第七十六話「夢の舞台へ」
二〇〇〇年七月八日、土曜日。
小川真理は、いつもより少し早く目を覚ました。
枕元の時計は、まだ六時半を指している。
起き上がって、机の方を見た。
そこには、何度も開いてきたスケッチブックが置かれていた。
最初に描いたデザイン。描き直したもの。途中で諦めたもの。
どのページにも、あの日の自分が残っている。
「……今日、なんだ」
声に出すと、急に胸がどきどきしてきた。
全国高校生ファッションコンテスト。
応募したときは、まさか自分たちが本選に残るなんて思ってもいなかった。
それが今日、東京の大きな会場で、全国から選ばれた二十四組のうちの一組として参加する。
真理はスケッチブックの表紙に触れた。
もう一度開こうとして、やめた。
今さら何かを描き直すわけではない。
自分たちの服は、もう完成しているのだから。
◇
「真理、おはよう」
「おはよう、お母さん」
食卓には、朝食が用意されていた。
父親もすでに席についている。
「早かったな。眠れたか?」
「うん。……ちょっとだけ、早く起きちゃった」
「そりゃそうだろう。今日は大事な日だからな」
父親が笑った。
真理は椅子に座ったが、いつもより食が進まない。
母親がその様子に気づいた。
「緊張してる?」
「……うん」
「大丈夫よ。今まであんなに頑張ってきたんだから」
「……うん」
真理は小さく頷いた。
けれど、どうしても落ち着かない。
会場で失敗したらどうしよう。
美奈ちゃんが歩きにくかったら。
照明が思ったように当たらなかったら。
何度も確かめたはずなのに、次々と心配が浮かんでくる。
「真理」
父親が声をかけた。
「今日、ちゃんと見に行くからな」
「……うん」
「お前が作った服、楽しみにしてるぞ」
「……ありがとう」
「会場でお父さんを見つけても、笑うんじゃないぞ」
「……え?」
「たぶん、一番大きな声で応援してるからな」
「もう、あなたったら」
母親が笑う。
真理も、つられて少し笑った。
「そういえば、チケットは持った?」
真理が尋ねると、母親は食器棚のそばに置いた鞄を指さした。
「もちろん。昨日から何度も確認してるわよ」
「二枚とも?」
「ええ。真理がくれた大事なチケットだもの」
父親も頷いた。
「なくしたら大変だからな。お母さんに預けてある」
「自分で持つと心配なんでしょう?」
「いや、そんなことは……」
言いかけた父親が口をつぐむ。
真理は思わず笑った。
五月の家庭訪問の日。
自分が服のデザインを勉強したいと話したとき、母親はとても驚いていた。
それまで、将来のことをはっきり口にしたことがなかったからだ。
自分でも、何がしたいのか分からなかった。
学校へ行って、授業を受けて、帰ってくる。
そんな毎日が、このままずっと続くのだと思っていた。
でも、今は。
「……あのね」
真理が口を開くと、両親がこちらを見た。
「お父さん、お母さん」
「どうしたの?」
「……ありがとう」
母親が不思議そうに瞬きをした。
「急にどうしたの?」
「……私、今ね」
真理は膝の上で手を握った。
「毎日が、すごく楽しいの」
「…………」
「学校に行くのが楽しい。美奈ちゃんと話すのも、服のことを考えるのも……」
言葉を選びながら、ゆっくり続ける。
「うまくできなくて、嫌になることもいっぱいあったけど……それでも、次の日になると、また学校に行きたいって思うの」
母親が黙って聞いていた。
「前は、こんなふうになるなんて、思ってなかった」
「……真理」
「服の勉強がしたいって言ったとき、二人ともちゃんと聞いてくれたでしょ」
真理は顔を上げた。
「だから……ありがとう」
少しの間、誰も口を開かなかった。
やがて母親が、ふっと笑った。
「……そう」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
「学校、楽しいのね」
「……うん!」
真理は、今度ははっきり頷いた。
父親が目を細める。
「それなら、よかった」
「……うん」
「じゃあ今日は、思いきり楽しんでおいで」
真理はもう一度頷いた。
食卓の上の朝食に、ようやく手が伸びた。
◇
「美奈ー! 起きてるー!?」
「起きてるってばー!」
片岡家の朝は、いつもどおり賑やかだった。
美奈は鏡の前で髪を整えながら、母親に返事をした。
六月に黒く戻した髪も、すっかり見慣れた。
今日はいつもより丁寧に整え、最後に顔を左右へ向けて確認する。
「よし!」
鏡の中の自分に向かって笑った。
部屋の隅には、持っていく道具をまとめた鞄が置いてある。
予備の糸、針、ハサミ。
昨夜確認したばかりなのに、美奈はもう一度中を覗いた。
「……オッケー!」
鞄を閉じたところで、部屋の扉が開いた。
「美奈、忘れ物ない?」
「ないない!」
「裁縫道具は?」
「持った!」
「大会の書類は?」
「ある!」
「お財布は?」
「あるって!」
「じゃあ、ハンカチ!」
「もー! 小学生じゃないんだから!」
美奈が笑うと、母親も笑った。
「だって、全国大会でしょ? お母さんまで緊張しちゃって」
「緊張してんの?」
「してるわよ。あんたがあんな大きな大会に出るなんて」
「へへっ」
美奈は照れくさそうに笑った。
服が好きだった。
自分でデザインした服を着たいと思っていた。
けれど、真理と出会って、少し変わった。
誰かが考えた服を、自分の手で形にする。
布を選んで、切って、縫って。
思っていたように仕上がらなくて、何度もほどいて。
それでも完成したときは、たまらなく嬉しかった。
「……ねえ、母さん」
「ん?」
「うちらの服、絶対見てほしいんだよね」
「もちろん見るわよ。お父さんと一緒に行くんだから」
「分かってるけどさ!」
美奈は笑いながら続けた。
「会場にいる人たちにも見てほしいの。すっごい頑張ったんだって」
母親は、少しだけ真面目な顔になった。
「……そうね」
そして、すぐに笑った。
「だったら、ちゃんと見てもらってきなさい」
「うん!」
「そうそう。あんたがくれたチケット、お父さんの分もちゃんと持ったからね」
「昨日も聞いたって!」
「だって、大事なチケットじゃない」
母親は嬉しそうに言った。
「お父さんも、朝からそわそわしてるのよ。いつもなら休みの日はなかなか起きないのに」
「あはは! マジで?」
「さっきも、何時に出ればいいかって聞いてきたわ」
「もう決めてあるじゃん!」
「そうなのよ!」
二人で笑う。
美奈は鞄を持ち上げ、玄関へ向かった。
靴を履いていると、母親が後ろから声をかけた。
「美奈」
「んー?」
「お母さんたちも、ちゃんと見てるからね!」
「分かってるって! 絶対見つけてよ!」
「もちろん! 一番大きな拍手するから!」
「へへっ。じゃあ、期待してる!」
母親は笑いながら手を振った。
「楽しんでおいで!」
美奈は振り返った。
そして、思いきり笑った。
「もちろん!」
玄関の扉を開ける。
「行ってきまーす!」
◇
午前八時過ぎ。
東京国際フォーラム。
「…………でっか!」
美奈が、建物を見上げて叫んだ。
ガラスと鉄骨が組み合わさった巨大な空間。
頭上まで続く透明な壁の向こうから、朝の光が差し込んでいる。
真理も隣で、ぽかんと口を開けていた。
「……すごいね」
「ね! ね! ここでやるんだよね!?」
『うん。ホールCって書いてあるし、ここで間違いないと思うよ』
リンは手元の案内書と、目の前の建物を交互に見比べた。
正直に言えば、あたしも少し驚いている。
全国大会とは聞いていたけれど、ここまで立派な会場だとは思っていなかった。
しかも、今日ここで高校生たちが自分の作った服を発表するのだ。
未来の時代でも、こういう大舞台に立てる人はそう多くないだろう。
「凛ちゃん、写真撮ろ! 写真!」
『えっ、もう!? まだ受付もしてないんだけど!』
「一枚だけ!」
「……私も、撮りたいです。凛先生」
真理まで控えめに手を挙げた。
『……あはは。分かった分かった! 一枚だけね!』
「やった!」
美奈は真理の肩を抱き、建物を背にして並んだ。
リンは持ってきたカメラを構える。
『はい、二人ともこっち向いてー!』
「いえーい!」
美奈がピースサインを作る。
真理は少し照れながら、小さく手を上げた。
シャッターを切る。
『よし、撮れた!』
「あとで見せてね!」
『現像しないと見られないから、ちょっと待っててね』
「あ、そっか!」
美奈が笑う。
『もう、片岡さんったら』
リンもつられて笑った。
そんなやり取りをしている間にも、周囲には大きな荷物を抱えた高校生たちが次々と集まっていた。
細長い衣装ケース。
大きなバッグ。
学校名の書かれた札を持つ生徒たち。
美奈は周囲を見回した。
「……みんな、出る人たち?」
『たぶんそうだと思うよ。ほら、あっちにも衣装ケース持ってる子がいるし』
「……二十四組」
真理が呟く。
応募したのは、自分たちだけではなかった。
全国のあちこちで、同じように布を切り、ミシンを踏み、何度もやり直した人たちがいたのだ。
真理は、自然と背筋を伸ばした。
『じゃあ、そろそろ受付に行こっか。片岡さん、小川さん』
「はーい!」
「……はい!」
三人は案内表示に従い、会場の中へ進んだ。
◇
その頃。
「……ここで合ってるよな?」
高木悠斗は、会場の案内板を見ながら首を傾げていた。
「合ってるって。ほら、ファッションコンテストって書いてあるじゃん」
隣の西野沙織が、表示を指さす。
「あ、ほんとだ」
「もー。さっきも確認したでしょ」
「いや、建物が思ったより広くてさ」
「それは分かるけど」
沙織は笑った。
入口付近では、一般観客の列が少しずつ伸び始めている。
「美奈と真理、もう来てるかな?」
「出場者は早めに集合って言ってたし、来てるんじゃない?」
「そっか」
悠斗は、会場の奥へ目を向けた。
「……楽しみだな」
「うん!」
沙織は嬉しそうに頷いた。
◇
「おい、愛梨! そんな急がなくても逃げねえって!」
「分かってるってば!」
「分かってるやつの歩く速さじゃねえだろ!」
森田翔平が呆れた声を上げた。
その前を、愛梨が早足で進んでいる。
佐伯大輔は二人の後ろから、苦笑しながらついていった。
「まあ、今日は楽しみにしてたんだろ」
「そうだよ! だって、浜崎あゆみが来るんだよ!?」
「だから何回言うんだよ、それ!」
「何回だって言うよ!」
愛梨は勢いよく振り返った。
「生で聴けるんだよ!? テレビじゃなくて! あゆが目の前にいるんだよ!?」
「分かった! 分かったから前向いて歩け!」
「……はーい」
返事をした直後、愛梨は再び早足になった。
森田は天井を仰いだ。
「……今日一日、これかよ」
「ははっ」
佐伯が笑う。
「美奈たちの応援も忘れるなよ」
「忘れないよ! そっちもめっちゃ楽しみ!」
愛梨が振り返らずに答えた。
「でも、あゆも楽しみ!」
「結局それか!」
三人の声が、朝の通路に響いた。
◇
藤崎千尋が会場に到着したのは、その少しあとだった。
入口の案内を確認し、受付の場所へ向かう。
参加者側の受付には、すでに各校の生徒たちが集まっていた。
千尋はその様子をしばらく眺めた。
青葉高校の家庭科室で、放課後になると聞こえていたミシンの音。
机いっぱいに広げられた生地。
うまく縫えなかったところを、二人で何度も確かめていた姿。
その二人が、今日ここにいる。
「……本当に来ちゃったのね」
千尋は小さく笑った。
今日は観客席から見守ることになっている。
いつもなら、手元の布を一緒に確認することができた。
でも今日は違う。
出来上がったものを見届ける日だ。
千尋は案内に従い、観客用の入口へ向かった。
◇
参加者エリア。
「うわ……」
美奈が小さく声を漏らした。
控室へ続く通路には、各校の生徒たちが行き交っていた。
ハンガーラックに衣装を掛ける者。
布の端を慎重に点検する者。
鏡の前でモデルの髪を整える者。
あちこちから、慌ただしい声が聞こえてくる。
「そこ、もう一回確認して!」
「アイロン使い終わったら声かけて!」
「靴、こっちにあるよ!」
真理は、その光景に圧倒されていた。
みんな、自分たちと同じだ。
今日のために、たくさん準備してきた。
けれど、同じだからこそ、分かることもある。
並べられた衣装の縫い目。
生地の扱い。
作業の手際。
どの学校も、真剣だった。
「……美奈ちゃん」
「ん?」
「すごいね、みんな」
「うん……」
美奈は一度だけ頷いた。
そして、にっと笑う。
「でも、うちらだって頑張ったじゃん!」
「……うん!」
『そうだよ! 二人が作った服だって、ちゃんとここにあるんだから!』
リンが笑って声をかけた。
『ほら、小川さん。そんなに周りばっかり見てたら、緊張しちゃうよ?』
「……あ、はい」
『もちろん、あたしもちょっと緊張してるけどね!』
「凛ちゃんも!?」
『するよ! こんな大きい大会、初めてだし!』
「なーんだ! 凛ちゃんも一緒じゃん!」
『そうそう。だからみんなで頑張ろ!』
真理は、持ってきた衣装ケースへ目を向ける。
青緑と紫の光沢を持つ生地。
左右で形の違う裾。
何度も考え直した、斜めに流れるドレープ。
作り始めた頃は、どんな形になるのか想像もつかなかった。
それが今、ここにある。
「……うん」
真理は、そっと衣装ケースに触れた。
◇
リハーサル。
ホールCの舞台には、客席方向へ伸びる一本のランウェイが設けられていた。
その先端に立った美奈は、思わず足を止めた。
「…………」
目の前に、客席が広がっている。
何列も、何列も。
今はまだ人がまばらなその場所が、あと数時間で観客に埋まる。
「……やっば」
美奈は小さく呟いた。
「ここ、歩くんだ……」
リハーサル担当者の指示に従って、ゆっくりと歩き出す。
先端まで進み、立ち止まる。
身体を斜めに向ける。
それから、振り返る。
普段なら何でもない動作だ。
けれど、今日は足元が少し違って感じられた。
舞台袖では、真理とリンが見守っている。
「……美奈ちゃん、緊張してるかな」
『してるんじゃないかなぁ』
「……ですよね」
『でも、楽しそうじゃない?』
真理は、美奈の方を見た。
ちょうど、美奈がランウェイの先端から戻ってくるところだった。
「ねえ真理!」
「……なに?」
「めっちゃ広い!」
「……うん」
「しかもさ、先っぽに立つと客席ぜーんぶ見える!」
『あはは! そりゃそうだよ!』
「凛ちゃん! なんか急に緊張してきた!」
『今さら!?』
「だってさー!」
美奈は笑いながら、自分の胸を押さえた。
「今まで教室とか家で練習してたのと、全然違うんだもん!」
真理も笑った。
「……私も、ここに来てから、ずっとどきどきしてる」
「だよね!」
『うんうん。あたしも分かるよ』
リンは二人の顔を見比べた。
『でも、まだ時間あるからさ。今のうちに気になるところ、確認しとこっか』
「はーい!」
「はい、凛先生」
『それに、片岡さん』
「ん?」
『さっきの歩き方、いい感じだったよ!』
「ほんと!?」
『うん。あたし、モデルのことは詳しくないけど、片岡さんらしくてよかったと思う!』
「へへっ。やっぱ?」
『……あ、でも、本番で調子に乗って走ったりしないでよ?』
「しないってば!」
美奈が笑う。
真理も、つられて笑った。
その顔には、緊張と同じくらい、楽しみが浮かんでいた。
◇
午前十時半。
ホールCの客席は、すでに多くの観客で埋まっていた。
悠斗と沙織は、舞台を見渡せる席に座っていた。
「……すごいな、これ」
「うん。美奈たち、本当にここでやるんだね」
少し離れた席では、森田がパンフレットを開いている。
「二十四校って、結構多いんだな」
「全国から来てるんだろ」
佐伯が答えた。
「そりゃそうか」
愛梨は、舞台の方ばかり見ていた。
「ねえ、まだかな」
「何が?」
「……あゆ」
「お前なぁ!」
森田が思わず声を上げる。
佐伯が笑いながら、その肩を軽く叩いた。
「まあまあ。始まるぞ」
少し離れた別の席では、小川夫妻がパンフレットを開いていた。
「青葉高校、ちゃんと載ってるな」
父親が指で学校名を示す。
「当たり前でしょう。出場するんですから」
「いや、それは分かってるけど……」
父親は、もう一度その文字を見つめた。
「……すごいな、真理」
母親は隣で、静かに微笑んだ。
朝、娘が言った言葉を思い出していた。
学校が楽しい。
毎日が楽しい。
あんなに嬉しそうに話す娘の姿を、いつから見ていなかっただろう。
「……そうね」
母親は小さく頷いた。
「本当に、すごいわね」
そして、別の座席では。
「ねえ、あなた! ここならちゃんと見えるわよね?」
「見える見える。大丈夫だよ」
片岡夫妻も、落ち着かない様子で開演を待っていた。
「美奈、ちゃんと歩けるかしら」
「本人は大丈夫だって言ってたんだろ?」
「そうなんだけど……」
母親は舞台を見つめた。
「あの子、今日が楽しみで仕方ないって顔してたのよ」
父親が笑った。
「だったら、心配いらないだろ」
「……そうよね!」
母親も笑顔になった。
「よーし、いっぱい拍手しなきゃ!」
「まだ始まってないぞ」
「分かってるわよ!」
客席の照明が、ゆっくりと落ちていく。
会場のざわめきが収まった。
やがて、ステージ中央に明かりが灯る。
開会を告げる声が、ホールいっぱいに響いた。
◇
開会宣言が終わると、出場校の入場が始まった。
全国から選ばれた二十四組。
学校名が一つずつ読み上げられるたび、拍手が起こる。
青葉高校の名前が呼ばれたとき、美奈は勢いよく顔を上げた。
「行こ、真理!」
「……うん、美奈ちゃん!」
リンとともに、二人は案内された列を進んだ。
舞台の明かりが眩しい。
客席から、大きな拍手が聞こえてくる。
美奈が笑顔で手を振った。
真理も、少し遅れて小さく手を振る。
「あっ! いた!」
観客席で、沙織が声を上げた。
「美奈ー! 真理ー!」
悠斗も手を振る。
森田たちも青葉高校の姿を見つけ、拍手を送った。
その少し先。
「あっ! あなた、真理よ!」
小川家の母親が声を上げた。
「おお、いたいた!」
父親が身を乗り出す。
「真理ー! 頑張れよー!」
「ちょっと、声が大きいわよ!」
「朝、一番大きな声で応援するって言ったからな!」
母親は呆れたように笑いながらも、娘へ向かって手を振った。
舞台上の真理が、その姿に気づく。
「……あ」
「ん?」
「……お父さんと、お母さん」
真理の表情が、ふっと緩んだ。
小さく手を振り返す。
朝、食卓で伝えた言葉が胸に浮かんだ。
ありがとう。
その気持ちを、もう一度伝えたくなった。
一方、美奈も客席を見渡していた。
「……あっ!」
見つけた瞬間、顔がぱっと明るくなる。
「真理! うちの母さんたちもいた!」
片岡家の母親が、両手を大きく振っていた。
隣では父親も笑顔で拍手している。
「美奈ー!」
母親の声が聞こえた。
美奈は負けじと手を振り返す。
「母さーん!」
真理が少し慌てた。
「美奈ちゃん、そんなに振ったら……!」
「いいじゃん! せっかく来てくれてるんだし!」
リンは隣で笑った。
『片岡さん、列から離れないでよー!』
「分かってるって、凛ちゃん!」
『ほんとかなぁ……』
三人は笑いながら、所定の位置へ進んだ。
やがて入場は終盤に差しかかった。
会場に響く学校名を聞いていた真理は、ふと周囲の空気が変わったことに気づいた。
次の学校名が、告げられる。
「続きまして、昨年度グランプリ校! 京都市立銅駝美術工芸高等学校!」
その瞬間だった。
客席から、これまでとは比較にならない歓声が上がった。
「うおおおっ!」
「銅美ー!」
拍手が一気に大きくなる。
立ち上がって声援を送る観客もいる。
美奈が目を丸くした。
「……えっ!?」
真理も思わず客席を見渡した。
「……すごい」
歓声の中、銅美の生徒たちが入場してくる。
その先頭にいたのは、一人の少女だった。
小柄な身体。
周囲の生徒と並ぶと、その背の低さがよく分かる。
けれど、美奈は不思議とその少女から目を離せなかった。
背筋を伸ばし、ゆっくりと歩く。
客席に向かって、穏やかに微笑む。
歓声に浮かれることも、必要以上に気取ることもない。
ただ、その場に立っている。
それだけなのに。
「……ねえ、真理」
「……うん」
「あの先頭の子……」
美奈は言葉を探した。
「なんか、すごくない?」
真理も少女を見つめていた。
「……うん」
小柄なのに、存在感がある。
目立つ動きをしているわけではない。
なのに、自然と視線が集まる。
周囲の歓声さえ、少女の落ち着いた足取りを引き立てているようだった。
やがて銅美の生徒たちが、所定の位置へ進む。
拍手は、しばらく鳴りやまなかった。
『……うわ、すごい人気だね』
リンが小さく呟いた。
「ねえ、凛ちゃん」
『ん?』
「去年の優勝校って、こんなに人気あるもんなの?」
『うーん……あたしもちょっとびっくりしてる』
美奈はもう一度、銅美の列を見た。
先頭の少女は、変わらず落ち着いた表情をしていた。
◇
二十四組の入場が終わると、進行役が再びマイクを取った。
「それでは、昨年度グランプリ校より、優勝旗の返還をお願いいたします」
会場のざわめきが収まる。
「京都市立銅駝美術工芸高等学校、三年生代表――熊川怜奈さん」
美奈が、はっと顔を上げた。
先ほどの小柄な少女が、列から一歩進み出る。
「……あの子だ」
真理が小さく呟いた。
「……熊川怜奈」
美奈は初めて聞いた名前を、確かめるように口にした。
怜奈は係員から優勝旗を受け取ると、両手で丁寧に支えた。
その動きに、迷いはない。
壇上へ向かって進む姿を、会場中が見守っていた。
優勝旗を手にした怜奈は、一度だけ立ち止まった。
旗を少し持ち直し、正面を向く。
そして、受け取りに立った大会関係者へ、静かに頭を下げた。
優勝旗が、その手を離れる。
関係者も一礼を返した。
大きな拍手が起こった。
怜奈はもう一度、客席へ向かって深く礼をする。
その表情は、先ほどと変わらず穏やかだった。
「……すごいな」
美奈が呟いた。
真理は隣で、静かに頷いた。
去年、銅美はこの旗を手にした。
そして今年も、同じ場所に立っている。
けれど、真理が見つめていたのは、優勝旗だけではなかった。
小柄な少女が、ゆっくりと壇上を降りていく。
その背中を見送りながら、真理はもう一度、心の中で名前を繰り返した。
熊川怜奈。
初めて聞いた名前だった。
どんな服を作る人なのか。
どんなふうに、今日の大会へ挑んでいるのか。
今の真理には、まだ何も分からない。
ただ、ひとつだけ。
あの人が立っていた場所を、自分はこれから忘れないだろうと思った。
「……ねえ、真理」
美奈が小さく声をかけた。
「……なに、美奈ちゃん?」
「うちら、すごいところに来ちゃったね」
真理は、客席を見渡した。
たくさんの人たち。
全国から集まった高校生。
その中に、自分たちもいる。
「……うん」
胸が、またどきどきしてきた。
でも、朝とは少し違う。
怖いだけではない。
早く見てみたい。
ほかの学校が、どんな服を作ってきたのか。
そして、自分たちの服が、この場所でどんなふうに見えるのか。
真理は、美奈の顔を見た。
「……美奈ちゃん」
「ん?」
「今日、頑張ろうね」
美奈は一瞬きょとんとして、それから大きく笑った。
「もちろん!」
会場には、まだ拍手の余韻が残っていた。
真理は、もう一度ステージを見上げた。
自分たちが作った服も、今日、あそこへ出ていく。
その瞬間が、少しずつ近づいていた。




