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第七十三話「譲れないもの」

 二〇二六年(令和八年)七月十六日、木曜日。


 高瀬美月は、自室の机に向かっていた。


 目の前のノートパソコンには、見慣れた画面が表示されている。


 『なでしこちゃんねる』


 登録者数、二万七千人。


 以前なら、その数字を見るだけで嬉しくなった。


 昨日より何人増えた。


 今月中にどこまで届くだろう。


 次の配信では何をしよう。


 そんなことばかり考えていた。


「…………」


 美月はマウスを動かした。


 画面には、過去の配信動画が並んでいる。


 一番古い動画を開く。


《こんばんはー! なでしこです!》


 画面の中の自分が、少しぎこちない笑顔で手を振っていた。


「……ふふ」


 思わず笑ってしまう。


 今と比べると、ずいぶん緊張している。


 話題が途切れるたびに視線が泳ぎ、コメントが一つ流れるだけで大喜びしていた。


《えっ、初見さん!? ありがとうございます!》


《あの、よかったらゆっくりしていってください!》


 美月は顎に手を当てた。


「……懐かしいな」


 まだ視聴者が少なかった頃。


 好きな音楽を紹介したり、学校生活の中で見つけた面白いことを、場所や名前が分からないように気をつけながら話したり。


 たまに何も話すことがなくなって、視聴者から質問を募集したこともあった。


 それでも楽しかった。


 画面の向こうに誰かがいる。


 自分の話を聞いて、笑ってくれる人がいる。


 それが、ただ嬉しかった。


 美月は動画を閉じた。


 そして、最近の配信を開く。


《みんなー! 今日の衣装、どうかな?》


 画面の中の自分は、以前よりずっと慣れた様子で笑っていた。


 華やかな衣装。


 露出の増えた肩や脚。


 流れていくコメント。


《かわいい!》


《今日も最高!》


《もっと見せて!》


《登録者三万人いける!》


 美月は、しばらく画面を見つめていた。


 この衣装が嫌いだったわけではない。


 自分で選んだものだし、可愛いと思っていた。


 ただ、いつからだろう。


 次の配信では、もっと反応が欲しい。


 前回よりも多くの人に見てもらいたい。


 そう考える時間が増えていた。


 コメントで褒められた服に似たものを買い、評判のよかった演出を繰り返す。


 再生数が伸び悩めば、もっと目を引くものを探す。


「…………」


 美月は動画を止めた。


 先月、制服姿で配信したときのことを思い出す。


 いつもとは違う自分を見せたかった。


 学校生活の話をすれば、視聴者も喜んでくれると思った。


 けれど、その映像をきっかけに学校が推測され、自分の日常へ知らない誰かが近づいてきた。


 今なら分かる。


 あのときの自分は、配信の画面に何が映っているのか、その情報がどこまで広がっていくのか、きちんと考えていなかった。


 画面の向こうには、応援してくれる人ばかりがいると思っていた。


 美月はノートパソコンを閉じた。


「……私、甘かったな」


 小さく呟く。


 だからといって、あの男がしたことを許せるわけではない。


 好きだと言いながら、勝手に居場所を調べ、家の近くまで来た。


 自分がどれだけ怖かったか。


 思い出すだけで、今も胸が苦しくなる。


 それでも。


 同じ怖い思いを、もう二度としたくない。


 美月は机の引き出しからノートを取り出した。


 新しいページを開き、ペンを握る。


 そして、一番上に書いた。


《これからの配信について》


 少し考える。


 その下に、思いついたことを一つずつ書き始めた。


《制服では配信しない。》


《学校や自宅の場所が分かるものを映さない。》


《部屋の背景や窓の外も確認する。》


《配信する時間や外出先を、安易に伝えない。》


《個人的な連絡には応じない。》


 そこで、ペンが止まった。


「……衣装も」


 美月は少しだけ考えた。


 これまで自分が選んできた服。


 可愛いと思ったもの。


 視聴者が喜んでくれたもの。


 その全部を否定したいわけではない。


 けれど、これからは。


《数字のためだけに、無理な衣装を選ばない。》


 そう書き加えた。


 美月は、その一文をしばらく見つめた。


「…………」


 そして、ページの下にもう一つ。


《配信を続けたい。》


 大きく、はっきりと書いた。


     ◇


 翌日、七月十七日、金曜日。


 放課後。


『美月、少しいいか?』


「……はい」


 教室を出ようとしていた美月に、凛が声をかけた。


 美月は鞄を持ち直した。


「……先生、どうしたんですか?」


『ご両親との面談について、話しておきたいことがある』


「…………」


 美月の表情が、わずかに強張った。


『お母さんから、四人で話をしたいと連絡があったんだ』


「……四人?」


『ああ。美月と、お父さん、お母さん、それから私だ』


「……お父さんも?」


『うむ』


 美月は視線を落とした。


「……そうですか」


 凛は、その表情を見つめた。


『……不安か?』


「…………」


 美月は、少し迷ってから頷いた。


「……はい」


『……そうか』


「お母さん、すごく怒ってると思うんです」


 美月は小さく息を吐いた。


「配信のこと、ずっと黙ってたし……あんなことにもなっちゃったし……」


『……ああ』


「……それに、お父さんの会社のことも」


 美月は言葉を止めた。


 凛は急かさず待った。


「……私、卒業したら高瀬興産に入ることになってるんです」


『以前の進路面談で聞いたな』


「……はい」


 美月は俯いた。


「でも、私……」


 そこで口を閉じる。


 凛が静かに尋ねた。


『……美月は、どうしたい?』


「…………」


 美月は顔を上げた。


 以前も、凛に同じことを聞かれた。


 そして、自分は答えた。


 配信を続けたい。


 いつか、それを仕事にしたい。


 今も、その気持ちは変わっていない。


「……配信を、続けたいです」


『……ああ』


「でも……お母さん、絶対反対すると思います」


『……そうだろうな』


 凛は頷いた。


 美月は少し驚いた顔をした。


「……先生も、そう思います?」


『うむ。今回のことがあったんだ。お母さんが心配するのも無理はない』


「…………」


『それに、配信で生活していくことは簡単ではないだろう。ご両親にも、考えがあるはずだ』


 美月は俯いた。


「……はい」


『だが』


 凛は続けた。


『だからといって、美月の考えを聞かなくていいということにはならない』


「…………」


『美月が何をしたいのか。それは、美月自身の言葉で伝える必要があると思う』


「……私の、言葉で」


『ああ』


 凛は頷いた。


『お母さんを説得できるかどうかは、私にも分からない。だが、最初から諦めてしまっては、何も伝わらないだろう?』


 美月は、しばらく黙っていた。


 そして、小さく頷いた。


「……はい」


『うむ!』


 凛は笑った。


『私も同席する。だから、一人で抱え込む必要はない』


「……ありがとうございます」


 美月も、少しだけ笑った。


 凛は手帳を開いた。


『面談は、来週の火曜日。七月二十一日の放課後を予定している』


「……分かりました」


『ご両親にも日程を確認している。決まったら改めて伝えるよ』


「……はい」


 美月は頷いた。


 そして、少しだけ顔を上げた。


「……先生」


『ん?』


「……私、ちゃんと話してみます」


 凛は微笑んだ。


『ああ。聞かせてもらおう』


     ◇


 その週末。


 美月は、自室で再びノートを開いていた。


 配信を続けたい。


 その気持ちは、もう迷っていない。


 けれど、母親にそう言うだけでは足りないことも分かっていた。


「……仕事、か」


 美月はノートの新しいページに書いた。


《卒業後にやりたいこと》


 その下に、続ける。


《配信活動を本格的に続けたい。》


《いつか、自分の収入で生活できるようになりたい。》


 そこまで書いて、手を止めた。


 今の収入だけで生活していけるのか。


 登録者が増え続ける保証はあるのか。


 もし人気が落ちたら、どうするのか。


 考えてみると、分からないことばかりだった。


「……そりゃ、反対するよね」


 美月は苦笑した。


 父親の会社に入れば、働く場所がある。


 将来について、両親が安心できる。


 その気持ちも、今なら少しは分かる。


 でも。


「…………」


 美月はペンを握り直した。


《分からないことは、調べる。》


《収入や生活費について勉強する。》


《安全に続けるための方法を考える。》


 そして、一番下に書いた。


《お父さんの会社が嫌いなわけじゃない。》


《でも、自分で選んでみたい。》


 美月は、その二行をじっと見つめた。


 これまで、母親に何度も進路の話をされてきた。


 そのたびに、何も言えなかった。


 反対されると思った。


 怒られると思った。


 話しても、どうせ聞いてもらえないと思った。


 だから、黙っていた。


 けれど、その沈黙が、両親には同意に見えていたのかもしれない。


「……言わなきゃ」


 美月は小さく呟いた。


 今度こそ。


 自分の言葉で。


     ◇


 七月二十一日、火曜日。


 都立桜丘高校、面談室。


 凛は机の上に資料を並べていた。


 これまでの進路面談の記録。


 配信活動について把握していた内容。


 ストーカー被害に関する学校側の対応記録。


 そして、警察からの連絡を受けて整理した事項。


 四者面談は、間もなく始まる。


「……山本先生」


 扉の向こうから声がした。


『はい!』


 凛が立ち上がると、高瀬由紀子が入ってきた。


 その後ろには、美月と父親の姿がある。


『本日はお越しいただき、ありがとうございます』


「……こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」


 由紀子は丁寧に頭を下げた。


 父親も軽く会釈する。


「よろしくお願いします」


『はい。どうぞ、お掛けください』


 四人が席に着いた。


 凛の正面には、由紀子。


 その隣に父親。


 美月は、両親と凛の間に座っていた。


 机の上に置いた手が、少し強張っている。


 凛は一度、美月へ視線を向けた。


 美月は小さく頷いた。


 凛も頷き返す。


『……それでは、始めさせていただきます』


     ◇


 まず凛は、今回の事件について学校側の対応を説明した。


 美月から相談を受けた経緯。


 登下校時の安全確保。


 警察への相談。


 不審なメッセージや目撃情報の記録。


 そして、禁止命令が出されるまでの経過。


『現在も、必要な安全対策は続けています。何かあれば、すぐに学校と警察で対応できるようにしています』


 由紀子は黙って聞いていた。


 説明が終わると、静かに口を開いた。


「……今回、娘の安全確保にご対応いただいたことには、感謝しております」


『……はい』


「ですが、山本先生」


 由紀子は、まっすぐ凛を見た。


「そもそも、先生は娘が配信活動をしていたことを、以前からご存じだったのですよね」


『……はい』


「それなのに、私たち保護者には何の連絡もなかった」


『…………』


「その理由を、お聞かせいただけますか」


 凛は背筋を伸ばした。


『美月が配信活動をしていることは把握していました。本人にとって大切な活動だと聞いていたため、まずは話を聞こうと考えていました』


「……そうですか」


 由紀子は短く答えた。


「では、あのような格好で配信をしていたことも、ご存じだったのですか?」


『……すべての配信を把握していたわけではありません』


「そうでしょうね」


 由紀子の声が少し低くなった。


「親である私たちでさえ、知らなかったのですから」


 美月が俯いた。


「……お母さん」


「美月。今は先生とお話ししているの」


「…………」


 美月は口を閉じた。


 由紀子は再び凛へ向き直った。


「未成年の娘が、不特定多数の人間に向けて自分の姿を公開していた。それも、学校が分かるような形で」


『……はい』


「その危険性について、先生はどこまで理解されていたのでしょうか」


 凛は、すぐには答えなかった。


 あのとき、自分は美月の大切にしていることを尊重したいと思っていた。


 けれど、危険を十分に考えられていたかと聞かれれば、そうではない。


『……私の認識が足りなかったと思っています』


 由紀子は唇を引き結んだ。


『美月の意思を尊重したいと思う一方で、安全面への配慮が十分ではありませんでした。その点については、申し訳ありません』


 凛は頭を下げた。


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて、由紀子が口を開いた。


「……娘のことですから、学校にすべての責任があるとは申しません」


 凛が顔を上げる。


「ですが、だからといって、今回の対応に何も問題がなかったとは思えません」


『……はい』


「私たち親が知らないところで、娘が危険なことをしていた。そして、先生もそれを知っていた」


 由紀子はゆっくりと息を吐いた。


「……正直に申し上げて、納得できない部分はあります」


 凛は頷いた。


『……ごもっともだと思います』


 美月は、膝の上で両手を握りしめていた。


 母親の言葉は、間違っていない。


 自分が黙って配信を続けていた。


 学校が分かるような映像を流してしまった。


 危険について、深く考えていなかった。


 それは事実だった。


 けれど。


「……お母さん、私……」


「美月」


 由紀子が顔を向けた。


「あなたの話は、あとで聞きます」


「…………」


 美月は、また口を閉じた。


     ◇


「……それで、山本先生」


 由紀子は、手元に置いた進路希望調査の控えへ目を落とした。


「今回の件を踏まえて、娘の卒業後についても、改めて話し合いたいと思っています」


『……はい』


「以前の面談でもお伝えしましたが、美月には卒業後、主人の会社で働いてもらうつもりです」


 父親が頷いた。


「……そうですね。私も、卒業したら会社に来るものだと思っていました」


 凛は父親へ顔を向けた。


『美月とは、そのことについてお話しされましたか?』


「……進路の話は、妻から聞いていました」


 父親は美月を見た。


「美月も、特に反対はしていなかったと思いますが」


「…………」


 美月は、何も答えなかった。


 由紀子が続けた。


「娘はまだ、自分の将来について具体的に考えられる年齢ではありません。だからこそ、親が道筋をつけてやる必要があると思っています」


『……なるほど』


「主人の会社なら、働く環境も分かっています。何かあれば、私たちも支えてやれます」


 由紀子は凛を見た。


「それなのに、進路のこともろくに考えず、親に隠れてあんな配信を続けていたなんて……」


 その声には、隠しきれない怒りがにじんでいた。


「……お母さん」


 美月が小さく声を上げた。


 由紀子は振り返った。


「……何?」


「……私、別に……」


「美月」


 由紀子の声が強くなった。


「今回のことを、もう忘れたの?」


「……忘れてない」


「だったら、少しは自分のしたことを考えなさい」


「…………」


「あなたがどれだけ危険なことをしていたか、分かっているの?」


 美月は俯いた。


「……分かってる」


「分かっているなら、なおさらです」


 由紀子は、はっきりと言った。


「配信活動は、これを機にやめなさい」


「…………」


 美月の指先が、ぎゅっと握られた。


「……でも……」


「でも、じゃありません」


 由紀子は言葉を遮った。


「今回は、たまたま大きな被害にならずに済んだからよかったものの、もし何かあったらどうするつもりだったの?」


「…………」


「あなた一人の問題ではないのよ。家族も、学校も、どれだけ心配したと思っているの?」


 美月は答えられなかった。


 由紀子の言葉が、次々に続く。


 親に黙っていたこと。


 危険を軽く考えていたこと。


 進路について真剣に向き合ってこなかったこと。


 その一つひとつが、美月の胸に重くのしかかっていく。


 美月は、鞄の中に入れたノートを思い出した。


 何度も書き直した言葉。


 これからの配信について。


 卒業後にやりたいこと。


 両親に伝えたいこと。


 全部、考えてきた。


 けれど。


「…………」


 口を開こうとしても、声が出なかった。


 母親の表情を見るだけで、言葉が喉の奥に引っかかってしまう。


 由紀子は凛へ向き直った。


「山本先生。娘の将来について、学校としてはどのようにお考えですか?」


 凛は、美月を見た。


 俯いたまま、膝の上で手を握りしめている。


 何かを言おうとしていた。


 それは分かる。


 けれど、その言葉は一度も最後まで聞いてもらえていない。


『…………』


 凛はゆっくりと息を吸った。


 かつて、自分も同じことをした。


 美月を危険から守ろうとして、あの子の話を最後まで聞かなかった。


 配信をやめろ。


 そう言い切ってしまった。


 あのときの美月も、今と同じような顔をしていた。


 凛は、目の前に座る由紀子へ向き直った。


『……お母さん』


 その声に、由紀子が顔を上げた。


 凛は、静かに続けた。


『一つ、お話ししてもよろしいでしょうか』


 面談室に、短い沈黙が落ちた。


 美月が、ゆっくりと顔を上げる。


 凛は、由紀子の目をまっすぐに見つめていた。

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