
なのに、また同じことを繰り返した。
(……私は、何度同じ失敗をするつもりなんだ)
凛は、唇を噛んだ。
今までの自分なら、もっと努力しようと考えただろう。
もっと勉強して。
もっと練習を見て。
もっと生徒のために時間を使う。
けれど、今日はそれが正しいとは思えなかった。
努力する前に、確かめなければならないことがある。
自分が頑張ることで、誰かを苦しめていないか。
自分の熱意が、誰かの声を塞いでいないか。
凛は、最後の文章を書き加えた。
《私は、教師としてまだまだ未熟だ。》
《それでも、間違えたままで終わりたくはない。》
《月曜日、私が最初にすべきことは決まっている。》
そこで、一度ペンを止めた。
紗奈の顔が浮かぶ。
部員たちの顔が浮かぶ。
自分が間違えたことで、傷つけてしまった生徒たち。
その全員と、もう一度向き合わなければならない。
凛は、ゆっくりと最後の一行を書いた。
《まず、全員に謝る。》
ペンを置く。
凛は、ノートを閉じなかった。
書いたばかりの文字を、しばらく見つめていた。
明日になれば、すべてが解決するわけではない。
謝ったからといって、失った信頼がすぐに戻るとも限らない。
紗奈が、どんな顔をするかも分からない。
部員たちが、許してくれるかも分からない。
それでも。
間違えたのなら、認めるしかない。
そして、次は同じ間違いを繰り返さないようにする。
それが、今の自分にできることだった。
『……よし』
凛は、小さく呟いた。
机の上のノートを閉じる。
表紙は、まだ何も書かれていなかった。
けれど、その最初のページには。
この時代へ来てから初めて、自分自身と向き合った言葉が残っていた。
凛は、ノートを引き出しへしまった。
そして、窓の外へ目を向けた。
四月の夜。
夏までは、まだ少し時間がある。
けれど、高校三年生にとっての最後の夏は、もう近づいていた。
その夏を、誰か一人のものにはしたくなかった。
紗奈だけでもない。
ほかの部員たちだけでもない。
あの体育館にいる、全員のものにしたかった。
凛は、静かに拳を握った。
今度は、気合いを入れるためではない。
自分の間違いから、逃げないために。
週明け。
もう一度、あの子たちと向き合おう。
教師として。
そして、まだまだ未熟な一人の人間として。




