↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
58/198

第五十八話「届かない心配」

 二〇二六年(令和八年)六月十九日、金曜日。


 都立桜丘高校、三年四組。


「美月! 昨日、二万八千いったんでしょ!?」


 朝の教室で、三浦茜が声を上げた。


「……う、うん!」


 高瀬美月が頷く。


「配信が終わる頃に、ちょうど二万八千人になって……」


「やばっ! 四千人以上増えたってこと!?」


「うん……自分でもびっくりしちゃった」


「すごくない!? もう三万人じゃん!」


「まだ二千人もいるよ!」


「いや、もう誤差でしょ!」


「誤差じゃないよぉ!」


 二人が笑うと、周りの生徒たちも会話に加わった。


「昨日の配信、結構話題になってたよな」


「俺もおすすめに出てきた」


「もう普通に有名人じゃん」


「そ、そんなことないです!」


 美月は慌てて両手を振った。


 そんな様子を、橘莉子は自分の席から見ていた。


 昨日の夜、莉子は美月へLINEを送った。


 ――ちょっと気になることあったから、明日話そ。


 美月はすぐに返事をくれた。


 だから、今日はきちんと話そうと思っていた。


 ただ、朝からこんなに盛り上がっているとは思わなかった。


「いやー、でも制服ってすごいね」


 茜が何気なく言った。


「いつも着てるやつなのに、あんなに人来るんだもん」


「……うん。私も、あんなに反応してもらえるとは思わなくて」


 美月は嬉しそうに笑った。


「みんな、すごく喜んでくれて……」


「……ねえ、美月」


 莉子が口を開いた。


「ん? どうしたの、莉子ちゃん?」


「昨日の配信のことなんだけどさ」


「あっ、LINEくれたよね!」


 美月が頷いた。


「心配してくれてありがとう。学校名とかは言わないようにしてたから――」


「……それは分かってる」


 莉子は美月の言葉を遮った。


「でもさ、何で制服だったの?」


「……え?」


「何で、昨日は制服にしたの?」


 美月は少し考えた。


「……いつもと違う服にしたかったから、かな」


「……それだけ?」


「うん。あとは……」


 美月は照れくさそうに笑った。


「最近、衣装を変えると喜んでもらえることが多かったから」


「…………」


「でも、まさかあんなに人が来てくれるとは思わなかったよ」


 美月はスマートフォンを取り出した。


「ほら、昨日の切り抜きも、もう結構再生されてて――」


「……コメント、見た?」


 莉子が尋ねた。


「……うん?」


「その切り抜きのコメント」


「……少しは見たよ?」


「何て書いてあった?」


 美月はスマートフォンの画面を見た。


「えっと……制服似合ってるとか、かわいいとか……」


「……それだけじゃないでしょ」


 美月の手が止まった。


「……莉子ちゃん?」


「制服だから見に来たってやつ、めっちゃいたじゃん」


「……うん。それは、そうだけど……」


「本物の女子高生だからいいとか、そういうコメントもあったでしょ?」


 美月は莉子を見た。


「……何が言いたいの?」


 その問いに、莉子は一瞬だけ黙った。


 昨日、茜へ電話したときのことを思い出す。


 あの配信を見て、ぞっとした。


 美月が普段着ている制服に、知らない大人たちが次々と反応していた。


 しかも、美月はその反応を喜んでいた。


「……美月さ」


 莉子はゆっくり口を開いた。


「最近、数字のことばっか気にしてない?」


「……え?」


「登録者増えるのはいいけど、何か、どんどん違う方向に行ってる気がすんだよね」


「……違う方向?」


「うん」


 莉子は美月を見た。


「美月、あんたはなでしこのファンが欲しいの? それともエロい格好した女子高生のファンが欲しいの?」


「…………え?」


 美月の笑顔が消えた。


 近くにいた生徒たちも、会話を止めた。


「……莉子ちゃん」


「だって、そういう人たちが増えてんじゃん」


「……何、それ」


 美月の声が小さくなった。


「私が……そういう人たちを集めたいって思ってるってこと?」


「いや、そうじゃなくて――」


「そんなこと、思ってない!」


 美月が声を上げた。


 莉子も言葉を止めた。


「私、ただ……みんなに楽しんでもらいたくて……!」


「それは分かってるって!」


「分かってないよ!」


 美月はスマートフォンを握りしめた。


「私だって、ずっと頑張ってきたんだよ!?」


「……美月」


「配信の準備だってしてるし、コメントもできるだけ読んでるし……!」


 声が少し震える。


「それなのに、制服着ただけで変な人集めてるみたいに言わないでよ!」


「……だから、あたしは心配して――」


「そんな言い方されたら、心配してくれてるなんて思えない!」


 教室が静まり返った。


 茜は二人を交互に見た。


「……ちょ、ちょっと二人とも」


 けれど、声をかける隙がなかった。


「……じゃあ、美月はあのコメント見て何とも思わなかったの?」


「全部読めるわけないでしょ!」


「だから危ないって言ってんじゃん!」


「危ないって……何が!?」


「何がって――!」


『莉子!』


 鋭い声が響いた。


 教室の入口に、山元凛が立っていた。


 ホームルームのために来たところだった。


『言い方を考えろ!』


「……先生」


 莉子が振り返った。


 凛は二人のもとへ歩み寄った。


『大勢の前で、美月に向ける言葉ではないだろう』


「……でも先生、あたしは!」


『話は聞く。だが、まず落ち着きなさい』


「…………」


 莉子は唇を結んだ。


 凛は美月へ顔を向けた。


『美月。大丈夫か?』


「…………はい」


 美月は俯いた。


「……大丈夫です」


 その声は、あまり大丈夫そうには聞こえなかった。


 凛は一度、教室を見回した。


『もうすぐホームルームだ。皆、席に戻ってくれ』


 生徒たちは、互いに顔を見合わせながら席へ戻った。


 美月もスマートフォンを鞄にしまった。


 莉子は何か言いかけたが、結局黙って自分の席へ向かった。


 水瀬結衣は、その様子を少し離れた場所から見ていた。


 藤原悠真が、隣で小さく息を吐く。


「……結構、言い合ってたな」


「……うん」


 結衣が答えた。


「……でも、橘さんの言いたいことも、少し分かる」


「……ああ」


 悠真は美月の方を見た。


「学校の制服、そのまま出してたんだろ?」


「……うん」


「それは、ちょっと怖いよな」


 結衣は頷いた。


 しかし、美月の俯いた姿を見ると、それ以上は何も言えなかった。


     ◇


 朝のホームルームが始まった。


 凛は出席を確認し、連絡事項を伝えた。


 教室はいつもどおりの静けさを取り戻していた。


 けれど、美月と莉子が一度も目を合わせなかったことに、凛は気づいていた。


 莉子が口にした言葉。


 ――エロい格好した女子高生のファンが欲しいの?


 凛は、月曜日の放課後を思い出していた。


 莉子と結衣が、美月の配信について心配していると話してくれた。


 変なコメントが増えている。


 見ている人たちの目的が変わってきている気がする。


 そのときは、まだ十分に理解できなかった。


 単に失礼な言葉を書き込む者がいるのだと思っていた。


 しかし、今朝の莉子の言葉には、それだけではない不安があった。


 美月が高校生であること。


 その制服を着ていること。


 それ自体を目当てに近づく人間がいるということか。


 凛は出席簿を閉じた。


『……以上だ。今日も一日、しっかりやろう』


 生徒たちが返事をする。


 凛は教室を出る前に、もう一度莉子へ目を向けた。


 莉子は机の上を見つめていた。


     ◇


 昼休み。


 美月は、いつもより静かだった。


 茜が隣へ椅子を持ってくる。


「……美月」


「……ん?」


「朝のこと、あんま気にしない方がいいよ」


「…………」


「莉子も、悪気があったわけじゃないと思うし」


 美月は小さく頷いた。


「……うん」


 しかし、しばらくして口を開いた。


「……でも、びっくりした」


「……うん」


「莉子ちゃん、あんなふうに思ってたんだって」


 茜は言葉を探した。


「……まあ、あいつ心配しすぎなとこあるからさ」


「…………」


 美月は弁当箱の蓋を閉じた。


「……私、そんなに変わったかな」


「……え?」


「配信、最初の頃と違うのかなって」


 茜は少し黙った。


 昨日の夜、莉子から電話が来たときのことを思い出す。


 制服を着ている女子高生というだけで、人が集まる。


 そんなことを、初めて意識した。


 美月が数字を喜んでいる理由も分かる。


 けれど、莉子が不安になる理由も、今なら少し分かる。


「……変わったっていうか」


 茜はゆっくり言った。


「見てる人が、めっちゃ増えたじゃん」


「……うん」


「だから、前とは違うこともあるんじゃない?」


 美月は顔を上げた。


「……そっか」


「でも、美月が頑張ってたのは知ってるよ」


「…………」


「それは、莉子だって知ってると思う」


 美月は少しだけ笑った。


「……ありがとう、茜ちゃん」


 茜も笑い返した。


 けれど、教室の反対側にいる莉子の方を見ると、その笑顔は少し曖昧になった。


     ◇


 放課後。


『……莉子』


 帰り支度をしていた莉子が顔を上げた。


「ん?」


 凛が机のそばに立っていた。


『今朝のことだが、少し話を聞かせてもらえるか』


「……あー、うん」


『美月の配信について、お前が何を心配しているのか、もう少し詳しく知りたい』


「…………」


 莉子は鞄の持ち手を握ったまま、少し考えた。


「……んー」


『どうした?』


「あたしさ、こういうの、上手く伝えられるか分かんないんだよね」


『……そうか』


「だからさ……」


 莉子は教室の入口へ目を向けた。


「水瀬も呼んでくれない?」


『……結衣を?』


「うん」


 莉子は頷いた。


「あいつなら、あたしが言いたいこと、ちゃんと説明できると思うから」


 凛は莉子を見た。


 水瀬結衣。


 かつて莉子と親しかったが、今は以前のような関係ではない生徒。


 その結衣を、莉子が自分から呼んでほしいと言っている。


『……分かった。結衣にも話を聞こう』


「……ありがと」


 莉子は小さく答えた。


     ◇


 放課後の空き教室。


 莉子は窓際の席に座っていた。


 凛が廊下から戻ってくる。


 その後ろには、結衣がいた。


「……橘さん?」


 結衣が足を止めた。


「……よ、水瀬」


 莉子は軽く手を上げた。


 結衣は莉子と凛を交互に見る。


『結衣。急に呼んですまないな』


「いえ……」


『莉子が、お前にも話を聞いてほしいと言ってな』


「……え?」


 結衣は莉子を見た。


「……私に?」


「うん」


 莉子は少しだけ視線を逸らした。


「あたし一人じゃ、上手く説明できそうになくてさ」


「…………」


「水瀬なら分かるかなって」


 結衣は一瞬、目を見開いた。


 そして、静かに頷いた。


「……うん。分かった」


 凛が椅子を勧める。


『座ってくれ。二人とも』


「はい」


 結衣は莉子から一つ席を空けて座った。


 凛は向かいの椅子を引いた。


『まず、莉子』


「……うん」


『今朝の言葉は、美月を傷つけた。そこは分かっているな』


「……うん」


 莉子は俯いた。


「……ちょっと、言いすぎた」


『ああ』


 凛は頷いた。


『だが、お前がただ美月を責めたかったわけではないことも、分かっているつもりだ』


「…………」


『だから、改めて聞かせてほしい。お前たちは何を心配している?』


 莉子は少し考えた。


「……先生さ」


『ん?』


「ネットの特定って、今どんだけ早いか知ってる?」


『……いや。正直に言えば、詳しくない』


「だよね」


 莉子はスマートフォンを取り出した。


「昨日、美月が着てたの、うちらの学校の制服じゃん」


『……ああ』


「学校名は言ってないって言ってたけど、あれ見て学校分かる人なんて普通にいるでしょ」


『……制服だけでか?』


「うん。全然ある」


 莉子は画面を見ながら続けた。


「しかも、一人が気づいたことをネットに書いたら、ほかの人にも広まるじゃん」


『……なるほど』


「美月が知らないところで学校の名前とか出されたら、もう自分じゃどうしようもなくなるし」


 凛は結衣を見た。


『結衣はどう思う?』


「……私も、そこが心配です」


 結衣は少し姿勢を正した。


「今は、一つの投稿が短い時間でたくさんの人に見られることがあります」


『……ああ』


「それに、美月さんは切り抜き動画を許可していますよね」


『そう聞いている』


「だから、元の配信を消したとしても、別の場所に投稿された動画まで全部消せるとは限りません」


 凛は眉を寄せた。


『……一度出したものを、取り消せない場合があるということか』


「はい」


 結衣が頷く。


「学校が分かるような情報も、本人が直接話したことだけとは限りません」


『…………』


「だから、学校名を言わなければ大丈夫、とは言い切れないと思います」


「……そう、それ!」


 莉子が思わず声を上げた。


 結衣が顔を向ける。


「……え?」


「それ言いたかったんだよ、あたし!」


 莉子は少し身を乗り出した。


「美月、学校名言ってないから大丈夫って言ってたじゃん。でも、そういうことじゃないんだよね」


「……うん」


 結衣が小さく頷いた。


「……私も、そう思う」


 莉子は一度、安心したように笑った。


 結衣も、つられて少し笑った。


 そして二人は、ふと互いの顔を見た。


「…………」


「…………」


 莉子が先に視線を逸らした。


「……まあ、そんな感じ」


 結衣も小さく頷き、膝の上へ手を戻した。


 凛は二人の様子を見てから、莉子へ尋ねた。


『それだけではないのだろう?』


「……え?」


『月曜日にも、最近の配信の雰囲気が変わってきたと言っていたな』


「……ああ」


 莉子は少し黙った。


 それから、ゆっくり口を開いた。


「……あたし、美月の配信好きなんだよね」


『……ああ』


「最初の頃、見てる人が少なくても、あいつずっと楽しそうだったじゃん」


 莉子は机に置いたスマートフォンへ目を落とした。


「コメント一個来ただけでめっちゃ喜んでさ。何でもない話で笑って」


『……うん』


「でも最近、何着たら登録者増えるか、そっちばっか気にしてる気がする」


 結衣も黙って聞いていた。


「別にさ、好きな服着ればいいと思うんだよ」


 莉子は続けた。


「メイド服も、夏服も、あいつが着たいなら着ればいいし」


『……ああ』


「でも……」


 莉子は少し眉を寄せた。


「変なやつらが喜ぶからって、それに合わせるようになったら……何か嫌じゃん」


『…………』


「昨日の配信、制服見て喜んでるやつめっちゃいたし」


 莉子は顔を上げた。


「普通にかわいいって思ってる人もいるよ。でも、女子高生だからってだけで騒いでるやつもいてさ」


『……うん』


「あたし、そういうのが気持ち悪いんだよね」


 莉子は短く息を吐いた。


「美月が何話してるかなんて、どうでもよさそうなやつらが増えてんの」


『…………』


「それで、あいつが喜んでるの見てると……」


 言葉が止まった。


 莉子は少し考えた。


「……いや、違うな」


『……どうした?』


「あいつが喜ぶのは、別にいいんだよ」


 莉子は首を振った。


「頑張ってたんだし。人が増えたら嬉しいの、当たり前じゃん」


『……そうだな』


「でもさ……」


 莉子は机の端を指でなぞった。


「美月が何したいかより、そういうやつらが何を見たいかの方が大事になっちゃったら……」


 結衣が静かに口を開いた。


「……最初にやりたかったことから、離れてしまうかもしれませんね」


 莉子が顔を上げた。


「……そう」


 結衣は続けた。


「私は、美月さんが配信をやめた方がいいとまでは思いません」


『……うん』


「でも、登録者が増えたことで、今までと違う視聴者も来ていると思います」


『……ああ』


「その人たちが何を求めているのか、美月さん自身がまだ十分に分かっていないのかもしれません」


 莉子が何度も頷いた。


「……そう、それなんだよ」


 結衣は少しだけ莉子を見た。


「……橘さんが言いたかったのは、そういうこと?」


「うん」


 莉子は頷いた。


「あとさ、もし何かあってからじゃ遅いじゃん」


『…………』


「今はまだ、ただコメントしてるだけかもしんないけど。学校まで分かったら、どうなるか分かんないし」


 凛は二人の顔を見た。


 ネットに投稿された映像が、本人の知らない場所へ広がっていく。


 その映像を誰が見て、何を考えているのかは分からない。


 そして、美月は今、登録者数の増加を何より喜んでいる。


 凛はゆっくり口を開いた。


『……よく分かった』


 莉子が顔を上げる。


『二人とも、話してくれてありがとう』


「……うん」


「……はい」


『私には、まだ知らないことが多いようだ』


 凛は少し苦笑した。


『インターネットで何が起きるのか、正直に言えば、想像できていなかった』


「……先生」


『だから、教えてもらえて助かった』


 結衣は小さく頷いた。


 凛は莉子へ向き直った。


『莉子』


「……ん?」


『今朝の言い方については、美月に謝るべきだ』


「……うん」


『だが、お前が美月を心配している気持ちまで、間違っているとは思わない』


「…………」


『心配しているなら、その心配が相手に届くように話さなければならないな』


 莉子は少し俯いた。


「……分かってる」


『……ああ』


「……朝のは、ちょっと言いすぎたと思ってる」


 莉子は小さく息を吐いた。


「でも、言いたかったことまで間違ってたとは思わない」


『それでいい』


 凛は頷いた。


『ならば、次は伝え方を考えよう』


「……うん」


 結衣が莉子へ目を向けた。


「……橘さん」


「……ん?」


「私も、心配していることは同じです」


「…………」


「ただ、今朝はちょっとびっくりしました」


「……だよね」


 莉子は苦笑した。


「自分でも、何であんな言い方したんだろって思う」


 結衣も小さく笑った。


 凛は二人を見た。


『美月本人の話も、聞かなければならないな』


「……先生が?」


『ああ』


 凛は頷いた。


『お前たちが心配していることは分かった。だが、美月が何を考えているのかは、まだ聞けていない』


「……うん」


『それに、学校として確認しておくべきこともあるだろう』


 凛は少し考えた。


『私も、ほかの先生方に相談してみる』


 莉子は頷いた。


「……お願い」


 結衣も静かに頭を下げた。


「よろしくお願いします」


     ◇


 話し合いが終わり、莉子と結衣は廊下へ出た。


 夕方の校舎は、昼間よりずっと静かだった。


 二人は少し距離を空けて歩いた。


 階段へ差しかかったところで、結衣が口を開く。


「……橘さん」


「……ん?」


「さっき、呼んでくれてありがとう」


 莉子は少しだけ驚いた。


「……別に」


 肩をすくめる。


「水瀬なら分かると思っただけだし」


「…………」


 結衣は小さく頷いた。


「……うん」


 それから少し歩いたところで、莉子が言った。


「……やっぱ、説明うまいね」


「……え?」


「さっきの。あたし、全然まとまんなかったから」


 結衣は少しだけ笑った。


「……橘さんの話を聞いて、整理しただけだよ」


「……そっか」


 莉子も小さく笑った。


 階段を下りる。


 昇降口へ向かう途中、結衣が足を止めた。


「……じゃあ、私、こっちだから」


「あ、うん」


「……またね」


「……また」


 二人は別々の方向へ歩き出した。


     ◇


 帰りの電車。


 莉子は座席に腰掛け、スマートフォンを取り出した。


 美月とのLINEを開く。


 昨夜のやり取りが残っている。


《ちょっと気になることあったから、明日話そ》


《うん! わかった!》


「…………」


 莉子は返信欄を開いた。


《今日の朝はごめん》


 そこまで打つ。


 少し考えて、続きを入力した。


《でもあたしは美月のこと心配で》


 指が止まった。


「……でも、って何だよ」


 莉子は小さく呟いた。


 そのまま送れば、また言い訳みたいになってしまう。


 今朝、美月が怒った顔を思い出す。


 ――私だって、ずっと頑張ってきたんだよ!?


 それは、分かっている。


 美月が頑張ってきたことも。


 配信を大事にしていることも。


 だからこそ、心配だった。


「……あー、もう」


 莉子は入力した文章を消した。


 窓の外には、夕方の街が流れている。


 もう一度、返信欄を開いた。


《美月、》


 そこで止まる。


 何を謝って、何を伝えたいのか。


 今度は、ちゃんと自分の言葉で話したかった。


 莉子はスマートフォンの画面を消し、鞄へしまった。


 電車が次の駅へ近づいていく。


 その窓に映った自分の顔を、莉子はしばらく見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。