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第六十二話「知らなかった横顔」

 二〇〇〇年(平成十二年)六月二十六日、月曜日。


 都立青葉高校。


 朝の廊下を歩いていたリンは、前方から聞こえてきた笑い声に顔を上げた。


「えー! 沙織、昨日も会ってたの?」


「うん! ちょっとだけだけどね!」


「ちょっとだけって、何時間?」


「……三時間?」


「全然ちょっとじゃないじゃん!」


「あはは! そうかな?」


 友達に囲まれて笑っているのは、西野沙織だった。


 先週の月曜日にも、恋人の高木悠斗とのデートを嬉しそうに報告していた。


 あのときは、隣にいた悠斗が何度も照れていたっけ。


 リンは思わず口元を緩めた。


 青春だなぁ。


 あたしにも、あんな時期が……。


 ……ないか。


 残念ながら、思い当たる経験がない。


 少し虚しくなっていると、沙織たちが教室の前で立ち止まった。


「じゃあ、またあとでね!」


「うん!」


 友達が先に教室へ入っていく。


 その直後だった。


「…………」


 沙織の笑顔が、ふっと消えた。


 さっきまで楽しそうに話していたのに、急に何かを考え込むような顔になった。


 視線を落としたまま、しばらく動かない。


 リンは足を緩めた。


 ……ん?


 沙織はすぐに顔を上げ、教室へ入っていった。


 その後ろ姿を見送りながら、リンは首を傾げた。


 ……気のせいかな。


 さっきまで普通に笑ってたし。


 何か考え事でもしてたのかもしれない。


 リンはそれ以上気にせず、職員室へ向かった。


     ◇


 午前の体育の授業。


 校庭では、生徒たちが準備運動を終え、グループに分かれて活動していた。


『はーい! 水分補給、忘れないでねー!』


 リンが声をかけると、何人かの生徒が返事をした。


「はーい!」


「先生、今日暑すぎ!」


『まだ六月なのにねぇ。無理しないでよー』


 強い日差しが、校庭を照らしている。


 生徒たちは汗を拭いながらも、楽しそうに身体を動かしていた。


 沙織も、その一人だった。


「沙織! こっち!」


「はいはい!」


 友達に呼ばれると、笑いながら駆けていく。


 動きがおかしいわけではない。


 授業にもきちんと参加している。


 けれど。


「…………」


 順番を待っている間、沙織は時折、ぼんやりと遠くを見ていた。


 友達に呼ばれると、すぐに笑顔に戻る。


 その繰り返しだった。


 リンは少し気になった。


 ……やっぱり、何か考え事してるのかな。


 恋人と喧嘩でもした?


 でも、今朝は楽しそうに惚気てたし……。


 いや、そもそも恋愛のこととは限らないか。


 授業終了の笛を吹く。


『はーい、今日はここまで! 使ったものを片づけてね!』


 生徒たちが道具を集め始めた。


 沙織も友達と一緒に片づけをしていたが、最後の一つを運んだあと、少し離れた場所で立ち止まっていた。


 リンは近づいていった。


『西野さん』


「……あ、凛先生」


『……何かあった?』


「……え?」


 沙織は少しだけ目を見開いた。


『何となく、元気ないように見えたから』


「…………」


 沙織は一瞬、何かを言いかけた。


 けれど、すぐに小さく笑った。


「……ううん。何でもないです」


『……そっか』


 リンは頷いた。


『何かあったら、いつでも声かけてね』


「……はい。ありがとうございます」


『うん。じゃあ、着替えに行っておいで』


「はい!」


 沙織は頭を下げ、友達のいる方へ戻っていった。


 リンはその後ろ姿を見送った。


 ……何でもない、か。


 本人がそう言うなら、今はそれ以上聞くこともない。


 少なくとも、授業中に体調が悪そうな様子はなかった。


『……よし』


 リンは残っていた用具を手に取り、片づけを再開した。


     ◇


 放課後。


 校舎の奥から、鋭い気合いが響いていた。


「セイッ!」


「ハァッ!」


 武道場。


 リンは入口で上履きを脱ぎ、稽古の様子を覗いた。


 床を踏み込む音。


 道着が擦れる音。


 そして、相手と向かい合う部員たちの真剣な眼差し。


 ……うん。


 相変わらず迫力あるなぁ。


 リンはそっと壁際へ移動した。


 今日は空手部の副顧問として顔を出している。


 自分にできることは限られているけれど、出欠の確認や練習の補助、連絡事項の整理など、やるべき仕事はある。


 何より、来月には東央大学との合同試合が控えている。


 七月二十二日。


 佐伯大輔にとっては、大学進学の可能性に関わる大切な機会だった。


「佐伯! もう一本!」


「はい!」


 顧問の声が響く。


 佐伯が相手と向かい合った。


 深く息を吐き、構えを取る。


 開始の合図。


「セイッ!」


 佐伯が素早く踏み込んだ。


 しかし、相手は距離を取ってかわす。


 佐伯はすぐに追いかけた。


 再び踏み込む。


 相手が下がる。


 さらに前へ。


「……待て!」


 顧問の声が響いた。


 二人が動きを止める。


「佐伯。前に出るのはいい。だが、今のは相手を見ていたか?」


「……いえ」


「攻めることばかり考えるな。間合いを見ろ」


「はい!」


 佐伯は深く頷いた。


 リンはその様子を見つめていた。


 ……気合い入ってるなぁ。


 あの子、本気なんだ。


 佐伯の家には、下に二人の弟がいる。


 家計に余裕がないことも、以前の話で聞いていた。


 大学へ進学することは、決して簡単ではない。


 それでも、佐伯は挑戦する道を選んだ。


 リンは壁際に置いたノートを開いた。


 合同試合の連絡事項。


 参加予定者。


 移動方法の確認。


 大学側から届いた案内。


 ……あたしができるのは、こういうところかな。


 技術的なことは、顧問の先生に任せるしかない。


 それでも、部員たちが稽古に集中できるようにしたい。


 リンは日程の欄へ、確認事項を書き足した。


     ◇


「相原! 次、入れ!」


「はい!」


 別の組手が始まった。


 相原菜月だった。


 菜月は相手と向かい合い、静かに構えを取った。


 相手が前へ出る。


 菜月は動かない。


 さらに一歩。


 そこで、わずかに身体をずらした。


「……っ!」


 相手の攻撃が届かない。


 菜月はすぐに距離を取り、再び構える。


 同じような攻防が続いた。


 リンは首を傾げた。


 ……あれ?


 菜月ちゃん、全然攻めないな。


 相手を見ているようにも見えるけど、何か待ってるのかな。


 やがて組手が終わった。


 菜月は礼をして、道場の端へ戻ってくる。


 リンは何となく声をかけた。


『相原さん、お疲れさま』


「ありがとうございます、凛先生」


『さっきの組手、ずっと相手の動き見てたね』


「……はい」


『何か理由があるの?』


 菜月は少しだけ笑った。


「……まだ、うまくできてないんですけど」


『……そっか』


「もうちょっと、試してみたいことがあって」


『へえ。そうなんだ』


 リンは頷いた。


 専門的なことは分からない。


 でも、自分で考えながら稽古していることは伝わってくる。


『頑張ってね』


「はい!」


 菜月は嬉しそうに答えた。


 そして、ふと思い出したように首を傾げた。


「……あ、そうだ。凛先生」


『ん?』


「先生って、いつになったら私たちと組手してくれるんですか?」


『…………へ?』


 リンの笑顔が固まった。


 ……組手?


 あたしが?


 誰と?


「前からお願いしてるじゃないですか」


『あ、あー……そうだったね』


「来月、大学との合同試合もありますし。一度、先生に相手してもらいたいんです」


『……なるほどねぇ』


 なるほどじゃない。


 全然なるほどじゃない。


 あたし、今まで何とか体育教師をやってきたけど、空手だけは本当に無理なんだって!


「先生、いつも見てるだけですし」


『……あはは。副顧問だからね』


「でも、先生の空手、見てみたいです」


『…………』


 菜月の目は真剣だった。


 冗談で言っているわけではない。


 むしろ、以前よりずっと興味を持っているように見える。


『……ほら、今は合同試合に向けた練習が大事だからさ』


「だからこそ、です」


『……え?』


「先生みたいに強い人と組手できる機会、なかなかないですから」


 リンは思わず目を逸らした。


 ……まずい。


 この子、引かない。


『……でも、あたしが相手して、怪我でもさせちゃったら困るし』


「大丈夫です。防具もありますし」


『……そ、そういう問題じゃなくてね?』


「手加減してもらってもいいので」


『…………』


 逃げ道が、次々と塞がれていく。


 リンは助けを求めるように、道場の奥へ目を向けた。


 そこでは顧問が別の部員を指導している。


 ……先生!


 今だけこっち見て!


「……先生?」


『……あっ!』


 リンは突然、手を打った。


『そうだ! 相原さん、さっきの組手で気になることがあったんだ!』


「……何ですか?」


『相手が攻めてきたとき、ずっと待ってたでしょ?』


「……はい」


『あれって、何か理由があるの?』


 菜月は少しだけ目を細めた。


「……さっきも聞きましたよね?」


『…………』


 ……しまった。


「先生」


『ん?』


「話、逸らしてません?」


『……っ!』


 鋭い。


 鋭すぎる。


『そ、そんなことないよ!?』


 菜月はじっとリンを見つめた。


 やがて、小さく笑った。


「……じゃあ、合同試合が終わったらお願いしますね」


『…………』


「約束ですよ?」


『……ぜ、善処します』


「……ふふっ。楽しみにしてます」


 菜月は軽く頭を下げ、稽古へ戻っていった。


 リンはその背中を見送った。


 ……善処って何!?


 何も解決してないじゃん!


 むしろ、期限決められちゃったんだけど!?


『……どうしよう』


 リンは額に手を当てた。


 その声は、道場に響く気合いにかき消された。


     ◇


 稽古が終わる頃には、窓の外も少しずつ夕暮れの色に染まり始めていた。


 部員たちが道場の清掃を始める。


 リンは顧問との連絡事項を確認し、ノートを閉じた。


「凛先生」


『……あ、佐伯さん。お疲れさま』


 佐伯が道着姿のまま近づいてきた。


 額にはまだ汗が残っている。


「お疲れさまです」


『今日も頑張ってたね』


「……ありがとうございます」


『やっぱり、来月の合同試合?』


「……はい」


 佐伯はタオルで汗を拭った。


「……あそこで、何か一つでも残したいんです」


『……そっか』


「まだ、大学に行けるって決まったわけじゃないですから」


『……うん』


「でも、挑戦しないまま諦めるのは嫌なんで」


 佐伯はまっすぐリンを見た。


 以前よりも、その目には迷いが少なくなっているように見えた。


 リンは小さく笑った。


『……応援してるよ』


「……ありがとうございます」


『でも、頑張りすぎて怪我しないようにね』


「はい!」


 佐伯はしっかりと頭を下げた。


 その背中を見送りながら、リンは思う。


 ……みんな、すごいなぁ。


 佐伯さんも。


 相原さんも。


 それぞれ、自分で考えて進んでる。


 あたしなんて、菜月ちゃんとの組手をどう逃げるかで頭がいっぱいなのに。


 ……いや、あれは本当に無理なんだけど。


 リンは小さくため息をついた。


 それにしても。


 みんながあんなに期待するほど、凛さんって強かったんだろうか。


 これまで、何度も話は聞いてきた。


 空手の経験がある。


 大会で優勝したこともある。


 強かった。


 けれど、リン自身はその姿を見たことがない。


 ……そういえば。


 試合の映像とか、残ってたりするのかな。


     ◇


 その日の夕食後。


『……ねえ、お父さん』


「ん? どうした」


『あたしの昔の空手の試合ってさ、記録とか残ってたりする?』


 父は箸を止めた。


「何を言ってる。全部父さんが撮って、そっちの棚に並べてあるだろう」


『……棚?』


 父が指差したのは、居間の壁際にある大きな棚だった。


 リンは立ち上がり、そちらへ歩いていく。


『……うわ』


 棚の一角には、何本ものビデオテープが並んでいた。


 背表紙には、手書きの文字。


『平成六年 県大会』


『平成八年 全国大会』


『平成十年 大学選手権』


 それだけではない。


 棚の上には、大小さまざまなトロフィー。


 壁には額に入った賞状が何枚も飾られている。


 メダルも、ケースの中にずらりと並んでいた。


『……え、ちょっと待って』


 リンは思わず声を漏らした。


 数が多い。


 多すぎる。


『……これ、全部あたしの?』


「そうだ。当たり前だろう」


 父は何でもないことのように答えた。


「お前が取ってきたものだからな」


『…………』


 リンは棚を見つめた。


 今まで、こんなにじっくり眺めたことはなかった。


 凛が空手に打ち込んできたことは、知っていた。


 けれど、その積み重ねが、こんなにも目に見える形で残っているとは思わなかった。


「急に昔の試合が見たくなったのか?」


『……うん。ちょっとね』


「好きなのを持っていけ。部屋でも見られるだろう」


『……ありがと』


 リンは一本のビデオテープを取り出した。


 ラベルには、こう書かれていた。


『平成十年 大学選手権 凛』


 ……大学時代の凛さん。


 リンはしばらくそのテープを眺めた。


 そして、慎重に手に持ち、階段を上がった。


     ◇


 自室。


 リンはテレビの下にあるビデオデッキへ、テープを差し込んだ。


 再生ボタンを押す。


 画面に、体育館が映った。


 少し粗い映像。


 試合場と、その周囲で静かに待機する選手たち。


 会場には張り詰めた空気が漂っていた。


 やがて、試合場へ向かう二人の選手が映る。


『……あ』


 その一人を見て、リンは息を止めた。


 山元凛だった。


 白い道着をまとい、髪をきっちりと結んでいる。


 背筋を伸ばし、相手をまっすぐ見据えていた。


 同じ顔。


 同じ身体。


 なのに、見たことのない表情だった。


 試合開始の合図。


 凛が構える。


 その瞬間、空気が変わったように見えた。


「セイッ!」


『ひゃっ!?』


 リンは思わず肩を跳ねさせた。


 鋭い気合いとともに、凛が踏み込んだ。


 速い。


 映像を見ていても、何が起こったのか分からない。


 相手が反応したときには、すでに攻撃が届いていた。


『……え?』


 試合は続く。


 凛は不用意に動かない。


 相手との間合いを保ち、わずかな動きを見ている。


 そして、一瞬の隙に踏み込む。


「ハァッ!」


『……うわっ!』


 凛の蹴りが、鋭く伸びた。


 相手が下がる。


 凛はすぐに構えを戻した。


『……ちょ、ちょっと待って』


 リンはリモコンを握りしめた。


『……何これ』


 これを。


 あたしが。


 相原さんと?


 ……いやいやいやいや。


 無理無理無理無理!!


『……絶対無理でしょ……!』


 思わず小声で呟く。


 こんな動き、できるわけがない。


 そもそも、画面の中の凛と同じ身体を使っているはずなのに、どうしてあんなに違うのだろう。


 凛が再び踏み込む。


「ヤァッ!」


『……ひぃっ』


 リンは身を縮めた。


 試合場では、凛が最後まで集中を切らさなかった。


 やがて、試合終了の合図。


 凛は相手と礼を交わす。


 勝敗が告げられても、表情を緩めなかった。


 背筋を伸ばし、静かに試合場を離れる。


 画面の端には、道着姿で正座する選手たちが映っていた。


 誰も騒がない。


 ただ、次の試合へ視線を向けている。


 凛も、その一人になった。


 リンは息を吐いた。


『……すご……』


 これまで、周囲の人間が凛の実力を語るたびに、どこか現実味がなかった。


 今は違った。


 目の前で、その強さを見せつけられたのだから。


 ……そりゃあ、菜月ちゃんも組手したがるよね。


 こんなに強い先生がいたら、一度くらい相手してもらいたいって思うだろうなぁ。


 リンは画面を見つめた。


 ……でも、ごめん。


 あたしには、本当に無理。


 しばらくすると、映像が切り替わった。


 試合を終えた後らしい。


 体育館の外。


 道着から私服に着替えた凛が映っていた。


 カメラの向こうから、女性の声が聞こえる。


「凛、お疲れさま」


「……うん。ありがとう、お姉ちゃん」


 凛は少し照れくさそうに答えた。


「最後の蹴り、綺麗に入ったね」


「……そう? ちょっと焦ったんだけど」


「全然そんなふうに見えなかったよ」


 凛は小さく笑った。


「……なら、よかった」


『…………』


 リンはリモコンを持ったまま、動きを止めた。


 試合中の鋭い表情とは、まるで違う。


 目元を柔らかくして、少し照れながら笑っている。


「お父さん、またビデオ見ながら解説始めるよ、きっと」


「……あはは。それ、絶対やるね」


 二人の笑い声が重なった。


 リンは画面を見つめた。


『……そっか』


 小さく呟く。


『凛さんって、こんな声なんだ』


 もちろん、今の自分の口からも声は出ている。


 けれど、それとは違った。


 自分が考えて、自分の言葉として出す声ではない。


 凛自身が、自分の気持ちで話している声。


 自分の意思で浮かべた笑顔。


『……こんな顔で笑うんだ』


 毎朝、鏡で見ている顔だった。


 毎日、使っている声だった。


 けれど、画面の中の凛は、自分とはまるで違っていた。


 リンはもう一度、少し巻き戻した。


 姉に声をかけられ、凛が笑う。


 その場面を、もう一度見た。


『…………』


 この人は、今どこにいるのだろう。


 無事でいるのだろうか。


 自分と同じように、知らない場所で戸惑っているのかもしれない。


 それとも、まったく違うことが起きているのだろうか。


 リンには分からなかった。


 ただ、画面の中で笑う凛を見ていると、不思議な気持ちになった。


 今まで、名前と身体だけを知っていた人。


 その人にも、積み重ねてきた時間があって。


 家族がいて。


 大切にしてきたものがあった。


 リンは棚の上に置かれたビデオのケースへ目を向けた。


 そこには、父の字で書かれた『凛』という名前があった。


『……凛さん』


 リンは静かに名前を呼んだ。


『……いつか、ちゃんと会ってみたいな』


 画面の中の凛は、姉の声に笑っていた。


 リンはしばらく、その姿を眺めていた。

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