第五十五話「まだ知らない未来」
二〇〇〇年(平成十二年)六月十一日、日曜日。
東京都内、体育館。
全国高等学校総合体育大会、空手道競技東京都予選。
会場には、都内各校から集まった選手たちの掛け声が響き渡っていた。
「……佐伯!」
「押忍!」
荒川の声に、佐伯大輔が背筋を伸ばす。
「あと一勝だ。分かっているな」
「押忍!」
「ここまで来たからには、余計なことを考えるな。いつもどおり、目の前の相手に集中しろ」
「はい!」
男子個人組手、準決勝。
佐伯はここまで、着実に勝ち上がっていた。
全国大会への出場枠は、東京都から二名。
つまり、この準決勝に勝利すれば、八月に開催されるインターハイへの出場が決まる。
佐伯は、ゆっくりと息を吐いた。
これまで、何度も試合を重ねてきた。
勝ったことも、負けたこともある。
だが、今日の一戦は、それらとは違う重みを持っていた。
「……佐伯さん!」
振り返ると、リンが立っていた。
『頑張って! いつもどおりでいいからね!』
「……押忍!」
佐伯は力強く頷いた。
その隣では、相原菜月も拳を握っている。
「佐伯先輩! 絶対勝ってくださいね!」
「……ああ」
「私も勝ちますから!」
女子個人組手でも、菜月は準決勝まで進んでいた。
二年生ながら、数々の三年生を破っての勝ち上がり。
その実力は、すでに都内の強豪選手たちにも引けを取らなかった。
「……お互い、頑張ろうな」
「押忍!」
二人は拳を軽く合わせ、それぞれの試合へ向かった。
◇
「……始め!」
審判の声が響く。
佐伯は、すぐには仕掛けなかった。
相手の間合いを確かめ、細かく足を運ぶ。
対戦相手も、簡単には踏み込んでこない。
互いに牽制を繰り返す。
そして。
「……っ!」
相手が前へ出た。
佐伯は半歩だけ身体を引く。
次の瞬間、鋭く踏み込んだ。
「……せいっ!」
放たれた突き。
審判の旗が上がった。
「……よし!」
佐伯が拳を握る。
その後も、一進一退の攻防が続いた。
相手の蹴りをかわし、間合いを取り直す。
何度も攻撃を仕掛けながら、隙を探る。
残り時間は、わずか。
佐伯は、最後の踏み込みを選んだ。
「……っしゃあ!」
気迫のこもった一撃。
そして。
「……やめ!」
終了の合図が響いた。
判定は、佐伯の勝利。
「……押忍!」
佐伯は深く一礼した。
その瞬間。
「やったあああ!」
観客席から、リンの声が響いた。
『佐伯さん! 全国だよ! 全国!』
興奮した様子で両手を振っている。
隣の荒川が、思わず苦笑した。
「山元先生。まだ決勝が残っていますよ」
『あっ! そうでした!』
リンが慌てて口元を押さえる。
その様子を見て、佐伯も小さく笑った。
全国大会出場。
ずっと目指してきた舞台への切符を、ようやく手にした。
だが、まだ終わりではない。
東京都の頂点を懸けた、最後の一戦が残っていた。
◇
一方、女子個人組手。
「……やめ!」
審判の声が響いた。
菜月は、肩で息をしながら構えを解いた。
相手は三年生の強豪選手。
序盤から互いに譲らず、試合は終盤までもつれ込んでいた。
菜月は何度も攻撃を仕掛けた。
得意の上段蹴りも放った。
だが、相手は最後まで冷静だった。
わずかな踏み込みの差。
ほんの一瞬、攻撃へ移る判断が遅れたところを捉えられた。
結果は、敗北。
準決勝敗退。
東京都ベスト四。
全国大会まで、あと一勝だった。
「…………」
菜月は、しばらくその場から動けなかった。
悔しかった。
力が及ばなかったとは思わない。
何もできなかったわけでもない。
それでも、負けた。
もう一度、全国への切符を懸けて戦うことはできない。
「……相原」
荒川が声をかけた。
「……押忍」
「よく戦った」
「…………」
「だが、最後の一本は相手が上だったな」
「……はい」
菜月は、唇を噛んだ。
荒川は、それ以上慰めるような言葉を重ねなかった。
「何が足りなかったか、分かるか」
「……はい」
「なら、忘れるな」
「……押忍!」
菜月は、大きく頭を下げた。
目元が少しだけ赤くなっていた。
その様子を、リンは少し離れたところから見つめていた。
『……相原さん』
「……凛先生」
『……お疲れさま』
「……押忍」
菜月は、無理に笑おうとした。
「……あと一勝だったんですけどね」
『……うん』
「……悔しいです」
リンは、静かに頷いた。
『……そっか』
「……でも!」
菜月が顔を上げた。
「私、まだ二年生ですから!」
『……うん!』
「来年、絶対に全国へ行きます!」
リンは、にっこりと笑った。
『うん! 応援してる!』
菜月も、ようやく笑顔を見せた。
◇
男子個人組手、決勝。
佐伯は最後まで食らいついた。
相手の鋭い攻撃に対応し、何度も反撃を試みた。
しかし、終盤に許したリードを覆すことはできなかった。
「……やめ!」
試合終了。
佐伯は、ゆっくりと構えを解いた。
「……押忍!」
相手選手へ一礼する。
結果は、準優勝。
東京都の頂点には、あと一歩届かなかった。
それでも。
全国大会への出場権は、確かに手にしていた。
「……佐伯!」
荒川が近づく。
「押忍!」
「決勝は惜しかったな」
「……はい」
「だが、よくここまで勝ち上がった」
「……ありがとうございます!」
佐伯は、深く頭を下げた。
そこへ、菜月が駆け寄ってくる。
「佐伯先輩!」
「……相原」
「全国出場、おめでとうございます!」
菜月は、満面の笑みで言った。
佐伯は少しだけ目を丸くした。
菜月が負けたことは、すでに聞いていた。
「……ありがとう」
「決勝、惜しかったですね!」
「……ああ」
「でも、全国では絶対勝ってくださいね!」
佐伯は、菜月を見た。
さっきまで、悔しさを隠しきれない顔をしていた。
それなのに、今は自分の全国出場を心から喜んでくれている。
「……相原」
「はい?」
「……来年は、お前の番だな」
菜月は、一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「……押忍!」
力強く頷いた。
「絶対、全国に行きます!」
佐伯も笑った。
「……ああ。頑張れよ」
「先輩こそ!」
二人は、顔を見合わせて笑った。
その少し離れたところでは、リンが満足そうに頷いていた。
『……二人とも、よく頑張ったね』
勝利をつかんだ者。
あと一歩で届かなかった者。
結果は違っても、それぞれが全力で戦った一日だった。
そして。
八月。
佐伯大輔は、全国の強豪たちが集まるインターハイへ挑むことになる。
◇
二〇〇〇年(平成十二年)六月十六日、金曜日。
都立青葉高校、三年二組。
六時間目の授業が終わり、生徒たちが帰り支度を始めていた。
「なあ、今日どっか寄ってかね?」
「いいね。駅前のゲーセンとか?」
「先週も行ったじゃん!」
そんな声が飛び交う教室で、山本リンは教卓の上のプリントを揃えていた。
『はいはい、寄り道はほどほどにねー。あと、来週提出の進路希望調査、忘れないでよ』
「えー、まだ決まってないんだけど!」
『決まってないなら、今の希望を書けばいいの。分からないところは相談して』
「凛ちゃん、相談したら答え教えてくれる?」
『人生の正解なんて、あたしが知りたいくらいなんだけど』
「先生なのに!?」
『先生だって二十二歳だからね!』
教室に笑いが起こった。
リンも笑いながらプリントを抱え直す。
そのときだった。
「……あ、凛ちゃん」
『ん?』
声をかけてきたのは、森田翔平だった。
いつもなら真っ先に友人たちと教室を出ていく森田が、今日は鞄を机に置いたまま立っている。
「今日さ、ちょっと時間ある?」
『……え? 何、また何かやらかした?』
「違うって!」
森田が笑った。
「進路のこと。ちょっと聞きたいんだけど」
『……ああ!』
リンは手を止めた。
『いいよ。じゃあ、職員室の隣の進路指導室で話そっか』
「おう!」
森田は鞄の中から数冊の大学案内を取り出した。
以前、リンが渡したものだった。
表紙の端が少し折れ、いくつかのページには小さな紙片が挟まっている。
『……あれ、結構読んでくれたんだ』
「まあな」
森田は少し得意げに笑った。
「俺、こういうの意外と真面目なんだぜ?」
『……意外と、ね』
「そこ強調すんなよ!」
◇
放課後の進路指導室。
窓の外では、運動部の掛け声が聞こえていた。
森田は机に大学案内を三冊並べた。
「この前さ、博物館行ったじゃん」
『うん』
「あの最後の展示。二十五年後の日本ってやつ」
『ああ、あれね』
「俺、あれからちょっと気になってさ」
森田は一冊を開いた。
「コンピューターのこと、図書室でも調べたんだよ」
『……へえ!』
「で、情報工学とか情報科学っていうのがあるのは分かったんだけど……」
森田はページを指さした。
「結局、何が違うの?」
『……なるほど』
リンは隣の椅子へ座った。
『まず、森田さんは何が一番気になってるの?』
「……何がって?」
『ほら。コンピューターそのものを作ることなのか、コンピューターを動かす仕組みなのか、それともネットワークを使って何かすることなのか』
「…………」
森田が黙った。
そして、ゆっくり顔を上げる。
「……それ、全部違うの?」
『……まあ、関係はあるけど、同じではないかな』
「マジかよ……」
森田は椅子の背にもたれた。
「俺、コンピューターって一つの勉強だと思ってた」
『あたしも詳しいわけじゃないけど、分野はいろいろあるみたいだね』
「……へえ」
リンは机に置かれた資料へ目を向けた。
一冊目には、法政大学の名前があった。
『……あ、これ』
「ん?」
『法政大学の情報科学部だね』
「そうそう。それ、今年できた学部なんだって」
『……えっ、そうなの?』
「書いてあるじゃん、ここ」
森田が指さした。
確かに、新しい学部を紹介する文章が載っている。
『……ほんとだ』
「凛ちゃん、知らなかったの?」
『……今知った』
「おい、先生!」
『だから、一緒に調べようって言ったじゃん!』
森田が吹き出した。
「……まあ、それもそうか」
リンは笑いながら資料をめくった。
コンピューターの基礎。
プログラミング。
情報処理の仕組み。
学部紹介には、聞き覚えのある言葉も並んでいた。
けれど、その内容を自分がきちんと説明できるかとなると、話は別だった。
スマートフォンを毎日使っていたからといって、その内部の仕組みまで理解しているわけではない。
『……これ、数学も結構使うみたいだね』
「……うっ」
森田の表情が変わった。
『何、その顔』
「……数学かぁ」
『苦手?』
「嫌いじゃないけど、得意って言えるほどでもない」
『そっか』
「コンピューターってさ、機械いじったりするだけかと思ってた」
『それだけじゃないみたいだね』
森田は資料を見つめた。
「……勉強しなきゃ駄目か」
『まあ、大学に行くならそうだね』
「……ですよねー」
森田が肩を落とす。
しかし、すぐに別の資料を取り出した。
「でも、こっちはちょっと面白そうだった」
表紙には、東京工科大学と書かれていた。
『……工学部、情報工学科』
「そう。こっちは工学部の中にあるんだって」
森田がページを開く。
「コンピューターの仕組みとか、通信とか……こういうの、博物館で見たやつに近い気がして」
『……確かに』
「でもさ、これ読んでも分かんない単語が結構あるんだよな」
森田は鉛筆で印をつけた箇所を指さした。
リンも覗き込む。
『……うん。難しいね』
「凛ちゃんも分かんないの?」
『分かんないものは分かんないよ』
「そこは先生っぽく説明してくれよ!」
『適当なこと教える方が駄目でしょ』
「……まあ、そうだけどさ」
リンは資料の後ろにある問い合わせ先を見た。
『詳しい授業内容は、大学に聞いてみてもいいかもね。学校説明会とか、見学できる機会もあるだろうし』
「……ああ、そっか」
『パンフレットだけじゃ、分からないことも多いから』
「……うん」
森田は鉛筆を持ち直した。
そして、余白に何かを書き込んだ。
『……何書いてるの?』
「聞きたいこと」
『へえ』
「忘れそうだからさ」
そこには、少し乱れた字でこう書かれていた。
――情報科学と情報工学は何が違う?
――数学はどのくらい必要?
――卒業したら何ができる?
リンはその三行を見つめた。
『……いいじゃん』
「……何が?」
『ちゃんと質問ができてる』
「それだけ?」
『それ、大事だと思うよ』
森田は少し照れくさそうに笑った。
「……そっか」
しばらくして、森田が口を開いた。
「なあ、凛ちゃん」
『ん?』
「俺さ、別に頭いい方じゃないじゃん」
『……急にどうしたの』
「いや、大学ってさ。やっぱ成績とか必要だろ?」
『……まあ、そうだね』
「今から頑張って、間に合うのかなって」
リンはすぐには答えなかった。
森田の成績は、確かに上位ではない。
大学によって必要な学力も違う。
簡単に大丈夫とは言えなかった。
『……今の成績と、志望する学校の入試科目をちゃんと比べてみないと分からないね』
「……そっか」
『それに、大学はこの二つだけじゃないし』
「……うん」
『でもさ』
リンは森田を見た。
『森田さん、前は何を勉強したいか分からないって言ってたよね』
「……ああ」
『今は、知りたいことがあるんでしょ?』
「…………」
『だったら、まずはそこを大事にしてみたら?』
森田は資料へ目を落とした。
「……うん」
そして、少し笑った。
「……俺、もうちょっと調べてみるわ」
『うん。分からないことがあったら、また聞いて』
「また凛ちゃんも分かんないって言うんじゃないの?」
『そのときは、一緒に分かる人を探す!』
「……あははっ!」
森田が笑った。
「それならいいや」
彼は資料を鞄へしまった。
「……ありがとな、凛ちゃん」
『どういたしまして』
「じゃあ、俺帰るわ!」
『うん。気をつけてね』
森田が扉へ向かった。
しかし、途中で足を止めた。
「……あ、そうだ」
『ん?』
「二十五年後の答え合わせ、覚えてる?」
リンは目を瞬かせた。
『……ああ、博物館で言ってたやつ?』
「そう!」
森田は笑った。
「その頃、俺がああいう機械作ってたら、面白くね?」
『……うん』
リンも笑った。
『面白いと思うよ』
「だろ?」
森田は満足そうに頷いた。
「じゃ、また月曜!」
『またねー』
扉が閉まった。
リンは机に残された大学案内の一冊を手に取った。
そこには、これから学ぶ学生たちへ向けた言葉が並んでいた。
森田が二十五年後に何をしているのか。
自分には分からない。
けれど、あの子は今日、自分からここへ来た。
『……頑張れ、森田さん』
リンは小さく呟き、資料を棚へ戻した。
◇
午後五時前。
家庭科室には、ミシンの音が響いていた。
「……あれ?」
片岡美奈が声を上げた。
「真理、ちょっと見て」
「……どうしたの?」
「ここ。何か変じゃない?」
美奈は、腰の位置に当てた仮縫いの布を指さした。
左右で長さを変えた裾。
デザイン画では、短い側から長い側へと綺麗に流れる形になっている。
しかし、実際に布を合わせてみると、長い方だけが妙に重たく見えた。
「……あれ?」
真理も首を傾げた。
「……さっき、寸法は合ってたよね」
「うん。ちゃんと測った」
「……じゃあ、何で?」
二人は鏡の前に立った。
美奈が身体を少し動かす。
布が揺れた。
けれど、思い描いていたようには広がらない。
「……うーん」
美奈が顔をしかめる。
「これ、何か違うんだよね」
「……うん」
真理はデザイン画を広げた。
紙の上では、長い裾が軽やかに流れている。
しかし、今使っている布は、その形を保てない。
「……もう少し、広がると思ったんだけど」
「だよね」
美奈が頷く。
「着ると、ここだけ下に引っ張られる感じがする」
真理は布の端を持ち上げた。
手を離すと、すぐに落ちる。
「……重いのかな」
「重いって、布が?」
「……うん」
そこへ、藤崎千尋が近づいてきた。
「どうしたの、二人とも?」
「あっ、藤崎先生!」
美奈が振り返る。
「この裾、変になっちゃって」
「どれどれ」
藤崎はデザイン画と仮縫いの布を見比べた。
「ああ……なるほど」
「何か分かります?」
真理が尋ねる。
「そうねえ。まず、今使っている布を少し見せてもらっていい?」
「……はい」
真理が端切れを渡した。
藤崎は布を指先で持ち上げ、軽く揺らした。
「この布、見た目は綺麗でしょう?」
「はい!」
美奈が即答する。
「色もいいし、触った感じも好きです!」
「そうね。でも、少し重さがあるのよ」
藤崎は布を机へ置いた。
「それに、裁つ方向によっても、落ち方が変わるの」
「……方向?」
真理が顔を上げた。
「ええ。布には縦と横がありますからね。デザイン画の線を、そのまま切り取れば同じ形になるというわけではないのよ」
「……あ」
真理が小さく声を漏らした。
藤崎は続けた。
「もちろん、原因がそれだけとは限らないけど。まずは小さな布で、切り方を変えて試してみたらどうかしら」
「……小さい布で?」
「ええ。いきなり本番の布を全部切ってしまうより、安全でしょう?」
美奈と真理は顔を見合わせた。
「……確かに!」
美奈が頷く。
「うちら、いきなり大きく作ろうとしてた!」
「……うん」
真理も頷いた。
「小さいので、形を確かめてみよう」
「そうしよ!」
藤崎は微笑んだ。
「それと、二人とも」
「はい?」
「本選まで、あと三週間ほどしかありませんからね」
「…………」
美奈の笑顔が止まった。
「……三週間」
真理も小さく繰り返した。
「そう。今は仮縫いの段階だけど、ここから仕上げまで進めなければいけません」
藤崎は作業台の上を見た。
「試すことは大事。でも、いつまでに何を終わらせるかも考えていきましょうね」
「……はい」
二人が揃って頷いた。
「それじゃあ、私は向こうのミシンを見てきます。分からないことがあったら呼んでね」
「ありがとうございます!」
藤崎が離れていく。
美奈はもう一度、鏡へ目を向けた。
「……三週間かぁ」
「……うん」
「結構、すぐだね」
「……そうだね」
真理はデザイン画を見つめた。
一次審査を通過した。
全国から選ばれた二十四組に入った。
あの日は、ただ嬉しかった。
でも、今は。
自分たちが描いた服を、本当に作らなければならない。
「……ねえ、真理」
「……ん?」
「これ、ちゃんと完成するかな」
真理は少し考えた。
「……分からない」
「……だよね」
「でも……」
真理は布を手に取った。
「……一回、試してみよう」
美奈が顔を上げる。
「小さい布で?」
「……うん。藤崎先生が言ってたように」
「……よし!」
美奈は袖をまくった。
「じゃあ、やろ!」
真理も小さく笑った。
「……うん」
◇
『……お疲れさまでーす』
家庭科室の扉が開いた。
「あっ、凛ちゃん!」
美奈が振り返る。
『まだやってたんだ』
「うん! でも、今ちょっと苦戦中!」
『……あらら』
リンは作業台へ近づいた。
そこには、布の端切れと型紙、何本もの待ち針が並んでいた。
『……すごいことになってるね』
「でしょ?」
美奈が苦笑する。
「全然、思った形になんないんだよ」
『……へえ』
リンは鏡の前に掛けられた仮縫いの衣装を見た。
『……あ、これが提出したデザインの?』
「そう!」
美奈が頷く。
「でもね、着ると裾が変な感じになっちゃうの」
『……なるほど』
リンは少し首を傾げた。
『……ごめん。あたし、どこをどう直せばいいかは全然分かんない』
「えー、凛ちゃん!」
『だって専門外だもん!』
美奈が笑った。
真理も口元を緩める。
『……でも、ちゃんと進んではいるんだよね?』
「……はい」
真理が頷いた。
「今、布の切り方を変えて試してみようと思ってて……」
『そっか』
リンは作業台の端に置かれた時計を見た。
『もうすぐ五時だね。今日は何時まで使えるの?』
「五時半までです」
真理が答える。
『……じゃあ、あんまり時間ないね』
「そうなんだよー!」
美奈が大きく息を吐く。
「やりたいこと、いっぱいあるのに!」
『……まあ、三週間あるとはいえ、学校の時間は限られてるしね』
リンは少し考えた。
『あ、そうだ。藤崎先生と、来週の家庭科室の予定は確認してある?』
「……あ」
美奈が顔を上げた。
「まだ!」
『じゃあ、そこはあたしが確認しておくよ』
「……いいの?」
『うん。あたしにもできること、それくらいだし』
美奈が笑った。
「助かるー!」
『ただし、空いてる時間があっても、二人の予定と合わなきゃ意味ないからね』
「……はい」
真理が頷いた。
『塾とか、家の用事とかもあるでしょ? 無理な予定は組まないでよ』
「……分かりました」
『よし』
リンは手帳を取り出した。
『じゃあ、来週の放課後で、二人が来られる日を教えて』
美奈と真理は顔を見合わせ、予定を確認し始めた。
そのとき、美奈がふと顔を上げた。
「……ねえ、凛ちゃん」
『ん?』
「決勝の日、来てくれるんだよね?」
『……え?』
「ほら、引率!」
『……ああ、うん。その予定で調整してるよ』
「やった!」
美奈が嬉しそうに笑う。
「じゃあ、ちゃんと完成させないとね!」
真理も、小さく頷いた。
「……うん」
リンは二人を見た。
美奈は、もう次に試す布を選んでいる。
真理は、その横でデザイン画へ書き込みを始めていた。
『……楽しみにしてるよ』
二人が顔を上げた。
『完成した服、見せてもらうの』
「……任せて!」
美奈が胸を張った。
真理も、少し照れくさそうに笑った。
「……頑張ります」
リンは頷き、二人の予定を手帳へ書き留めた。
◇
午後七時過ぎ。
山元家。
『……ただいまー』
玄関で靴を脱いだリンは、鞄を肩から下ろした。
今日は、何だか長い一日だった。
森田の進路相談。
美奈と真理の制作。
その合間に、授業の準備やら提出物の確認やら。
『……あー、疲れた』
自室へ入り、鞄を机の脇へ置く。
リンはベッドに腰を下ろし、携帯電話を取り出した。
折り畳み式の端末。
開いた画面には、未読メールの表示があった。
『……ん?』
何気なく受信箱を開く。
そして。
指が止まった。
――高橋健吾。
『…………』
リンは画面を見つめた。
久しぶりに見る名前だった。
いや。
久しぶりというより、見ないようにしていた名前だった。
メールを開く。
「凛、久しぶり。
話したいことがあるんだけど、今度会えないかな。」
『…………』
短い文章だった。
怒っているようには見えない。
けれど、何を話したいのかは書かれていない。
リンはベッドの上で膝を抱えた。
高橋健吾。
この時代の山元凛と、二年ほど付き合っている恋人。
入れ替わったばかりの頃、彼が以前とは違う自分に戸惑っていたことを覚えている。
それから、リンはずっと距離を取ってきた。
会えば、何を話せばいいのか分からない。
優しくされても、どう応えればいいのか分からない。
自分が山元凛ではないと、打ち明けることもできない。
だから、仕事が忙しいという理由をつけて、連絡を先延ばしにしていた。
『……うわ』
リンは額に手を当てた。
『……ついに来た』
もう一度、メールを見る。
――今度会えないかな。
その一文を見つめたまま、しばらく動けなかった。
断る理由なら、いくらでも考えつく。
仕事が忙しい。
学校の用事がある。
最近、疲れている。
けれど。
(……いつまで、それで逃げるつもりなんだろ)
リンは携帯電話を持ち直した。
健吾は何も知らない。
自分が別の人間になっていることも。
いつか元に戻るのか、それともこのままなのか、自分にすら分からないことも。
何も知らずに、返事を待っている。
リンは返信画面を開いた。
指先をキーへ置く。
『…………』
一文字目を打とうとして、手が止まった。
画面の向こうにいる健吾へ、何と言えばいいのか。
まだ、分からなかった。




