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第五十九話「返せなかった言葉」

 二〇〇〇年(平成十二年)六月十七日、土曜日。


 午前十時二十分。


「……まだ返してない」


 リンはベッドの上に座り、折り畳み式の携帯電話を開いた。


 昨夜届いたメールが、画面に残っている。


《凛、久しぶり。話したいことがあるんだけど、今度会えないかな》


 高橋健吾。


 この身体の持ち主である山元凛が、二年ほど付き合っている恋人。


 リンにとっては、恋人どころか、ほとんど知らない男性だった。


「……話したいこと、かぁ」


 何の話だろう。


 仕事のことかもしれない。


 何か相談があるのかもしれない。


 それとも、ずっと連絡を避けていたことを怒っているのだろうか。


 最後の可能性を考えると、携帯電話を閉じたくなった。


 けれど、それを何度も繰り返してきた結果が、今なのだ。


「……うん。返そう」


 リンはメールの返信画面を開いた。


 慣れないボタンを押しながら、一文字ずつ入力していく。


《連絡できなくてごめん。明日なら時間あるよ》


 送信。


「……はぁ」


 携帯電話をベッドに置く。


 ようやく返した。


 ただそれだけなのに、妙に疲れた。


 リンは仰向けに倒れ込んだ。


 天井を見つめる。


 健吾との関係を、このまま放っておくわけにはいかない。


 自分が突然この身体で目覚めたからといって、凛の人生がなくなったわけではない。


 彼女には仕事がある。


 家族がいる。


 友人がいる。


 そして、恋人もいる。


「……難しすぎるって」


 リンは枕に顔を埋めた。


 しばらくして、携帯電話が短く鳴った。


「……早っ」


 画面を開く。


《ありがとう。じゃあ、明日の二時はどうかな》


 リンは少し考えた。


 日曜日なら学校も休みだ。


 都合が悪い理由はなかった。


《大丈夫だよ》


 送信すると、すぐに次のメールが届いた。


《駅前の喫茶店、覚えてる?》


「…………」


 覚えているはずがない。


 リンは画面を見つめた。


 どこの駅前なのだろう。


 店の名前すら分からない。


 正直に聞くしかなかった。


《ごめん、場所もう一回教えてくれる?》


 少しして、駅名と店の名前が送られてきた。


《分かった。ありがとう》


 返信を終え、リンは携帯電話を閉じた。


 健吾は何も尋ねてこなかった。


 どうして覚えていないのか。


 どうして久しぶりなのに、こんな他人行儀なメールなのか。


 何も。


 そのことが、かえって気になった。


     ◇


 六月十八日、日曜日。


 午後一時五十分。


 リンは約束の喫茶店の前で足を止めた。


 ガラス越しに、木製のテーブルと椅子が見える。


 店内には、新聞を広げる男性や、買い物帰りらしい女性たちが座っていた。


「……よし」


 リンは服の裾を整えた。


 淡い色のブラウスに、膝丈のスカート。


 あまり気合いを入れているようにも、適当に選んだようにも見えない格好。


 それなりに悩んだ結果だった。


 扉を開けると、涼しい空気が頬に触れた。


「……凛」


 奥の席から声がした。


 健吾が立ち上がり、こちらを見ていた。


「あ……」


 リンは一瞬、足を止めた。


 以前会ったときと、特に変わっていない。


 整えられた髪。


 落ち着いた服装。


 優しそうな表情。


 ただ、その目元には少し疲れが見えた。


『……久しぶり』


「……うん。久しぶり」


 健吾は小さく笑った。


「座って」


『……うん』


 リンは向かいの椅子に腰掛けた。


 テーブルには、健吾が飲んでいたコーヒーが置かれている。


「何か飲む?」


『あ、じゃあ……アイスティーで』


「分かった」


 健吾は店員を呼び、注文を伝えた。


 その間、リンはテーブルの端を見つめていた。


 何から話せばいいのだろう。


 久しぶり、とは言った。


 元気だった、と聞けばいいのだろうか。


 でも、何か違う気がする。


「……仕事、どう?」


 健吾が尋ねた。


『……え?』


「学校。最近どうなのかなって」


『あ、うん。忙しいけど、何とかやってるよ』


「そっか」


 健吾は頷いた。


「空手部の方も?」


『……うん。そっちも』


「相変わらず忙しいんだな」


『……そう、だね』


 短い会話が途切れる。


 健吾はコーヒーを一口飲んだ。


 リンも運ばれてきたアイスティーに口をつける。


 氷が小さな音を立てた。


「……凛」


『……ん?』


「今日、来てくれてありがとう」


『……うん』


「正直、返事が来ないかもしれないと思ってた」


 リンはグラスを置いた。


『……ごめん』


「……うん」


 健吾は少しだけ視線を落とした。


「何度か電話しただろ?」


『……うん』


「メールも送ったし、会おうって誘った」


『…………』


「でも、忙しいって言われたり、また今度って言われたりしてさ」


 リンは膝の上で手を握った。


「最初は、仕事が大変なんだろうと思ってた」


 健吾は続けた。


「新任だし、覚えることも多いだろうし。凛は真面目だから、無理してるんじゃないかって」


『……うん』


「でも、何かあったのか聞いても、大丈夫って言うだけで」


 健吾は少し笑った。


 その笑顔は、いつもより寂しそうだった。


「……俺、何かしたのかなって思った」


『……違う!』


 思わず声が出た。


 健吾が顔を上げる。


『……あ、ごめん』


「……いや」


『健吾が悪いわけじゃないから』


「……そうなの?」


『……うん』


 そこまでは、はっきり言えた。


 けれど、次の言葉が出てこない。


 どうして会えなかったのか。


 どうして電話に出なかったのか。


 何を考えていたのか。


 その理由を正しく説明しようとすれば、入れ替わりのことを話すしかなくなる。


 リンは口を閉じた。


「……じゃあ、どうして?」


『…………』


 健吾はしばらく待っていた。


 リンは視線を上げられなかった。


『……ごめん』


 ようやく出たのは、それだけだった。


 健吾は何も言わなかった。


 店内では、食器の触れ合う音がしていた。


 入口のベルが鳴り、新しい客が入ってくる。


 当たり前の日曜日の午後だった。


 それなのに、二人のテーブルだけが、別の場所にあるようだった。


「……凛」


 健吾が静かに言った。


「俺たち、もう終わりにしないか」


『…………え?』


 リンは顔を上げた。


 健吾は視線を逸らさなかった。


「ずっと考えてたんだ」


『…………』


「凛が忙しいのも分かってる。仕事が大事なのも分かってるつもりだよ」


 健吾は一度、言葉を切った。


「でも、俺たち、付き合ってるんだよな」


『……うん』


「それなのに、何を考えてるのかも、何があったのかも、何も話してもらえない」


『…………』


「……それが、結構つらかった」


 リンの胸が、きゅっと縮んだ。


 怒っているわけではない。


 責め立てているわけでもない。


 健吾はただ、自分がどう感じていたのかを話している。


 だから、余計に苦しかった。


「このまま待ってれば、前みたいに戻れるのかなって思ってた」


『…………』


「でも、何も変わらなくてさ」


 健吾は苦笑した。


「……もう、俺のこと好きじゃないのかなって」


『…………』


 リンは何も答えられなかった。


 好きかどうか。


 そんなことを聞かれても、答えられるはずがない。


 あたしが知っている健吾は、まだほんの少しだ。


 でも。


 この人と二年間、一緒に過ごしてきた山元凛は違う。


 健吾を好きだったから、付き合っていたのだろう。


 休日に会って、電話をして、何でもない話をして。


 きっと、あたしの知らない思い出がたくさんある。


 その全部を、あたしが勝手に終わらせてしまうのか。


「……だから、もう――」


『……嫌だ』


 言葉がこぼれた。


 健吾が止まった。


「……え?」


 リン自身も驚いていた。


『……嫌だ』


 もう一度、口にする。


 健吾は目を見開いた。


「……凛?」


『……別れたくない』


 自分の声が、少し震えていた。


 健吾はしばらく黙っていた。


「……本当に?」


『……うん』


「……じゃあ、何で会ってくれなかったの?」


『…………』


「俺、凛のこと分かんなくなってたんだよ」


 健吾の声が、わずかに強くなった。


「別れたくないって言ってくれるのは嬉しいよ。でも、また何も話してもらえないなら……」


『……分かってる』


 リンは健吾を見た。


『……あたしが悪かった』


「…………」


『連絡しなくて、ごめん。ずっと避けてて、ごめん』


 言葉を重ねる。


 謝って済むことではないと分かっていた。


 けれど、今言えることは、それしかなかった。


『……少しだけ、時間をくれない?』


 健吾は眉を寄せた。


「……時間?」


『うん』


『ちゃんと、健吾と話せるようになりたいから』


 健吾はリンを見つめた。


 長い沈黙だった。


 やがて、静かに息を吐いた。


「……分かった」


 リンの肩から、少しだけ力が抜けた。


「でも、凛」


『……うん』


「俺も、ずっとこのまま待ってられるわけじゃないから」


『…………』


「次に会ったときは、もう少し話してほしい」


『……うん』


 リンは頷いた。


 それが、今の自分にできる約束だった。


     ◇


 喫茶店を出ると、午後の日差しが歩道を照らしていた。


 健吾が隣を歩いている。


 駅までは、まだ少し距離があった。


「……今日は、ごめんな」


 健吾が言った。


『……え?』


「急に別れようなんて言って」


『……ううん』


 リンは首を振った。


『健吾が謝ることじゃないよ』


「…………」


『……あたしが、ちゃんと話してこなかったから』


 健吾は前を向いた。


「……そっか」


 二人はしばらく黙って歩いた。


 駅前の商店街には、買い物袋を持った人たちが行き交っている。


 店先からは、流行歌が聞こえていた。


 健吾は何度かリンに歩く速さを合わせた。


 そのさりげない動作が、妙に気になった。


 きっと、これもいつものことなのだろう。


 山元凛にとっては。


 駅の入口が見えてきたところで、健吾が足を止めた。


「……凛」


『……ん?』


 振り返ると、健吾は少し言いにくそうな顔をしていた。


「……キス、してもいい?」


『…………』


 リンは健吾を見つめた。


 断る理由なら、いくらでもあった。


 目の前にいる彼を、あたしは恋人として好きなわけじゃない。


 そういう意味では、まだ他人に近い。


 けれど。


 この人にとって、あたしは二年間付き合ってきた恋人なのだ。


 さっきまで、別れ話をしていた。


 それを引き止めたのは、あたしだ。


 別れたくないと言っておきながら、キスを拒んだら。


 健吾は、また傷つくのだろうか。


 そして。


 本当の凛だったら、どうしただろう。


 好きな人と、久しぶりに会って。


 別れそうになって。


 それでも、もう一度向き合おうと決めたあとで。


 きっと、キスくらいしたかったのではないだろうか。


 リンは小さく息を吸った。


『……うん』


 健吾の表情が少し和らいだ。


 彼が近づく。


 リンは目を閉じた。


 唇が重なった。


 ほんの短いキスだった。


 健吾が離れる。


 リンはゆっくり目を開けた。


「……ありがとう」


 健吾が笑った。


 嬉しそうな、それでいて、まだ少し寂しそうな笑顔だった。


『…………』


 リンは何も言えなかった。


「……じゃあ、また連絡する」


『……うん』


「今度は、返事くれる?」


 健吾は少しだけ冗談めかして言った。


 リンは苦笑した。


『……うん。ちゃんと返す』


「……約束な」


『うん。約束』


 健吾が手を振る。


 リンも小さく手を振った。


 彼の背中が人混みの中へ消えていくまで、リンはその場に立っていた。


     ◇


 帰りの電車。


 リンは窓際に立ち、流れていく街並みを眺めていた。


 唇に触れる。


 まだ、ほんの少しだけ感触が残っている気がした。


「…………」


 恋人とのキス。


 二十二歳にもなれば、別に珍しいことではない。


 少なくとも、あたし自身はそう思っていた。


 けれど、今日のキスは違った。


 嬉しかったわけではない。


 嫌だったわけでもない。


 ただ、応じなければいけないような気がした。


 山元凛のために。


 健吾のために。


 この二人が積み重ねてきたものを、壊さないために。


 そう思っていた。


 でも。


 あたしは、本当に二人のためになることをしたのだろうか。


 健吾は、別れたくないと言われて安心したのかもしれない。


 キスにも応じてもらえて、少しは嬉しかったのかもしれない。


 だけど、あたしの気持ちは違う。


 それを知らないまま、彼はまた待つことになる。


「……何やってんだろ、あたし」


 窓に映る顔を見つめる。


 山元凛の顔。


 今、この顔で健吾と会っているのは、あたしだ。


 あたしが彼に会わないと決めた。


 あたしが別れたくないと言った。


 あたしがキスに応じた。


 全部、あたしが選んだことだった。


 凛の人生を守りたい。


 その気持ちは、嘘じゃない。


 でも、それだけで何をしてもいいわけじゃない。


 電車が速度を落とし始めた。


 リンは吊り革を握り直した。


 次に健吾と会うとき。


 そのときは、もっと彼のことを知らなければならない。


 凛がどんな人を好きになったのか。


 健吾が、どんな気持ちで今まで待っていたのか。


 そして、自分が何を伝えられるのか。


 まだ、何一つ答えは出ていない。


 けれど。


『……ちゃんと、向き合わなきゃ』


 リンは小さく呟いた。


 窓の外では、夕方の街がゆっくり流れていた。

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