第七十九話「光の向こうへ」
東京都立青葉高等学校。
その名がホールいっぱいに響いた。
舞台袖に立つ美奈は、一度だけ大きく息を吸った。
胸がどきどきしている。
指先も、少し冷たい。
けれど、足がすくむような感覚はなかった。
目の前には、明るく照らされたランウェイがある。
その先に、たくさんの観客が待っている。
「……よしっ」
美奈は小さく呟いた。
背後から、真理の声が届く。
「……美奈ちゃん」
振り返ると、真理が両手を握りしめて立っていた。
その隣にはリンがいる。
『片岡さん、いってらっしゃい!』
リンが笑う。
『楽しんでおいで!』
「うん!」
美奈は大きく頷いた。
「真理!」
「……うん?」
「ちゃんと見ててよ!」
「……もちろん!」
真理の返事を聞いて、美奈は再び前を向いた。
スタッフが、小さく手を上げる。
合図だった。
舞台奥に、白い光が灯る。
◇
『サブテーマは、ライト&アングル』
藤原紀香の声が、会場に響いた。
『光の当たり方によって色の印象を変える生地。そして、見る角度によって異なる表情を生み出す、左右非対称のデザイン』
その声に合わせて、美奈が舞台へ姿を現した。
深い青緑のワンショルダー・ドレス。
右肩を覆い、左肩を見せる、左右で異なる形。
裾は片側が膝のあたりで終わり、もう片側はふくらはぎの近くまで伸びている。
背中からは、斜めに流れる布が静かに揺れていた。
美奈は背筋を伸ばし、最初の一歩を踏み出した。
靴の底が、ランウェイに触れる。
一歩。
もう一歩。
歩き出した途端、不思議と身体が軽くなった。
練習した歩幅。
真理と何度も確認した、立ち止まる位置。
ちゃんと覚えている。
美奈はまっすぐ前を見つめた。
そして、ふっと口元を緩めた。
楽しみにしていた瞬間が、本当に始まったのだ。
◇
「……美奈!」
観客席で、片岡家の母親が思わず声を漏らした。
隣の父親が、身を乗り出す。
「……おお」
いつもの娘だった。
けれど、いつもの娘とは少し違って見えた。
背筋を伸ばし、ゆっくりと歩く。
その表情には、緊張よりも楽しさが浮かんでいた。
「……ねえ、あなた」
「ん?」
「……すごいわね」
「ああ」
父親は静かに頷いた。
「……堂々としてるな」
母親も、何度も頷いた。
朝、玄関で見送ったとき。
美奈は、いつものように笑っていた。
あの笑顔のまま、今、全国大会のランウェイを歩いている。
「……頑張れ、美奈」
父親の声は小さかった。
けれど、その目は娘の姿をしっかり追っていた。
◇
美奈がランウェイを進んでいく。
正面からの光を受けていた青緑の生地が、少しずつ違う表情を見せ始めた。
肩のひだに、淡い紫が浮かぶ。
次に、腰へ流れる布の曲面。
歩くたびに揺れるスカートの端にも、紫の光沢が現れる。
色が塗り替わったわけではない。
生地そのものが、光を受ける向きによって異なる色を見せているのだ。
『同じ一着でも、光の当たり方が変われば、色の印象は変わります』
藤原紀香の声が重なる。
『私たちは、生地そのものが持つ、いくつもの表情に注目しました』
美奈は、ゆっくりと歩みを進めた。
青緑の中に浮かぶ紫。
その色は、歩くたびに現れては消える。
観客席のあちこちから、小さな驚きの声が上がった。
「……あれ?」
「色、変わってない?」
そして、ひときわ強い光が腰のドレープへ当たった瞬間。
鮮やかな紫が、布の流れに沿って浮かび上がった。
「おおっ……!」
会場から、感嘆の声が漏れた。
◇
「……見て」
小川家の母親が、父親の腕にそっと触れた。
「……色が」
「ああ……」
父親も、舞台を見つめていた。
午前中の紹介ムービー。
スケッチブックに何度も線を引き直していた真理。
布を広げ、美奈と顔を寄せ合っていた真理。
その二人が考えた服が、今、目の前で色を変えている。
「……真理が、これを考えたのか」
父親が呟いた。
「ええ」
母親は、静かに頷いた。
「美奈ちゃんと二人で作ったのよ」
父親は、もう一度舞台を見た。
「……すごいな」
その言葉しか出てこなかった。
家では、静かにスケッチブックへ向かっていることが多かった娘。
何を描いているのか尋ねても、照れくさそうに笑っていた。
その娘が、こんな服を考えていた。
自分たちの知らないところで、こんなにもたくさんのことを学び、試していた。
母親は、舞台の光に包まれるドレスを見つめた。
朝、真理が言った言葉を思い出す。
学校が楽しい。
毎日が楽しい。
その楽しさが、今、目の前で形になっているようだった。
◇
美奈は、ランウェイの先端へ到着した。
決められた位置で、ゆっくりと足を止める。
正面を向いたまま、肩を軽く引いた。
深い青緑の生地が、照明の下で静かに輝く。
『そして、もう一つのこだわりが、見る角度によって違った印象を生み出す造形です』
美奈は、ゆっくりと身体を右斜めへ向けた。
その瞬間、背中から流れるドレープが観客の前に現れた。
正面から見たときとは違う、柔らかな曲線。
布が重なることで、深い陰影が生まれる。
美奈は少しだけ姿勢を変え、今度は左斜めへ向いた。
左右で長さの異なる裾が、はっきりと見える。
片側は軽やかに。
もう片側は、流れるように長く。
同じドレスなのに、見る方向によって印象が違う。
『左右非対称の形は、見る人の立つ場所によって、まったく違う表情を見せます』
その声を聞きながら、美奈は、少しだけ顎を上げた。
観客席が見える。
たくさんの顔。
たくさんの視線。
みんなが、自分たちの服を見ている。
そう思った瞬間、美奈の口元が自然と緩んだ。
◇
「……すっげえ」
森田が、ぽつりと呟いた。
隣の佐伯が笑う。
「どうした?」
「いや……あれ、本当に片岡か?」
「ほかに誰がいるんだよ」
「そうだけどさ!」
森田は舞台を指さした。
「なんか、めっちゃモデルっぽくね!?」
「ははっ!」
佐伯が笑った。
「本人に言ってやれよ」
「絶対調子乗るだろ!」
「もう乗ってそうだけどな」
二人が笑う。
その少し離れた席では、沙織が両手を胸の前で握っていた。
「……綺麗」
悠斗が頷く。
「ああ」
「美奈、すっごい楽しそう」
「うん」
悠斗は舞台を見つめた。
美奈は、少しも下を向いていない。
観客の視線を受けながら、まっすぐ前を向いている。
「……あいつら、頑張ったんだな」
沙織が、嬉しそうに笑った。
「うん!」
愛梨も、目を輝かせていた。
「ねえねえ! あの色、ほんとに変わって見える!」
「おう」
「すっごい綺麗じゃん!」
森田が笑う。
「お前、今度は泣くなよ?」
「泣かないってば!」
愛梨が頬を膨らませた。
「今はちゃんと美奈の応援してるもん!」
佐伯が、また笑った。
◇
舞台袖。
真理は、息をするのも忘れるほど、ランウェイを見つめていた。
美奈が歩いている。
自分たちが作った服を着て。
あんなに大きな舞台で。
光を受けて、生地の色が変わる。
身体の向きによって、シルエットが変わる。
スケッチブックに何度も描いた線が、今、本物の布になって動いている。
「……すごい」
小さな声が漏れた。
リンが隣で微笑む。
『うん。すっごく綺麗だね』
「……はい」
真理は頷いた。
最初に考えたときは、もっと単純な形だった。
けれど、美奈が見つけてきた生地を見て、考えが変わった。
あの光沢を、もっと綺麗に見せたい。
正面だけじゃなく、横から見ても違った印象になる服にしたい。
何度も線を引き直した。
実際に布を合わせると、思っていたようにならないこともあった。
それでも、二人で考え続けた。
その一着が、今。
全国大会のランウェイで、たくさんの人たちに見られている。
「……美奈ちゃん」
真理は、小さく呟いた。
舞台の上の美奈が、楽しそうに笑っている。
あんな顔で、自分の服を着てもらえるなんて。
それだけで、胸がいっぱいになった。
ふと、先ほど見た名古屋西のモデルが頭をよぎった。
強くうねった長い髪。
堂々とした姿。
自信に満ちた笑顔。
真理は、無意識に自分の髪へ触れそうになった。
けれど、すぐに手を下ろした。
目の前では、美奈がゆっくりと身体を回している。
同じものでも、見る角度によって違って見える。
そのことを、自分たちは服で表現したかった。
真理は、もう一度ランウェイを見つめた。
今はただ、美奈の姿を見ていたかった。
◇
美奈が、最後のポーズへ移る。
ゆっくりと右足を引き、身体の向きを整える。
そして、軽やかにターンした。
スカートが、ふわりと広がる。
青緑の生地が光を受ける。
次の瞬間、紫の光沢が大きく揺れた。
肩から腰へ。
腰から裾へ。
まるで光が布の上を走るように、色が移り変わっていく。
美奈は、満面の笑みを浮かべた。
もう、緊張なんて忘れていた。
楽しい。
ただ、それだけだった。
自分たちで選んだ生地。
真理と一緒に考えた形。
何度も縫い直した、たった一着のドレス。
それを、今、こんなに大勢の人が見てくれている。
その事実が、嬉しくて仕方なかった。
『一つのものにも、いくつもの美しさがある』
藤原紀香の声が響く。
『それが、私たちの考える「変化」です』
美奈は、最後にもう一度正面を向いた。
そして、観客席へ向かって、大きく笑った。
拍手が起こる。
最初は、近くの客席から。
それが少しずつ広がり、ホール全体を包んでいった。
美奈は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
もう少し、ここにいたい。
もう少し、この服を見てほしい。
けれど、決められた時間は終わりに近づいていた。
美奈は軽く一礼し、ゆっくりと振り返った。
帰り道も、背筋を伸ばして歩く。
背中のドレープが揺れ、また違う光沢を見せる。
最後まで笑顔のまま、美奈は舞台袖へ姿を消した。
◇
拍手が続いていた。
片岡家の母親は、両手を叩きながら笑っていた。
「……美奈!」
父親も、大きく拍手を送る。
「よくやったな」
その言葉は、娘には届かない。
けれど、母親は何度も頷いた。
「……ほんとに、よく頑張ったわ」
小川夫妻も、静かに拍手を続けていた。
父親は、まだ舞台を見つめている。
「……すごい服だったな」
「ええ」
母親は、笑った。
「真理たち、本当に頑張ったのね」
「ああ」
父親は、ゆっくりと頷いた。
朝、真理が話してくれたこと。
学校が楽しいということ。
服を作るのが楽しいということ。
あの言葉が、今は少し違って聞こえた。
ただ楽しんでいるだけではない。
夢中になれるものを見つけて、自分の手で形にしている。
そんな娘の姿を、今日、初めて目の当たりにしたのだ。
◇
藤崎千尋は、拍手を送りながら、ゆっくりと息を吐いた。
ドレープが綺麗に流れていた。
左右で長さの違う裾も、美奈の動きに合わせて自然に揺れていた。
あの部分は、何度も調整したところだ。
生地の重さで形が崩れないように。
歩いたときに、布が引っかからないように。
二人は、何度も試していた。
「……よかった」
千尋は、小さく呟いた。
完成した服を、ただ飾って見せるだけでは分からないことがある。
人が着て、歩いて、初めて見える形がある。
今日、二人の服はその役割を果たしていた。
千尋は、舞台袖へ消えていった美奈の姿を思い浮かべた。
「……お疲れさま」
そう呟いて、もう一度拍手を送った。
◇
「真理ーっ!」
舞台袖へ戻ってきた美奈が、勢いよく声を上げた。
「……美奈ちゃん!」
真理も、思わず駆け寄る。
「やった! 歩けた!」
「……うん!」
「ちゃんと歩けたよね!?」
「……うん! すっごく綺麗だったよ!」
「ほんと!?」
「……本当!」
真理は、何度も頷いた。
美奈の顔は、興奮で少し赤くなっていた。
けれど、何より印象的だったのは、その笑顔だった。
『片岡さん!』
リンも駆け寄ってくる。
『最高だったよ! ほんとに綺麗だった!』
「へへっ! ありがと、凛ちゃん!」
『あのターン! すっごくよかった!』
「でしょー!?」
美奈が得意げに胸を張る。
「最後さ、めっちゃ気持ちよかったんだよ!」
『分かる気がする!』
「えー!? 凛ちゃん、歩いてないじゃん!」
『あはは! そうなんだけど!』
三人が笑った。
美奈は、もう一度大きく息を吐いた。
「……はあー!」
「……大丈夫?」
真理が尋ねる。
「うん!」
美奈は笑った。
「……ねえ、真理」
「……なに、美奈ちゃん?」
「……あたしさ」
少しだけ、声を落とす。
「途中から、全然怖くなかった」
「……うん」
「最初は、ちょっと足が震えそうだったんだけどさ」
美奈は、自分のドレスへ目を落とした。
「歩いてたら、色が変わってるの見えて……」
そっと、生地に触れる。
「みんなが見てくれてるのも分かって……」
そして、顔を上げた。
「……めっちゃ嬉しかった!」
真理は、その顔を見つめた。
美奈ちゃんは、本当に楽しそうだった。
舞台に出る前も。
歩いているときも。
そして今も。
「……私も」
真理が、小さく言った。
「……すごく嬉しかった」
「……ほんと?」
「……うん」
真理は、そっとドレスの裾へ手を伸ばした。
「……私が描いた服が、美奈ちゃんが歩いたら、あんなふうに見えるんだって……」
言葉を探す。
「……なんだか、夢みたいだった」
美奈は、少しだけ目を丸くした。
そして、にっと笑った。
「……へへっ!」
「……なに?」
「いや!」
美奈は、嬉しそうに首を振った。
「真理と作ってよかったなーって!」
真理は、ぱちぱちと瞬きをした。
それから、ゆっくりと笑った。
「……私もだよ、美奈ちゃん」
◇
控室へ戻り、美奈は椅子に腰を下ろした。
真理は、ドレスの裾が椅子に引っかからないよう、そっと整える。
リンは、二人の荷物をまとめながら笑っていた。
『いやー、ほんとによかったね!』
「うん!」
美奈は、まだ興奮が収まらない様子だった。
「ねえ、真理!」
「……なに、美奈ちゃん?」
「あたし、もう一回歩きたい!」
「……えっ?」
「だってさ!」
美奈が、声を上げて笑う。
「めっちゃ楽しかったんだもん!」
真理は、一瞬きょとんとした。
それから、思わず吹き出した。
「……ふふっ。美奈ちゃんらしいね」
『あはは! ほんとだね!』
リンも笑った。
美奈は、得意げに胸を張る。
「でしょ!」
笑い声が、控室に広がった。
真理は、もう一度ドレスへ目を向けた。
青緑の生地が、室内の明かりを受けて、かすかに紫を帯びている。
同じ布。
同じ形。
何度も見てきた、自分たちの一着。
けれど、今は少し違って見えた。
あの舞台の上で、たくさんの人が見てくれた。
美奈ちゃんが、あんなに楽しそうに歩いてくれた。
それだけで、この服が少しだけ特別なものになったような気がした。
真理は、そっと微笑んだ。
まだ、午後の大会は続いている。
けれど今だけは。
二人が作った一着と、あの九十秒のことを、もう少しだけ思い返していたかった。




