第七十五話「それぞれの画面」
二〇二六年(令和八年)七月二十二日、水曜日。
都立桜丘高校。
「……ええっ!?」
橘莉子の声が、教室に響いた。
「じゃあ、配信続けていいってこと!?」
「……うん」
高瀬美月は、少し照れくさそうに頷いた。
「お母さん、まだ反対してるけど……卒業してから三年間だけ、挑戦してもいいって」
「……マジで!?」
莉子は目を丸くした。
「よかったじゃん、美月!」
「……うん!」
美月が笑う。
「ちゃんと話せたんだね」
近くにいた水瀬結衣が、ほっとしたように微笑んだ。
「……うん。すっごく怖かったけど」
「そっか……」
結衣は頷いた。
「頑張ったね、美月ちゃん」
「……ありがとう」
美月は少し俯いた。
昨日の面談を思い出す。
母親の厳しい言葉。
父親の驚いた顔。
そして、山本先生が自分のために話してくれたこと。
何より、自分の言葉を最後まで聞いてもらえたこと。
思い返すと、今でも胸がいっぱいになる。
「……でもさ」
莉子が腕を組んだ。
「三年間って、結構厳しくない?」
「……そうかな?」
「だって三年で結果出せってことでしょ?」
「……うん。でも、私には十分だと思う」
美月は、はっきりと答えた。
「今まで、お母さんにちゃんと話したこともなかったから」
「…………」
「だから……三年間でも、自分で選ばせてくれたのが嬉しい」
莉子は、美月の顔を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……そっか」
「……うん」
「じゃあ、頑張らなきゃね!」
「うん!」
そのとき、藤原悠真が口を開いた。
「……でも、配信はすぐ再開するの?」
「……来週の月曜日にしようかなって」
「ああ、いつもの日か」
「うん。もう少し準備したいし……」
美月は鞄から一冊のノートを取り出した。
「……これ、まだ書き足してるんだ」
「……何それ?」
莉子が覗き込む。
「配信を再開するときの決まり事。お母さんにも、面談のときに見てもらったんだけど」
「へえ……」
莉子はノートへ目を落とした。
「制服で配信しない。背景を確認する。個人的なメッセージには返事をしない……」
少し驚いたように顔を上げる。
「……結構考えたんだね」
「……うん」
美月は頷いた。
「まだ足りないこともあると思うけど、ちゃんと気をつけたいから」
悠真もノートを覗き込んだ。
「……コメント管理も考えた方がいいと思う」
「コメント管理?」
「うん。変なコメントを表示しないようにしたり、迷惑なアカウントをブロックしたり」
「……そっか」
「あと、配信中にうっかり個人情報を喋らないようにするとか」
「……なるほど」
美月は慌ててペンを取り出した。
「ちょっと待って。メモする!」
莉子が笑った。
「真面目か!」
「だって、大事だもん!」
「まあ、そうだけどさ」
少し離れたところで、そのやり取りを聞いていた結衣も、美月へ声をかけた。
「……美月ちゃん。分からないことがあったら、また相談してね」
美月が顔を上げる。
「……うん。ありがとう、結衣ちゃん」
結衣は微笑んだ。
莉子も、その言葉は聞こえていた。
けれど、結衣へ話しかけることはなかった。
結衣もまた、莉子へ声をかけなかった。
二人の間には、以前から続く距離がまだ残っている。
それでも、美月のことを心配している気持ちは同じだった。
「……ありがと、みんな」
美月は、三人を見渡して笑った。
◇
同じ日の放課後。
職員室。
『……そうか! 来週の月曜日か!』
凛の声に、美月は頷いた。
「……はい。配信、再開しようと思ってます」
『うむ!』
凛は嬉しそうに笑った。
『準備はできそうか?』
「……まだ途中ですけど、ちゃんと考えてます」
『そうか』
凛は、美月の持っているノートへ視線を向けた。
『……そのノート、続けているんだな』
「……はい」
美月は少し照れくさそうに笑った。
「面談のあとも、思いついたことを書き足してるんです」
『……なるほど!』
「お母さんにも、再開する前に確認してもらうつもりです」
『うむ。それがいいだろう』
凛は頷いた。
『……お母さんも、まだ心配されているだろうからな』
「……はい」
美月は小さく笑った。
「今朝も、配信するなら部屋の中をちゃんと片づけなさいって言われました」
『ははは! そうか!』
「……別に、散らかってないんですけどね」
美月が少し頬を膨らませる。
凛は楽しそうに笑った。
『まあ、お母さんなりに気にかけてくださっているんだろう』
「……そうですね」
美月も笑った。
少し前まで、母親と配信について話すことさえ難しかった。
今も、意見が一致しているわけではない。
けれど、以前とは何かが違っていた。
『……美月』
「……はい?」
『無理はするなよ』
凛は、少しだけ真剣な表情になった。
『急いで以前のように戻す必要はない。美月のペースでやればいい』
「…………」
美月は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
そして、笑った。
「……今度は、そうします」
◇
七月二十七日、月曜日。
夜。
高瀬美月は、自室の机に向かっていた。
ノートパソコンの前には、いつも使っているマイク。
その横には、配信前の確認事項を書いたノートが置かれている。
窓のカーテンは閉めた。
背景に学校や自宅の場所が分かるものが映っていないことも確認した。
コメントを制限する設定も見直した。
投げ銭機能はオフにしてある。
今日の衣装は、淡い水色のブラウス。
特別に目立つ服ではない。
けれど、美月自身が気に入って選んだものだった。
「……よし」
美月は小さく頷いた。
そして、配信画面を開く。
『なでしこちゃんねる』
登録者数は、二万五千人台になっていた。
休止前より、千人以上減っている。
「…………」
美月は数字を見つめた。
以前だったら、きっと落ち込んでいた。
どうして減ったんだろう。
何か新しいことをしなきゃ。
もっと見てもらえるようにしなきゃ。
そう考えて、慌てていたかもしれない。
けれど、今は違った。
「……まあ、仕方ないよね」
美月は小さく笑った。
休んでいる間に離れてしまった人もいる。
これからの配信が合わなくなる人だって、いるかもしれない。
それは、寂しい。
でも。
「……また、一人ずつ来てくれたらいいな」
美月はマウスを動かした。
配信開始のボタンが、画面に表示されている。
少しだけ、指が止まった。
胸がどきどきする。
あの事件があってから、初めての配信だ。
怖くないと言えば、嘘になる。
それでも。
「……大丈夫」
美月は、ゆっくりと息を吸った。
そして、クリックした。
◇
《こんばんはー!》
《なでしこです!》
画面の中で、美月が笑った。
《みんな、久しぶり!》
少しずつ、コメントが流れ始める。
《おかえり!》
《なでしこちゃん!》
《待ってたよ!》
《久しぶり!》
《元気そうでよかった!》
美月は、その一つひとつを見つめた。
「……あ」
思わず、声が漏れる。
《……あはは。なんか、ちょっと緊張しちゃう》
コメントが増えた。
《緊張してるのかわいい》
《無理しないでね》
《おかえり!》
美月は、少しだけ目を細めた。
《……ありがとう》
そして、改めて顔を上げる。
《みんな、休んでる間も応援してくれてありがとう》
《心配してくれた人も、本当にありがとう》
少し間を置く。
《今日は久しぶりだから……のんびりお話ししたいなって思ってます》
《最近ハマってる音楽とか、夏休みにやってみたいこととか!》
画面の向こうで、コメントが流れる。
《いいね!》
《雑談待ってた》
《今日の服かわいい!》
《その曲知ってる!》
美月は笑った。
《あ、衣装褒めてくれてありがとう! これ、私のお気に入りなんだ》
それから、視聴者の質問を一つ拾った。
《えっ、最近聴いてる曲? あるよ! ちょっと待って、いっぱいありすぎる!》
いつものように笑って、話す。
コメントを読み、時々首を傾げる。
話題が脱線して、自分でも何を話していたのか分からなくなる。
それでも、美月は楽しそうだった。
以前よりも視聴者は少ない。
数字の増減を知らせる表示も、画面の端にある。
けれど、美月は何度もそこを確かめたりしなかった。
今、自分の話を聞いてくれている人がいる。
そのことが、嬉しかった。
◇
同じ頃。
橘莉子は、自室のベッドに寝転がりながらスマートフォンを見ていた。
《……でね、そのあと本当にびっくりしちゃって!》
画面の中で、美月が笑っている。
「……ふふ」
莉子も笑った。
少しして、美月へメッセージを送る。
《復帰おめでと! めっちゃ楽しそうじゃん!》
もちろん、配信中だからすぐに返事が来るわけではない。
それでも、莉子は満足そうにスマートフォンを置いた。
「……ほんと、よかった」
小さく呟く。
画面の中では、美月が楽しそうに話していた。
少し前まで、帰り道を怖がり、教室でも不安そうにしていた友達。
その美月が、また笑っている。
それだけで、嬉しかった。
◇
一方。
水瀬結衣も、自室で美月の配信を見ていた。
机の上には、バレーボール部の練習ノートが開かれている。
けれど、今はペンを置いていた。
《……そうそう! 私もそれ好きなんだよね!》
画面の中で、美月が笑っている。
結衣は、ほっとしたように息を吐いた。
「……よかった」
あの事件が起きてから、美月は何度も怖い思いをしてきた。
学校では笑っていても、時々不安そうな顔を見せていた。
だからこそ。
今、画面の向こうで楽しそうに話している姿が、嬉しかった。
結衣はスマートフォンを手に取り、美月へ短いメッセージを送った。
《配信、見てるよ。おかえり、美月ちゃん》
そして、もう一度画面を見つめた。
莉子も、きっとどこかで同じ配信を見ているのだろう。
ふと、そんなことを考えた。
けれど、結衣は莉子へ連絡することはなかった。
◇
藤原悠真も、自室で配信を見ていた。
「……お」
画面の中で、美月がコメントを読みながら笑っている。
以前と比べると、コメントの流れは少し落ち着いていた。
不適切なコメントも、以前より表示されにくくなっているようだった。
「……ちゃんと設定したんだな」
悠真は小さく笑った。
美月が自分で考え、準備してきたこと。
その結果が、少しずつ形になっている。
悠真は、しばらく画面を見つめていた。
「……よかったな、高瀬」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
◇
凛もまた、自室で美月の配信を見ていた。
『……うむ!』
画面を見つめながら、大きく頷く。
以前、初めて美月の配信を見たときは、仕組みもよく分からず、戸惑うことばかりだった。
画面の向こうに大勢の人がいる。
姿の見えない相手と会話している。
その不思議な光景が、今では少しだけ身近に感じられる。
《……あ、初めて来てくれた人もいるんだ! こんばんは!》
美月が笑っている。
凛は、その顔を見つめた。
事件が起きたとき。
自分は、美月の配信をやめさせようとした。
危険なものから遠ざければ、それで守れると思っていた。
けれど、今。
画面の中の美月は、自分の意思でそこに座っている。
考えて、悩んで、準備して。
もう一度、始めることを選んだ。
『……いい顔をしているな』
凛は微笑んだ。
配信が終わるまで見届けるつもりだった。
◇
配信開始から一時間ほどが過ぎた頃。
《……そろそろ、今日は終わろうかな!》
美月が画面に向かって手を振った。
《久しぶりなのに、来てくれて本当にありがとう!》
《次も、無理せず自分のペースでやっていこうと思ってます》
コメントが流れる。
《おつかれ!》
《また来るね!》
《楽しかった!》
《おやすみ!》
美月は嬉しそうに笑った。
《うん! またね!》
《おやすみなさーい!》
配信が終了した。
美月は、椅子の背もたれに体を預けた。
「……ふう」
大きく息を吐く。
緊張していた。
けれど、それ以上に楽しかった。
「……やっぱり、好きだな」
美月は笑った。
配信結果の画面を確認する。
登録者数は、配信前より少しだけ増えていた。
以前なら、何人増えたかを数え、次の目標を考えていた。
美月はしばらく画面を見つめたあと、ノートパソコンを閉じた。
「……今日は、これでいいや」
机の上のノートを開く。
今日の配信で気づいたことを、短く書き込む。
《久しぶりの配信。緊張したけど楽しかった。》
《コメントを全部拾おうとして、少し慌てた。》
《次はもう少し落ち着いて話したい。》
そして、最後に。
《また配信したい。》
美月はペンを置いた。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「……美月」
母親の声だった。
「……はい!」
「配信は終わったの?」
「……うん。今終わったところ」
「……そう」
少し間があった。
「……戸締まりと、窓の確認はしてあるわね?」
「……うん。大丈夫」
「分かったわ。あまり夜更かししないようにね」
「……うん!」
足音が遠ざかっていく。
美月は、閉じた扉を見つめた。
母親は、まだ配信を喜んでくれているわけではない。
けれど、以前なら「もうやめなさい」と言われていたかもしれない。
その違いが、嬉しかった。
「……お母さん」
美月は、小さく笑った。
そして、明日の準備を始めた。
◇
桜丘高校三年四組の生徒たちは、それぞれの場所で美月の配信を見ていた。
莉子も、結衣も、悠真も。
画面の中で笑う美月の姿に、安心していた。
ストーカー事件は、ひとまず収束した。
美月は、自分の夢を諦めずに済んだ。
何もかも元どおりではない。
それでも、また少しずつ日常が戻ってきている。
多くのクラスメイトが、そんな美月を喜んでいた。
ただ、一人を除いて。
◇
「…………」
茜は、自室でスマートフォンを見つめていた。
画面には、美月の配信が残っている。
配信を見ていたのは、茜も同じだった。
久しぶりに元気そうな顔が見られて、最初は安心した。
けれど。
画面の中で、美月が笑いながら話していた。
《……いつか、もっといろんなことに挑戦してみたいなって思ってます!》
コメントが流れる。
《応援してるよ!》
《これからも楽しみにしてる!》
《頑張って!》
茜は、その言葉をじっと見つめていた。
以前、美月が配信で将来の夢について少し話していたことを思い出す。
配信を続けて、いつか仕事にしたい。
そんな話だった。
「……仕事、か」
茜は小さく呟いた。
美月は、自分の好きなことをしている。
その姿を、大勢の人が見ている。
そして、その先には収入を得る道もあるのかもしれない。
「…………」
茜は、スマートフォンを握り直した。
美月が無事でよかった。
それは、本当にそう思っている。
けれど。
茜には、別のことが気になっていた。
画面の向こうには、自分の知らない世界がある。
そこでは、人に注目されることが、何かの価値につながっている。
茜は、もう一度美月の笑顔を見た。
そして、そっと画面を閉じた。
別のSNSを開く。
おすすめ欄には、同世代の女の子たちの投稿が並んでいた。
高そうなバッグ。
綺麗なレストラン。
ブランド物のアクセサリー。
華やかな写真の数々。
茜は、指を止めた。
《今日は素敵なディナーをごちそうさまでした♡》
そんな言葉とともに、豪華な料理の写真が載っている。
次の投稿。
《欲しかったバッグ、プレゼントしてもらっちゃった!》
さらに、別の投稿。
《優しい人に出会えてよかった》
茜は、画面を見つめた。
「…………」
どれも、自分とそれほど年齢が変わらないように見える女の子たちだった。
けれど、身につけているものも、行っている場所も、自分とはまるで違う。
「……いいな」
小さく呟いた。
今までも、何度となく目にしてきたものだった。
けれど、今夜は少し違って見えた。
美月は、好きなことを続けるために頑張っている。
自分の力で、将来を選ぼうとしている。
それは、すごいと思う。
でも。
茜の視線は、画面の中の高価なバッグへ戻っていた。
「……どうしたら、こんなの買えるんだろ」
茜は、ゆっくりと画面を指でなぞった。
その先には、投稿者のプロフィールがある。
何気なく開く。
華やかな写真。
高級なレストラン。
そして、年上の男性と並んだ写真。
茜は、そこで指を止めた。
「…………」
少し考える。
それから、画面をもう一度見た。
美月の配信を見ていたときとは、まるで違う表情だった。
心配でも、安堵でもない。
憧れとも、羨望ともつかない感情。
茜は、ゆっくりと画面をスクロールした。
そこには、知らない世界が広がっていた。
美月がようやく取り戻した日常。
その裏側で。
別の少女の心に、まだ本人も気づいていない小さな欲望が芽生え始めていた。




