第六十五話「家を知る誰か」
二〇二六年(令和八年)六月二十七日、土曜日。
午後六時過ぎ。
高瀬美月は、自室の机に向かっていた。
スマートフォンの画面には、なでしこちゃんねるの管理画面が表示されている。
今夜九時。
本来なら、定期配信の日だった。
「…………」
美月は、配信予定の欄を見つめた。
木曜日は休んだ。
学校名を推測するコメントが広まっていると知り、少し時間を置こうと思ったからだ。
でも、今日はどうしよう。
先週の土曜日は楽しかった。
お気に入りのブラウスを着て、映画やお菓子の話をした。
登録者数は四百人減ったけれど、それでも配信をしてよかったと思えた。
また、あんな時間を過ごしたい。
その気持ちは変わっていなかった。
「……でもなぁ」
昨日の帰り道を思い出す。
駅のホーム。
電車の中。
自分が降りた駅。
何度も見かけたような気がする男性。
もちろん、同じ人物だったと決まったわけではない。
ただの偶然かもしれない。
それでも、あのとき感じた怖さが、まだ残っていた。
美月はしばらく考えてから、告知文を入力した。
《今日の配信もお休みします。楽しみにしてくれていた皆さん、ごめんなさい。またお話しできる日を楽しみにしています!》
投稿する。
「……よし」
小さく息を吐いた。
すぐに、いくつかのコメントが届き始めた。
《了解!》
《無理しないでね》
《また待ってるよ》
《ゆっくり休んで!》
美月は少しだけ笑った。
「……ありがとう」
画面の向こうには、今も自分を待ってくれている人がいる。
それが嬉しかった。
だからこそ、また安心して笑えるようになってから配信したい。
美月はスマートフォンを机へ置き、夕食のために部屋を出た。
◇
午後九時十五分。
美月はベッドに腰掛け、友達から届いたLINEを読んでいた。
《今日の配信もお休みなんだね》
莉子からだった。
《うん。もうちょっと休もうかなって》
《そっか。ゆっくりしなよ》
《ありがとう!》
短いやり取りを終え、スマートフォンを置こうとしたときだった。
画面の上部に通知が表示された。
配信に使っているSNSのメッセージだった。
「……あれ?」
見覚えのないアカウント。
美月は通知を開いた。
《なでしこちゃん、今日も配信お休みなんだね》
《また元気な姿を見られるの、楽しみにしてるよ》
「…………」
普通の応援メッセージに見えた。
配信を始めてから、こうした連絡が届くことは何度かあった。
ただ、最近は知らない人からの連絡に少し慎重になっている。
美月は返信せず、画面を閉じようとした。
そのとき。
新しいメッセージが届いた。
《昨日は先生と一緒だったんだね》
「…………え?」
美月の指が止まった。
昨日。
先生と一緒。
頭に浮かんだのは、駅前で待っていた自分のところへ凛が来てくれた場面だった。
……何で?
何で、この人が知ってるの?
美月は画面を見つめた。
偶然、同じ学校の人が見ていたのだろうか。
でも、相手のアカウントには見覚えがない。
プロフィールを開こうとした、そのとき。
もう一通、メッセージが届いた。
《家まで無事に帰れてよかったね》
「…………」
美月は息を止めた。
画面の文字を、もう一度読む。
《家まで無事に帰れてよかったね》
心臓の音が、急に大きくなった気がした。
……家?
どうして。
どうして、家まで帰ったって分かるの?
昨日、凛が付き添ってくれたことは、配信でもSNSでも話していない。
自宅の場所だって、公表したことはない。
美月はスマートフォンを握りしめた。
「……うそ」
小さな声が漏れた。
金曜日の帰り道。
同じ男性を何度も見かけた気がした。
あの人だったのだろうか。
それとも、まったく別の誰かが見ていたのだろうか。
分からない。
何も分からない。
けれど、少なくとも誰かが、自分と凛の行動を知っている。
その可能性だけで、身体が冷たくなった。
◇
「…………」
美月はゆっくりと顔を上げた。
部屋の窓。
カーテンは閉まっている。
外から何かが見えるわけではない。
それなのに、急に窓の方が気になった。
……まさか。
今も、どこかで見てる?
美月はすぐに首を振った。
そんなはずない。
でも。
「…………」
立ち上がり、窓へ近づこうとした。
けれど、足が止まる。
カーテンを開けるのが怖かった。
もし、誰かがいたら。
もし、目が合ってしまったら。
美月は窓から離れた。
スマートフォンの画面には、まだメッセージが表示されている。
相手からの新しい連絡はない。
それが、かえって不気味だった。
「……どうしよう」
凛に連絡しようか。
莉子に相談しようか。
結衣なら、きっと話を聞いてくれる。
けれど。
今、同じ家の中には母親がいる。
美月は部屋の扉を見つめた。
母親には、配信していることを話していない。
配信者になりたいという気持ちも、まだきちんと伝えられていない。
もし、今回のことを話したら。
何を言われるだろう。
「…………」
美月は唇を結んだ。
それでも。
一人でいるのは、怖かった。
美月はスマートフォンを持ったまま、部屋を出た。
◇
リビングでは、高瀬由紀子が仕事の資料に目を通していた。
テーブルにはノートパソコンと、いくつかの書類が広げられている。
「……お母さん」
「ん?」
由紀子は画面から目を離さずに返事をした。
「何? 今、ちょっと仕事中なんだけど」
「…………」
美月はその場に立ち尽くした。
いつものように話しかければいい。
そう思っていた。
けれど、声が出ない。
「……美月?」
返事がないことに気づき、由紀子が顔を上げた。
そして、娘の表情を見て眉を寄せた。
「……どうしたの?」
「…………」
「美月」
由紀子はパソコンを閉じた。
「何があったの?」
美月はスマートフォンを差し出した。
「……これ」
「……何?」
「……知らない人から、来たの」
由紀子は画面を受け取った。
メッセージを読む。
最初の二通。
そして、その下に続く言葉。
《昨日は先生と一緒だったんだね》
《家まで無事に帰れてよかったね》
「…………」
由紀子の表情が変わった。
「……美月」
「……うん」
「この人、誰?」
「……分からない」
「知らない人なのね?」
「……うん」
由紀子はスマートフォンをもう一度見た。
「昨日、山本先生が途中から付き添ってくださったでしょう?」
「……うん」
「それを、この人が知ってるってこと?」
美月は小さく頷いた。
「……多分」
「…………」
由紀子はしばらく黙っていた。
そして、落ち着いた声で尋ねた。
「この『なでしこ』って、あなたのこと?」
「…………」
美月は俯いた。
「……うん」
「……どういうこと?」
「…………」
「美月。ちゃんと説明して」
由紀子の声が少し厳しくなった。
美月は唇を噛んだ。
そして、少しずつ話し始めた。
「……私、配信してるの」
「……配信?」
「うん。動画とか、ライブとか……」
「……いつから?」
「……前から」
由紀子は目を細めた。
「私は、聞いてないわよ」
「……うん」
「……そう」
短く答えた。
それ以上は言わず、美月の続きを待つ。
「……それで、この前、制服で配信したの」
「制服?」
「……うん。学校の」
由紀子の眉が動いた。
「……学校の制服を着て、知らない人たちに見せてたの?」
「……うん」
「…………」
由紀子は何か言いかけた。
けれど、一度口を閉じた。
「……続けて」
美月は頷いた。
「そしたら、誰かが勝手に動画を切り抜いて、別のところに上げてて……」
「……うん」
「そのコメントに、桜丘高校じゃないかって書かれてて……」
「…………」
「……先生にも相談して、今は配信休んでるの」
美月はスマートフォンを見つめた。
「昨日、帰り道で同じ人を何回か見た気がして……」
「……それで、先生が来てくださったのね」
「……うん」
由紀子は深く息を吐いた。
しばらく娘を見つめていたが、やがて立ち上がった。
「……美月」
「……はい」
「今、その人から何か連絡は来てる?」
「……ううん。さっきのが最後」
「返信は?」
「……してない」
「それでいいわ。これ以上、返事はしないこと」
「……うん」
「それから、メッセージは消さないで。先生にも見せましょう」
美月は頷いた。
由紀子はスマートフォンを返した。
「……話は、あとで聞くわ」
「……え?」
「配信のこと。どうして私に黙ってたのかも」
「…………」
「でも、今はそれより先にすることがあるでしょう」
由紀子は自分のスマートフォンを手に取った。
「山本先生へ連絡しましょう。学校にも、このメッセージを確認してもらう必要があるわ」
「……うん」
美月は小さく頷いた。
由紀子は娘の顔を見た。
「……怖かったのね」
「…………」
美月の目に、少しだけ涙が浮かんだ。
「……うん」
由紀子は短く息を吐いた。
そして、娘の肩に手を置いた。
「……分かったわ。今夜は一人で抱えなくていいから」
「……お母さん」
「まずは先生に連絡するわよ」
「……うん」
美月は、ようやく少しだけ息ができた気がした。
◇
同じ夜。
凛は自宅で、翌週の授業に使う資料を確認していた。
そこへ、スマートフォンが鳴った。
画面には、高瀬由紀子の名前。
『……はい、山本です』
「夜分に失礼します。高瀬です」
『……高瀬さん。どうされましたか』
「娘のことで、お話があります」
いつも以上に硬い声だった。
凛は姿勢を正した。
『……はい』
「娘の配信活動について、先ほど初めて知りました」
『…………』
「それから、知らない人物から妙なメッセージが届いています」
由紀子は、メッセージの内容を伝えた。
昨日は先生と一緒だった。
家まで無事に帰れてよかった。
凛は黙って聞いていた。
『……その文面で、間違いありませんか』
「ええ。娘のスマートフォンで確認しました」
『……分かりました』
凛は手帳を開いた。
『美月は、今そちらにいますか』
「はい。家にいます」
『……けがなどは?』
「ありません。ただ、かなり怖がっています」
『……そうですか』
凛は小さく息を吐いた。
金曜日。
美月が駅前で待っていたときの表情を思い出す。
怯えながらも、凛を見つけて少し安心した顔。
帰り道で何度も周囲を気にしていた姿。
あのときは、同じ男性を見かけたという話だけだった。
しかし、今は違う。
誰かが、凛との帰宅を知っている。
『……高瀬さん。今夜は、美月を一人にせず、できるだけ普段どおりに過ごさせてあげてください』
「……分かりました」
『メッセージは消さず、送信元のアカウントや日時が分かる形で記録を残していただけますか』
「ええ」
『学校の管理職にも報告します。警察への相談も進めたいと思います』
「……お願いします」
由紀子は少し間を置いた。
「……先生」
『はい』
「娘が配信をしていたこと、先生はご存じだったんですか」
『……はい』
「…………」
『学校でも、本人から話を聞いていました』
電話の向こうが静かになった。
凛は続けた。
『ただ、今は美月の安全に関わる状況です。詳しい経緯については、改めてお話しさせてください』
「……そうですね」
由紀子は短く答えた。
「今は、そちらを優先してください」
『……承知しました』
通話を終えた凛は、しばらくスマートフォンを見つめていた。
金曜日まで、確かなことは分からなかった。
今も、相手の正体は分からない。
けれど、美月の行動を知っている人物から連絡が届いた。
それだけは、事実だった。
『…………』
凛は立ち上がった。
学校の管理職へ連絡を入れる。
夜間だったが、緊急性のある生徒の安全に関する相談として、状況を共有した。
翌日、学校として警察への相談を進めること。
保護者にも直接相談を促すこと。
これまでの切り抜き動画やメッセージの記録を整理すること。
そして、当面の登下校について、家庭と学校で協力して対応すること。
確認を終えると、凛は手帳を開いた。
美月の名前の下に、今日の日付を書き足す。
六月二十七日。
匿名アカウントからのメッセージ。
帰宅状況への言及。
自宅位置を把握されている可能性。
『…………』
凛はペンを止めた。
まだ、分からないことは多い。
しかし、今度は明確に、美月の生活へ危険が近づいている。
凛は手帳を閉じた。
◇
六月二十八日、日曜日。
午前。
由紀子は、美月とともに警察へ相談に訪れていた。
学校側からも連絡があり、これまでの経緯を整理していた。
制服配信の切り抜き。
学校名を推測するコメント。
帰宅途中で何度か見かけた男性。
そして、昨夜届いたメッセージ。
美月は、一つずつ説明した。
警察官は途中で確認の質問をしながら、話を聞いた。
美月は男性の顔をはっきり覚えていなかった。
服装も、暗い色の上着と鞄くらいしか思い出せない。
それでも、覚えている範囲で伝えた。
由紀子は隣に座り、娘の話を黙って聞いていた。
相談を終えると、警察側から今後の連絡方法や、安全のために気をつけることについて説明を受けた。
帰り道。
美月は車の助手席で、窓の外を眺めていた。
「……疲れた?」
由紀子が尋ねる。
「……ちょっと」
「……そう」
信号で車が止まる。
由紀子はハンドルを握ったまま、短く息を吐いた。
「明日からの登校だけど」
「……うん」
「学校と相談して、しばらく付き添いをお願いすることにしたわ」
美月が顔を上げた。
「……先生が?」
「毎日同じ先生というわけにはいかないでしょうけど、私が送れる日は送るし、難しい日は学校にも協力していただくわ」
「……うん」
「警察にも、通学時のことは伝えてあるから」
美月は小さく頷いた。
「……ありがとう、お母さん」
「…………」
由紀子は一度、美月へ目を向けた。
「……当然でしょう」
そして、再び前を向く。
「あなたの母親なんだから」
美月は膝の上で手を重ねた。
昨夜、配信のことを話した。
由紀子が怒っていることは、分かっている。
まだ、何も解決していない。
それでも。
今は母親がそばにいてくれることが、ありがたかった。
◇
六月二十九日、月曜日。
午前七時四十五分。
美月は玄関に立っていた。
制服に着替え、鞄も持っている。
いつもなら、とっくに家を出る準備ができている時間だった。
「…………」
玄関の扉を見つめる。
鍵はかかっている。
その向こうには、いつもの住宅街がある。
何度も通った通学路。
見慣れた景色。
けれど、今日は自分から扉を開ける気になれなかった。
……外に、誰かいたら。
ふと、そんなことを考えてしまう。
「……美月」
後ろから声がした。
由紀子だった。
「準備できた?」
「……うん」
「先生、もうすぐいらっしゃると思うわ」
「……うん」
美月は頷いた。
そのとき、インターホンが鳴った。
二人が顔を上げる。
「……山本先生ね」
由紀子が玄関へ向かった。
扉を開ける。
そこには、凛が立っていた。
『おはようございます、高瀬さん』
「おはようございます。朝早くから申し訳ありません」
『いえ。お気になさらないでください』
凛は軽く頭を下げた。
そして、玄関の奥にいる美月へ視線を向ける。
『……おはよう、美月』
「……おはようございます、先生」
『準備はできたか?』
「……はい」
美月は鞄を持ち直した。
けれど、すぐには足が動かなかった。
凛はその様子に気づいた。
『……美月』
「……はい」
『急がなくていい』
「…………」
『準備ができたら、声をかけてくれ』
美月は小さく頷いた。
由紀子は娘を見た。
「……美月」
「……うん」
「大丈夫。先生が一緒にいてくださるから」
美月は扉の向こうへ目を向けた。
いつもと変わらない朝。
通勤する人。
自転車で走る学生。
近所の家から聞こえる生活音。
そのどこかに、知らない誰かがいるかもしれない。
そう考えてしまう自分が、少し嫌だった。
「…………」
美月は一度、深く息を吸った。
そして、玄関の外へ一歩踏み出した。
『……よし』
凛が小さく頷いた。
『では、行こう』
「……はい」
由紀子が二人へ頭を下げる。
「……先生。娘をお願いします」
『はい。学校まで、責任を持って付き添います』
「……よろしくお願いします」
由紀子の声には、いつもの厳しさが残っていた。
けれど、今は娘の安全を託す母親の切実さもあった。
凛はもう一度頭を下げ、美月とともに歩き始めた。
◇
朝の住宅街。
美月は凛の隣を歩いていた。
いつもなら、スマートフォンで友達とやり取りをしたり、音楽を聴いたりしている時間。
けれど、今日は鞄の紐を握ったまま、前を見つめていた。
『……美月』
「……はい」
『昨日は、少し休めたか?』
「……はい」
『……そうか』
凛は頷いた。
しばらく、二人は黙って歩いた。
交差点へ差しかかったときだった。
向かい側から、一人の男性が歩いてきた。
通勤途中らしい、スーツ姿の男性だった。
「……っ」
美月が小さく身体を強張らせた。
足が一瞬、止まる。
凛はその変化に気づいた。
『……美月?』
「……あ」
美月は慌てて首を振った。
「……ごめんなさい」
『……謝ることではない』
「…………」
『少し止まろうか』
「……はい」
二人は歩道の端へ寄った。
男性は、こちらを気にする様子もなく通り過ぎていく。
美月はその背中を見送った。
「……あの人、全然違う人なのに」
『……うん』
「……何か、怖くなっちゃって」
美月は小さく笑おうとした。
「……変ですよね」
凛は首を横に振った。
『……変ではない』
「…………」
『怖い思いをしたんだ。すぐに普段どおりになれなくても、仕方がない』
美月は俯いた。
「……はい」
凛は少し待ってから声をかけた。
『……歩けそうか?』
「……はい」
『では、ゆっくり行こう』
二人は再び歩き始めた。
美月は、いつもより少しだけ凛の近くを歩いていた。
その小さな変化が、凛には気になった。
配信の話をするときの、美月の明るい笑顔。
登録者数が減っても、楽しかったと話していた声。
好きなことを続けたいと、まっすぐ伝えてきた眼差し。
それらを思い出す。
けれど、今の美月は違った。
通りすがりの人にさえ怯えている。
いつもの道を歩くことが、怖くなっている。
『…………』
凛は前を向いた。
美月を守りたい。
そう思った。
ただ、それだけのことが、今はひどく難しく感じられた。
隣では、美月が鞄の紐を握り直していた。
凛はその姿を見ながら、何も言わずに歩き続けた。




