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第七十一話「つながった手掛かり」

 二〇二六年(令和八年)七月三日、金曜日。


 都立桜丘高校、三年四組。


「……美月、おはよ」


「……おはよう、莉子ちゃん」


 教室へ入ってきた高瀬美月は、橘莉子へ小さく手を振った。


 その隣では、水瀬結衣が鞄から教科書を取り出していた。


「美月ちゃん、昨日は眠れた?」


「……うん。前よりは」


「そっか。よかった」


 結衣が微笑む。


 美月も笑い返した。


 ここ数日、登下校は家族や学校の協力を受けながら行っていた。


 配信活動は、まだ休止したままだ。


 学校へ来れば、いつもの友達がいる。


 授業を受けて、休み時間には他愛のない話をする。


 そんな日常が、以前よりもずっとありがたく感じられた。


「ねえ美月、今日の英語の小テスト、勉強した?」


「……えっ?」


 莉子の言葉に、美月が固まった。


「……今日だっけ?」


「今日だよ!」


「うそ……!」


「昨日言ったじゃん!」


「……聞いてない!」


「言ったって!」


 莉子は呆れたように笑った。


「ほら、まだ時間あるから見ときなよ」


「……うん!」


 美月は慌てて鞄からノートを取り出した。


 その様子を見て、結衣も小さく笑う。


 以前と同じような、朝の教室。


 けれど、美月が廊下から聞こえた足音に一瞬顔を上げたことに、莉子は気づいていた。


「……美月」


「……ん?」


「大丈夫?」


「……うん」


 美月は頷いた。


「……大丈夫」


 莉子はそれ以上、何も聞かなかった。


 ただ、自分の机を少し美月の方へ寄せた。


「じゃ、問題出してあげる」


「えっ、いいの?」


「いいから。さっさと覚えな」


「……ありがと!」


 美月は笑った。


     ◇


 朝のホームルーム。


『おはよう!』


 教室へ入ってきた凛が、いつものように明るい声を響かせた。


「おはようございまーす」


『うむ! 今日も元気そうで何よりだ!』


「先生が一番元気ですよ」


 神谷陸の声に、教室から笑いが起こる。


『ははは! 元気があるのはいいことだろう!』


「限度ってものがあるんですよ!」


『むっ。そうなのか?』


「自覚なかったんですか!?」


 再び笑い声が広がった。


 凛も笑いながら、出席簿を開いた。


 いつもどおりのホームルーム。


 連絡事項を伝え、出席を確認する。


 その間、凛はさりげなく美月の様子を確かめていた。


 昨日、二人で話したことを思い出す。


 美月は、自分の夢をもう一度話してくれた。


 配信を続けたい。


 いつか、それを自分の仕事にしたい。


 そして凛は、その言葉を最後まで聞くことができた。


 だからといって、危険がなくなったわけではない。


 美月の不安も、まだ消えてはいない。


 凛は出席簿を閉じた。


『……よし。今日も一日、しっかりやっていこう!』


「はーい!」


 生徒たちが返事をする。


 美月も、顔を上げていた。


     ◇


 同じ日の放課後。


 藤原悠真は、自分のスマートフォンを見つめていた。


「…………」


 画面には、あるSNSの投稿が表示されている。


 悠真は眉をひそめた。


「……これ」


 少し前から、気になっていることがあった。


 美月に届いた、不審なメッセージ。


 そこに表示されていたアカウント名だ。


 あのとき、美月から相談を受けた莉子たちと一緒に画面を確認した。


 内容が気味悪かったこともあって、名前が妙に記憶に残っていた。


 そして今日。


 別のSNSで、同じ名前を見かけた。


 最初は、偶然だと思った。


 よく似た名前のアカウントなど、いくらでもある。


 けれど、プロフィールを開いてみると、気になる投稿がいくつもあった。


 仕事が終わったという書き込み。


 職場の近くで撮ったらしい写真。


 勤務先をうかがわせる言葉。


 そして。


「……なでしこ」


 悠真は小さく呟いた。


 そのアカウントは、以前から美月の配信について投稿していた。


 最初の頃は、普通の感想だった。


 配信が面白い。


 声が好きだ。


 次のライブが楽しみだ。


 しかし、投稿を遡るにつれて、少しずつ言葉の雰囲気が変わっていた。


 美月の配信を自分だけが理解しているかのような書き方。


 ほかの視聴者への苛立ち。


 配信が休止されたことへの不満。


 悠真は画面から目を離した。


「……同じ人、なのかな」


 もちろん、確証はない。


 同じ名前を使っているだけかもしれない。


 美月のファンなら、同じような投稿をしている人もいるだろう。


 けれど、気になる。


 悠真はしばらく考えたあと、スマートフォンを伏せた。


 そして、席を立った。


     ◇


「……橘」


「ん?」


 帰り支度をしていた莉子が振り返った。


「……何、悠真?」


「ちょっと見てもらいたいものがあるんだけど」


「……何?」


 悠真はスマートフォンを差し出した。


 莉子は画面に目を落とす。


「……これ、誰?」


「分かんない。でも、アカウント名、見覚えない?」


「……名前?」


 莉子は目を細めた。


 数秒後。


「……あ」


 顔を上げる。


「これって……」


「うん」


 悠真が頷いた。


「高瀬にメッセージ送ってきたアカウントと、同じ名前なんだ」


「…………」


 莉子は、もう一度画面を見た。


「……でも、名前が同じだけじゃ分かんないじゃん」


「うん。俺もそう思う」


「同じ人が使ってるとは限らないし」


「……そうなんだけど」


 悠真は画面を操作した。


「これ、見て」


 表示されたのは、少し前の投稿だった。


 そこには、美月の配信について書かれている。


「……なでしこ?」


「うん」


「……こいつ、美月のファンなの?」


「たぶん。前から見てたみたい」


 莉子は黙って画面を見つめた。


 投稿を一つ、また一つと確認する。


 やがて、眉間にしわが寄った。


「……何これ」


 悠真は答えなかった。


 莉子は、別の投稿を開いた。


「……きっしょ」


 小さく吐き捨てる。


 そこに並んでいたのは、美月に対する一方的な思い込みだった。


 自分のコメントを読んでくれた。


 自分に向けて笑っていた。


 そんな言葉が、繰り返されている。


「……美月、こんなやつにも見られてたんだ」


「……うん」


 悠真は俯いた。


「でも、同じ人かどうかは分かんない」


「……そうだね」


 莉子はスマートフォンを返した。


 少し考えてから、顔を上げる。


「……これ、山本先生に言おう」


「うん。俺もそう思ってた」


「美月には……」


 莉子は言いかけて、口を閉じた。


 それから、慎重に続けた。


「……まず先生に相談してからの方がよくない?」


「……うん」


 悠真は頷いた。


「高瀬に見せるのも、ちょっと怖いし」


「そうだよね」


 莉子は鞄を肩にかけた。


「行こ」


 二人は職員室へ向かった。


     ◇


「……山本先生」


 職員室の入口で、悠真が声をかけた。


『ん? 悠真、莉子。どうした?』


 凛が顔を上げる。


 莉子が少し真剣な表情になった。


「先生、ちょっと相談したいことがあって」


『……分かった』


 凛は二人の様子を見て、すぐに椅子から立ち上がった。


『こちらへ来てくれ』


 近くの面談スペースへ移動する。


 凛が椅子を勧めると、悠真は少し緊張した様子で腰を下ろした。


『それで、何があった?』


「……高瀬のことなんですけど」


 悠真がスマートフォンを取り出した。


 凛の表情が引き締まる。


『……美月のことか』


「はい」


 悠真は、別のSNSで見つけたアカウントについて説明した。


 名前が一致していること。


 美月の配信について以前から投稿していたこと。


 日常生活や仕事に関する情報が公開されていること。


 凛は途中で口を挟まず、最後まで話を聞いた。


「……だから、その」


 悠真は少し言いにくそうに続けた。


「同じ人かどうかは分かんないんですけど……」


『……うむ』


 凛は画面を見た。


 投稿の日付。


 表示されている名前。


 美月について書かれた言葉。


 凛自身は、SNSの仕組みに詳しくない。


 別のサービスで同じ名前が使われていることが、どれほど意味を持つのかも、すぐには判断できなかった。


 けれど、悠真の話を聞いて、一つだけはっきり分かった。


 この情報を、見過ごしてはいけないということだ。


『……悠真』


「……はい」


『よく気づいたな』


「……え?」


『そして、私に相談してくれてありがとう』


 悠真は少し驚いた顔をした。


『ただ、これが同じ人物だとは、まだ言い切れないな』


「……はい」


『ここから先は、警察に確認してもらおう』


 凛は二人を見た。


『二人とも、相手に連絡を取ったり、直接会いに行ったりはしないでくれ。危険なことをする必要はない』


「……分かりました」


 悠真が頷く。


 莉子も頷いた。


「うん。あたしたちも、そう思ってた」


『そうか。それならよかった』


 凛は小さく息を吐いた。


『この画面、記録しておけるか?』


「はい。スクリーンショットなら」


『すくりーん……』


 凛は一瞬、言葉に詰まった。


 悠真が説明する。


「画面をそのまま画像にして保存できるんです」


『……なるほど! それなら、お願いできるか?』


「はい」


 悠真は操作を始めた。


 莉子が横から補足する。


「先生、アカウントのページも分かるようにした方がいいと思う」


『……そうだな。後から確認できるようにしておこう』


 凛は頷いた。


 やがて、悠真が顔を上げた。


「……できました」


『ありがとう』


 凛は二人を見た。


『あとは私たち大人に任せてくれ』


 悠真は、少しだけ肩の力を抜いた。


「……はい」


 莉子が尋ねた。


「……先生。美月には、どうします?」


『……そうだな』


 凛は少し考えた。


『まだ何も確かではない。だが、美月自身に関わることだ。何も知らせないまま進めるのも違うだろう』


「……うん」


『まずは警察に情報を伝える。そのうえで、美月にもきちんと話そう』


 莉子は頷いた。


「……分かりました」


 凛は二人に向かって、もう一度頭を下げた。


『本当にありがとう。二人が相談してくれて助かった』


「……先生」


 悠真は少し戸惑ったように笑った。


「俺、別に何かしたわけじゃ……」


『そんなことはない』


 凛は、はっきり答えた。


『気づいたことを、黙っていないで伝えてくれた。それは大切なことだ』


「…………」


 悠真は少し俯いた。


 以前、自分は教室の中で起きていることを知りながら、何もできなかった。


 声を上げるのが怖かった。


 誰かに伝えることさえ、ためらっていた。


 けれど今日は、自分から相談に来ることができた。


「……ありがとうございます」


 悠真は小さく答えた。


 凛は微笑んだ。


『礼を言うのは、私の方だよ』


     ◇


 二人が教室へ戻ったあと。


 凛はすぐに、学年主任の白石理恵へ声をかけた。


『白石先生。少しお時間をいただけますか』


「……どうしました?」


『美月の件で、新しい情報が見つかりました』


 白石の表情が変わった。


「……分かりました。聞かせてください」


 凛は悠真から聞いた内容を説明した。


 別のSNSアカウントの存在。


 同じユーザー名。


 美月の配信に対する投稿。


 そして、勤務先を推測できる情報。


 白石は記録を確認しながら、慎重に頷いた。


「……確かに、気になる情報ですね」


『はい』


「ただ、同じ人物と決めつけるのは危険です」


『……私もそう思います』


 凛は真剣な表情で答えた。


『だからこそ、警察に伝えたいのです』


「そうですね」


 白石は頷いた。


「管理職にも共有しましょう。これまでの相談記録と一緒に、追加の情報として提出できるようにします」


『お願いします』


 凛は頭を下げた。


 白石が続けた。


「山本先生。生徒たちは、そのアカウントの相手に接触していませんね?」


『はい。二人にも、これ以上危険なことはしないよう伝えました』


「分かりました。それなら、まずは記録を整理しましょう」


『はい!』


 凛は力強く頷いた。


 そして、ふと手元のメモを見た。


 SNSの名前。


 アカウント。


 投稿の日時。


 自分にはまだ馴染みの薄い言葉ばかりだ。


 しかし、今はそれを理由に立ち止まってはいられない。


 分からないことは、分かる人に聞く。


 一人でできないことは、力を借りる。


 凛はペンを握り直した。


     ◇


 その日の夕方。


 凛は学校側で整理した情報をもとに、すでに相談していた警察の担当者へ連絡を入れた。


『……はい。以前ご相談した、高瀬美月の件です』


 受話器の向こうから、担当者の声が聞こえる。


『今日、生徒から新しい情報が寄せられました』


 凛は経緯を説明した。


 同じ名前の別アカウントが見つかったこと。


 美月の配信についての投稿があったこと。


 仕事や日常に関する情報も載っていたこと。


 そして、それらを記録していること。


『……はい。もちろん、同じ人物だと決まったわけではありません』


 凛は担当者の説明に耳を傾けた。


 警察側でも、提供された情報を確認するという。


 凛は手元のメモに必要事項を書き込んだ。


『分かりました。引き続き、よろしくお願いします』


 電話を切る。


「……ふう」


 凛は椅子に背を預けた。


 ひとまず、情報を伝えることはできた。


 けれど、これで事件が解決したわけではない。


 相手が誰なのか。


 あの不審なメッセージを送った人物なのか。


 駅で見かけた男性と関係があるのか。


 まだ、何も確定していない。


 凛は窓の外を見た。


 校庭では、部活動に励む生徒たちの姿が見える。


 掛け声。


 ボールの弾む音。


 いつもの放課後。


 美月にも、安心してこの日常を過ごしてほしかった。


     ◇


 七月六日、月曜日。


 昼休み。


『美月、少しいいか?』


 教室で友達と話していた美月が、顔を上げた。


「……はい」


 凛は美月を面談スペースへ案内した。


 椅子に座った美月は、少し緊張した様子で凛を見つめていた。


「……先生。何か分かったんですか?」


『……ああ』


 凛は頷いた。


『先週、悠真が気になる情報を見つけてくれたんだ』


「……悠真くんが?」


『うむ。美月にメッセージを送ってきた相手と、同じ名前のアカウントが別のSNSにあったそうだ』


「…………」


 美月は黙った。


『ただし、同じ人物かどうかはまだ分からない。警察にも情報を伝えて、確認をお願いしているところだ』


「……そう、なんですね」


 美月は膝の上で両手を握った。


『不安にさせてしまったかもしれないな』


「……いえ」


 美月は小さく首を振った。


「……でも、ちょっと怖いです」


『……そうか』


「もし、本当にその人だったら……」


 美月は言葉を止めた。


 凛は急かさず、続きを待った。


「……ずっと前から、私のこと見てたんですよね」


『……そうかもしれない。だが、まだ分からないことも多い』


 凛は静かに答えた。


『だから、今は決めつけずに、警察の確認を待とう』


「……はい」


『登下校の見守りも、これまでどおり続ける。何か変わったことがあったら、すぐに知らせてくれ』


「……分かりました」


 美月は頷いた。


 少しして、ぽつりと言った。


「……悠真くん、そんなことまで調べてくれてたんですね」


『ああ。莉子も一緒に相談に来てくれたよ』


「……莉子ちゃんも」


 美月は視線を落とした。


「……私、みんなに迷惑かけてばっかりですね」


『……美月』


 凛は少しだけ身を乗り出した。


『困ったときに誰かの力を借りることは、悪いことではないぞ』


「…………」


『私だって、今回のことで何人もの先生方に助けてもらっている』


「……先生も?」


『ああ。私一人では、どうにもならないことばかりだ』


 凛は小さく笑った。


『だから、美月も遠慮せずに頼ってくれ』


「…………」


『そして、いつか悠真や莉子が困っていたら、そのときは美月が力になってやればいい』


 美月は顔を上げた。


「……私が?」


『もちろんだ』


 凛は頷いた。


『助けてもらったからといって、何も返せないわけではないだろう?』


「…………」


 美月は少し考えた。


 そして、小さく笑った。


「……はい」


『うむ!』


 凛も笑った。


『それでいい』


 美月は、膝の上で握っていた手を少し緩めた。


「……先生」


『ん?』


「……私、ちゃんと待ちます」


『……ああ』


「怖いけど……今は、みんなが助けてくれてるから」


 美月は少しだけ笑った。


「……一人じゃないですもんね」


 凛は、しっかりと頷いた。


『そのとおりだ』


     ◇


 同日、夕方。


 職員室。


 凛は机に向かい、翌日の授業で使う資料を確認していた。


 そのとき、電話が鳴った。


「山本先生、お電話です」


『はい!』


 凛は受話器を取った。


『お電話代わりました。山本です』


 相手は、先週連絡を入れた警察の担当者だった。


『……はい』


 凛は背筋を伸ばした。


 電話の向こうから、落ち着いた声が聞こえる。


 提供されたアカウントの情報について、確認を進めているという。


 関連する人物についても、いくつか確かめたい点があるらしい。


『……そうですか』


 凛は手元のメモを開いた。


 今後の連絡方法と、安全対策の継続について説明を受ける。


 保護者とも改めて連携する必要があるという話に、凛は頷いた。


『分かりました。高瀬さんのお母様にも、学校からご連絡します』


 必要な事項を確認し、電話を切った。


「…………」


 凛はしばらく受話器を見つめていた。


 まだ、相手が特定されたわけではない。


 警察からも、確かなことしか伝えられていない。


 けれど。


 悠真が見つけた情報は、確かに警察へ届いた。


 莉子が慎重に判断し、自分たちへ相談してくれたことも。


 美月が勇気を出して被害を伝え、記録を残してきたことも。


 その一つひとつが、今につながっている。


 凛はゆっくりと息を吐いた。


 そして、窓の外へ目を向けた。


 夕日に照らされた校庭。


 部活動を終えた生徒たちが、友達と笑いながら校門へ向かっている。


 いつもと変わらない光景だった。


 凛は、机の上に置かれたメモへ目を戻した。


『……まだ、終わっていないな』


 小さく呟く。


 美月が安心して学校へ通える日常を取り戻すまで。


 自分たちにできることは、まだある。


 凛はメモを閉じると、席を立った。


 まずは白石先生へ報告しよう。


 そして、由紀子にも必要な情報を伝えなければならない。


 焦る必要はない。


 けれど、立ち止まるつもりもなかった。


 凛は職員室の奥へ向かって歩き出した。

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