第五十六話「増えていくもの」
二〇二六年(令和八年)六月十五日、月曜日。
都立桜丘高校、三年四組。
「ちょっと、美月! 二万人超えたって本当!?」
朝の教室に、三浦茜の声が響いた。
「えっ……あ、うん」
高瀬美月が頷くと、茜は目を丸くした。
「やばっ! いつの間に!?」
「土曜日の配信が終わったときに、二万二千九百人になってて……」
「二万二千九百!?」
茜が机に両手をついた。
「もう三万人見えてんじゃん!」
「そ、そんな! まだまだだよ」
「いやいや、全然まだまだじゃないって!」
茜の声に、近くの生徒たちも顔を向けた。
「何? 美月の配信?」
「二万人いったんだって!」
「えっ、すごくない?」
「俺、昨日おすすめに切り抜き流れてきたよ」
「本当ですか?」
美月が思わず身を乗り出した。
「うん。アイス食べて頭キーンってなった話」
「あっ……!」
美月の頬が赤くなる。
「そ、それですか……!」
「めっちゃ笑った」
「もう、恥ずかしい……」
美月は両手で顔を覆った。
けれど、その指の隙間から笑みがこぼれている。
「でもさ、すごいよね」
茜が言った。
「最初、美月が配信始めたときって、こんなことになると思わなかったもん」
「……私も」
美月は小さく頷いた。
「まだ、何か実感なくて」
「そのうち学校中の有名人になっちゃうんじゃない?」
「そ、それは困ります!」
「何でよ。いいじゃん!」
「恥ずかしいもん……」
そんなやり取りを、少し離れた席から橘莉子が見ていた。
「……莉子!」
茜が振り返る。
「聞いた? 美月、二万二千九百人だって!」
「あぁ、うん。知ってる」
「え、何その反応。もっと驚きなよ!」
「いや、驚いてるって」
莉子は笑った。
「すごいじゃん、美月」
「……ありがとう、莉子ちゃん」
美月も笑う。
けれど、莉子の顔を見て少し首を傾げた。
「……莉子ちゃん?」
「ん?」
「……ううん、何でもない」
「何それ」
莉子はいつものように軽く笑った。
美月も笑い返した。
茜が再び登録者数の話を始める。
その隣で、莉子は机の上に置いたスマートフォンへ目を落とした。
土曜日の夜。
美月の配信画面に流れていたコメント。
注意を促す言葉もあった。
けれど、それ以上に、別のものを楽しみにしているような書き込みが増えていた。
美月自身は、いつもと同じように笑っていた。
「……莉子?」
茜に呼ばれ、莉子は顔を上げた。
「え、何?」
「だから、三万人いったらお祝いしようって!」
「あー、いいじゃん」
「でしょ!」
莉子は頷いた。
美月が喜んでいるのは、嬉しい。
それは本当だった。
ただ、茜たちと同じようにはしゃぐ気分には、なれなかった。
◇
放課後。
三年四組の教室には、数人の生徒が残っていた。
そのうちの一人、橘莉子は窓際の席に腰掛け、スマートフォンを操作していた。
水瀬結衣は少し離れた机で、委員会の資料を整理している。
「……あれ、まだいたのか」
廊下から声がした。
山元凛だった。
もちろん、この時代では山本リンの姿をしている。
『莉子、結衣。まだ帰らないのか?』
「もうちょいしたら帰る」
莉子が答えた。
「私は、これを職員室へ持っていったら帰ります」
結衣が資料を揃えながら言う。
『そうか』
凛は教室へ入り、教卓に置き忘れたプリントを手に取った。
そして、ふと思い出したように莉子へ顔を向けた。
『そうだ、莉子』
「ん?」
『聞いたぞ。美月のことを見たいと思っている人が二万人を超えたんだってな。すごいじゃないか』
「あぁ、うん」
莉子は小さく頷いた。
凛は首を傾げた。
『どうした莉子、体調でも悪いのか?』
「いや、違くて……」
莉子はスマートフォンを伏せた。
「……美月、ちょっとやばいかもね」
『やばいと言うのはどういう事だ』
「んー、分かんないけど、登録者増えるとやっぱ変なやつも混じってくるからさ」
『……変なやつ?』
「うん」
莉子は少し考えた。
「美月ってさ、もともと雑談とか、みんなのコメント拾って話すのが好きだったじゃん」
『ああ。そう聞いている』
「それは今も変わんないんだけど……最近、見に来る人が増えて、ちょっと空気変わってきたっていうか」
『……どう変わったんだ?』
「服とか、そういう話ばっかする人が増えた」
凛は眉を寄せた。
『服装を褒めること自体は、悪いことではないだろう?』
「いや、まあ、そうなんだけどさ」
莉子は頬を掻いた。
「普通にかわいいって言ってるだけの人もいるよ。でも、そうじゃないのもいるわけ」
『……そうじゃない?』
「……何て言えばいいんだろ」
莉子は言葉を探した。
「美月が何話してても、服とか身体のことばっか見てるっていうか」
凛の表情が変わった。
『……美月に、嫌がらせをしているのか?』
「んー、そこまで露骨じゃないのも多いんだよね」
莉子は首を振る。
「言ってる本人は褒めてるつもりかもしんないし、美月も全部は気づいてないと思う」
そこまで聞いて、結衣が静かに口を開いた。
「……私も、少し気になりました」
莉子が顔を向けた。
「水瀬も見てたの?」
「うん。土曜日、少しだけ」
結衣は手に持った資料を机へ置いた。
「最初は普通に楽しそうだったんだけど、途中からコメントの内容が気になって」
「……だよね」
莉子が小さく頷いた。
結衣は続けた。
「橘さんが言っていること、少し分かる気がする」
「……別に、あたしも何が正解か分かんないけどね」
莉子は窓の外へ目を向けた。
「美月が好きでやってることだし。あたしがいちいち口出すのも違うかなって」
『……なるほど』
凛は二人の話を聞きながら、教卓にプリントを置いた。
『では、美月自身は困っている様子なのか?』
「……それがさ」
莉子は少し困ったように笑った。
「めっちゃ楽しそうなんだよね」
「……うん」
結衣も頷いた。
「コメントが増えたことも、嬉しそうでした」
『……そうか』
凛は腕を組んだ。
美月は配信を楽しんでいる。
見ている者の中には、好意的な人も多い。
しかし、その一方で、莉子と結衣が不快に感じる書き込みもある。
『……その、問題のある書き込みをしている者へ、注意することはできないのか?』
「あー、コメント消したり、ブロックしたりはできると思う」
莉子が答えた。
「でも、最近は流れるの速いし。全部見てたら雑談なんかできないじゃん」
『……確かにな』
「あと、切り抜きのコメントとかもあるし」
『切り抜き?』
「前に話したじゃん。配信の面白いところだけ短く編集して、別の動画にするやつ」
『ああ……』
凛は頷いた。
『美月自身が見ていない場所でも、話題になっているということか』
「そういうこと」
莉子は机の上のスマートフォンを手に取った。
「……だから、ちょっと怖いんだよね」
凛が莉子を見た。
『莉子は、美月に配信をやめてほしいのか?』
「……いや」
莉子はすぐに首を振った。
「そういうんじゃない」
『……うん』
「美月、ずっと頑張ってきたし。今めっちゃ楽しそうだし」
莉子は少し黙った。
「……でも、何か変な方向に行ってる気がして」
結衣も小さく頷いた。
「美月さんが悪いということではないと思います。でも、見ている人が増えた分、気をつけなければいけないことも増えているのかもしれません」
『……そうだな』
凛は二人の顔を見た。
『話してくれてありがとう』
「……ん」
莉子が顔を上げる。
『私も、もう少し知っておく必要がありそうだ』
「……配信のこと?」
『ああ。お前たちが心配している理由を、きちんと理解したい』
莉子は少し驚いたような顔をした。
それから、軽く笑った。
「……先生、そういうの詳しくなさそうだもんね」
『む……否定はできんな』
莉子が吹き出した。
「まあ、分かんないことあったら聞いてよ」
『頼りにしているぞ』
凛は頷いた。
結衣が資料を抱え直す。
「じゃあ、私、これを持っていきます」
『ああ。ありがとう、結衣』
「はい」
結衣は教室の扉へ向かった。
莉子も鞄を手に取る。
「じゃ、あたしも帰るわ」
『気をつけて帰れよ』
「はーい」
二人が教室を出ていく。
凛はしばらく、その後ろ姿を見つめていた。
『……インターネット、か』
呟いてから、教卓のプリントを持ち直した。
自分が知らない場所で、生徒たちの毎日が大きく動いている。
それだけは、よく分かった。
◇
午後八時五十分。
高瀬美月は、自室の鏡の前に立っていた。
「……よし」
今夜も、白いキャミソールにデニムのホットパンツ。
土曜日の配信で着た服だった。
あの夜は、新しい視聴者がたくさん来てくれた。
登録者数も大きく伸びた。
「……今日も、いっぱい来てくれるといいな」
美月は髪を整え、配信画面を開いた。
開始時刻まで、あと数分。
待機している視聴者の数は、以前よりずっと多い。
《こんばんは!》
《今日も来た》
《待機》
《なでしこー!》
美月は画面を見て微笑んだ。
「……こんばんは」
まだ配信を始めていないのに、つい声が出た。
時計が午後九時を示す。
美月は配信開始のボタンを押した。
「こんばんは! なでしこです!」
《こんばんはー!》
《待ってた!》
《今日もよろしく》
《月曜日お疲れ!》
「皆さんも、一日お疲れさまです!」
美月は笑顔で手を振った。
「今日は月曜日なので、学校も普通にあって……ちょっと眠かったです」
《月曜だるいよね》
《わかる》
《学校お疲れ!》
「ありがとうございます!」
コメントが流れる。
いつもの常連の名前もあった。
切り抜きから来たという新しい視聴者もいる。
美月は質問を拾いながら、学校であった何でもない出来事を話した。
授業中、眠気をこらえるのが大変だったこと。
友達と昼休みにお菓子の話で盛り上がったこと。
帰り道で、急に雨が降りそうな空になって焦ったこと。
《今日も平和だなw》
《こういう雑談好き》
《癒やされる》
「……えへへ。ありがとうございます」
美月は嬉しそうに笑った。
ふと、画面の端に表示された登録者数が目に入る。
二万三千人を超えていた。
「……あっ」
《どうした?》
「いえ、登録者さんが……二万三千人になってます!」
《おめでとう!》
《すごい!》
《三万人まであと少し》
「ありがとうございます!」
美月は深く頭を下げた。
そのまま配信を続ける。
コメントは途切れない。
話題も次々と変わる。
けれど、しばらくしてからもう一度数字を見たとき、登録者数はほとんど変わっていなかった。
「…………」
《なでしこ?》
「あっ、はい!」
美月は慌てて顔を上げた。
「ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃいました」
《眠い?》
《無理しないでね》
「大丈夫です!」
美月は笑顔を作った。
「まだまだ元気ですよ!」
そして、再びコメントを読み始めた。
◇
午後十時過ぎ。
「それじゃあ、今日はここまでです!」
《お疲れー!》
《今日も楽しかった》
《おやすみ!》
《また来るね》
「はい! 皆さん、おやすみなさい!」
美月は手を振り、配信を終了した。
画面が切り替わる。
部屋が静かになった。
「……ふう」
美月は椅子の背にもたれた。
今日も楽しかった。
初めて来てくれた人もいたし、いつもの人たちともたくさん話せた。
コメントには、嬉しい言葉がいくつもあった。
けれど。
美月は登録者数を確認した。
二万三千百人。
「……あれ?」
土曜日は、配信が終わる頃には二万二千九百人になっていた。
今日は、そこから二百人ほどしか増えていない。
もちろん、増えている。
二万人どころか、二万三千人を超えた。
少し前の自分なら、きっと飛び上がって喜んでいただろう。
「……うーん」
美月は画面を見つめた。
土曜日の配信と、何が違ったのだろう。
話した内容だろうか。
時間帯だろうか。
それとも。
美月は椅子から立ち上がり、鏡の前へ移動した。
今日着ていた服を見下ろす。
土曜日と同じ服。
あの日は、たくさんの人が見に来てくれた。
けれど、今日は。
「……同じ服だから、かな」
美月は小さく呟いた。
鏡の向こうに映る自分を、しばらく見つめる。
そして、クローゼットへ目を向けた。
「……次は、何着よう」
その声は、誰にも届かなかった。




