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第七十二話「終わりと始まり」

 二〇二六年(令和八年)七月十三日、月曜日。


 都立桜丘高校。


 昼休みを終えた職員室に、電話の呼び出し音が響いた。


「山本先生、お電話です。警察の方から」


『……はい!』


 凛は手にしていた書類を机に置き、受話器を取った。


『お電話代わりました。山本です』


 相手は、以前から高瀬美月の件を担当している警察官だった。


『……はい』


 凛は背筋を伸ばした。


 受話器の向こうから、落ち着いた声が聞こえる。


 悠真が見つけたSNSアカウントについて、確認が進んだという。


 そこから判明した人物の情報。


 これまで美月に届いていたメッセージとの関連。


 そして、通学路や自宅付近で目撃されていた不審な男性について。


『……そうですか』


 凛の表情が引き締まった。


 相手は、三十代の会社員男性。


 以前から「なでしこちゃんねる」を視聴していた人物だった。


 警察の確認によって、別のSNSアカウントを使っていたのも、美月に不審なメッセージを送っていたのも、同じ男性だと判明した。


 また、学校や自宅付近に現れていたことについても、本人への確認が進んでいるという。


『……はい。分かりました』


 凛は手元のメモに、説明された内容を書き込んだ。


 ただし、警察の対応はまだ続いている。


 相手の行為について必要な確認と手続きが進められ、再び美月へ接触することを防ぐための措置も検討されているという話だった。


『……ありがとうございます。引き続き、よろしくお願いいたします』


 電話を切る。


 凛は、しばらく受話器を見つめていた。


 ようやく、相手につながった。


 最初は、帰り道で見かける見知らぬ男性だった。


 気のせいかもしれない。


 偶然かもしれない。


 そう考えようとしていた美月の不安は、やがて自宅を知っているかのようなメッセージによって、はっきりとした恐怖に変わった。


 あの日、怯えた表情で話していた美月。


 その顔を思い出す。


『……美月』


 凛は小さく呟いた。


 まだ、すべてが終わったわけではない。


 けれど、初めて相手の姿が見えた。


 凛は立ち上がった。


 まずは、白石先生へ報告しなければならない。


     ◇


 警察から新たな連絡があったのは、それから二日後だった。


 七月十五日、水曜日。


 放課後。


 凛は学年主任の白石理恵とともに、学校側で整理していた記録を確認していた。


 机には、美月から相談を受けた経緯や、これまでの対応をまとめた書類が並んでいる。


「……山本先生」


『はい』


「今回、悠真くんが見つけてくれた情報は大きかったですね」


『……そうですね』


 凛は頷いた。


『ですが、悠真だけではありません。莉子も一緒に相談に来てくれましたし、美月自身がメッセージを残していたことも、確認につながったと聞いています』


「ええ」


 白石は書類へ目を落とした。


「一つひとつは小さな情報でも、こうしてつながることがあるんですね」


『……はい』


 凛は、あの日の悠真を思い出していた。


 同じアカウント名を見つけても、自分だけで相手を特定しようとはしなかった。


 莉子に相談し、二人で職員室へ来た。


 分からないことを、分からないまま伝える。


 簡単なようで、勇気のいる行動だったはずだ。


 そのとき、職員室の電話が鳴った。


「……山本先生、お願いします」


 電話を取った職員が、凛へ声をかけた。


『はい!』


 凛は受話器を受け取った。


『山本です』


 警察からだった。


 相手の男性について、必要な確認と法的手続きを経て、ストーカー規制法に基づく禁止命令等が出されたという。


『……禁止命令、ですか』


 凛は言葉を確かめるように繰り返した。


 担当者は、相手に対して、美月へのつきまといや待ち伏せ、連絡などの行為を禁止する措置が取られたことを説明した。


 今後、命令に違反する行為があれば、速やかに警察へ連絡するようにとも伝えられる。


『……分かりました』


 凛は頷いた。


 命令が出たからといって、すべての危険が消えるわけではない。


 登下校時の見守りや連絡体制についても、当面は継続する必要がある。


『学校としても、引き続き対応します』


 そして、少しだけ声を強めた。


『……本当に、ありがとうございました』


 電話を切る。


 白石が顔を上げた。


「……山本先生?」


 凛は、ゆっくりと頷いた。


『……禁止命令が出されたそうです』


「……そうですか」


 白石は小さく息を吐いた。


「……ようやく、ここまで来ましたね」


『はい』


 凛は受話器を置いた。


『美月に、伝えたいと思います』


「ええ。私も同席しましょうか?」


『……ありがとうございます。まずは本人に、私から話してみます』


 白石は頷いた。


「分かりました。何かあれば、すぐに呼んでください」


『はい!』


 凛は頭を下げ、職員室を出た。


     ◇


「……先生?」


 面談スペースへ入ってきた美月は、少し緊張した表情をしていた。


 凛が椅子を勧める。


『美月。座ってくれ』


「……はい」


 美月は椅子に腰を下ろした。


 膝の上で、両手を重ねる。


「……警察から、何かあったんですか?」


『……ああ』


 凛は頷いた。


『今日は、大事な報告がある』


「…………」


『以前から美月につきまとっていた男性について、警察から連絡があった』


 美月の指先が、ぴくりと動いた。


『相手の人物が確認され、必要な手続きを経て、禁止命令が出されたそうだ』


「…………」


 美月は、すぐには反応しなかった。


 凛の言葉を、一つずつ確かめるように聞いている。


「……禁止命令……?」


『ああ。美月につきまとったり、待ち伏せしたり、連絡を取ったりすることを禁じる措置だ』


「…………」


『もし相手がまた同じようなことをすれば、すぐに警察へ知らせられる。警察も引き続き対応してくれるそうだ』


 美月はゆっくりと顔を上げた。


「……じゃあ」


『……うん?』


「……もう、あの人に追いかけられなくて済むんですか?」


 凛は、一度言葉を選んだ。


『……相手には、もう美月に近づくなという命令が出ている』


「…………」


『ただ、それで絶対に安全だと言い切ることはできない。だから、しばらくは今までの対策も続けよう』


「……はい」


 美月は頷いた。


 そして、少し俯いた。


「…………」


 沈黙が続く。


 凛は何も言わずに待った。


 しばらくして。


「……よかった」


 小さな声が聞こえた。


「……本当に……よかった……」


 美月の肩から、ふっと力が抜けた。


 膝の上で固く握っていた手が、ゆっくりとほどけていく。


「……ずっと、怖かったんです」


『……ああ』


「学校から帰るときも……家にいるときも……」


 美月は顔を上げようとした。


 けれど、その目から涙がこぼれた。


「……また、あの人がいるんじゃないかって……」


 声が震える。


「……もう、外に出るのも嫌になるくらい……」


 凛は静かに頷いた。


『……怖かったな』


「…………」


『よく、ここまで頑張った』


 美月は小さく首を振った。


「……私、何も……」


『そんなことはない』


 凛は、はっきりと答えた。


『美月が勇気を出して話してくれたから、私たちも動くことができた』


「…………」


『怖い中で、よく相談してくれた』


 美月は唇を結んだ。


 涙を拭おうとしても、次から次へとこぼれてくる。


 凛は机の上のティッシュを差し出した。


『……ほら』


「……ありがとう、ございます……」


 美月は受け取ったティッシュで目元を押さえた。


 しばらく、二人は何も話さなかった。


 やがて、美月が小さく息を吐いた。


「……先生」


『ん?』


「……私、ちゃんと学校に来られますよね」


『ああ』


 凛は頷いた。


『これからも、安心して通えるように一緒に考えていこう』


「……はい」


 美月は涙の残る顔で、小さく笑った。


「……ありがとうございます」


 凛も微笑んだ。


『……うん』


 その笑顔を見て、凛は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。


     ◇


 放課後の教室。


「……美月!」


 莉子が、美月の姿を見つけて駆け寄ってきた。


「山本先生に呼ばれてたんでしょ? どうだった?」


 結衣と悠真も、近くにいた。


 美月は三人を見た。


 そして、小さく笑った。


「……あのね」


 少しだけ間を置く。


「……禁止命令が出たんだって」


「…………」


 莉子が目を丸くした。


「……え?」


「警察が、あの人に……もう近づいちゃいけないって……」


「……ほんと!?」


 結衣が声を上げた。


 美月は頷いた。


「……うん」


「……よかったぁ……!」


 莉子は大きく息を吐いた。


「……もう、ほんとに……!」


 そのまま美月の肩を抱く。


「……心配したんだからね!」


「……うん」


 美月は少し笑った。


「……ごめんね」


「謝んなくていいって!」


 莉子はすぐに返した。


「美月が悪いわけじゃないんだから!」


「……うん」


 結衣も、ほっとしたように微笑んだ。


「……よかったね、美月ちゃん」


「……うん」


 美月は頷いた。


 そして、悠真へ顔を向けた。


「……悠真くん」


「……ん?」


「……ありがとう」


 悠真が少し驚いた顔をした。


「……え?」


「アカウント、見つけてくれたんでしょ?」


「……ああ」


 悠真は少し照れくさそうに頭をかいた。


「いや、俺はたまたま見つけただけだし……」


「……でも」


 美月は悠真を見つめた。


「……そのおかげで、助かったから」


「…………」


「……本当に、ありがとう」


 悠真は少し黙った。


 そして、小さく笑った。


「……うん」


 その隣で、莉子が腕を組んだ。


「悠真、結構頑張ったじゃん」


「……何だよ、急に」


「だって、あれ見つけたの悠真でしょ?」


「いや、だから偶然だって」


「偶然でも、先生に相談してくれたじゃん」


 悠真は少し俯いた。


「……まあ、そうだけど」


 結衣も笑った。


「悠真くんが気づいてくれて、よかったね」


「……何か、みんなして大げさじゃない?」


 悠真が苦笑する。


 莉子はにやりと笑った。


「何? 褒められるの苦手?」


「……別に!」


「顔赤いよ?」


「赤くねえって!」


 結衣が吹き出した。


 美月も、つられて笑った。


 久しぶりに、何も考えずに笑えた気がした。


 莉子はそんな美月を見て、少しだけ表情を和らげた。


「……ねえ、美月」


「……ん?」


「また、何かあったら言ってよ」


「……うん」


「一人で抱え込まないでね」


 美月は三人を見た。


 それから、ゆっくりと頷いた。


「……分かった」


 そして、少し照れたように笑う。


「……みんな、ありがと」


「……うん!」


 莉子も笑った。


     ◇


 同じ日の夕方。


 職員室。


 凛は、机の上に置いた電話の受話器を取った。


 相手は、高瀬由紀子。


 警察からの連絡について、学校からも報告するためだった。


『……お世話になっております。山本です』


「……山本先生」


 受話器の向こうから、由紀子の落ち着いた声が聞こえた。


『本日、警察から新たな連絡がありました』


「……はい」


『相手の男性に、禁止命令が出されたそうです』


「…………」


 短い沈黙。


 やがて、由紀子がゆっくりと息を吐く音が聞こえた。


「……そうですか」


『はい。警察から、そのように連絡を受けています』


「……分かりました」


 由紀子はもう一度、小さく息を吐いた。


「……ひとまず、安心しました」


『はい。ただ、学校としても引き続き安全には気を配っていきます』


「……お願いいたします」


 凛は頷いた。


『はい』


 短い沈黙があった。


 そのあと。


「……それと、山本先生」


『はい』


「主人とも相談したのですが、一度、四人で面談の機会を設けていただけませんか」


『……四人、ですか』


「娘と主人、私、それから山本先生です」


 凛は少し背筋を伸ばした。


『……分かりました』


「娘の今後について。それから、今回の件に関する学校と担任の先生の対応についても、お話ししたいと思っています」


「…………」


 凛は受話器を握り直した。


『……承知しました。日程を調整します』


「よろしくお願いいたします」


『はい。決まり次第、ご連絡いたします』


「……失礼いたします」


 通話が切れた。


 凛はゆっくりと受話器を置いた。


 由紀子の声は、終始落ち着いていた。


 けれど、その言葉には、今回の件をこれで終わりにはしないという強い意思が感じられた。


「…………」


 凛は机の上に置かれた書類へ目を落とした。


 高瀬美月。


 その名前の横には、以前の進路面談の記録が残っている。


 卒業後の進路。


 就職。


 高瀬興産。


 父親が経営する会社への就職を、由紀子は強く希望していた。


 そして、今回の事件。


 美月が親に黙って配信活動をしていたこと。


 自分も、その活動を以前から知っていたこと。


 由紀子が今回の対応について話したいと言ったのは、決して不思議なことではなかった。


 凛は書類を閉じた。


 美月を守るために、配信をやめさせようとした。


 けれど、それは美月の意思を聞かず、自分の考えを押しつけることだった。


 今度は、美月の言葉を最後まで聞いた。


 しかし、それだけですべてが解決するわけではない。


 教師として、保護者に説明しなければならないこともある。


 凛はゆっくりと息を吐いた。


『……今度は、ご両親か』


 窓の外には、夕暮れの校庭が広がっていた。


 部活動を終えた生徒たちが、友達と笑いながら校門へ向かっている。


 美月も、少しずつ日常を取り戻し始めている。


 けれど、あの子が本当に望んでいる未来へ進むためには、まだ越えなければならない壁がある。


 凛は、机の上の手帳を開いた。


 四者面談。


 そう書き込み、ペンを置く。


 そして、静かに顔を上げた。


 今回の事件は、ひとまず一区切りを迎えた。


 だが、美月のこれからについての話し合いは、まだ始まってもいなかった。

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