第五十七話「制服の価値」
二〇二六年(令和八年)六月十六日、火曜日。
午後八時過ぎ。
「……何着ようかな」
高瀬美月は、自室のクローゼットを開けたまま考え込んでいた。
次の配信は木曜日。
まだ二日ある。
けれど、何を着るかだけは早めに決めておきたかった。
月曜日の配信が、少し気になっていたからだ。
二万三千百人。
登録者数は確実に増えている。
以前なら、二百人も増えれば嬉しくて仕方がなかった。
それなのに、土曜日の勢いを知ってしまったせいか、何となく物足りない。
「……うーん」
美月はハンガーに掛かった服を一着ずつ眺めた。
ワンピース。
ブラウス。
カーディガン。
どれも気に入っている。
でも、配信で着たことのある服ばかりだった。
「……また同じになっちゃうなぁ」
スマートフォンを手に取る。
切り抜き動画には、今も新しいコメントが届いていた。
《この子ほんとかわいい》
《喋り方好き》
《次の配信いつ?》
《また違う衣装見たい》
美月は最後のコメントで指を止めた。
「……違う衣装」
メイド服のときは、たくさんの人が見に来てくれた。
土曜日の夏服も好評だった。
けれど、月曜日に同じ服を着たときは、思ったほど数字が伸びなかった。
次は、まだ見せたことのない服。
何か、驚いてもらえるようなもの。
「あ」
クローゼットの端に、学校の制服が掛かっていた。
美月はそれを見つめた。
「……制服、かぁ」
毎日着ている、ごく普通の制服。
学校では何とも思わない。
けれど、配信では一度も着たことがなかった。
以前、自分が高校生だと話したとき、驚いていた視聴者が何人もいた。
《現役高校生なんだ》
《制服とか着るの?》
そんなコメントもあった気がする。
「……でも、学校の制服だし」
美月は一度、手を引っ込めた。
学校名を知られたら困る。
それくらいは、美月にも分かっていた。
けれど、学校名を言うつもりはない。
配信で学校の話を詳しくすることも、今まで避けてきた。
「……大丈夫、かな」
制服に、もう一度目を向ける。
これなら新しく買う必要もない。
何より、まだ誰にも見せていない姿だ。
美月は制服を手に取った。
「……木曜日だけ、着てみようかな」
鏡の前に制服を掲げる。
いつもの自分が、そこにいた。
◇
六月十七日、水曜日。
昼休みの三年四組。
「美月、明日配信だよね?」
三浦茜が、パンの袋を開けながら尋ねた。
「うん。九時からだよ」
「何やるの?」
「えっと……いつもの雑談かな」
「なーんだ。何か新しいことするのかと思った」
茜が笑う。
「でも最近、衣装変えてるじゃん。また何か着るの?」
「……どうしようかな」
美月は曖昧に笑った。
制服配信のことは、まだ誰にも話していない。
特別な衣装を用意したわけでもないから、わざわざ言うほどのことではない気もする。
それに、少しだけ驚いてもらいたかった。
「……まあ、楽しみにしてて!」
「おっ、何かある感じ?」
「えへへ。内緒!」
「えー!」
茜が身を乗り出した。
「そういうの気になるじゃん!」
「明日になったら分かるよ」
「絶対見るからね!」
「うん!」
美月が笑う。
その隣で、橘莉子が昼食の容器を片づけていた。
「……莉子ちゃんも、見てくれる?」
「ん? あー、うん」
莉子は顔を上げた。
「時間あったらね」
「……うん!」
美月は嬉しそうに頷いた。
莉子はその笑顔を見て、何も言わなかった。
月曜日、凛に話したことを思い出す。
最近の配信は、少し危うい気がする。
けれど、美月が楽しみにしていることも、ずっと頑張ってきたことも知っている。
どう切り出せばいいのか、まだ分からなかった。
◇
六月十八日、木曜日。
午後八時四十五分。
美月は自室の鏡の前に立っていた。
着ているのは、都立桜丘高校の制服。
いつもなら、朝に袖を通して学校へ向かう服だった。
けれど、今日は違う。
机の上では、配信用の機材が準備を終えている。
「……ちょっと緊張するなぁ」
美月は鏡の前で一度だけ笑ってみた。
学校名を話さない。
通学先について聞かれても答えない。
それは、いつもと同じ。
「……うん。大丈夫」
美月は椅子に座った。
配信開始まで、あと十五分。
待機画面には、すでに大勢の視聴者が集まっていた。
《待機!》
《今日も楽しみ》
《なでしこー!》
《二万三千人おめでとう》
美月はコメントを眺めながら微笑んだ。
そして、時計が午後九時を示す。
「こんばんは! なでしこです!」
《こんばんはー!》
《待ってた!》
《今日もよろしく!》
《えっ!?》
《制服!?》
《ちょっと待って本物?》
画面を流れるコメントが、いつもより速い。
「あっ、はい!」
美月は少し照れくさそうに笑った。
「今日は、ちょっといつもと違う感じにしてみました!」
《現役JKの制服配信!?》
《めっちゃ似合ってる》
《普段こんな感じなんだ》
《初めて見た!》
「えへへ……ありがとうございます」
美月は小さく頭を下げた。
「いつも学校に行くときに着てる服なので、ちょっと変な感じです」
《えっ、それ本物の制服?》
《どこの学校?》
《校章ある?》
「あ、学校の名前は内緒です!」
美月は人差し指を唇の前に立てた。
「そこは秘密にさせてくださいね」
《そりゃそうだ》
《気をつけてね》
《学校バレは怖い》
《でも制服見られて嬉しい》
美月は最後のコメントに目を留めた。
「……そんなに喜んでもらえるとは思いませんでした」
小さく笑う。
「毎日着てる服なんですけどね」
《それがいいんだよ》
《本物なのがすごい》
《今日の配信当たり》
《切り抜き確定》
次々に流れる文字。
美月は驚きながらも、いつものように雑談を始めた。
「えっと、今日は学校で体育があったんですけど……」
《何やったの?》
「バドミントンです!」
《得意?》
「全然です! シャトルを空振りしちゃって……」
《かわいいw》
《運動苦手なの?》
「そんなことない……と思いたいです!」
美月は笑った。
視聴者たちも笑いのコメントを返す。
けれど、その合間には、何度も制服についての書き込みが流れていた。
美月はできるだけ質問を拾おうとした。
しかし、コメント欄の速さは以前とは比べものにならなかった。
◇
同じ頃。
橘莉子は自室で、美月の配信を開いた。
「…………は?」
一瞬、画面を見間違えたのかと思った。
けれど、間違いない。
桜丘高校の制服。
「……いや、ちょっと待って」
莉子はスマートフォンを持ち直した。
《それ本物の制服?》
《現役高校生なんだ》
《どこの学校?》
《制服いいね》
「……マジで何やってんの」
莉子はすぐに通話画面を開いた。
選んだ相手は、三浦茜だった。
数回の呼び出し音のあと、声が返ってくる。
「もしもし、莉子? どした?」
「茜、今すぐ美月の配信見て」
「え? あー、もうそんな時間か」
「いいから見て」
「分かったって」
少しの沈黙。
向こうで何かを操作する音がした。
「……えっ、制服?」
「そう。うちらの学校の」
「……マジじゃん」
茜は少し驚いたように笑った。
「美月、思い切ったね」
「いや、そういう話じゃなくてさ」
「……ん?」
「やばくない?」
「……まあ、制服くらいなら別によくない?」
莉子は眉を寄せた。
「いや、だからさ。制服着てる女子高生ってだけで喜ぶ変態、ネットにいくらでもいるじゃん」
「…………」
「ただでさえ変なコメント増えてんのに。学校まで特定されたらどうすんの?」
「……ああ、そういうことか」
「……分かってくれた?」
「いや、それもだけどさ」
「……ん?」
茜は画面に目を向けたまま、少し考え込んだ。
「……女子高生ってだけで、そんなに見たい人いるんだ」
「…………は?」
「だってさ、普通の制服じゃん。それ着てるだけで、こんなに人が集まるんでしょ?」
「……茜?」
「あっ、いや。美月はちょっと気をつけた方がいいと思うけど」
茜は慌てたように言い足した。
「……何でもない」
莉子はスマートフォンを見つめた。
「……とにかく、学校バレとかしたら本当にやばいから」
「……うん」
茜の声が少し低くなった。
「……美月、学校名とか言ってないよね?」
「言ってない。でも、制服なんて見せたら、知ってるやつには分かるでしょ」
「……ああ、そっか」
莉子は画面へ目を戻した。
美月は相変わらず楽しそうに笑っている。
その横で、登録者数が少しずつ増えていた。
「……もう、何なのこれ」
「……莉子」
「ん?」
「美月にLINEしない?」
茜が言った。
「今のうちに、ちょっと気をつけた方がいいって」
「……うん」
莉子は頷いた。
通話を続けたまま、メッセージ画面を開く。
美月へ短い文章を送った。
《美月、今配信見てる》
《制服、学校バレとか大丈夫?》
送信済みの表示。
けれど、既読はつかない。
「……見てないっぽい」
「まあ、配信中だしね」
「……そうだけどさ」
莉子はスマートフォンを握り直した。
画面の中では、美月がコメントに答えている。
笑顔。
楽しそうな声。
そして、増え続ける数字。
莉子は何も言わずに、その様子を見つめていた。
◇
午後十時を少し過ぎた頃。
「……えっ?」
美月が画面の数字を見て、目を見開いた。
《どうした?》
《なでしこ?》
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
美月はもう一度、登録者数を確認した。
「……二万七千……?」
《すごい伸びてる》
《もうすぐ28000!》
《今日勢いやばい》
美月は口元を押さえた。
「……え、ええっ!?」
配信を始めた頃は、二万三千人ほどだった。
それが、もう二万八千人に近づいている。
「……すごい」
思わず呟いた。
《おめでとう!》
《今日も楽しかった》
《次も制服で!》
《また見に来る》
「あっ……ありがとうございます!」
美月は慌てて頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます……!」
声が少し上ずっていた。
そして、数字が変わった。
二万八千人。
「…………!」
美月は画面を見つめたまま、動けなかった。
「……二万八千人」
口に出してみる。
土曜日の配信で大きく増えたときも驚いた。
けれど、今日はそれ以上だった。
「……ありがとうございます!」
美月はもう一度、深く頭を下げた。
「こんなにたくさんの人が見に来てくれるなんて……本当に嬉しいです!」
《おめでとう!!》
《3万人目前!》
《これからも応援する》
《なでしこ最高》
祝福のコメントが流れていく。
美月は何度も笑いながら、お礼を伝えた。
配信を終える頃には、頬が少し痛くなるほど笑っていた。
◇
午後十時十五分。
配信を終了した美月は、椅子の背にもたれた。
「……すごかったぁ」
部屋には、まだ自分の声の余韻が残っている気がした。
登録者数、二万八千人。
一回の配信で、四千人以上増えた。
こんなことは初めてだった。
美月はスマートフォンを手に取り、画面を開いた。
通知がいくつも届いている。
茜からのメッセージ。
それから、莉子からも。
「……あれ?」
美月は莉子のメッセージを開いた。
《美月、今配信見てる》
《制服、学校バレとか大丈夫?》
「…………」
美月は少し考えた。
学校名は言っていない。
通っている場所についても、何も話していない。
だから、大丈夫だと思う。
けれど、莉子が心配してくれているのは分かった。
美月は返信した。
《莉子ちゃん、見てくれてありがとう!》
《学校名は言ってないから大丈夫だと思うよ!》
すぐに既読がついた。
少しして、返事が届く。
《うん》
《ちょっと気になることあったから、明日話そ》
「……明日?」
美月は画面を見つめた。
何かあったのだろうか。
けれど、莉子は怒っているような文章ではなかった。
美月は少し迷ってから、返事を打った。
《うん! わかった!》
送信。
美月はスマートフォンを置いた。
明日、学校で聞いてみよう。
それから、もう一度登録者数を確認した。
二万八千人。
「……えへへ」
また笑みがこぼれた。
制服を着ただけで、こんなに反応が変わるなんて思わなかった。
美月はクローゼットへ目を向けた。
明日の学校でも着る、いつもの制服。
その服が、今夜は何千人もの新しい視聴者を連れてきてくれた。
「……三万人、もうすぐだ」
美月は小さく呟いた。
◇
同じ夜。
莉子は、美月から届いた返信を見つめていた。
《うん! わかった!》
いつもと変わらない、明るい文章だった。
「…………」
茜との通話は、もう終わっている。
けれど、最後に茜が呟いた言葉が、少し引っかかっていた。
――女子高生ってだけで、そんなに見たい人いるんだ。
莉子は配信画面に流れていたコメントを思い出した。
あの数字を、美月は喜んでいた。
それ自体は、悪いことではない。
美月が頑張ってきたのも知っている。
けれど。
「……何か、違うんだよな」
莉子はスマートフォンを伏せた。
何をどう伝えればいいのか、まだまとまっていない。
ただ、今日の配信を見て、何も言わずにいることだけはできなかった。
「……明日、ちゃんと話そ」
莉子は部屋の明かりを消した。




