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第七十六話「夢の舞台へ」

 二〇〇〇年七月八日、土曜日。


 小川真理は、いつもより少し早く目を覚ました。


 枕元の時計は、まだ六時半を指している。


 起き上がって、机の方を見た。


 そこには、何度も開いてきたスケッチブックが置かれていた。


 最初に描いたデザイン。描き直したもの。途中で諦めたもの。


 どのページにも、あの日の自分が残っている。


「……今日、なんだ」


 声に出すと、急に胸がどきどきしてきた。


 全国高校生ファッションコンテスト。


 応募したときは、まさか自分たちが本選に残るなんて思ってもいなかった。


 それが今日、東京の大きな会場で、全国から選ばれた二十四組のうちの一組として参加する。


 真理はスケッチブックの表紙に触れた。


 もう一度開こうとして、やめた。


 今さら何かを描き直すわけではない。


 自分たちの服は、もう完成しているのだから。


     ◇


「真理、おはよう」


「おはよう、お母さん」


 食卓には、朝食が用意されていた。


 父親もすでに席についている。


「早かったな。眠れたか?」


「うん。……ちょっとだけ、早く起きちゃった」


「そりゃそうだろう。今日は大事な日だからな」


 父親が笑った。


 真理は椅子に座ったが、いつもより食が進まない。


 母親がその様子に気づいた。


「緊張してる?」


「……うん」


「大丈夫よ。今まであんなに頑張ってきたんだから」


「……うん」


 真理は小さく頷いた。


 けれど、どうしても落ち着かない。


 会場で失敗したらどうしよう。


 美奈ちゃんが歩きにくかったら。


 照明が思ったように当たらなかったら。


 何度も確かめたはずなのに、次々と心配が浮かんでくる。


「真理」


 父親が声をかけた。


「今日、ちゃんと見に行くからな」


「……うん」


「お前が作った服、楽しみにしてるぞ」


「……ありがとう」


「会場でお父さんを見つけても、笑うんじゃないぞ」


「……え?」


「たぶん、一番大きな声で応援してるからな」


「もう、あなたったら」


 母親が笑う。


 真理も、つられて少し笑った。


「そういえば、チケットは持った?」


 真理が尋ねると、母親は食器棚のそばに置いた鞄を指さした。


「もちろん。昨日から何度も確認してるわよ」


「二枚とも?」


「ええ。真理がくれた大事なチケットだもの」


 父親も頷いた。


「なくしたら大変だからな。お母さんに預けてある」


「自分で持つと心配なんでしょう?」


「いや、そんなことは……」


 言いかけた父親が口をつぐむ。


 真理は思わず笑った。


 五月の家庭訪問の日。


 自分が服のデザインを勉強したいと話したとき、母親はとても驚いていた。


 それまで、将来のことをはっきり口にしたことがなかったからだ。


 自分でも、何がしたいのか分からなかった。


 学校へ行って、授業を受けて、帰ってくる。


 そんな毎日が、このままずっと続くのだと思っていた。


 でも、今は。


「……あのね」


 真理が口を開くと、両親がこちらを見た。


「お父さん、お母さん」


「どうしたの?」


「……ありがとう」


 母親が不思議そうに瞬きをした。


「急にどうしたの?」


「……私、今ね」


 真理は膝の上で手を握った。


「毎日が、すごく楽しいの」


「…………」


「学校に行くのが楽しい。美奈ちゃんと話すのも、服のことを考えるのも……」


 言葉を選びながら、ゆっくり続ける。


「うまくできなくて、嫌になることもいっぱいあったけど……それでも、次の日になると、また学校に行きたいって思うの」


 母親が黙って聞いていた。


「前は、こんなふうになるなんて、思ってなかった」


「……真理」


「服の勉強がしたいって言ったとき、二人ともちゃんと聞いてくれたでしょ」


 真理は顔を上げた。


「だから……ありがとう」


 少しの間、誰も口を開かなかった。


 やがて母親が、ふっと笑った。


「……そう」


 その声は、いつもより少し柔らかかった。


「学校、楽しいのね」


「……うん!」


 真理は、今度ははっきり頷いた。


 父親が目を細める。


「それなら、よかった」


「……うん」


「じゃあ今日は、思いきり楽しんでおいで」


 真理はもう一度頷いた。


 食卓の上の朝食に、ようやく手が伸びた。


     ◇


「美奈ー! 起きてるー!?」


「起きてるってばー!」


 片岡家の朝は、いつもどおり賑やかだった。


 美奈は鏡の前で髪を整えながら、母親に返事をした。


 六月に黒く戻した髪も、すっかり見慣れた。


 今日はいつもより丁寧に整え、最後に顔を左右へ向けて確認する。


「よし!」


 鏡の中の自分に向かって笑った。


 部屋の隅には、持っていく道具をまとめた鞄が置いてある。


 予備の糸、針、ハサミ。


 昨夜確認したばかりなのに、美奈はもう一度中を覗いた。


「……オッケー!」


 鞄を閉じたところで、部屋の扉が開いた。


「美奈、忘れ物ない?」


「ないない!」


「裁縫道具は?」


「持った!」


「大会の書類は?」


「ある!」


「お財布は?」


「あるって!」


「じゃあ、ハンカチ!」


「もー! 小学生じゃないんだから!」


 美奈が笑うと、母親も笑った。


「だって、全国大会でしょ? お母さんまで緊張しちゃって」


「緊張してんの?」


「してるわよ。あんたがあんな大きな大会に出るなんて」


「へへっ」


 美奈は照れくさそうに笑った。


 服が好きだった。


 自分でデザインした服を着たいと思っていた。


 けれど、真理と出会って、少し変わった。


 誰かが考えた服を、自分の手で形にする。


 布を選んで、切って、縫って。


 思っていたように仕上がらなくて、何度もほどいて。


 それでも完成したときは、たまらなく嬉しかった。


「……ねえ、母さん」


「ん?」


「うちらの服、絶対見てほしいんだよね」


「もちろん見るわよ。お父さんと一緒に行くんだから」


「分かってるけどさ!」


 美奈は笑いながら続けた。


「会場にいる人たちにも見てほしいの。すっごい頑張ったんだって」


 母親は、少しだけ真面目な顔になった。


「……そうね」


 そして、すぐに笑った。


「だったら、ちゃんと見てもらってきなさい」


「うん!」


「そうそう。あんたがくれたチケット、お父さんの分もちゃんと持ったからね」


「昨日も聞いたって!」


「だって、大事なチケットじゃない」


 母親は嬉しそうに言った。


「お父さんも、朝からそわそわしてるのよ。いつもなら休みの日はなかなか起きないのに」


「あはは! マジで?」


「さっきも、何時に出ればいいかって聞いてきたわ」


「もう決めてあるじゃん!」


「そうなのよ!」


 二人で笑う。


 美奈は鞄を持ち上げ、玄関へ向かった。


 靴を履いていると、母親が後ろから声をかけた。


「美奈」


「んー?」


「お母さんたちも、ちゃんと見てるからね!」


「分かってるって! 絶対見つけてよ!」


「もちろん! 一番大きな拍手するから!」


「へへっ。じゃあ、期待してる!」


 母親は笑いながら手を振った。


「楽しんでおいで!」


 美奈は振り返った。


 そして、思いきり笑った。


「もちろん!」


 玄関の扉を開ける。


「行ってきまーす!」


     ◇


 午前八時過ぎ。


 東京国際フォーラム。


「…………でっか!」


 美奈が、建物を見上げて叫んだ。


 ガラスと鉄骨が組み合わさった巨大な空間。


 頭上まで続く透明な壁の向こうから、朝の光が差し込んでいる。


 真理も隣で、ぽかんと口を開けていた。


「……すごいね」


「ね! ね! ここでやるんだよね!?」


『うん。ホールCって書いてあるし、ここで間違いないと思うよ』


 リンは手元の案内書と、目の前の建物を交互に見比べた。


 正直に言えば、あたしも少し驚いている。


 全国大会とは聞いていたけれど、ここまで立派な会場だとは思っていなかった。


 しかも、今日ここで高校生たちが自分の作った服を発表するのだ。


 未来の時代でも、こういう大舞台に立てる人はそう多くないだろう。


「凛ちゃん、写真撮ろ! 写真!」


『えっ、もう!? まだ受付もしてないんだけど!』


「一枚だけ!」


「……私も、撮りたいです。凛先生」


 真理まで控えめに手を挙げた。


『……あはは。分かった分かった! 一枚だけね!』


「やった!」


 美奈は真理の肩を抱き、建物を背にして並んだ。


 リンは持ってきたカメラを構える。


『はい、二人ともこっち向いてー!』


「いえーい!」


 美奈がピースサインを作る。


 真理は少し照れながら、小さく手を上げた。


 シャッターを切る。


『よし、撮れた!』


「あとで見せてね!」


『現像しないと見られないから、ちょっと待っててね』


「あ、そっか!」


 美奈が笑う。


『もう、片岡さんったら』


 リンもつられて笑った。


 そんなやり取りをしている間にも、周囲には大きな荷物を抱えた高校生たちが次々と集まっていた。


 細長い衣装ケース。


 大きなバッグ。


 学校名の書かれた札を持つ生徒たち。


 美奈は周囲を見回した。


「……みんな、出る人たち?」


『たぶんそうだと思うよ。ほら、あっちにも衣装ケース持ってる子がいるし』


「……二十四組」


 真理が呟く。


 応募したのは、自分たちだけではなかった。


 全国のあちこちで、同じように布を切り、ミシンを踏み、何度もやり直した人たちがいたのだ。


 真理は、自然と背筋を伸ばした。


『じゃあ、そろそろ受付に行こっか。片岡さん、小川さん』


「はーい!」


「……はい!」


 三人は案内表示に従い、会場の中へ進んだ。


     ◇


 その頃。


「……ここで合ってるよな?」


 高木悠斗は、会場の案内板を見ながら首を傾げていた。


「合ってるって。ほら、ファッションコンテストって書いてあるじゃん」


 隣の西野沙織が、表示を指さす。


「あ、ほんとだ」


「もー。さっきも確認したでしょ」


「いや、建物が思ったより広くてさ」


「それは分かるけど」


 沙織は笑った。


 入口付近では、一般観客の列が少しずつ伸び始めている。


「美奈と真理、もう来てるかな?」


「出場者は早めに集合って言ってたし、来てるんじゃない?」


「そっか」


 悠斗は、会場の奥へ目を向けた。


「……楽しみだな」


「うん!」


 沙織は嬉しそうに頷いた。


     ◇


「おい、愛梨! そんな急がなくても逃げねえって!」


「分かってるってば!」


「分かってるやつの歩く速さじゃねえだろ!」


 森田翔平が呆れた声を上げた。


 その前を、愛梨が早足で進んでいる。


 佐伯大輔は二人の後ろから、苦笑しながらついていった。


「まあ、今日は楽しみにしてたんだろ」


「そうだよ! だって、浜崎あゆみが来るんだよ!?」


「だから何回言うんだよ、それ!」


「何回だって言うよ!」


 愛梨は勢いよく振り返った。


「生で聴けるんだよ!? テレビじゃなくて! あゆが目の前にいるんだよ!?」


「分かった! 分かったから前向いて歩け!」


「……はーい」


 返事をした直後、愛梨は再び早足になった。


 森田は天井を仰いだ。


「……今日一日、これかよ」


「ははっ」


 佐伯が笑う。


「美奈たちの応援も忘れるなよ」


「忘れないよ! そっちもめっちゃ楽しみ!」


 愛梨が振り返らずに答えた。


「でも、あゆも楽しみ!」


「結局それか!」


 三人の声が、朝の通路に響いた。


     ◇


 藤崎千尋が会場に到着したのは、その少しあとだった。


 入口の案内を確認し、受付の場所へ向かう。


 参加者側の受付には、すでに各校の生徒たちが集まっていた。


 千尋はその様子をしばらく眺めた。


 青葉高校の家庭科室で、放課後になると聞こえていたミシンの音。


 机いっぱいに広げられた生地。


 うまく縫えなかったところを、二人で何度も確かめていた姿。


 その二人が、今日ここにいる。


「……本当に来ちゃったのね」


 千尋は小さく笑った。


 今日は観客席から見守ることになっている。


 いつもなら、手元の布を一緒に確認することができた。


 でも今日は違う。


 出来上がったものを見届ける日だ。


 千尋は案内に従い、観客用の入口へ向かった。


     ◇


 参加者エリア。


「うわ……」


 美奈が小さく声を漏らした。


 控室へ続く通路には、各校の生徒たちが行き交っていた。


 ハンガーラックに衣装を掛ける者。


 布の端を慎重に点検する者。


 鏡の前でモデルの髪を整える者。


 あちこちから、慌ただしい声が聞こえてくる。


「そこ、もう一回確認して!」


「アイロン使い終わったら声かけて!」


「靴、こっちにあるよ!」


 真理は、その光景に圧倒されていた。


 みんな、自分たちと同じだ。


 今日のために、たくさん準備してきた。


 けれど、同じだからこそ、分かることもある。


 並べられた衣装の縫い目。


 生地の扱い。


 作業の手際。


 どの学校も、真剣だった。


「……美奈ちゃん」


「ん?」


「すごいね、みんな」


「うん……」


 美奈は一度だけ頷いた。


 そして、にっと笑う。


「でも、うちらだって頑張ったじゃん!」


「……うん!」


『そうだよ! 二人が作った服だって、ちゃんとここにあるんだから!』


 リンが笑って声をかけた。


『ほら、小川さん。そんなに周りばっかり見てたら、緊張しちゃうよ?』


「……あ、はい」


『もちろん、あたしもちょっと緊張してるけどね!』


「凛ちゃんも!?」


『するよ! こんな大きい大会、初めてだし!』


「なーんだ! 凛ちゃんも一緒じゃん!」


『そうそう。だからみんなで頑張ろ!』


 真理は、持ってきた衣装ケースへ目を向ける。


 青緑と紫の光沢を持つ生地。


 左右で形の違う裾。


 何度も考え直した、斜めに流れるドレープ。


 作り始めた頃は、どんな形になるのか想像もつかなかった。


 それが今、ここにある。


「……うん」


 真理は、そっと衣装ケースに触れた。


     ◇


 リハーサル。


 ホールCの舞台には、客席方向へ伸びる一本のランウェイが設けられていた。


 その先端に立った美奈は、思わず足を止めた。


「…………」


 目の前に、客席が広がっている。


 何列も、何列も。


 今はまだ人がまばらなその場所が、あと数時間で観客に埋まる。


「……やっば」


 美奈は小さく呟いた。


「ここ、歩くんだ……」


 リハーサル担当者の指示に従って、ゆっくりと歩き出す。


 先端まで進み、立ち止まる。


 身体を斜めに向ける。


 それから、振り返る。


 普段なら何でもない動作だ。


 けれど、今日は足元が少し違って感じられた。


 舞台袖では、真理とリンが見守っている。


「……美奈ちゃん、緊張してるかな」


『してるんじゃないかなぁ』


「……ですよね」


『でも、楽しそうじゃない?』


 真理は、美奈の方を見た。


 ちょうど、美奈がランウェイの先端から戻ってくるところだった。


「ねえ真理!」


「……なに?」


「めっちゃ広い!」


「……うん」


「しかもさ、先っぽに立つと客席ぜーんぶ見える!」


『あはは! そりゃそうだよ!』


「凛ちゃん! なんか急に緊張してきた!」


『今さら!?』


「だってさー!」


 美奈は笑いながら、自分の胸を押さえた。


「今まで教室とか家で練習してたのと、全然違うんだもん!」


 真理も笑った。


「……私も、ここに来てから、ずっとどきどきしてる」


「だよね!」


『うんうん。あたしも分かるよ』


 リンは二人の顔を見比べた。


『でも、まだ時間あるからさ。今のうちに気になるところ、確認しとこっか』


「はーい!」


「はい、凛先生」


『それに、片岡さん』


「ん?」


『さっきの歩き方、いい感じだったよ!』


「ほんと!?」


『うん。あたし、モデルのことは詳しくないけど、片岡さんらしくてよかったと思う!』


「へへっ。やっぱ?」


『……あ、でも、本番で調子に乗って走ったりしないでよ?』


「しないってば!」


 美奈が笑う。


 真理も、つられて笑った。


 その顔には、緊張と同じくらい、楽しみが浮かんでいた。


     ◇


 午前十時半。


 ホールCの客席は、すでに多くの観客で埋まっていた。


 悠斗と沙織は、舞台を見渡せる席に座っていた。


「……すごいな、これ」


「うん。美奈たち、本当にここでやるんだね」


 少し離れた席では、森田がパンフレットを開いている。


「二十四校って、結構多いんだな」


「全国から来てるんだろ」


 佐伯が答えた。


「そりゃそうか」


 愛梨は、舞台の方ばかり見ていた。


「ねえ、まだかな」


「何が?」


「……あゆ」


「お前なぁ!」


 森田が思わず声を上げる。


 佐伯が笑いながら、その肩を軽く叩いた。


「まあまあ。始まるぞ」


 少し離れた別の席では、小川夫妻がパンフレットを開いていた。


「青葉高校、ちゃんと載ってるな」


 父親が指で学校名を示す。


「当たり前でしょう。出場するんですから」


「いや、それは分かってるけど……」


 父親は、もう一度その文字を見つめた。


「……すごいな、真理」


 母親は隣で、静かに微笑んだ。


 朝、娘が言った言葉を思い出していた。


 学校が楽しい。


 毎日が楽しい。


 あんなに嬉しそうに話す娘の姿を、いつから見ていなかっただろう。


「……そうね」


 母親は小さく頷いた。


「本当に、すごいわね」


 そして、別の座席では。


「ねえ、あなた! ここならちゃんと見えるわよね?」


「見える見える。大丈夫だよ」


 片岡夫妻も、落ち着かない様子で開演を待っていた。


「美奈、ちゃんと歩けるかしら」


「本人は大丈夫だって言ってたんだろ?」


「そうなんだけど……」


 母親は舞台を見つめた。


「あの子、今日が楽しみで仕方ないって顔してたのよ」


 父親が笑った。


「だったら、心配いらないだろ」


「……そうよね!」


 母親も笑顔になった。


「よーし、いっぱい拍手しなきゃ!」


「まだ始まってないぞ」


「分かってるわよ!」


 客席の照明が、ゆっくりと落ちていく。


 会場のざわめきが収まった。


 やがて、ステージ中央に明かりが灯る。


 開会を告げる声が、ホールいっぱいに響いた。


     ◇


 開会宣言が終わると、出場校の入場が始まった。


 全国から選ばれた二十四組。


 学校名が一つずつ読み上げられるたび、拍手が起こる。


 青葉高校の名前が呼ばれたとき、美奈は勢いよく顔を上げた。


「行こ、真理!」


「……うん、美奈ちゃん!」


 リンとともに、二人は案内された列を進んだ。


 舞台の明かりが眩しい。


 客席から、大きな拍手が聞こえてくる。


 美奈が笑顔で手を振った。


 真理も、少し遅れて小さく手を振る。


「あっ! いた!」


 観客席で、沙織が声を上げた。


「美奈ー! 真理ー!」


 悠斗も手を振る。


 森田たちも青葉高校の姿を見つけ、拍手を送った。


 その少し先。


「あっ! あなた、真理よ!」


 小川家の母親が声を上げた。


「おお、いたいた!」


 父親が身を乗り出す。


「真理ー! 頑張れよー!」


「ちょっと、声が大きいわよ!」


「朝、一番大きな声で応援するって言ったからな!」


 母親は呆れたように笑いながらも、娘へ向かって手を振った。


 舞台上の真理が、その姿に気づく。


「……あ」


「ん?」


「……お父さんと、お母さん」


 真理の表情が、ふっと緩んだ。


 小さく手を振り返す。


 朝、食卓で伝えた言葉が胸に浮かんだ。


 ありがとう。


 その気持ちを、もう一度伝えたくなった。


 一方、美奈も客席を見渡していた。


「……あっ!」


 見つけた瞬間、顔がぱっと明るくなる。


「真理! うちの母さんたちもいた!」


 片岡家の母親が、両手を大きく振っていた。


 隣では父親も笑顔で拍手している。


「美奈ー!」


 母親の声が聞こえた。


 美奈は負けじと手を振り返す。


「母さーん!」


 真理が少し慌てた。


「美奈ちゃん、そんなに振ったら……!」


「いいじゃん! せっかく来てくれてるんだし!」


 リンは隣で笑った。


『片岡さん、列から離れないでよー!』


「分かってるって、凛ちゃん!」


『ほんとかなぁ……』


 三人は笑いながら、所定の位置へ進んだ。


 やがて入場は終盤に差しかかった。


 会場に響く学校名を聞いていた真理は、ふと周囲の空気が変わったことに気づいた。


 次の学校名が、告げられる。


「続きまして、昨年度グランプリ校! 京都市立銅駝美術工芸高等学校!」


 その瞬間だった。


 客席から、これまでとは比較にならない歓声が上がった。


「うおおおっ!」


「銅美ー!」


 拍手が一気に大きくなる。


 立ち上がって声援を送る観客もいる。


 美奈が目を丸くした。


「……えっ!?」


 真理も思わず客席を見渡した。


「……すごい」


 歓声の中、銅美の生徒たちが入場してくる。


 その先頭にいたのは、一人の少女だった。


 小柄な身体。


 周囲の生徒と並ぶと、その背の低さがよく分かる。


 けれど、美奈は不思議とその少女から目を離せなかった。


 背筋を伸ばし、ゆっくりと歩く。


 客席に向かって、穏やかに微笑む。


 歓声に浮かれることも、必要以上に気取ることもない。


 ただ、その場に立っている。


 それだけなのに。


「……ねえ、真理」


「……うん」


「あの先頭の子……」


 美奈は言葉を探した。


「なんか、すごくない?」


 真理も少女を見つめていた。


「……うん」


 小柄なのに、存在感がある。


 目立つ動きをしているわけではない。


 なのに、自然と視線が集まる。


 周囲の歓声さえ、少女の落ち着いた足取りを引き立てているようだった。


 やがて銅美の生徒たちが、所定の位置へ進む。


 拍手は、しばらく鳴りやまなかった。


『……うわ、すごい人気だね』


 リンが小さく呟いた。


「ねえ、凛ちゃん」


『ん?』


「去年の優勝校って、こんなに人気あるもんなの?」


『うーん……あたしもちょっとびっくりしてる』


 美奈はもう一度、銅美の列を見た。


 先頭の少女は、変わらず落ち着いた表情をしていた。


     ◇


 二十四組の入場が終わると、進行役が再びマイクを取った。


「それでは、昨年度グランプリ校より、優勝旗の返還をお願いいたします」


 会場のざわめきが収まる。


「京都市立銅駝美術工芸高等学校、三年生代表――熊川怜奈さん」


 美奈が、はっと顔を上げた。


 先ほどの小柄な少女が、列から一歩進み出る。


「……あの子だ」


 真理が小さく呟いた。


「……熊川怜奈」


 美奈は初めて聞いた名前を、確かめるように口にした。


 怜奈は係員から優勝旗を受け取ると、両手で丁寧に支えた。


 その動きに、迷いはない。


 壇上へ向かって進む姿を、会場中が見守っていた。


 優勝旗を手にした怜奈は、一度だけ立ち止まった。


 旗を少し持ち直し、正面を向く。


 そして、受け取りに立った大会関係者へ、静かに頭を下げた。


 優勝旗が、その手を離れる。


 関係者も一礼を返した。


 大きな拍手が起こった。


 怜奈はもう一度、客席へ向かって深く礼をする。


 その表情は、先ほどと変わらず穏やかだった。


「……すごいな」


 美奈が呟いた。


 真理は隣で、静かに頷いた。


 去年、銅美はこの旗を手にした。


 そして今年も、同じ場所に立っている。


 けれど、真理が見つめていたのは、優勝旗だけではなかった。


 小柄な少女が、ゆっくりと壇上を降りていく。


 その背中を見送りながら、真理はもう一度、心の中で名前を繰り返した。


 熊川怜奈。


 初めて聞いた名前だった。


 どんな服を作る人なのか。


 どんなふうに、今日の大会へ挑んでいるのか。


 今の真理には、まだ何も分からない。


 ただ、ひとつだけ。


 あの人が立っていた場所を、自分はこれから忘れないだろうと思った。


「……ねえ、真理」


 美奈が小さく声をかけた。


「……なに、美奈ちゃん?」


「うちら、すごいところに来ちゃったね」


 真理は、客席を見渡した。


 たくさんの人たち。


 全国から集まった高校生。


 その中に、自分たちもいる。


「……うん」


 胸が、またどきどきしてきた。


 でも、朝とは少し違う。


 怖いだけではない。


 早く見てみたい。


 ほかの学校が、どんな服を作ってきたのか。


 そして、自分たちの服が、この場所でどんなふうに見えるのか。


 真理は、美奈の顔を見た。


「……美奈ちゃん」


「ん?」


「今日、頑張ろうね」


 美奈は一瞬きょとんとして、それから大きく笑った。


「もちろん!」


 会場には、まだ拍手の余韻が残っていた。


 真理は、もう一度ステージを見上げた。


 自分たちが作った服も、今日、あそこへ出ていく。


 その瞬間が、少しずつ近づいていた。

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