第六十四話「帰り道の違和感」
二〇二六年(令和八年)六月二十四日、水曜日。
都立桜丘高校。
放課後の教室で、高瀬美月は鞄に教科書を詰め込んでいた。
「美月、今日どうする?」
莉子が隣から声をかける。
「ん? 帰るよ?」
「いや、そうじゃなくて。配信のこと」
「ああ……」
美月は手を止めた。
「昨日、お休みのお知らせ出したし。明日はやらないつもり」
「……そっか」
「うん。でも、やめるわけじゃないよ?」
「分かってるって」
莉子は笑った。
「別に、あたしもやめろなんて思ってないし」
「……えへへ。ありがとう」
美月も笑う。
そこへ結衣が近づいてきた。
「美月ちゃん、今日は一緒に帰る?」
「……あ、ごめん。今日はちょっと寄るところがあるんだ」
「そっか」
「うん。また明日ね!」
「……うん。気をつけてね」
結衣は小さく手を振った。
美月も手を振り返し、教室を出た。
◇
駅へ向かう道。
美月は鞄からイヤホンを取り出した。
いつもなら、好きな音楽を聴きながら帰る。
けれど、耳につけようとして手が止まった。
昨日、凛から言われたことを思い出した。
――もしまた何か見つけたり、知らない人から気になる連絡が来たりしたら、必ず知らせてくれ。
「…………」
美月はイヤホンを鞄へ戻した。
別に、何かが起きたわけではない。
ただ、昨日の切り抜き動画を見てから、知らない人の視線が少し気になるようになっていた。
駅に着く。
改札を通り、ホームへ向かった。
帰宅する学生や会社員が、電車を待っている。
美月もいつもの場所に立った。
「……ふぅ」
時刻表を確認して、スマートフォンをしまう。
そのときだった。
少し離れた場所に、男性が立っていた。
三十代くらいだろうか。
暗い色の上着に、肩から下げた鞄。
特に目立つところのない、普通の男性だった。
美月は何となくそちらへ目を向けた。
男性はスマートフォンを見ていた。
「…………」
美月はすぐに視線を戻した。
……何やってるんだろ、私。
ただ電車を待ってる人なのに。
最近、変なことばっかり気にしちゃう。
やがて電車が到着した。
美月は乗り込み、空いていた座席に腰掛けた。
窓の外の景色がゆっくりと動き出す。
しばらくすると、さっきの男性のことは頭から離れていた。
◇
六月二十五日、木曜日。
午後八時五十分。
美月は自室の机に向かっていた。
目の前には、スマートフォン。
いつもなら、そろそろ配信の準備を始めている時間だった。
照明の位置を確認して。
髪を整えて。
何を話そうか考えて。
午後九時になったら、みんなへ挨拶する。
そんな時間を、これまで何度も過ごしてきた。
「…………」
美月はスマートフォンを手に取った。
なでしこちゃんねるの画面を開く。
火曜日に投稿した、配信休止のお知らせ。
その下には、たくさんのコメントが並んでいた。
《今日はお休みかぁ》
《また配信してね!》
《ゆっくり休んで》
《次の配信楽しみにしてるよ》
「……えへへ」
美月は小さく笑った。
「……ありがとう」
午後九時になった。
いつもなら、画面にコメントが流れ始めている頃だ。
「……ちょっと寂しいな」
美月は呟いた。
けれど、今すぐ配信したいかと聞かれれば、答えに迷う。
知らない人が自分の動画を切り抜いている。
学校名を推測するコメントも書かれている。
そのことが、まだ頭から離れなかった。
美月はスマートフォンを机へ置いた。
「……今日は、これでいいよね」
誰に言うでもなく、呟く。
休むと決めたのは、自分だ。
莉子に言われたからでも、凛に禁止されたからでもない。
また楽しく配信するために、少し時間を置きたかった。
美月は机の上に広げた教科書へ目を向けた。
「……あ、明日の小テスト」
思い出した瞬間、顔が引きつった。
「……全然勉強してない!」
慌ててノートを開く。
配信をしていない夜でも、やることはある。
「……もう、何で忘れてたんだろ!」
美月は小さく笑いながら、シャープペンシルを握った。
◇
六月二十六日、金曜日。
放課後。
美月は校門を出ると、いつもの駅へ向かった。
今日は結衣と帰る約束をしていたが、結衣は先生に呼ばれ、少し遅くなるらしい。
《先に帰ってて大丈夫だよ》
昼休みに届いたメッセージへ、美月は返事をしていた。
《うん! また月曜日ね!》
駅に着き、改札を通る。
ホームには多くの人がいた。
美月は電車の到着を待ちながら、何となく周囲へ目を向けた。
「…………」
少し離れた場所。
柱の近くに、一人の男性が立っていた。
暗い色の上着。
肩から下げた鞄。
スマートフォンを見ている。
美月は目を瞬かせた。
……あれ?
どこかで見たような。
水曜日の帰り道。
同じホームにいた男性。
あの人に、似ている気がした。
「…………」
美月はすぐに視線を逸らした。
……いや、そんなことあるよね。
いつも同じ電車に乗ってたら、同じ人を見かけることくらい。
そう自分に言い聞かせる。
やがて電車が到着した。
美月はほかの乗客に続いて乗り込んだ。
車内はそれほど混雑していなかった。
つり革につかまり、窓の外へ視線を向ける。
すると、視界の端に、先ほどの男性が入った。
「…………」
同じ車両に乗っている。
美月は少しだけ背筋を伸ばした。
……偶然。
そう、偶然だよ。
同じ方向に帰る人なんて、いっぱいいるもん。
男性は数人離れた場所で、スマートフォンを見ていた。
美月の方を見ている様子はない。
それでも、妙に気になった。
普段なら気にも留めない距離なのに。
電車が駅に止まるたび、美月は降りる人の流れを目で追ってしまう。
そして、自分の降りる駅に着いた。
「…………」
美月はドアへ向かった。
ホームへ降りる。
改札へ向かう人の流れに入り、歩き始めた。
その途中、何となく振り返った。
「……っ」
少し離れた場所に、男性がいた。
さっきの人だろうか。
顔までは、はっきり分からない。
ただ、暗い色の上着と肩から下げた鞄が見えた。
美月は前を向いた。
胸の奥が、少しだけ冷たくなる。
……え。
……同じ駅?
いや、だから。
そんなことだってある。
自分と同じ駅を使っている人なのかもしれない。
でも。
もし、違ったら。
「…………」
美月は改札を出た。
いつもなら、そのまま自宅へ向かう。
けれど、今日は足が止まった。
駅前には、いくつもの店が並んでいる。
買い物客や学生が行き交っていた。
美月は明るい店先の近くへ移動した。
もう一度振り返りたい。
確かめたい。
けれど、もし本当に同じ人だったら。
そう思うと、怖くなった。
「……どうしよう」
小さく呟く。
美月は鞄からスマートフォンを取り出した。
連絡先を開く。
最初に目に入ったのは、結衣の名前だった。
少し迷ってから、通話ボタンを押した。
◇
『……もしもし?』
「……あ、結衣ちゃん?」
『うん。美月ちゃん? どうしたの?』
聞き慣れた声がした。
それだけで、美月は少し安心した。
「……あのね」
『……うん?』
「……ちょっと、聞いてほしいことがあって」
結衣はすぐに答えた。
『うん。何でも言って』
美月は言葉を探した。
「……私、考えすぎかな」
『……どうしたの?』
「同じ人を、何回か見かけてて……」
美月は、水曜日と今日の出来事を説明した。
駅のホームで見かけた男性。
同じ電車に乗っていたこと。
そして、降りた駅でも見かけたこと。
話しているうちに、自分でも何が怖いのか分からなくなってきた。
「……でも、偶然かもしれないし」
『……うん』
「同じ電車に乗ってたってだけだし……」
『……うん』
「……私、最近いろいろあったから、気にしすぎてるだけかなって」
電話の向こうで、結衣はしばらく黙っていた。
そして、落ち着いた声で答えた。
『……美月ちゃん』
「……うん」
『考えすぎかどうか、今決めなくていいと思う』
「……え?」
『偶然かもしれない。でも、美月ちゃんが怖いと思ってるなら、そのことはちゃんと伝えた方がいいよ』
「…………」
『今、どこにいるの?』
「……駅の近く」
『人はいる?』
「……うん。お店の前にいる」
『そっか。じゃあ、そこにいてね』
「……うん」
『先生にも連絡しよう』
美月は少し迷った。
「……でも、こんなことで……」
『こんなことじゃないよ』
結衣の声は優しかった。
『この前、山本先生も言ってたでしょ。何か気になることがあったら知らせてって』
「……うん」
『だから、話していいんだよ』
「…………」
美月は小さく息を吐いた。
「……そっか」
『うん』
「……ありがとう、結衣ちゃん」
『ううん』
少し間を置いて、結衣が尋ねた。
『……電話、切らないでおこうか』
「……うん。お願い」
『分かった』
美月はスマートフォンを耳に当てたまま、店先に立っていた。
行き交う人たちの声。
車の走る音。
店内から聞こえる音楽。
いつもと変わらない駅前の風景だった。
それでも、今日は少し違って見えた。
◇
同じ頃。
都立桜丘高校の職員室。
凛は翌週の授業資料を整理していた。
そこへ、校内の電話を通じて美月からの連絡が入った。
『……美月?』
「……先生」
『どうした?』
美月は、駅での出来事を説明した。
凛は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
『……分かった』
「……先生、私、気にしすぎですかね」
『……それは、今は分からない』
「…………」
『だが、怖いと思ったことを知らせてくれたのは、よかった』
「……はい」
『今は、どこにいる?』
「駅前のお店の近くです」
『……周りに人はいるか?』
「はい」
『よし。できれば店の中など、店員のいる場所で待っていてくれ』
「……分かりました」
『一人で帰ろうとしなくていい。こちらでも確認して、すぐに連絡する』
「……はい」
凛は電話を切ると、すぐに席を立った。
生徒指導担当の教師へ事情を説明する。
「……同じ男性を、何度か見かけたと?」
『はい。ただ、同一人物かどうかは確認できていません』
「……なるほど」
教師は少し考えた。
「まずは本人を安全な場所で待たせてください。学校側でも帰宅方法を確認しましょう」
『はい』
「保護者に連絡は?」
『……これからです』
「では、状況を共有して、迎えに行けるか確認しましょう。難しければ、こちらでも対応を考えます」
凛は頷いた。
『分かりました』
美月の母親、高瀬由紀子。
以前から、娘の進路について意見がぶつかっている保護者だった。
しかし、今は別の問題だ。
娘が不安を感じている。
安全に帰宅できるようにすることが、何より先だった。
凛は連絡先を確認した。
由紀子は仕事中で、すぐには迎えに出られないという。
事情を聞いた由紀子は、娘の様子を気にかけながら、学校側での対応を頼んだ。
凛は管理職と相談し、校務の引き継ぎを済ませたうえで、美月の待つ駅へ向かうことになった。
◇
しばらくして。
「……美月!」
店の前で待っていた美月が顔を上げた。
「……先生!」
凛が近づいてきた。
『待たせたな』
「……いえ」
『……大丈夫か?』
「……はい」
美月は頷いた。
けれど、その表情にはまだ不安が残っていた。
凛は周囲へ目を向けた。
『……例の男性は、今も見えるか?』
「……分かりません」
『……そうか』
凛は頷いた。
『無理に探さなくていい』
「……はい」
『今日は私が付き添う。お母さんにも連絡してあるから、安心してくれ』
美月は少し驚いた。
「……お母さんに?」
『ああ。帰り道で不安なことがあったと伝えている』
「……そうですか」
美月は小さく頷いた。
母親に心配をかけてしまったことが、少し申し訳なかった。
けれど、今は一人で帰らずに済むことが嬉しかった。
『……行こうか』
「……はい」
二人は並んで歩き始めた。
凛は普段より周囲に気を配っていた。
ただし、美月に不安を与えないよう、必要以上に振り返ったりはしなかった。
美月は隣を歩く凛を見上げた。
「……先生」
『ん?』
「……ありがとうございます」
『……ああ』
凛は小さく微笑んだ。
『無事に帰るまでが、今日の仕事だからな』
「……ふふっ」
美月は少しだけ笑った。
◇
夜。
美月は自宅の玄関を開けた。
「……ただいま」
家の中は静かだった。
由紀子は、まだ仕事から戻っていない。
美月は靴を脱ぎ、自室へ向かった。
鞄を置き、制服のままベッドに腰掛ける。
「……はぁ」
長い息が出た。
学校から帰るだけで、こんなに疲れたのは初めてかもしれない。
結衣に電話したこと。
凛が迎えに来てくれたこと。
その一つ一つを思い出す。
……ほんとに、何だったんだろう。
ただの偶然だったらいい。
そう思う。
けれど、もし違ったら。
「…………」
美月は立ち上がり、窓へ近づいた。
カーテンの隙間から、外の様子が少し見える。
いつもの住宅街。
街灯の明かり。
帰宅する人の姿。
特に変わった様子はなかった。
それでも、美月はすぐにカーテンを閉めた。
「……何やってるんだろ、私」
小さく笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
机の上のスマートフォンが震えた。
莉子からのLINEだった。
《美月、帰れた?》
美月はすぐに返信した。
《うん。帰れたよ》
《よかった。先生から話聞いた》
《心配かけてごめんね》
《謝んなくていいって》
《何かあったらすぐ言って》
美月は画面を見つめた。
《ありがとう》
少しして、また返信が届いた。
《月曜日、一緒に帰ろ》
「……えへへ」
美月は小さく笑った。
《うん!》
スマートフォンを置く。
明日は土曜日。
本当なら、次の配信について考えている頃だった。
けれど、今はまだ、配信する気持ちになれない。
「……もうちょっと、お休みしようかな」
美月は呟いた。
それから制服を着替え、ベッドへ腰掛けた。
今日見かけた男性が、何者だったのか。
本当に同じ人物だったのか。
それは、まだ分からない。
ただ一つ。
いつもの帰り道で感じた、あの怖さだけは、はっきりと覚えていた。




