第六十八話「もう一度、聞かせて」
二〇二六年(令和八年)七月二日、木曜日。
都立桜丘高校、三年四組。
『……では、今日はここまでにしよう』
山元凛が教科書を閉じると、教室のあちこちから小さく息を吐く音が聞こえた。
「起立!」
日直の号令で、生徒たちが立ち上がる。
「礼!」
『ありがとうございました』
「ありがとうございました!」
挨拶を終えると、生徒たちは一斉に席へ戻った。
凛は教卓の上の資料をまとめながら、教室を見渡した。
窓際の席では、美月が結衣と話している。
「美月ちゃん、次の授業って移動だっけ?」
「ううん、ここだよ」
「あ、そっか。ありがとう」
「えへへ。結衣ちゃん、また間違えてる」
「……今日、二回目だね」
二人が笑った。
少し離れた席では、莉子が鞄から何かを探している。
「……あれ、ない」
「莉子ちゃん、何探してるの?」
「シャーペンの芯。さっき入れたと思ったんだけど」
「あ、私持ってるよ!」
「いや、あるはずなんだよね……あ、あった」
「よかった!」
美月が笑う。
いつもの三年四組だった。
けれど、凛には気になることがあった。
美月は、相変わらず友達と明るく接している。
授業中も、以前と変わらず真面目に取り組んでいる。
ただ、この数日、配信の話をまったくしなくなっていた。
以前なら、休み時間に楽しそうに話していたことだ。
視聴者からのコメント。
次の配信で話したいこと。
新しく考えた企画。
そんな話題が、今は出てこない。
『…………』
凛は資料を抱えた。
昨日、届いた手紙。
その言葉を読んでから、何度も考えた。
自分が間違えてしまったこと。
美月が言いかけていた言葉。
そして、今日伝えなければならないこと。
『……美月』
声をかけると、美月が顔を上げた。
「……はい?」
『今日の放課後、少し時間をもらえるか』
「……放課後ですか?」
『ああ』
「……分かりました」
美月は頷いた。
そのあと、少しだけ表情を曇らせた。
「……また、配信のことですか?」
凛は一瞬、言葉に詰まった。
『……そうだ』
「…………」
『少し、話をしたい』
美月は小さく頷いた。
「……はい」
凛はそれ以上何も言わず、教室を出た。
◇
放課後。
校舎の一角にある教室。
美月は、窓際の席に腰掛けていた。
向かいには凛が座っている。
以前、配信について話したときと同じ教室だった。
そして、一昨日。
凛が配信をやめるよう告げた場所でもある。
「…………」
美月は膝の上で手を重ねていた。
何を言われるのだろう。
配信をやめることについて、もう一度確認されるのかもしれない。
母親にも話しておくよう言われるのだろうか。
そんなことを考えていた。
『……美月』
「……はい」
凛が口を開いた。
『まず、謝らせてほしい』
「……え?」
美月が顔を上げた。
『この前、私はお前に配信をやめるよう言った』
「……はい」
『お前が何を言おうとしているのか、最後まで聞かずにな』
「…………」
『……すまなかった』
凛は頭を下げた。
美月は驚いたように目を見開いた。
「……先生、でも……」
凛は顔を上げた。
『お前が怖い思いをしたことは、今も心配している。安全を守るために、必要なことは続けなければならないとも思っている』
「……はい」
『だが、それと、お前がこれから何をしたいのかを私が決めていいかどうかは、別の話だった』
「…………」
『私は、その二つを一緒にしてしまった』
凛はまっすぐ美月を見た。
『……もう一度、お前の話を聞かせてほしい』
美月は、すぐには答えなかった。
凛が謝るとは思っていなかった。
一昨日、あれほどはっきりと配信をやめるよう言われた。
先生は、自分のことを心配してくれている。
それは、分かっている。
だからこそ、反論できなかった。
「……先生」
『……何だ』
「……本当に、いいんですか?」
『……ああ』
「……私、また配信の話、してもいいんですか?」
凛は小さく頷いた。
『もちろんだ』
「…………」
『それを聞くために、今日は時間をもらったんだ』
美月は俯いた。
膝の上で、指を組み直す。
「……私」
『……うん』
「……配信、好きなんです」
小さな声だった。
「最初は、本当に何となく始めたんです。誰かとお話しできたら楽しいかなって」
凛は黙って聞いていた。
「最初なんて、見てくれる人も全然いなくて。コメントが一つ来るだけで、すっごく嬉しかったんです」
美月は少し笑った。
「それで、少しずつ見てくれる人が増えて……」
『……ああ』
「私が話したことに、みんなが返事してくれるんです。面白いって笑ってくれたり、また来るねって言ってくれたり」
美月は顔を上げた。
「……それが、本当に嬉しくて」
『……そうか』
「……はい」
少しだけ沈黙が流れた。
凛は、急かさなかった。
美月が次の言葉を探すのを、静かに待った。
「……先生」
『……何だ』
「……私、いつか配信を仕事にしたいんです」
『……仕事に?』
「はい」
美月は少し恥ずかしそうに笑った。
「まだ、全然そんなレベルじゃないんですけど」
『…………』
「でも、いつか自分の配信で生活できるようになれたらいいなって」
凛は美月を見つめた。
今まで、配信が楽しいという話は聞いていた。
好きだから続けたい。
視聴者と話せる時間が嬉しい。
その気持ちは、理解していたつもりだった。
けれど、それが将来の仕事として考えるほど大切なものになっていたとは、知らなかった。
同時に、凛の脳裏に、以前の三者面談の光景が浮かんだ。
進路希望調査票に書かれていた、高瀬興産の名前。
美月の将来について、迷いなく話していた由紀子。
そして、その隣で、自分の考えを十分に口にできずにいた美月。
あのときから、凛は気になっていた。
本当に、それが美月自身の希望なのだろうかと。
『……それは、いつ頃から考えていたんだ?』
「……最近です」
美月は少し考えた。
「最初は、そんなこと考えてなかったんですけど。見てくれる人が増えて、いろんな人と話すようになって……」
指先を見つめる。
「……私、こういうことをずっとやっていけたら幸せだなって思ったんです」
『……そうか』
「でも、簡単じゃないのも分かってます」
美月は慌てたように付け加えた。
「登録者数が多くても、ちゃんとお仕事になるとは限らないし。今の私なんて、まだまだだし……」
『……ああ』
「それに、今回みたいなことがあると、やっぱり怖いです」
美月の声が少し小さくなった。
「……正直、今は配信するのもちょっと怖くて」
『…………』
「知らない人からメッセージが来たら、またあの人かもしれないって思っちゃうし……」
凛は静かに頷いた。
『……そうだな』
「……だから、今すぐ再開したいってわけじゃないんです」
『……うん』
「ちゃんと安心できるようになってから、またやりたいんです」
美月は凛を見た。
「……でも、やめたくないんです」
『…………』
「……いつか、またやりたいんです」
凛は、その言葉を最後まで聞いた。
途中で遮ることはしなかった。
美月は一度、小さく息を吐いた。
「……私、わがままですかね」
『……どうしてそう思う?』
「……だって、先生にもお母さんにも、いっぱい心配かけてるのに」
美月は困ったように笑った。
「……それでも、続けたいって思っちゃうから」
『…………』
凛は少し考えた。
『……美月』
「……はい」
『誰かに心配をかけてしまったからといって、好きなことまで諦めなければならないとは思わない』
「…………」
『もちろん、好きだから何をしてもいいというわけではない。今回のような危険があるなら、きちんと対策を考えなければならない』
「……はい」
『だが、そのためにお前が何を望んでいるのかまで、なかったことにする必要はないはずだ』
美月は目を瞬かせた。
『……私は、そう思う』
「……先生」
美月の表情が、少しだけ緩んだ。
◇
『……美月』
「……はい」
『その夢を、私は否定したくない』
「…………」
『だが、今すぐ配信を再開していいとは言えない』
「……はい。分かってます」
『今回の件は、まだ解決していない。お前の安全が第一だという考えも変わらない』
「……はい」
『それでも、お前が配信を仕事にしたいと考えているなら、その気持ちまで捨てる必要はないと思う』
美月は顔を上げた。
『……今は、安心して続けられる方法を一緒に考えよう』
「……先生」
『私だけで答えを出すつもりはない。お母さんや、学校の先生方とも相談する必要がある』
「…………」
『もちろん、お前自身の意見も聞きながらな』
美月は、しばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
凛も頷いた。
『まずは、今続けている安全対策をきちんと守ろう』
「……はい」
『警察からの連絡もあるだろうし、学校として確認しなければならないこともある。すぐに答えが出るとは限らない』
「……分かってます」
『それから、配信を再開するとしたら、どんなことに気をつける必要があるのかも考えていこう』
「……はい!」
美月の返事に、少しだけ力が戻った。
凛は、その様子を見てほっとした。
ただし、まだ何も解決していない。
相手の正体も分かっていない。
美月の不安も、すぐになくなるわけではない。
それでも、今はこれでいいのだと思えた。
『……それから』
「……はい?」
『お母さんとは、配信のことを話したか?』
美月は少し困った顔をした。
「……まだ、ちゃんとは」
『……そうか』
「土曜日にバレちゃってから、あんまりその話してなくて……」
『……うん』
「お母さん、たぶんすっごく怒ってると思います」
美月は苦笑した。
「……前から、高校を卒業したらお父さんの会社に入るものだと思ってるし」
『…………』
凛は、以前の三者面談を思い出した。
由紀子は、美月の将来について明確な考えを持っていた。
高校を卒業したあとは、父親が経営する高瀬興産へ就職させる。
その進路を、当然のこととして話していた。
『……以前の面談でも、お母さんはそうおっしゃっていたな』
「……はい」
美月は少し俯いた。
「……あのときも、私、何も言えなくて」
『…………』
「お母さんが全部話しちゃったから、別にいいかなって思っちゃって……」
美月は困ったように笑った。
「でも、本当は、まだ決められてなかったんです」
『……そうだったのか』
「……はい」
凛は黙って頷いた。
以前の面談では、美月がどう考えているのか、最後まで確かめることができなかった。
だから、面談の記録にも、本人の希望を引き続き確認する必要があると残していた。
そして今日。
美月は初めて、自分が望んでいる将来について話してくれた。
「……だから、配信を仕事にしたいなんて言ったら……」
美月はそこで言葉を止めた。
凛は少し考えた。
『……お母さんにも、いつかきちんと伝えなければならないな』
「……はい」
『だが、焦らなくていい。まずは今の問題について、学校とご家庭で協力していこう』
「……はい」
美月は小さく頷いた。
凛は続けた。
『将来のことについても、必要なら私が話し合いに同席する』
「……先生も?」
『ああ。お前が自分の考えを伝えられるように、手伝えることはあると思う』
「…………」
美月は少しだけ目を潤ませた。
「……ありがとうございます」
『……ああ』
凛は小さく微笑んだ。
◇
話し合いを終え、二人は立ち上がった。
美月は鞄を肩にかける。
そして、教室を出ようとしたところで足を止めた。
「……先生」
『……何だ?』
美月は振り返った。
「……私、先生にやめなさいって言われたとき、ちょっと悲しかったです」
『…………』
凛は黙って聞いた。
「……先生なら、分かってくれるって思ってたから」
美月は小さく笑った。
けれど、その笑顔は少し寂しそうだった。
「私、先生と話して、これからも気をつけながら頑張ろうって思ってたんです」
『……うん』
「でも、もうやめなさいって言われて……」
美月は俯いた。
「……何か、私がやってきたこと全部、だめだったみたいに感じちゃって」
『…………』
凛は胸の奥が痛むのを感じた。
美月は、自分の言葉をそのように受け取っていた。
凛は配信そのものを悪いことだと決めつけたつもりはなかった。
けれど、美月にはそう聞こえてしまったのだ。
『……すまなかった』
凛はもう一度頭を下げた。
『お前が大切にしてきたものを、否定するような言い方をしてしまった』
「…………」
『……本当に、申し訳ない』
美月は慌てて首を振った。
「……あ、先生、そんな……!」
『いや。きちんと謝らせてほしい』
凛は顔を上げた。
『私は、お前の話を聞くと約束した。それなのに、途中で遮って、自分の考えを押しつけてしまった』
「…………」
『あれは、私が間違っていた』
美月は、しばらく凛を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
短い返事だった。
すべてが元どおりになったわけではない。
けれど、美月は自分が悲しかったことを、初めて凛に伝えられた。
それだけで、胸の奥にあったものが少し軽くなった気がした。
「……でも」
『……うん』
「……今日、もう一回聞いてくれて、嬉しかったです」
美月は顔を上げた。
「……ありがとうございます、先生」
凛は小さく微笑んだ。
『……ありがとう。話してくれて』
「……はい!」
美月は頷いた。
そして、教室の扉へ向かった。
「……じゃあ、失礼します!」
『……ああ。気をつけて帰るんだぞ』
「はい!」
美月は笑顔で頭を下げ、教室を出ていった。
凛は、その背中を見送った。
『…………』
以前と同じように笑ってくれた。
それだけで、少し安心した。
けれど、今日の話し合いで、自分がどれほど美月を傷つけていたのかも知った。
凛は静かに息を吐いた。
謝ることができてよかった。
けれど、謝れば終わりではない。
これからも、あの子と向き合っていかなければならない。
今度は、あの子自身の言葉を大切にしながら。
◇
同じ日の夜。
凛は自室の机に向かっていた。
引き出しから、いつもの日記帳を取り出す。
ページを開くと、二日前に書いた文章が目に入った。
《どうすればよかったのだろう。》
凛は、その一行をしばらく見つめた。
あの夜は、本当に分からなかった。
安全を守ること。
本人の意思を尊重すること。
その二つを両立させる方法が、どうしても見つからなかった。
けれど、昨日届いた手紙を読んで、ようやく気づいた。
自分がすべてを決める必要はなかったのだと。
凛は新しいページを開いた。
そして、ペンを走らせた。
《七月二日。》
《今日、美月に謝った。》
《あの子は、もう一度自分の夢を話してくれた。》
《私はまだ、その夢を守る方法を知らない。》
《けれど、今度は一人で答えを決めない。》
凛はペンを置いた。
窓の外から、遠くを走る車の音が聞こえてくる。
しばらく日記を見つめてから、静かに閉じた。
机の引き出しには、昨日受け取った封筒がしまってある。
凛は引き出しへ目を向けた。
『…………』
手紙に書かれていた言葉を、もう一度思い返す。
今の自分には、まだ分からないことがたくさんある。
生徒の気持ちを理解したつもりになって、間違えてしまうこともある。
今回のことだって、誰かの言葉がなければ、なかなか答えを見つけられなかっただろう。
それでも。
これからも教師として、生徒たちと向き合っていきたい。
凛は机の上の授業資料を手に取った。
明日も、学校がある。
美月にも、莉子にも、結衣にも、ほかの生徒たちにも会う。
その一人一人に、それぞれの思いや願いがある。
『……よし』
凛は小さく呟いた。
日記を引き出しへしまい、明日の授業準備を始めた。




