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第五十五話「まだ知らない未来」

 二〇〇〇年(平成十二年)六月十一日、日曜日。


 東京都内、体育館。


 全国高等学校総合体育大会、空手道競技東京都予選。


 会場には、都内各校から集まった選手たちの掛け声が響き渡っていた。


「……佐伯!」


「押忍!」


 荒川の声に、佐伯大輔が背筋を伸ばす。


「あと一勝だ。分かっているな」


「押忍!」


「ここまで来たからには、余計なことを考えるな。いつもどおり、目の前の相手に集中しろ」


「はい!」


 男子個人組手、準決勝。


 佐伯はここまで、着実に勝ち上がっていた。


 全国大会への出場枠は、東京都から二名。


 つまり、この準決勝に勝利すれば、八月に開催されるインターハイへの出場が決まる。


 佐伯は、ゆっくりと息を吐いた。


 これまで、何度も試合を重ねてきた。


 勝ったことも、負けたこともある。


 だが、今日の一戦は、それらとは違う重みを持っていた。


「……佐伯さん!」


 振り返ると、リンが立っていた。


『頑張って! いつもどおりでいいからね!』


「……押忍!」


 佐伯は力強く頷いた。


 その隣では、相原菜月も拳を握っている。


「佐伯先輩! 絶対勝ってくださいね!」


「……ああ」


「私も勝ちますから!」


 女子個人組手でも、菜月は準決勝まで進んでいた。


 二年生ながら、数々の三年生を破っての勝ち上がり。


 その実力は、すでに都内の強豪選手たちにも引けを取らなかった。


「……お互い、頑張ろうな」


「押忍!」


 二人は拳を軽く合わせ、それぞれの試合へ向かった。


     ◇


「……始め!」


 審判の声が響く。


 佐伯は、すぐには仕掛けなかった。


 相手の間合いを確かめ、細かく足を運ぶ。


 対戦相手も、簡単には踏み込んでこない。


 互いに牽制を繰り返す。


 そして。


「……っ!」


 相手が前へ出た。


 佐伯は半歩だけ身体を引く。


 次の瞬間、鋭く踏み込んだ。


「……せいっ!」


 放たれた突き。


 審判の旗が上がった。


「……よし!」


 佐伯が拳を握る。


 その後も、一進一退の攻防が続いた。


 相手の蹴りをかわし、間合いを取り直す。


 何度も攻撃を仕掛けながら、隙を探る。


 残り時間は、わずか。


 佐伯は、最後の踏み込みを選んだ。


「……っしゃあ!」


 気迫のこもった一撃。


 そして。


「……やめ!」


 終了の合図が響いた。


 判定は、佐伯の勝利。


「……押忍!」


 佐伯は深く一礼した。


 その瞬間。


「やったあああ!」


 観客席から、リンの声が響いた。


『佐伯さん! 全国だよ! 全国!』


 興奮した様子で両手を振っている。


 隣の荒川が、思わず苦笑した。


「山元先生。まだ決勝が残っていますよ」


『あっ! そうでした!』


 リンが慌てて口元を押さえる。


 その様子を見て、佐伯も小さく笑った。


 全国大会出場。


 ずっと目指してきた舞台への切符を、ようやく手にした。


 だが、まだ終わりではない。


 東京都の頂点を懸けた、最後の一戦が残っていた。


     ◇


 一方、女子個人組手。


「……やめ!」


 審判の声が響いた。


 菜月は、肩で息をしながら構えを解いた。


 相手は三年生の強豪選手。


 序盤から互いに譲らず、試合は終盤までもつれ込んでいた。


 菜月は何度も攻撃を仕掛けた。


 得意の上段蹴りも放った。


 だが、相手は最後まで冷静だった。


 わずかな踏み込みの差。


 ほんの一瞬、攻撃へ移る判断が遅れたところを捉えられた。


 結果は、敗北。


 準決勝敗退。


 東京都ベスト四。


 全国大会まで、あと一勝だった。


「…………」


 菜月は、しばらくその場から動けなかった。


 悔しかった。


 力が及ばなかったとは思わない。


 何もできなかったわけでもない。


 それでも、負けた。


 もう一度、全国への切符を懸けて戦うことはできない。


「……相原」


 荒川が声をかけた。


「……押忍」


「よく戦った」


「…………」


「だが、最後の一本は相手が上だったな」


「……はい」


 菜月は、唇を噛んだ。


 荒川は、それ以上慰めるような言葉を重ねなかった。


「何が足りなかったか、分かるか」


「……はい」


「なら、忘れるな」


「……押忍!」


 菜月は、大きく頭を下げた。


 目元が少しだけ赤くなっていた。


 その様子を、リンは少し離れたところから見つめていた。


『……相原さん』


「……凛先生」


『……お疲れさま』


「……押忍」


 菜月は、無理に笑おうとした。


「……あと一勝だったんですけどね」


『……うん』


「……悔しいです」


 リンは、静かに頷いた。


『……そっか』


「……でも!」


 菜月が顔を上げた。


「私、まだ二年生ですから!」


『……うん!』


「来年、絶対に全国へ行きます!」


 リンは、にっこりと笑った。


『うん! 応援してる!』


 菜月も、ようやく笑顔を見せた。


     ◇


 男子個人組手、決勝。


 佐伯は最後まで食らいついた。


 相手の鋭い攻撃に対応し、何度も反撃を試みた。


 しかし、終盤に許したリードを覆すことはできなかった。


「……やめ!」


 試合終了。


 佐伯は、ゆっくりと構えを解いた。


「……押忍!」


 相手選手へ一礼する。


 結果は、準優勝。


 東京都の頂点には、あと一歩届かなかった。


 それでも。


 全国大会への出場権は、確かに手にしていた。


「……佐伯!」


 荒川が近づく。


「押忍!」


「決勝は惜しかったな」


「……はい」


「だが、よくここまで勝ち上がった」


「……ありがとうございます!」


 佐伯は、深く頭を下げた。


 そこへ、菜月が駆け寄ってくる。


「佐伯先輩!」


「……相原」


「全国出場、おめでとうございます!」


 菜月は、満面の笑みで言った。


 佐伯は少しだけ目を丸くした。


 菜月が負けたことは、すでに聞いていた。


「……ありがとう」


「決勝、惜しかったですね!」


「……ああ」


「でも、全国では絶対勝ってくださいね!」


 佐伯は、菜月を見た。


 さっきまで、悔しさを隠しきれない顔をしていた。


 それなのに、今は自分の全国出場を心から喜んでくれている。


「……相原」


「はい?」


「……来年は、お前の番だな」


 菜月は、一瞬だけ目を丸くした。


 そして。


「……押忍!」


 力強く頷いた。


「絶対、全国に行きます!」


 佐伯も笑った。


「……ああ。頑張れよ」


「先輩こそ!」


 二人は、顔を見合わせて笑った。


 その少し離れたところでは、リンが満足そうに頷いていた。


『……二人とも、よく頑張ったね』


 勝利をつかんだ者。


 あと一歩で届かなかった者。


 結果は違っても、それぞれが全力で戦った一日だった。


 そして。


 八月。


 佐伯大輔は、全国の強豪たちが集まるインターハイへ挑むことになる。


     ◇


 二〇〇〇年(平成十二年)六月十六日、金曜日。


 都立青葉高校、三年二組。


 六時間目の授業が終わり、生徒たちが帰り支度を始めていた。


「なあ、今日どっか寄ってかね?」


「いいね。駅前のゲーセンとか?」


「先週も行ったじゃん!」


 そんな声が飛び交う教室で、山本リンは教卓の上のプリントを揃えていた。


『はいはい、寄り道はほどほどにねー。あと、来週提出の進路希望調査、忘れないでよ』


「えー、まだ決まってないんだけど!」


『決まってないなら、今の希望を書けばいいの。分からないところは相談して』


「凛ちゃん、相談したら答え教えてくれる?」


『人生の正解なんて、あたしが知りたいくらいなんだけど』


「先生なのに!?」


『先生だって二十二歳だからね!』


 教室に笑いが起こった。


 リンも笑いながらプリントを抱え直す。


 そのときだった。


「……あ、凛ちゃん」


『ん?』


 声をかけてきたのは、森田翔平だった。


 いつもなら真っ先に友人たちと教室を出ていく森田が、今日は鞄を机に置いたまま立っている。


「今日さ、ちょっと時間ある?」


『……え? 何、また何かやらかした?』


「違うって!」


 森田が笑った。


「進路のこと。ちょっと聞きたいんだけど」


『……ああ!』


 リンは手を止めた。


『いいよ。じゃあ、職員室の隣の進路指導室で話そっか』


「おう!」


 森田は鞄の中から数冊の大学案内を取り出した。


 以前、リンが渡したものだった。


 表紙の端が少し折れ、いくつかのページには小さな紙片が挟まっている。


『……あれ、結構読んでくれたんだ』


「まあな」


 森田は少し得意げに笑った。


「俺、こういうの意外と真面目なんだぜ?」


『……意外と、ね』


「そこ強調すんなよ!」


     ◇


 放課後の進路指導室。


 窓の外では、運動部の掛け声が聞こえていた。


 森田は机に大学案内を三冊並べた。


「この前さ、博物館行ったじゃん」


『うん』


「あの最後の展示。二十五年後の日本ってやつ」


『ああ、あれね』


「俺、あれからちょっと気になってさ」


 森田は一冊を開いた。


「コンピューターのこと、図書室でも調べたんだよ」


『……へえ!』


「で、情報工学とか情報科学っていうのがあるのは分かったんだけど……」


 森田はページを指さした。


「結局、何が違うの?」


『……なるほど』


 リンは隣の椅子へ座った。


『まず、森田さんは何が一番気になってるの?』


「……何がって?」


『ほら。コンピューターそのものを作ることなのか、コンピューターを動かす仕組みなのか、それともネットワークを使って何かすることなのか』


「…………」


 森田が黙った。


 そして、ゆっくり顔を上げる。


「……それ、全部違うの?」


『……まあ、関係はあるけど、同じではないかな』


「マジかよ……」


 森田は椅子の背にもたれた。


「俺、コンピューターって一つの勉強だと思ってた」


『あたしも詳しいわけじゃないけど、分野はいろいろあるみたいだね』


「……へえ」


 リンは机に置かれた資料へ目を向けた。


 一冊目には、法政大学の名前があった。


『……あ、これ』


「ん?」


『法政大学の情報科学部だね』


「そうそう。それ、今年できた学部なんだって」


『……えっ、そうなの?』


「書いてあるじゃん、ここ」


 森田が指さした。


 確かに、新しい学部を紹介する文章が載っている。


『……ほんとだ』


「凛ちゃん、知らなかったの?」


『……今知った』


「おい、先生!」


『だから、一緒に調べようって言ったじゃん!』


 森田が吹き出した。


「……まあ、それもそうか」


 リンは笑いながら資料をめくった。


 コンピューターの基礎。


 プログラミング。


 情報処理の仕組み。


 学部紹介には、聞き覚えのある言葉も並んでいた。


 けれど、その内容を自分がきちんと説明できるかとなると、話は別だった。


 スマートフォンを毎日使っていたからといって、その内部の仕組みまで理解しているわけではない。


『……これ、数学も結構使うみたいだね』


「……うっ」


 森田の表情が変わった。


『何、その顔』


「……数学かぁ」


『苦手?』


「嫌いじゃないけど、得意って言えるほどでもない」


『そっか』


「コンピューターってさ、機械いじったりするだけかと思ってた」


『それだけじゃないみたいだね』


 森田は資料を見つめた。


「……勉強しなきゃ駄目か」


『まあ、大学に行くならそうだね』


「……ですよねー」


 森田が肩を落とす。


 しかし、すぐに別の資料を取り出した。


「でも、こっちはちょっと面白そうだった」


 表紙には、東京工科大学と書かれていた。


『……工学部、情報工学科』


「そう。こっちは工学部の中にあるんだって」


 森田がページを開く。


「コンピューターの仕組みとか、通信とか……こういうの、博物館で見たやつに近い気がして」


『……確かに』


「でもさ、これ読んでも分かんない単語が結構あるんだよな」


 森田は鉛筆で印をつけた箇所を指さした。


 リンも覗き込む。


『……うん。難しいね』


「凛ちゃんも分かんないの?」


『分かんないものは分かんないよ』


「そこは先生っぽく説明してくれよ!」


『適当なこと教える方が駄目でしょ』


「……まあ、そうだけどさ」


 リンは資料の後ろにある問い合わせ先を見た。


『詳しい授業内容は、大学に聞いてみてもいいかもね。学校説明会とか、見学できる機会もあるだろうし』


「……ああ、そっか」


『パンフレットだけじゃ、分からないことも多いから』


「……うん」


 森田は鉛筆を持ち直した。


 そして、余白に何かを書き込んだ。


『……何書いてるの?』


「聞きたいこと」


『へえ』


「忘れそうだからさ」


 そこには、少し乱れた字でこう書かれていた。


 ――情報科学と情報工学は何が違う?


 ――数学はどのくらい必要?


 ――卒業したら何ができる?


 リンはその三行を見つめた。


『……いいじゃん』


「……何が?」


『ちゃんと質問ができてる』


「それだけ?」


『それ、大事だと思うよ』


 森田は少し照れくさそうに笑った。


「……そっか」


 しばらくして、森田が口を開いた。


「なあ、凛ちゃん」


『ん?』


「俺さ、別に頭いい方じゃないじゃん」


『……急にどうしたの』


「いや、大学ってさ。やっぱ成績とか必要だろ?」


『……まあ、そうだね』


「今から頑張って、間に合うのかなって」


 リンはすぐには答えなかった。


 森田の成績は、確かに上位ではない。


 大学によって必要な学力も違う。


 簡単に大丈夫とは言えなかった。


『……今の成績と、志望する学校の入試科目をちゃんと比べてみないと分からないね』


「……そっか」


『それに、大学はこの二つだけじゃないし』


「……うん」


『でもさ』


 リンは森田を見た。


『森田さん、前は何を勉強したいか分からないって言ってたよね』


「……ああ」


『今は、知りたいことがあるんでしょ?』


「…………」


『だったら、まずはそこを大事にしてみたら?』


 森田は資料へ目を落とした。


「……うん」


 そして、少し笑った。


「……俺、もうちょっと調べてみるわ」


『うん。分からないことがあったら、また聞いて』


「また凛ちゃんも分かんないって言うんじゃないの?」


『そのときは、一緒に分かる人を探す!』


「……あははっ!」


 森田が笑った。


「それならいいや」


 彼は資料を鞄へしまった。


「……ありがとな、凛ちゃん」


『どういたしまして』


「じゃあ、俺帰るわ!」


『うん。気をつけてね』


 森田が扉へ向かった。


 しかし、途中で足を止めた。


「……あ、そうだ」


『ん?』


「二十五年後の答え合わせ、覚えてる?」


 リンは目を瞬かせた。


『……ああ、博物館で言ってたやつ?』


「そう!」


 森田は笑った。


「その頃、俺がああいう機械作ってたら、面白くね?」


『……うん』


 リンも笑った。


『面白いと思うよ』


「だろ?」


 森田は満足そうに頷いた。


「じゃ、また月曜!」


『またねー』


 扉が閉まった。


 リンは机に残された大学案内の一冊を手に取った。


 そこには、これから学ぶ学生たちへ向けた言葉が並んでいた。


 森田が二十五年後に何をしているのか。


 自分には分からない。


 けれど、あの子は今日、自分からここへ来た。


『……頑張れ、森田さん』


 リンは小さく呟き、資料を棚へ戻した。


     ◇


 午後五時前。


 家庭科室には、ミシンの音が響いていた。


「……あれ?」


 片岡美奈が声を上げた。


「真理、ちょっと見て」


「……どうしたの?」


「ここ。何か変じゃない?」


 美奈は、腰の位置に当てた仮縫いの布を指さした。


 左右で長さを変えた裾。


 デザイン画では、短い側から長い側へと綺麗に流れる形になっている。


 しかし、実際に布を合わせてみると、長い方だけが妙に重たく見えた。


「……あれ?」


 真理も首を傾げた。


「……さっき、寸法は合ってたよね」


「うん。ちゃんと測った」


「……じゃあ、何で?」


 二人は鏡の前に立った。


 美奈が身体を少し動かす。


 布が揺れた。


 けれど、思い描いていたようには広がらない。


「……うーん」


 美奈が顔をしかめる。


「これ、何か違うんだよね」


「……うん」


 真理はデザイン画を広げた。


 紙の上では、長い裾が軽やかに流れている。


 しかし、今使っている布は、その形を保てない。


「……もう少し、広がると思ったんだけど」


「だよね」


 美奈が頷く。


「着ると、ここだけ下に引っ張られる感じがする」


 真理は布の端を持ち上げた。


 手を離すと、すぐに落ちる。


「……重いのかな」


「重いって、布が?」


「……うん」


 そこへ、藤崎千尋が近づいてきた。


「どうしたの、二人とも?」


「あっ、藤崎先生!」


 美奈が振り返る。


「この裾、変になっちゃって」


「どれどれ」


 藤崎はデザイン画と仮縫いの布を見比べた。


「ああ……なるほど」


「何か分かります?」


 真理が尋ねる。


「そうねえ。まず、今使っている布を少し見せてもらっていい?」


「……はい」


 真理が端切れを渡した。


 藤崎は布を指先で持ち上げ、軽く揺らした。


「この布、見た目は綺麗でしょう?」


「はい!」


 美奈が即答する。


「色もいいし、触った感じも好きです!」


「そうね。でも、少し重さがあるのよ」


 藤崎は布を机へ置いた。


「それに、裁つ方向によっても、落ち方が変わるの」


「……方向?」


 真理が顔を上げた。


「ええ。布には縦と横がありますからね。デザイン画の線を、そのまま切り取れば同じ形になるというわけではないのよ」


「……あ」


 真理が小さく声を漏らした。


 藤崎は続けた。


「もちろん、原因がそれだけとは限らないけど。まずは小さな布で、切り方を変えて試してみたらどうかしら」


「……小さい布で?」


「ええ。いきなり本番の布を全部切ってしまうより、安全でしょう?」


 美奈と真理は顔を見合わせた。


「……確かに!」


 美奈が頷く。


「うちら、いきなり大きく作ろうとしてた!」


「……うん」


 真理も頷いた。


「小さいので、形を確かめてみよう」


「そうしよ!」


 藤崎は微笑んだ。


「それと、二人とも」


「はい?」


「本選まで、あと三週間ほどしかありませんからね」


「…………」


 美奈の笑顔が止まった。


「……三週間」


 真理も小さく繰り返した。


「そう。今は仮縫いの段階だけど、ここから仕上げまで進めなければいけません」


 藤崎は作業台の上を見た。


「試すことは大事。でも、いつまでに何を終わらせるかも考えていきましょうね」


「……はい」


 二人が揃って頷いた。


「それじゃあ、私は向こうのミシンを見てきます。分からないことがあったら呼んでね」


「ありがとうございます!」


 藤崎が離れていく。


 美奈はもう一度、鏡へ目を向けた。


「……三週間かぁ」


「……うん」


「結構、すぐだね」


「……そうだね」


 真理はデザイン画を見つめた。


 一次審査を通過した。


 全国から選ばれた二十四組に入った。


 あの日は、ただ嬉しかった。


 でも、今は。


 自分たちが描いた服を、本当に作らなければならない。


「……ねえ、真理」


「……ん?」


「これ、ちゃんと完成するかな」


 真理は少し考えた。


「……分からない」


「……だよね」


「でも……」


 真理は布を手に取った。


「……一回、試してみよう」


 美奈が顔を上げる。


「小さい布で?」


「……うん。藤崎先生が言ってたように」


「……よし!」


 美奈は袖をまくった。


「じゃあ、やろ!」


 真理も小さく笑った。


「……うん」


     ◇


『……お疲れさまでーす』


 家庭科室の扉が開いた。


「あっ、凛ちゃん!」


 美奈が振り返る。


『まだやってたんだ』


「うん! でも、今ちょっと苦戦中!」


『……あらら』


 リンは作業台へ近づいた。


 そこには、布の端切れと型紙、何本もの待ち針が並んでいた。


『……すごいことになってるね』


「でしょ?」


 美奈が苦笑する。


「全然、思った形になんないんだよ」


『……へえ』


 リンは鏡の前に掛けられた仮縫いの衣装を見た。


『……あ、これが提出したデザインの?』


「そう!」


 美奈が頷く。


「でもね、着ると裾が変な感じになっちゃうの」


『……なるほど』


 リンは少し首を傾げた。


『……ごめん。あたし、どこをどう直せばいいかは全然分かんない』


「えー、凛ちゃん!」


『だって専門外だもん!』


 美奈が笑った。


 真理も口元を緩める。


『……でも、ちゃんと進んではいるんだよね?』


「……はい」


 真理が頷いた。


「今、布の切り方を変えて試してみようと思ってて……」


『そっか』


 リンは作業台の端に置かれた時計を見た。


『もうすぐ五時だね。今日は何時まで使えるの?』


「五時半までです」


 真理が答える。


『……じゃあ、あんまり時間ないね』


「そうなんだよー!」


 美奈が大きく息を吐く。


「やりたいこと、いっぱいあるのに!」


『……まあ、三週間あるとはいえ、学校の時間は限られてるしね』


 リンは少し考えた。


『あ、そうだ。藤崎先生と、来週の家庭科室の予定は確認してある?』


「……あ」


 美奈が顔を上げた。


「まだ!」


『じゃあ、そこはあたしが確認しておくよ』


「……いいの?」


『うん。あたしにもできること、それくらいだし』


 美奈が笑った。


「助かるー!」


『ただし、空いてる時間があっても、二人の予定と合わなきゃ意味ないからね』


「……はい」


 真理が頷いた。


『塾とか、家の用事とかもあるでしょ? 無理な予定は組まないでよ』


「……分かりました」


『よし』


 リンは手帳を取り出した。


『じゃあ、来週の放課後で、二人が来られる日を教えて』


 美奈と真理は顔を見合わせ、予定を確認し始めた。


 そのとき、美奈がふと顔を上げた。


「……ねえ、凛ちゃん」


『ん?』


「決勝の日、来てくれるんだよね?」


『……え?』


「ほら、引率!」


『……ああ、うん。その予定で調整してるよ』


「やった!」


 美奈が嬉しそうに笑う。


「じゃあ、ちゃんと完成させないとね!」


 真理も、小さく頷いた。


「……うん」


 リンは二人を見た。


 美奈は、もう次に試す布を選んでいる。


 真理は、その横でデザイン画へ書き込みを始めていた。


『……楽しみにしてるよ』


 二人が顔を上げた。


『完成した服、見せてもらうの』


「……任せて!」


 美奈が胸を張った。


 真理も、少し照れくさそうに笑った。


「……頑張ります」


 リンは頷き、二人の予定を手帳へ書き留めた。


     ◇


 午後七時過ぎ。


 山元家。


『……ただいまー』


 玄関で靴を脱いだリンは、鞄を肩から下ろした。


 今日は、何だか長い一日だった。


 森田の進路相談。


 美奈と真理の制作。


 その合間に、授業の準備やら提出物の確認やら。


『……あー、疲れた』


 自室へ入り、鞄を机の脇へ置く。


 リンはベッドに腰を下ろし、携帯電話を取り出した。


 折り畳み式の端末。


 開いた画面には、未読メールの表示があった。


『……ん?』


 何気なく受信箱を開く。


 そして。


 指が止まった。


 ――高橋健吾。


『…………』


 リンは画面を見つめた。


 久しぶりに見る名前だった。


 いや。


 久しぶりというより、見ないようにしていた名前だった。


 メールを開く。


「凛、久しぶり。


 話したいことがあるんだけど、今度会えないかな。」


『…………』


 短い文章だった。


 怒っているようには見えない。


 けれど、何を話したいのかは書かれていない。


 リンはベッドの上で膝を抱えた。


 高橋健吾。


 この時代の山元凛と、二年ほど付き合っている恋人。


 入れ替わったばかりの頃、彼が以前とは違う自分に戸惑っていたことを覚えている。


 それから、リンはずっと距離を取ってきた。


 会えば、何を話せばいいのか分からない。


 優しくされても、どう応えればいいのか分からない。


 自分が山元凛ではないと、打ち明けることもできない。


 だから、仕事が忙しいという理由をつけて、連絡を先延ばしにしていた。


『……うわ』


 リンは額に手を当てた。


『……ついに来た』


 もう一度、メールを見る。


 ――今度会えないかな。


 その一文を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 断る理由なら、いくらでも考えつく。


 仕事が忙しい。


 学校の用事がある。


 最近、疲れている。


 けれど。


(……いつまで、それで逃げるつもりなんだろ)


 リンは携帯電話を持ち直した。


 健吾は何も知らない。


 自分が別の人間になっていることも。


 いつか元に戻るのか、それともこのままなのか、自分にすら分からないことも。


 何も知らずに、返事を待っている。


 リンは返信画面を開いた。


 指先をキーへ置く。


『…………』


 一文字目を打とうとして、手が止まった。


 画面の向こうにいる健吾へ、何と言えばいいのか。


 まだ、分からなかった。

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