第六十話「変わるもの、変わらないもの」
二〇〇〇年(平成十二年)六月十九日、月曜日。
都立青葉高校。
『おはよう、西野さん、高木さん』
「凛先生、おはようございます!」
「……おはようございます」
並んで歩いていた二人に声をかけると、沙織が満面の笑みで振り返った。
「先生! 昨日、悠斗とデートしたんですよ!」
「……沙織!」
『へえ、そうなんだ。楽しかった?』
「はい! すっごく!」
沙織は嬉しそうに頷いた。
「映画見て、買い物して、それから一緒にご飯食べて! 悠斗、ずっと荷物持ってくれたんです!」
「いや、それくらい普通だろ……」
「しかも、あたしが疲れたって言ったら、すぐ座れるところ探してくれて!」
「……だから、いちいち言わなくていいって」
『……へえ。高木さん、優しいんだね』
「……先生まで」
悠斗が耳を赤くする。
沙織はそんな彼を見て、さらに嬉しそうに笑った。
「でしょ!? あたし、悠斗のそういうところが大好きなんです!」
「沙織! もういいって!」
『……ふふ。ごちそうさま』
リンは笑った。
二人を見ていると、何だか自分まで楽しくなってくる。
けれど。
「先生も、彼氏さんとデートとかするんですか?」
『……えっ』
沙織の何気ない質問に、思わず足が止まった。
昨日の喫茶店。
別れ話。
そして、駅前で交わした短いキス。
『……まあ、たまにはね』
「いいなぁ! 先生も彼氏さんといると幸せですよね!」
『…………』
幸せ。
沙織は、何の迷いもなくその言葉を口にした。
隣の悠斗は相変わらず恥ずかしそうだったけれど、彼女を見る目は優しかった。
『……そうだね』
リンは笑って答えた。
でも、その言葉が自分の気持ちなのかどうかは、まだ分からなかった。
「……沙織、もう行こうぜ。教室、遅れるって」
「えー、まだ大丈夫だよ!」
「いいから!」
「あはは! 悠斗、照れてる!」
「照れてねえよ!」
『はいはい。二人とも、廊下は走らないでね』
「はーい!」
二人は並んで歩いていった。
沙織が何かを話し、悠斗が困ったように笑っている。
その後ろ姿を見送りながら、リンは小さく息を吐いた。
『……幸せ、かぁ』
昨日、健吾は笑っていた。
キスのあと、ありがとうと言ってくれた。
あの人にとって、あれは嬉しいことだったのだろうか。
少なくとも、あたしには嬉しかったと言い切れない。
健吾のことが嫌いなわけじゃない。
でも、好きかと聞かれたら、答えられない。
そのくせ、別れたくないと言ってしまった。
『……難しいなぁ』
思わず呟く。
そのとき、予鈴が鳴った。
『……っと。仕事仕事!』
リンは頬を軽く叩き、職員室へ向かった。
◇
放課後。
家庭科室から、ミシンの音が聞こえていた。
『……あれ?』
リンが覗いてみると、作業台の上に何枚もの布が広げられている。
美奈と真理。
そして、その向こうに藤崎の姿があった。
『お疲れさまです。進んでます?』
「あ、山元先生。お疲れさまです」
藤崎が顔を上げた。
「ちょうど、片岡さんに試着してもらうところなんです」
「凛ちゃん! 見て見て!」
美奈が勢いよく手を振った。
「こないだより、めっちゃよくなったんだよ!」
『えっ、ほんと!?』
「うん。美奈ちゃん、こっち向いて」
「はいはーい!」
美奈が作業台の横へ立つ。
仮縫いされた衣装は、左右で裾の長さが違っていた。
長い方は流れるように足元へ向かい、短い方は膝のあたりで軽やかに揺れている。
『……わあ』
思わず声が出た。
『前と全然違うね!』
「でしょ!?」
美奈が嬉しそうに笑った。
「藤崎先生に教えてもらったやり方、試してみたんだ!」
「布の方向を変えたんです」
真理が説明した。
「……それから、少しだけ重さも調整して」
『へえ……!』
リンは思わず裾を覗き込んだ。
以前は、長い側の布が妙なところで折れ曲がっていた。
けれど、今は綺麗な曲線になっている。
『すごいじゃん、二人とも!』
「えへへ!」
美奈が胸を張った。
「真理、昨日も家でずっと考えてたんだよ!」
「……美奈ちゃんだって、布屋さん行ってくれたでしょ」
「まあね!」
二人が顔を見合わせて笑う。
藤崎も満足そうに頷いていた。
「まだ仮縫いですが、いい方向に進んでいますね」
『本番が楽しみですね!』
「……ただし」
藤崎が少しだけ表情を引き締めた。
「今は、立っている状態で綺麗に見えているだけです」
「……え?」
美奈が首を傾げた。
「片岡さん。少し歩いてみてもらえる?」
「はーい」
美奈は作業台から離れ、家庭科室の中央を歩いた。
一歩。
二歩。
三歩。
その瞬間だった。
「あっ」
真理が声を上げた。
長い方の裾が足の動きに引っ張られ、腰のあたりに不自然な皺が寄っていた。
「あれ?」
美奈が立ち止まる。
「……今、変だった?」
「……うん」
真理が裾を持ち上げた。
「……ここ、引っ張られてる」
「えー! さっき綺麗だったじゃん!」
「……立ってるときは、ね」
藤崎が頷いた。
「舞台では歩かなければなりませんからね。動いたときにどう見えるかも考えましょう」
「……うわー」
美奈が天井を仰いだ。
「またやり直し!?」
「全部をやり直す必要はありませんよ」
藤崎は穏やかに答えた。
「うまくいっている部分は残して、問題が出たところを調整しましょう」
『……なるほど』
リンは衣装を眺めた。
服を作るって、ただ縫えばいいわけじゃないんだ。
立っているとき。
歩いているとき。
身体を動かしたとき。
全部を考えなきゃいけない。
「……むずっ!」
美奈が呟いた。
真理は、皺の寄った部分をじっと見つめていた。
◇
六月二十日、火曜日。
放課後の家庭科室。
「……だから、ここを直したらいいと思うの」
真理がデザイン画を指さした。
「……腰の部分を少し調整して、裾の流れを変えれば」
「うんうん」
美奈が頷く。
「じゃあ、やってみよ!」
二人は布を広げ、作業を始めた。
しばらくして、試着。
美奈が鏡の前で身体をひねった。
「……あれ?」
「……どう?」
「腰はいい感じだけどさ」
美奈は裾をつまんだ。
「今度、こっちが変じゃない?」
「……あ」
真理の表情が曇った。
左右非対称の長い裾が、以前よりも重たく見えていた。
「……何か、最初に戻ってない?」
「…………」
二人はしばらく衣装を見つめていた。
「……前、どうやって直したんだっけ」
美奈が尋ねる。
「……布の方向、変えたんだけど」
「それは覚えてる。でも、その前に何かやんなかった?」
「……えっと」
真理は机の上の布へ目を落とした。
「……縫い代を変えた、かな」
「え? それ、一昨日じゃない?」
「……そうだったっけ」
二人の会話が止まる。
何度も試してきた。
そのたびに少しずつ変えてきた。
けれど、何をどこまで変えたのか、記録は残していない。
「……もー!」
美奈が椅子の背にもたれた。
「分かんなくなってきた!」
真理も小さく息を吐いた。
「……うん」
そのとき、美奈が鏡に映る自分を見た。
「……ていうかさ」
「……ん?」
「これ、髪どうすんの?」
美奈は金色の髪を指に巻きつけた。
「ステージ出るとき、いつもみたいな感じでいい?」
「……髪型?」
「そうそう! 巻いて、ちょっと盛ろうかなって」
真理は衣装を見た。
それから、美奈の髪へ目を移した。
「……私は、まとめた方がいいと思う」
「……えっ?」
「肩から裾までの形を見せたいから」
「……えー!」
美奈は思わず声を上げた。
「せっかくの大会なのに!?」
「……だから、大会だから」
「でもさ、髪もちゃんと可愛くしたいじゃん!」
「……うん。可愛くするのはいいと思う」
真理は少し考えた。
「……でも、服の色もあるし、髪も少し落ち着いた方が、全体が綺麗に見えると思う」
「……落ち着いたって?」
「……黒とか、暗い色」
「えっ!?」
美奈が目を丸くした。
「無理無理! あたし、この金髪めっちゃ気に入ってんだもん!」
「……うん」
「それに、黒くしたらあたしっぽくなくない?」
真理は少し黙った。
「……そうかもしれない」
「でしょ?」
「……でも、今の色だと、衣装より髪が目立つ気がする」
「…………」
美奈が眉を寄せた。
「……それって、あたしが目立っちゃ駄目ってこと?」
「……違うよ」
真理は首を振った。
「……服も、美奈ちゃんも、両方綺麗に見せたいの」
「…………」
「だから、いろいろ試したいなって」
美奈は鏡へ目を向けた。
金色の髪。
自分で選んだ色。
時間をかけて整えてきた髪型。
それを変えるなんて、今まで考えたこともなかった。
「……でも、黒はないって」
美奈は小さく言った。
「……うん。嫌なら、別の方法を考えよう」
真理はそれ以上、何も言わなかった。
そのままデザイン画を机に戻す。
美奈は、その横顔を見つめていた。
◇
作業を終えたあと。
藤崎は職員室へ戻り、家庭科室には二人だけが残っていた。
真理が道具を片づけている。
美奈は鏡の前で、髪をまとめたり下ろしたりしていた。
「……やっぱ、こっちの方がいいな」
金色の髪を下ろす。
見慣れた自分が鏡に映った。
「…………」
ふと、真理へ目を向けた。
彼女は少し俯きながら、布の切れ端を箱にしまっている。
柔らかくうねった髪。
以前、森田がその髪をからかったとき、美奈もつられて笑ってしまった。
美奈は、指に巻きつけていた髪を離した。
「……ねえ、真理」
「……ん?」
真理が顔を上げた。
「……あたしさ」
美奈は少し言いにくそうに笑った。
「前、森田が真理の髪のこと言ったとき、一緒に笑ったじゃん」
「…………」
「……あれ、ごめん」
真理は驚いたように美奈を見た。
「……え?」
「いや……今さらなんだけど」
美奈は自分の髪をつまんだ。
「あたし、髪色変えるって言われただけで、こんな嫌なんだなって思って」
「…………」
「それなのに、真理の髪のこと、何も考えずに笑っちゃったじゃん」
美奈は小さく息を吐いた。
「……ほんと、ごめん」
真理は少し俯いた。
「…………」
すぐには返事をしなかった。
美奈も、それを急かさなかった。
やがて、真理が口を開いた。
「……嫌だったよ」
「…………」
「……あのとき」
美奈は頷いた。
「……うん」
「自分でも、ずっと気にしてたから」
「…………」
「……美奈ちゃんも、前に笑ってたから……私の髪が嫌いなんだと思ってた」
美奈は俯いた。
「……そっか」
それから、もう一度顔を上げた。
「……ごめん」
真理は首を横に振った。
「……うん」
そして、ほんの少し笑った。
「……でも、今、謝ってくれて嬉しい」
「…………」
「……ありがとう、美奈ちゃん」
美奈は少しだけ目を潤ませた。
「……あー、もう」
照れ隠しのように笑う。
「あたし、ほんと余計なことしてたね」
「……ううん」
真理は小さく笑った。
「……じゃあ今度、美奈ちゃんおすすめの服屋さん教えて」
「えっ!?」
美奈が目を丸くした。
「いいの!?」
「……うん」
「じゃあさ、今度一緒に行こ! 真理に似合うやつ、いっぱいあると思うんだよね!」
「……ふふ。楽しみ」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
家庭科室に、明るい声が響いた。
しばらくして、美奈が机の上のデザイン画を見た。
「……ねえ、真理」
「……ん?」
「さっきの髪の話なんだけどさ」
「……うん」
「……もうちょっと考えさせて」
真理は頷いた。
「……もちろん」
「……ありがと」
美奈は自分の髪を指で梳いた。
金色の毛先が、窓から差し込む夕日にきらめいた。
◇
六月二十二日、木曜日。
朝の三年生の教室。
「おっはよー!」
いつもの明るい声が響いた。
教室へ入ってきた美奈を見て、数人の生徒が振り返る。
「……えっ?」
「片岡!?」
「ちょっと待って、髪どうしたの!?」
美奈は得意げに髪をかき上げた。
「どうよ! 黒髪美奈ちゃん!」
明るい金色だった髪が、艶のある黒髪に変わっていた。
「マジで染めたの!?」
「えー! でも似合ってる!」
「でしょー!?」
美奈はいつもの調子で笑った。
その声を聞いて、席にいた真理が顔を上げる。
「……美奈ちゃん?」
「おっ、真理!」
美奈が近づいてくる。
「どう? びっくりした?」
「……うん。すごく」
真理は美奈の髪を見つめた。
「……でも、あんなに気に入ってたのに」
「うん。今でも気に入ってるよ」
「…………」
「でもさ、あたしら全国の二十四組に選ばれたんだよ?」
美奈は真理の机に手をついた。
「だったら、髪の色くらい本気で考えたいじゃん!」
「……美奈ちゃん」
「あ、勘違いしないでよ! 真理に言われたから仕方なく染めたわけじゃないからね!」
「……うん」
「あたしが考えて、こっちの方がいいって思ったの!」
真理は少しだけ目を潤ませた。
「……ありがとう」
「えっ、何でお礼?」
「……そこまで、真剣に考えてくれて」
美奈は照れくさそうに笑った。
「……まあね。あたしだって、あのステージ立つんだし!」
そして、ふと思い出したように人差し指を立てた。
「あとさ、さすがに金髪じゃあゆには勝てないからね!」
「……そこ!?」
真理が思わず声を上げた。
「だって、あゆだよ!? 同じ金髪で勝負したって絶対負けるじゃん!」
「……髪の色で勝負する大会じゃないよ?」
「分かってるって! でも、あゆと同じステージに立つんだよ!? ちょっとくらい意識するっしょ!」
真理は一瞬ぽかんとしたあと、吹き出した。
「……ふふっ。もう、美奈ちゃんってば」
「何よー!」
美奈も笑った。
そして真理の肩を軽く叩く。
「ま、そんなわけで! この髪に一番似合う服、一緒に考えよ!」
「……うん!」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
同じ日の放課後。
家庭科室では、美奈が黒髪をまとめたり下ろしたりしながら、衣装とのバランスを確かめていた。
「……やっぱ、こっちの方がいい?」
美奈が髪を片側へ寄せる。
「……うん。肩の形が見えるから」
真理はデザイン画と見比べながら頷いた。
「でも、全部まとめると、ちょっと寂しいかも」
「……じゃあ、少し残してみる?」
「いいね!」
二人は鏡の前で何度も髪型を変えた。
そして、衣装を合わせてみる。
「……あ!」
美奈が目を輝かせた。
「これ、結構よくない!?」
「……うん!」
真理も嬉しそうに頷いた。
黒髪を片側にまとめ、反対側へ少しだけ流す。
衣装の左右非対称のラインと、髪の流れが自然につながっていた。
「……いいじゃん!」
美奈が笑う。
「真理、これでいこうよ!」
「……うん。でも、実際に歩いてみてから決めよう」
「了解!」
二人は顔を見合わせた。
以前なら、美奈は勢いで決め、真理はそれに合わせていたかもしれない。
けれど今は違う。
美奈も考える。
真理も意見を伝える。
そして、二人で確かめる。
少しずつ、二人の作り方が変わり始めていた。
そこへ、家庭科室の扉が開いた。
『お疲れさまー!』
「あ、凛ちゃん!」
リンが顔を覗かせた。
『二人とも、今日も頑張ってるね』
「うん! 今、髪型決めてたとこ!」
『へえ。ちょっと見せて!』
美奈が鏡の前でくるりと回る。
『……あ、いいじゃん! 衣装の形とも合ってるね』
「でしょー!」
美奈が嬉しそうに笑った。
リンは改めて、その黒髪へ目を向けた。
『それにしても、片岡さんが金髪をやめるなんて思わなかったなぁ』
「えー! 凛ちゃんまでそんなこと言う!?」
『だって、すごく気に入ってたでしょ?』
「そりゃそうだけどさ!」
美奈は黒髪の毛先をつまんだ。
「でも、大会は本気でやりたいんだもん。そこは妥協したくないじゃん!」
『……そっか』
リンは微笑んだ。
『自分で決めたんだね』
「もちろん!」
美奈が胸を張る。
「ま、黒髪も結構似合ってるしね!」
『うん。似合ってる。朝もびっくりしたけど、こうして見ると衣装にもぴったりだね』
「やったー!」
真理も嬉しそうに笑った。
リンは二人を見比べた。
髪色は大きく変わった。
けれど、美奈の明るさはそのままだ。
そして、その変化を真理も嬉しそうに受け止めている。
『……二人とも、いい感じだね』
「でしょ!」
「……はい」
二人の笑顔を見て、リンもつられて笑った。
◇
六月二十三日、金曜日。
放課後の家庭科室。
「……あれ?」
美奈が首を傾げた。
「昨日、ここ直したよね?」
「……うん」
「なのに、何かまた変じゃない?」
真理は衣装を持ち上げた。
「……少し引っ張られてる」
「えー! 何で!?」
二人は机の上に布を広げた。
これまでに試したもの。
途中まで縫ったもの。
ほどいた糸。
切り取った小さな布。
そのどれもが、二人の試行錯誤の跡だった。
しかし。
「……前、どこ変えたっけ」
「……えっと」
「ここじゃなかった?」
「……そこは、その前に直したところだと思う」
「……えー」
美奈が頭を抱えた。
「もう分かんないって!」
真理も困ったように笑った。
「……うん」
そのとき、家庭科室へリンが顔を出した。
『お疲れさまー!』
「あ! 凛ちゃん!」
『どう? 進んでる?』
「……進んでるような、進んでないような!」
『……え?』
リンは作業台を見た。
何枚もの布と、途中まで縫われた衣装。
そこには、二人が一生懸命作業していることがよく表れていた。
『……何か困ってる?』
「うん! 何回も直してるんだけどさ!」
美奈が裾を持ち上げる。
「どこをどう直したのか、分かんなくなっちゃって」
『……なるほど』
リンは真理へ目を向けた。
『小川さんも?』
「……はい」
真理は頷いた。
「……試したことは覚えてるんですけど、順番がごちゃごちゃになってきて」
『……そっか』
リンはしばらく考えた。
あたしは裁縫が得意なわけじゃない。
どう縫えばいいのかなんて、詳しくは分からない。
でも。
何度も同じところで迷っているなら、やり方を少し変えた方がいいのかもしれない。
『……ねえ、二人とも』
「ん?」
「……はい」
『今まで試したことって、どこかに書いてる?』
二人は顔を見合わせた。
「……書いてない」
「……うん」
『じゃあさ、ノート作ってみない?』
「……ノート?」
美奈が首を傾げた。
『うん』
リンは作業台の端に置かれた紙を指さした。
『何がうまくいかなかったか。どう直したか。直してみて、どうなったか』
「…………」
『それを書いておけば、同じこと何回も試さなくて済むんじゃないかなって』
真理が目を見開いた。
「……あ」
『それに、次に何を試すかも書いておけば、作業するときに分かりやすいでしょ?』
「……課題ノート、みたいな?」
『そうそう! それ!』
リンは笑った。
『課題ノート! いい名前じゃん!』
美奈が身を乗り出した。
「え、それいいかも!」
『でしょ?』
「何かさ、直したつもりで前と同じことやってる気がすんだよね!」
真理も頷いた。
「……うん。どこまで試したか、残しておきたい」
『じゃあ、やってみよっか!』
リンは職員室から持ってきた未使用のノートを机に置いた。
その表紙を見て、ふと思う。
二〇二六年にいた頃のあたしなら、こんなとき、迷わずスマートフォンを取り出していただろう。
メモアプリを開いて、気づいたことを入力する。書き直しも、項目の整理も、指先一つで済む。
手書きのノートなんて、きっと思いつきもしなかった。
でも、今は違う。
リンが持っているのは、メールを打つのにも時間がかかる折り畳み携帯だ。
何人かで一つの記録を見ながら相談するなら、こうして机に広げられるノートの方がずっと使いやすい。
リンは表紙を指先で軽く叩いた。
『これ、使っていいよ』
「えっ、いいの!?」
『うん。普通のノートだけど』
「十分十分!」
美奈が表紙を開いた。
真理が鉛筆を手に取る。
「……じゃあ、何から書こう」
『まずは、今困ってることじゃない?』
「……裾!」
美奈が即答した。
「それから、髪型!」
「……うん」
真理は頷いた。
ノートの一ページ目に、大きな文字を書いていく。
――課題① 左右非対称の裾を、歩いても綺麗に見せる。
――課題② 衣装と髪型のバランスを整える。
そして、その下に三つの項目を作った。
――試したこと。
――結果。
――次に試すこと。
「……何か、すっきりした」
真理が呟いた。
「でしょ!?」
美奈が嬉しそうに笑う。
「これなら、やること分かりやすいじゃん!」
『うんうん』
リンも頷いた。
『あとは藤崎先生にも見てもらえば、もっといいと思うよ』
「……はい!」
ちょうどそのとき、扉が開いた。
「皆さん、まだ作業していたんですね」
藤崎が入ってきた。
『あ、藤崎先生!』
「山元先生もいらしたんですね」
『はい! ちょうど二人と話してて』
リンはノートを見せた。
『こんなの作ってみたんです』
「……課題ノート?」
藤崎はページを覗き込んだ。
それから、ゆっくり頷いた。
「なるほど。いいですね」
「ほんとですか!?」
美奈が尋ねる。
「ええ。何を試して、どうなったのかが分かれば、私も助言しやすくなります」
真理が頷いた。
「……じゃあ、これから書いていきます」
「そうですね」
藤崎は衣装へ目を向けた。
「まずは、今の裾が歩いたときにどう動くか、もう一度確認してみましょう」
「はい!」
美奈が元気よく答えた。
藤崎は黒髪の美奈へ目を向けた。
「それにしても、片岡さん。髪型も随分変わりましたね」
「はい!」
美奈が嬉しそうに髪を持ち上げた。
「黒髪、結構いけるでしょ!?」
「ええ。とても似合っていますよ」
「やったー!」
真理も、その隣で嬉しそうに笑った。
◇
しばらくして。
家庭科室には、再びミシンの音が響いていた。
美奈が布を押さえ、真理が慎重に縫い進める。
机の端には、新しく作った課題ノート。
まだ一ページ目しか埋まっていない。
けれど、さっきまでとは少し違っていた。
「……美奈ちゃん、そこ押さえて」
「オッケー!」
「……もう少し右」
「こう?」
「……うん。ありがとう」
二人の声が重なる。
リンは少し離れたところから、その様子を眺めていた。
美奈の髪は、もう金色ではない。
真理も、以前よりずっと自分の意見を口にするようになった。
けれど。
美奈の明るさも。
真理の丁寧さも。
二人が服を作ることを楽しんでいる気持ちも。
何も失われていなかった。
『……いいなぁ』
リンは小さく呟いた。
机の上には、二人が描いたデザイン画が置かれている。
共通テーマは「変化」。
その文字を見て、リンは少しだけ笑った。
七月八日の本選まで、あと十五日。
まだ、完成には遠い。
それでも。
二人は確かに、自分たちの作品を前へ進めていた。




