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第六十七話「差出人のない手紙」

 二〇二六年(令和八年)六月三十日、火曜日。


 午後十時過ぎ。


 山元凛は、自室の机に向かっていた。


 翌日の授業で使う資料が、机の上に広がっている。


 けれど、先ほどから一向に進んでいなかった。


『…………』


 凛はペンを置いた。


 何度も思い出してしまう。


 放課後、美月に告げた言葉を。


 ――もう、配信はやめなさい。


 あの子を守りたかった。


 自宅を知られているかもしれない。


 見知らぬ男性に後をつけられている可能性もある。


 実際、月曜日の朝には、通りすがりの男性を見ただけで身体を強張らせていた。


 そんな美月に、これ以上怖い思いをさせたくなかった。


 だから、配信をやめるように言った。


 今でも、その判断が完全に間違っていたとは思えない。


 しかし。


「……この前、続けたい気持ちは否定しないって……」


 美月の声が浮かんだ。


 あのとき、自分は何と答えただろう。


 ――状況が変わったんだ。


 確かに状況は変わった。


 だが、それだけで、以前交わした約束をなかったことにしてよかったのか。


『…………』


 凛は机の引き出しを開けた。


 中から、一冊のノートを取り出す。


 日記帳だった。


 こちらの時代に来てからも、凛はできる限り毎日、日記をつけていた。


 慣れない生活の中で起きたこと。


 教師として気づいたこと。


 生徒たちとの出来事。


 誰にも話せない自分の思いも、そこには書いてある。


 凛は新しいページを開いた。


 六月三十日。


 日付を書き、ペンを走らせる。


《今日、美月に配信をやめるよう伝えた。》


《あの子を守るためには、必要なことだと思った。》


《けれど、美月は納得してくれたのだろうか。》


《私の言葉に、ただ従っただけではないのか。》


 そこで、ペンが止まった。


 美月は何度か、自分の思いを伝えようとしていた。


 だが、凛は最後まで聞かなかった。


 それも、覚えている。


《あの子の話を、最後まで聞かなかった。》


《分かっている。》


《それなのに、同じことが起きたとしても、私はまた配信をやめるように言ってしまう気がする。》


『…………』


 凛はノートを見つめた。


 これまでも、教師として失敗したことはあった。


 自分の考えを優先してしまったこと。


 生徒の気持ちを十分に理解できなかったこと。


 そのたびに、自分の何がいけなかったのかを考え、もう一度向き合ってきた。


 失敗を認めることは、簡単ではなかった。


 それでも、間違いに気づけば、やり直すことはできた。


 けれど、今回は違った。


 何が間違いだったのか、分からない。


 美月の意思を尊重し、配信を続けることを認めればよかったのか。


 もし、それが原因でまた怖い思いをしたら。


 では、やめるように告げたことは正しかったのか。


 そう考えると、俯いた美月の姿が浮かんでくる。


 安全を守ること。


 本人の意思を尊重すること。


 どちらも教師として大切なはずなのに、今は両方を守る方法が見つからない。


『……どうすれば、よかったんだ』


 小さく呟いた。


 返事はない。


 凛は日記へ目を戻した。


《どうすればよかったのだろう。》


 最後の一行を書いて、ペンを置いた。


 それ以上、何も書けなかった。


 凛はしばらく日記を見つめていたが、やがて静かに閉じた。


 翌日の授業準備は、まだ終わっていなかった。


     ◇


 七月一日、水曜日。


 午前七時五十分。


 都立桜丘高校、職員室。


『……おはようございます』


 凛はいつもどおり挨拶をして、自分の席へ向かった。


 昨夜は、なかなか寝つけなかった。


 結局、授業準備を終えたのは日付が変わる頃だった。


 鞄から資料を取り出し、机の上に並べる。


 そのとき。


「……山本先生?」


 声をかけられ、凛は顔を上げた。


 早川奈緒が立っていた。


『……おはようございます、早川先生』


「おはようございます」


 早川は挨拶を返したあと、少し首を傾げた。


「……昨日、あまり眠れませんでした?」


『……え?』


「何だか、少しお疲れのように見えたので」


 凛は思わず頬に手を当てた。


『……そんなに顔に出ていますか』


「少しだけですけど」


 早川は柔らかく笑った。


「いつもなら、朝からもう少し元気ですから」


『……そうですか』


 凛は苦笑した。


『少し、考え事をしていまして』


「……高瀬さんのことですか?」


『…………』


 凛は小さく頷いた。


『……はい』


 美月の件は、生徒指導担当や関係する教員にも共有されている。


 早川も事情を知っていた。


「……心配ですよね」


『……はい』


「登下校のこともありますし、まだ相手が誰なのか分かっていないんですものね」


『……そうですね』


 早川は少し考えた。


「でも、山本先生」


『……はい』


「先生まで無理をしないでくださいね」


『…………』


「生徒のことが心配なのは分かります。でも、先生一人で全部何とかしようとしなくてもいいんですよ」


『……はい』


「私たちにも、できることはありますから」


 早川は穏やかに微笑んだ。


「何かあったら、遠慮なく言ってください」


『……ありがとうございます』


「いえいえ」


 早川は手に持っていた資料を軽く持ち上げた。


「じゃあ、私、先にこれ配ってきますね」


『……はい』


 早川は隣の机へ向かった。


 凛は、その背中を少しだけ見つめた。


 それから、自分の机へ目を戻す。


 昨夜、日記に書いた言葉が浮かんだ。


 ――どうすればよかったのだろう。


 結局、答えは出ていない。


 凛は小さく息を吐き、授業の準備を始めた。


     ◇


 午前中。


 三年四組。


 凛は授業を終え、教卓の上の資料をまとめていた。


「起立!」


 日直の号令が響く。


「礼!」


『……ありがとうございました』


「ありがとうございました!」


 生徒たちが頭を下げる。


 授業が終わると、教室にはいつもの賑やかさが戻った。


 凛は資料を抱え、教室を出ようとした。


 そのとき。


「……先生」


 声をかけられた。


 振り返ると、美月が立っていた。


『……美月』


「……あの、今日のプリントなんですけど」


 美月は手元のプリントを差し出した。


「ここ、次の授業までにやっておけばいいですか?」


『……ああ。そこまでで大丈夫だ』


「……分かりました」


 美月は小さく頷いた。


「ありがとうございます」


『……ああ』


 凛は答えた。


 美月は軽く頭を下げ、自分の席へ戻っていった。


『…………』


 凛は、その背中を見つめた。


 何か言おうと思った。


 昨日のこと。


 配信のこと。


 あのとき、何を言おうとしていたのか。


 けれど、言葉が出てこなかった。


 美月は普段どおりに接してくれた。


 避けられたわけではない。


 嫌な顔をされたわけでもない。


 それなのに。


 凛は教室を出たあと、廊下で足を止めた。


 以前なら、美月は授業のあとにもよく話しかけてきた。


 配信で面白かったこと。


 視聴者から届いたコメント。


 次はどんな話をしようかと考えていること。


 そんな話を、楽しそうにしていた。


 けれど、昨日から美月は一度も配信の話をしていない。


 凛は資料を抱え直した。


『…………』


 自分が、あの子から何かを奪ってしまったのだろうか。


 そう考えかけて、すぐに首を振った。


 美月の安全を守ることは、間違いではない。


 そう思いたかった。


     ◇


 昼休み。


 凛は職員室へ戻り、机の上の資料を片づけていた。


 授業の合間に受け取った連絡物を確認する。


 会議の案内。


 提出期限の通知。


 生徒関係の書類。


 それらを整理し終えたところで、個人用の連絡棚へ向かった。


「…………」


 棚の中に、一通の封筒が入っていた。


 白い、何の飾りもない封筒。


 表には、宛名だけが書かれている。


 ――山本リン先生へ。


 差出人の名前はなかった。


 凛は封筒を手に取った。


 何かの連絡だろうか。


 職員室では、教員同士の書類や連絡物がこうした形で渡されることもある。


 凛は自分の席へ戻り、封筒を開いた。


 中には、一枚の便箋が入っていた。


 丁寧な文字で、文章が綴られている。


 凛は読み始めた。




⸻


 大切な人を守ろうとするとき、私たちはときに、相手のためだという言葉で、その人の選択を奪ってしまうことがあります。


 それは、決して悪意からではありません。


 むしろ、本当に大切に思っているからこそ、間違えてしまうこともあるのでしょう。


 けれど、守ることと、その人の代わりに人生を決めることは、同じではありません。


 どうか、その人が何を望んでいるのか、もう一度聞いてあげてください。


 たとえその答えが、あなたにとって不安なものであっても。


⸻




『…………』


 凛は便箋を見つめた。


 もう一度、最初から読む。


 そして、四つ目の段落で手が止まった。


 ――守ることと、その人の代わりに人生を決めることは、同じではありません。


『…………』


 美月の顔が浮かんだ。


 配信を続けたいと話していたときの、あの笑顔。


 好きなことを見つけたのだと、嬉しそうに語っていた姿。


 それから。


 昨日、教室で俯いていた美月。


「……分かりました」


 小さく答えた声。


 凛は便箋を机の上に置いた。


『……そうか』


 声が漏れた。


 自分は、ずっと二つのことを同じ問題として考えていた。


 美月を守るためには、配信をやめさせるしかない。


 配信を続けさせることは、危険を放置することになる。


 だから、どちらかを選ばなければならないのだと。


 けれど。


 それは、本当にそうだったのだろうか。


 今すぐ配信を再開することと、将来も配信を続けたいと願うことは違う。


 危険がある間、活動を休むことは必要かもしれない。


 安全対策を考えることも、学校や保護者、警察と連携することも大切だ。


 だが、そのことと、美月がこれから何をしたいのかを決めることは、別の話だった。


『…………』


 凛は目を閉じた。


 昨日の会話を思い出す。


「……でも、私……」


『美月』


 自分は、あの子の言葉を遮った。


「……私、今すぐ配信したいって言ってるわけじゃ……」


『分かっている』


 分かってなど、いなかった。


 美月は、今すぐ配信を再開させてほしいと頼んだわけではない。


 危険な目に遭っても構わないと言ったわけでもない。


 それでも、自分が好きになったものを、これからも大切にしたかったのだ。


 凛は、その気持ちを聞こうとしなかった。


『……私は』


 小さく声が漏れた。


『……あの子の話を、聞かなかったんだな』


 守りたいと思った。


 それは、本当だった。


 怖い思いをしてほしくなかった。


 傷ついてほしくなかった。


 だから、危険につながるものを遠ざけようとした。


 けれど、自分は美月が何を選ぶべきかまで決めてしまった。


 それも、本人のためだと思いながら。


『…………』


 凛は便箋を手に取った。


 最後の一文を読む。


 ――たとえその答えが、あなたにとって不安なものであっても。


 凛は長く息を吐いた。


 美月が配信を続けたいと言えば、やはり不安は残るだろう。


 安全を守るために、すぐには再開できないと伝えなければならないかもしれない。


 それでも。


 まず、あの子が何を望んでいるのかを聞く。


 そして、どうすればその思いを大切にできるのか、一緒に考える。


 それを、最初から放棄してはいけなかった。


『…………』


 凛は手帳を開いた。


 六月二十二日。


 美月と配信について話した日の記録。


 最後に書かれた一行。


 ――本人の希望を確認する。


 凛はその文字を見つめた。


『……約束を破ってしまったな』


 今度は、はっきりと言えた。


 自分は間違えた。


 美月を守ろうとしたことではない。


 美月の気持ちを聞かずに、答えを決めてしまったことが。


 凛は手帳を閉じた。


 そして、便箋を丁寧に折りたたみ、封筒へ戻した。


 美月に謝ろう。


 昨日、話を遮ってしまったことを。


 一方的に決めつけてしまったことを。


 それから、もう一度話を聞こう。


 今度こそ、最後まで。


     ◇


 同じ日の夕方。


 職員室。


 凛は授業で使った資料を整理し、机の上を片づけていた。


 昼休みに読んだ手紙は、手帳の間に挟んである。


 そのとき、少し離れた席で早川が書類をまとめているのが見えた。


『…………』


 凛は、手帳に挟んだ封筒を思い出した。


 それにしても、少し不思議な気はした。


 朝、ああして声をかけてくれたのだから、わざわざ手紙にしなくてもよかったのではないだろうか。


 それも、名前さえ書かずに。


 けれど、面と向かっては伝えにくいこともあるのかもしれない。


 凛は小さく息を吐いた。


 いずれにせよ、あの言葉に救われたことは確かだった。


 凛は立ち上がった。


 早川の席へ向かう。


『……早川先生』


「はい?」


 早川が顔を上げた。


 凛は少しだけためらった。


 それから、頭を下げた。


『……あの……ありがとうございます』


「……え?」


 早川は目を丸くした。


『……おかげで、少し整理がつきました』


「…………」


 早川は一瞬、不思議そうな顔をした。


 けれど、すぐに柔らかく笑った。


「……それなら、よかったです」


『……はい』


「でも、山本先生」


『……はい』


「先生は、何でも自分で何とかしようとしすぎですよ」


 早川は穏やかに続けた。


「私たちだっているんですから。困ったときくらい、頼ってくださいね」


 凛は小さく頷いた。


『……ありがとうございます』


 早川は笑った。


「……どういたしまして」


 凛はもう一度頭を下げ、自分の席へ戻った。


 今朝よりも、少しだけ肩の力が抜けていた。


     ◇


 職員室の窓から、夕方の光が差し込んでいた。


 凛は鞄へ手帳をしまった。


 その間に挟んだ封筒が、少しだけ顔を覗かせている。


 凛はそれを押し込み、鞄を閉じた。


 明日、美月に話をしよう。


 謝ったからといって、簡単に許してもらえるとは限らない。


 あの子が、もう自分には話したくないと思っているかもしれない。


 それでも、向き合わなければならない。


『…………』


 凛は席を立った。


 美月の安全を守るために、できることはこれからも続ける。


 ただ、もう一つ。


 あの子が大切にしているものを、勝手に終わらせてはいけない。


 今なら、そう思えた。


 凛は職員室を出た。


 廊下の向こうから、生徒たちの笑い声が聞こえてきた。


 明日もまた、学校で一日が始まる。


 その前に、まず伝えなければならない言葉があった。

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