第六十六話「守りたいから」
二〇二六年(令和八年)六月二十九日、月曜日。
都立桜丘高校、三年四組。
「……美月、スマホばっか見てても疲れるでしょ」
莉子の声に、美月は顔を上げた。
「……あ、ごめん」
「別に謝んなくていいけどさ」
莉子は美月の隣の席に腰掛けた。
「また何か来てた?」
「……ううん」
美月は首を横に振った。
「何も来てないよ」
「……そっか」
「……でも、何か来てるんじゃないかって、つい確認しちゃう」
スマートフォンの画面には、見慣れた通知が並んでいる。
友達からのLINE。
学校関係の連絡。
配信を休んでいる美月への、視聴者からの応援。
そのどれも、怖いものではなかった。
けれど、知らないアカウントからの通知が表示されるたび、胸がざわつく。
「……分かるけどさ」
莉子は少し考えた。
「何か来たら先生に見せればいいんだから。ずっと見張ってなくてもいいと思うよ」
「……うん」
「それに、変なメッセージ来たって、あんたが一人でどうにかしなきゃいけないわけじゃないし」
「……そうだよね」
美月はスマートフォンを机へ置いた。
そこへ、結衣がやってきた。
「美月ちゃん、おはよう」
「……おはよう、結衣ちゃん!」
「今日はどう? 少し眠れた?」
「うん。昨日よりは」
「……そっか。よかった」
結衣は小さく笑った。
「昨日、警察でいろいろ話したんだよね」
「……うん」
「疲れたでしょ」
「……ちょっとね」
美月は苦笑した。
「同じこと何回も思い出して話すのって、結構疲れるんだね」
「……そうだよね」
結衣は頷いた。
「今日は無理しないでね」
「……ありがとう」
美月は小さく笑った。
教室には、いつもの朝の賑やかさが戻っていた。
友達同士で話す声。
机を動かす音。
今日の小テストについて文句を言う声。
美月は周囲を見渡した。
昨日までは、家の外へ出ることさえ少し怖かった。
今朝も、山本先生が迎えに来てくれなければ、一人で学校へ向かえたか分からない。
けれど。
こうして教室へ来れば、莉子がいて、結衣がいる。
いつもと変わらず話しかけてくれる。
そのことが、今はとても嬉しかった。
「……ねえ、莉子ちゃん」
「ん?」
「今日のお昼、一緒に食べよ?」
「いいよ。結衣も一緒でしょ?」
莉子が何気なく言った。
結衣が少しだけ目を丸くする。
「……いいの?」
「……何で?」
「……ううん。何でもない」
結衣は小さく笑った。
莉子は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「じゃ、昼休みね」
「うん!」
美月は笑顔で頷いた。
◇
同じ日の昼休み。
凛は生徒指導担当の教師と、今後の対応について確認していた。
机の上には、これまでの経緯をまとめた資料が置かれている。
制服配信の切り抜き。
学校名を推測するコメント。
美月が帰宅途中に見かけた男性。
そして、土曜日の夜に届いたメッセージ。
「……警察への相談は済んでいますね」
『はい。昨日、保護者の方が本人と一緒に相談されています』
「学校としても、窓口を一本化しておきましょう」
『……分かりました』
教師は資料へ目を落とした。
「今後、同じアカウントから連絡が来たり、新しい投稿が見つかったりした場合は、記録を残してこちらへ共有してください」
『はい』
「本人には、相手へ返信しないよう伝えていますね?」
『ええ。美月にも確認しました』
凛は頷いた。
昨日の電話でも、由紀子とそのことを話している。
今のところ、土曜日の夜以降、新しいメッセージは届いていないらしい。
「登下校については、当面ご家庭と調整していきましょう」
『……はい』
「山本先生が毎日迎えに行くのは難しいでしょうから、保護者の方の送迎や、必要に応じた教員の付き添いを組み合わせる形ですね」
『承知しました』
凛は手帳へ書き込んだ。
由紀子は仕事の都合で、毎朝必ず送迎できるわけではない。
学校側にも授業や校務がある。
誰か一人がすべてを引き受けるのではなく、無理のない体制を作る必要があった。
「それから、本人の様子も見ていてください」
『……はい』
「こういうことがあると、学校に来るだけでも疲れてしまう子がいますから」
凛は今朝の美月を思い出した。
玄関を出るまで、少し時間がかかった。
通りすがりの男性を見ただけで、身体を強張らせていた。
『……分かりました』
教師は頷いた。
「何か変わったことがあれば、すぐ相談してください。山本先生一人で抱え込まなくていいですから」
『……ありがとうございます』
凛は頭を下げた。
必要な対応は進んでいる。
警察にも相談した。
学校としての連絡体制も整えつつある。
それでも、凛の胸には不安が残っていた。
相手が誰なのか、まだ分かっていない。
今もどこかで、美月のことを見ているかもしれない。
そんな可能性が、頭から離れなかった。
◇
同じ日の放課後。
三年四組の教室には、まだ数人の生徒が残っていた。
「……早く、普通に帰れるようになりたいな」
美月がぽつりと呟いた。
隣で鞄を整理していた結衣が顔を上げる。
「……そうだよね」
「先生が一緒にいてくれるのは、すごくありがたいんだけど」
美月は少し笑った。
「……何か、申し訳なくなっちゃって」
「申し訳なく思うことないって」
莉子が答えた。
「先生だって、必要だからやってくれてるんでしょ」
「……うん」
「それに、今は一人で帰んない方がいいと思うし」
「……そうだよね」
美月は頷いた。
少しだけ沈黙が流れる。
そのあと、美月はスマートフォンを取り出した。
「……あ、そうだ」
「ん?」
「昨日もね、コメント来てたんだ」
「……配信の?」
「うん」
美月は画面を見せた。
《また配信してね!》
《待ってるよ》
《なでしこの雑談好きだから、いつでも戻ってきて》
結衣が小さく笑った。
「……嬉しいね」
「うん!」
美月の表情が明るくなった。
「……みんな、まだ待っててくれてるんだよね」
「……そりゃそうでしょ」
莉子は肩をすくめた。
「あんたの配信、楽しみにしてる人いるんだから」
「……えへへ」
美月は嬉しそうに笑った。
「早く、またお話しできるようになりたいな」
「……うん」
結衣が頷く。
「そのときは、私も見に行くね」
「……ありがとう!」
莉子も笑った。
「まあ、まずは落ち着いてからだけどね」
「うん。分かってる!」
美月はスマートフォンをしまった。
そのとき。
『……美月』
教室の入口から声がした。
「あ、先生!」
凛が立っていた。
『そろそろ帰る準備はできたか?』
「……はい!」
『今日はお母さんが迎えに来られるそうだ。職員室で待っていてくれ』
「分かりました!」
美月は鞄を持ち直した。
結衣と莉子に手を振る。
「じゃあ、また明日ね!」
「うん。また明日」
「気をつけてね!」
美月は笑顔で教室を出ていった。
凛もそのあとに続いた。
けれど。
美月が友達と話していた言葉が、耳に残っていた。
――早く、またお話しできるようになりたいな。
『…………』
凛は廊下を歩きながら、美月の背中を見つめた。
あの子は、まだ配信を続けたいと思っている。
それは、分かっている。
昨日までは、自分もその意思を尊重したいと考えていた。
しかし。
今朝の美月の姿が、頭に浮かんだ。
玄関の前で立ち尽くしていた。
見知らぬ男性を見ただけで、足を止めていた。
あれほど怖い思いをしているのに。
それでも、配信を続けようとしている。
『…………』
凛は唇を結んだ。
もし、また同じことが起きたら。
もし、今度は直接声をかけられたら。
もし、さらに危険な目に遭ったら。
そんなことを考えると、胸の奥が落ち着かなかった。
◇
六月三十日、火曜日。
放課後。
凛は、美月を空いている教室へ呼んだ。
『……少し、話をしてもいいか』
「……はい」
美月は頷いた。
窓際の席に腰掛ける。
凛も向かいに座った。
以前、配信について話したときと同じ教室だった。
あのとき、美月は配信を始めた理由を楽しそうに話してくれた。
初めてコメントをもらったときの嬉しさ。
少しずつ視聴者が増えていったこと。
土曜日の配信で、登録者数が減っても楽しかったこと。
凛は、その言葉を覚えていた。
『……美月』
「……はい」
『最近、変わったことはないか?』
「……変わったこと?」
『知らない相手から、また連絡が来たりはしていないか』
「……あ、はい。今のところは」
『……そうか』
凛は頷いた。
『警察への相談も進んでいる。学校としても、できる限りの対応を続けるつもりだ』
「……ありがとうございます」
『登下校についても、しばらくは付き添いを続けよう』
「……はい」
美月は素直に頷いた。
凛は手帳を閉じた。
ここまでは、いつもどおりの確認だった。
今後の安全対策。
連絡方法。
学校としての対応。
しかし、凛の中には、もう一つ伝えたいことがあった。
『……美月』
「……はい」
『一つ、約束してほしいことがある』
「……何ですか?」
凛は少しだけ間を置いた。
『……もう、配信はやめなさい』
「…………」
美月は、凛を見つめた。
「……え?」
『今のお前に、これ以上危険な思いをしてほしくない』
「……先生」
『今回の件が落ち着いたとしても、同じことが起きないとは限らないだろう』
「…………」
『だから、配信そのものをやめた方がいい』
美月は唇を結んだ。
凛の声は、落ち着いていた。
怒っているわけではない。
責められているわけでもない。
それでも。
「……でも、私……」
『美月』
凛は言葉を遮った。
『お前の身に何かあってからでは遅いんだ』
「…………」
「……私、今すぐ配信したいって言ってるわけじゃ……」
『分かっている』
凛は頷いた。
『だが、今後のことも含めて考えなければならない』
「…………」
『今回のように学校名が知られたり、帰宅先まで把握されたりする可能性がある以上、これ以上危険を増やすべきではない』
美月は俯いた。
「……でも」
『……うん』
「……私、ちゃんと気をつけようって思ってます」
『……ああ』
「制服も、もう配信で着ないし。学校のことも話さないし……」
『……それでも、危険がなくなるわけではない』
「…………」
『今回だって、お前が学校名を教えたわけではなかった』
「……はい」
『気をつけていても、相手が何をするか分からないんだ』
美月は膝の上で手を握った。
「……先生」
『……何だ』
「……この前、続けたい気持ちは否定しないって……」
凛の胸が、わずかに痛んだ。
覚えている。
確かに、自分はそう言った。
美月の意思を尊重したいと思っていた。
けれど。
『……状況が変わったんだ』
「…………」
『実際に、お前の身に危険が及んでいる』
「……でも、私……」
『美月』
凛はまっすぐ美月を見た。
『私は、お前を守らなければならない』
「…………」
『だから、これだけは聞いてほしい』
美月は、しばらく凛を見つめていた。
そして。
「……分かりました」
小さく答えた。
凛は頷いた。
『……ありがとう』
「…………」
『今日はもう帰っていい。お母さんが迎えに来るまで、職員室で待っていてくれ』
「……はい」
美月は立ち上がった。
鞄を持ち、静かに頭を下げる。
「……失礼します」
教室の扉が閉まった。
凛はしばらく、その扉を見つめていた。
◇
廊下。
美月は鞄を持ったまま、ゆっくり歩いていた。
「……美月ちゃん?」
声をかけられ、顔を上げる。
結衣だった。
「……あ、結衣ちゃん」
「……先生と話してたの?」
「……うん」
結衣は美月の表情を見た。
どこか、いつもと違う。
「……何かあった?」
「…………」
美月は少し迷った。
そして、小さな声で答えた。
「……配信、やめなさいって」
「……え?」
「……先生、もうやめた方がいいって」
結衣は言葉を失った。
山本先生は、これまで美月の配信を頭から否定していなかった。
むしろ、どうすれば安全に続けられるか、一緒に考えようとしていた。
それなのに。
「……そっか」
結衣は小さく答えた。
「……美月ちゃんは、どうしたいの?」
「…………」
美月は顔を上げた。
どうしたい。
そんなこと、決まっているはずだった。
配信を続けたい。
また、みんなと話したい。
土曜日のように、楽しく笑いたい。
けれど。
先生に、やめなさいと言われた。
自分のことを心配してくれているのも分かる。
今回のことで、たくさん迷惑をかけたことも分かっている。
それでも。
「…………」
言葉が出てこなかった。
「……分かんない」
美月は小さく答えた。
結衣は黙っていた。
「……私、どうしたらいいんだろ」
美月は俯いた。
結衣は少しだけ近づいた。
「……今、決めなくてもいいと思う」
「…………」
「怖いこともあったし、いろいろ考えなきゃいけないこともあるし……」
結衣は言葉を選んだ。
「……だから、無理に答え出さなくてもいいよ」
「……うん」
「……私でよかったら、話聞くから」
美月は小さく頷いた。
「……ありがとう、結衣ちゃん」
その声は、いつもの明るい美月のものではなかった。
結衣は何も言わず、隣に立っていた。
◇
同じ日の夕方。
凛は職員室の自席で、書類を整理していた。
明日の授業準備。
部活動の連絡。
生徒たちの提出物。
机の上には、いつものように仕事が積まれている。
けれど、なかなか集中できなかった。
『…………』
凛はペンを置いた。
放課後、美月へ伝えた言葉を思い出す。
――もう、配信はやめなさい。
間違ったことを言ったつもりはなかった。
実際、美月は怖い思いをしている。
帰り道を一人で歩くことも難しくなっている。
学校名や自宅を知られている可能性まである。
その原因の一つが、配信活動であることは否定できない。
だからこそ、これ以上危険に近づいてほしくなかった。
『…………』
凛は小さく息を吐いた。
美月も、最後には分かりましたと答えた。
それでよかったはずだ。
けれど。
あのときの美月の表情が、頭から離れなかった。
「……分かりました」
そう答えたとき。
美月は、凛を見ていなかった。
俯いたまま、静かに答えただけだった。
『…………』
凛は手帳を開いた。
美月との面談について書いたページ。
そこには、以前の会話の記録も残っていた。
配信を始めた理由。
視聴者と話すことの楽しさ。
登録者数が減っても、続けたいと思えたこと。
そして。
――本人の希望を確認する。
自分の字で書いた、その一行。
『…………』
凛は指を止めた。
六月二十二日。
美月は、まっすぐ自分を見て言った。
「私、配信は続けたいです」
あのとき、自分は何と答えただろう。
凛はゆっくり目を閉じた。
――私は、配信を続けたいというお前の気持ちを、頭から否定するつもりはない。
『…………』
確かに、そう言った。
美月も、嬉しそうに笑っていた。
けれど今日は。
自分が話し終えるまで、美月はほとんど何も言えなかった。
何度か口を開こうとしていた。
それを、自分が遮った。
『…………』
凛は手帳を閉じた。
窓の外には、夕暮れの空が広がっている。
生徒たちの声が、遠くから聞こえてきた。
凛はしばらく、何もせずに座っていた。
美月を守りたい。
その気持ちは、今も変わらない。
ただ。
あの子が最後に何を言おうとしていたのか。
凛は、それを聞いていなかった。




