第五十四話「それぞれの一歩」
二〇二六年(令和八年)六月十三日、土曜日。
午後八時二十分。
「……どうしようかな」
高瀬美月は、開け放したクローゼットの前で腕を組んでいた。
今夜の配信まで、あと四十分。
金曜日の朝、登録者数が一万九千人を超えていると知ったときは、何か新しい衣装を用意しようと思っていた。
けれど、注文したところで土曜日には間に合わない。
いつものブラウス。
お気に入りのワンピース。
薄手のカーディガン。
ハンガーに掛けられた服を、一着ずつ見ていく。
「……これ、前にも着たし」
美月はワンピースを戻した。
その隣に、白いキャミソールが掛かっていた。
去年の夏に買ったものだ。
下の引き出しには、デニムのホットパンツもある。
どちらも普段着だが、配信で着たことはなかった。
「……うーん」
美月は二つを取り出し、鏡の前で合わせてみた。
少し夏らしすぎる気もする。
けれど、もう六月だ。
外は昼間から暑かったし、部屋の中もエアコンをつけなければ汗ばむほどだった。
「……まあ、家の中だし」
美月は服をベッドに置いた。
スマートフォンが震える。
画面には、昨夜から何度も見返している切り抜き動画への新しい反応が表示されていた。
メイド服姿の自分。
画面の隅には、増え続ける再生数。
「……すごいなぁ」
美月は少し笑った。
そして、ベッドに置いた服へ目を向けた。
◇
午後九時。
「こんばんは。なでしこです!」
《こんばんはー!》
《待ってた!》
《切り抜きから来ました》
《初見です》
《今日もかわいい!》
「あっ、初めましての方もたくさん……! ありがとうございます!」
コメントが次々と流れていく。
美月は画面を見ながら、少し慌てて笑った。
「ごめんなさい、ちょっと速くて……全部は読めないかもしれないです」
《無理しないでー》
《人増えたね》
《なでしこ有名になったな》
《今日の服、夏っぽい!》
「あ、はい。今日はちょっと暑かったので、夏服にしてみました」
《似合ってる!》
《いつもと雰囲気違う》
《いいね!》
「……えへへ。ありがとうございます」
美月は小さく頭を下げた。
以前なら、一つのコメントを読み終えてから次を探すこともあった。
今は違う。
返事を考えている間にも、新しい言葉が画面を流れていく。
「えっと……あっ、お菓子の話ですね!」
《おすすめのアイスある?》
「最近は、コンビニの抹茶アイスが好きです」
《わかる!》
《抹茶派か》
《チョコミントは?》
「チョコミントも好きですよ。でも、この間食べたら……」
美月は思い出して笑った。
「急いで食べすぎて、頭がキーンってなっちゃって」
《かわいいw》
《あるある》
《小学生かw》
「ち、違います! ちゃんと高校生です!」
《知ってるw》
《また切り抜かれるぞ》
「あっ……それは、ちょっと恥ずかしいです」
コメント欄が笑いの反応で埋まった。
美月もつられて笑った。
しばらくすると、机の端に置いていた飲み物が空になった。
「あ……ちょっと、お茶を取ってきますね」
《いってらー》
《待ってる》
美月は椅子から立ち上がり、部屋の隅に置いたペットボトルへ手を伸ばした。
戻ってきて、机に飲み物を置く。
そのとき、少し離れた位置にあるマウスを取ろうと、身を乗り出した。
《なでしこ!谷間気をつけて!》
《ちょっと前かがみになってるよ》
《カメラ気をつけて!》
「……えっ?」
美月は配信画面へ目を向けた。
「あっ……!」
慌てて椅子に座り直す。
それから、カメラの角度を少し上へ調整した。
「ご、ごめんなさい! 教えてくれてありがとうございます」
《気をつけてね》
《無理しないで》
《大丈夫だよー》
「……ありがとうございます」
美月は小さく息を吐き、飲み物を一口飲んだ。
「えっと……さっき、何のお話でしたっけ?」
《アイスw》
《チョコミント》
《頭キーンってなった話》
「あっ、そうでした!」
美月は笑った。
「もう、皆さんよく覚えてますね」
コメントが再び流れ始めた。
雑談に応える言葉。
初めて来た人からの挨拶。
そして、今夜の服についての書き込み。
美月は順番に目を通そうとしたが、とても追いつかなかった。
◇
同じ頃。
橘莉子は自室のベッドに座り、美月の配信を見ていた。
さっきのやり取りを見て、少し眉をひそめる。
「…………」
美月がカメラを直したのを確認し、莉子は画面に目を戻した。
コメント欄には、いつものような雑談も流れている。
けれど、その間に服装や美月の身体についての書き込みが何度も現れた。
《助かります!》
《美味しそう》
《でっか!》
莉子は金曜日の夜に見た切り抜き動画を思い出した。
あのときも、最初は美月の話し方や反応を褒めるコメントが多かった。
でも、スクロールするほど別の種類の言葉が目についた。
画面の中で、美月は楽しそうに笑っている。
「……なんか、こういうのばっかじゃん」
莉子は眉をひそめた。
美月の話は面白い。
何でもない雑談で笑わせてくれるところも、コメントに一生懸命答えるところも、莉子は好きだった。
なのに、最近は服の話ばかりが目につく。
「……美月、ほんと大丈夫かな」
莉子はしばらく画面を見つめていた。
美月は、視聴者から届いた質問に笑いながら答えている。
その顔を見ていると、今すぐ何か言うのも違う気がした。
「…………」
莉子はスマートフォンを伏せた。
けれど、少ししてまた手に取り、配信画面を開いた。
美月が新しいコメントを読み上げている。
莉子は音量を少し下げ、そのまま画面を見つめていた。
◇
午後十時過ぎ。
美月は配信を終え、登録者数を確認した。
二万二千九百人。
「……わあ」
金曜日の朝に見た数字より、さらに数千人増えていた。
スマートフォンを手に取り、SNSを開く。
今夜の配信について、早くも感想が投稿されている。
《今日も楽しかった》
《雑談ずっと聞いてられる》
《夏服のなでしこもかわいい》
《次回も楽しみ》
美月は一つずつ目を通した。
「……二万二千九百人」
口に出してみても、まだ少し信じられない。
あれほど遠く感じていた一万人が、いつの間にか半分以下の数字になっている。
美月はクローゼットへ目をやった。
今夜着ていた服が、ハンガーに掛かっている。
メイド服のときも、今日も。
いつもと違う服を着た日は、たくさんの人が来てくれた。
「……次も、頑張ろう」
美月はスマートフォンを充電器につないだ。
今夜は、忘れずに。
◇
翌六月十四日、日曜日。
都立桜丘高校、体育館。
「千夏! 一本目、お願い!」
「はいっ!」
宮野千夏は、コートへ飛んできたボールを両腕で受けた。
セッターへ返されたボールが、右のアタッカーへ上がる。
スパイク。
だが、相手校のブロックに弾かれた。
「カバー!」
千夏が叫ぶ。
後衛にいた須藤恵が、床へ飛び込んだ。
伸ばした腕が、ボールの下をかすめる。
だが、わずかに届かない。
ボールは床へ落ちた。
「……っ!」
恵はすぐに立ち上がり、膝についた汗を拭った。
「……すみません」
「大丈夫! 次いこう!」
千夏が声をかける。
恵は小さく頷き、もう一度腰を落とした。
得点板が動く。
桜丘、十八点。
相手校、二十一点。
今日の相手は、近隣の高校だった。
以前から何度か練習試合を重ねており、桜丘が比較的余裕を持って勝つことの多いチームだ。
しかし、今日は違った。
「また落ちた……」
部員の一人が呟く。
「切り替えよう!」
千夏は手を叩いた。
「次、一本取ろう!」
声は出ている。
だが、ボールがつながらない。
レシーブが乱れ、攻撃の形を作る前に相手へ返してしまう。
逆に相手は、桜丘の守備が薄くなる位置を狙っていた。
コート脇では、朝倉紗奈が松葉杖を傍らに置き、椅子に座って試合を見つめていた。
右膝には固定具がついている。
その隣で、マネージャーの水瀬結衣が記録用のノートへペンを走らせた。
「……また右奥」
紗奈が呟いた。
「うん。さっきもそこだった」
結衣が頷く。
「でも、毎回じゃないよね」
「そう。千夏たちが前に寄ったときだけ」
紗奈は相手コートへ目を向けた。
「向こう、ちゃんと見て打ってる」
結衣がノートに印をつけた。
「……千夏に伝える?」
「うん。でも、まずは今のセットが終わってから」
紗奈は膝の上で手を握った。
コートでは、千夏が仲間へ声をかけていた。
相手のサーブ。
レシーブ。
トス。
スパイク。
何とか一点を取り返す。
「よしっ!」
千夏が拳を握った。
しかし、その後も点差は縮まらなかった。
二十二対二十五。
桜丘は第一セットを落とした。
◇
「……すみません」
ベンチに戻った千夏が、タオルで汗を拭きながら言った。
「何か、全然まとまらなくて」
「千夏、ちょっといい?」
紗奈が声をかけた。
「うん」
「向こうのライトからの攻撃、気づいた?」
「……何回か右奥に落とされた」
「そう。それがね、うちの前衛が少し中央に寄ったときに多いんだよ」
紗奈は結衣のノートを指さした。
同じ位置に印がいくつかついている。
「ほら、ここ」
「……本当だ」
千夏が覗き込む。
「こっちのブロックが真ん中に寄ったのを見て、打つ場所変えてるってこと?」
「たぶんね。少なくとも、何となく打ってるわけじゃないと思う」
紗奈は千夏を見た。
「千夏はどうしたい?」
千夏は少し考えた。
「……右奥を空けないようにしたい」
「うん」
「でも、後ろを守ろうとして下がりすぎると、前の短いボールが取れなくなるし……」
紗奈が頷く。
「そうだね」
「……じゃあ、ブロックの位置を変える?」
「それもあり。でも、相手の打ち方をよく見て。毎回同じ場所へ来るとは限らないから」
「……分かった」
千夏はノートをもう一度見た。
そこへ、顧問の藤沢和彦が声をかけた。
「皆さん、そろそろ次のセットですよ。少し水分も取っておきましょうね」
「はい!」
部員たちが返事をする。
藤沢は千夏へ目を向けた。
「千夏さん、ずいぶん考え込んでいましたねえ」
「あ……はい。ちょっと、守備のことで」
「そうですか。紗奈さんたちと相談していたんですね」
藤沢は穏やかに笑った。
「焦らなくても大丈夫ですよ。次も、皆さんでよく声を掛け合ってくださいね」
「……はい!」
千夏が立ち上がった。
凛はコートへ戻ろうとする千夏を呼び止めた。
『千夏』
「はい!」
『紗奈の話は聞けたか?』
「はい。相手の攻撃をもう少し見ようと思います」
『分かった。では、コートの中で何が見えたか、あとで教えてくれ』
「……はい!」
千夏は仲間たちのもとへ走った。
◇
第二セット。
桜丘は、またも序盤から苦戦していた。
「千夏、右!」
「分かってる!」
相手の攻撃を意識するあまり、千夏たちの動きが少し後ろへ寄る。
すると今度は、ネット際に短いボールを落とされた。
「……しまった!」
千夏が唇を噛む。
ベンチの紗奈も、思わず腰を浮かしかけた。
右膝に痛みが走り、すぐ座り直す。
「……っ」
「紗奈、大丈夫?」
結衣が顔を向けた。
「……うん。平気」
紗奈はコートを見た。
千夏が仲間を集め、短く声をかけている。
これまで練習してきた十五秒ミーティングだった。
「右奥だけ気にしすぎないで! 前も見よう!」
「でも、さっきと同じ形になったら?」
「そこは私が声出す! みんなはボール見て!」
「了解!」
すぐに散開する。
次のサーブが放たれた。
桜丘はレシーブから攻撃につなげる。
だが、相手のブロックに捕まった。
「カバー!」
今度は千夏が拾った。
再びトスが上がる。
アタッカーが打ち込む。
ボールは相手の腕を弾き、コートの外へ落ちた。
「よしっ!」
千夏が叫んだ。
得点板は二十対二十一。
まだ一点差で負けている。
次のラリー。
相手がライトから攻撃の態勢に入った。
千夏は、相手の肩の向きと前衛の位置を見た。
また右奥へ来る。
そう思った瞬間、スパイカーの手首が変わった。
「……前!」
千夏が声を上げた。
短いボール。
前衛の選手が反応し、何とか拾う。
「ナイス!」
千夏が走り込む。
乱れたボールをつなぎ、セッターへ送った。
次の攻撃は決まらなかったが、ラリーは続いた。
相手がもう一度打ち込む。
千夏は今度こそ、後ろへ下がりすぎなかった。
「私が取る!」
レシーブが上がる。
トス。
スパイク。
相手コートへボールが突き刺さった。
「よし!」
同点。
二十一対二十一。
千夏は仲間へ手を伸ばした。
「今のいいよ! 続けよう!」
ベンチの紗奈が、ようやく息を吐いた。
「……今の、千夏が見てたね」
結衣が言う。
「うん」
紗奈は頷いた。
「ちゃんと、自分で気づいた」
その声には、隠しきれない嬉しさがあった。
第二セットは、最後までもつれた。
二十四対二十三。
桜丘のセットポイント。
「あと一本!」
千夏が声を出す。
相手のサーブを受け、トスが上がった。
右からのスパイク。
ブロックに当たったボールが、ネットの向こうへ落ちる。
「……入った!」
笛が鳴った。
二十五対二十三。
桜丘が第二セットを取り返した。
千夏は両手を膝につき、大きく息を吐いた。
「……やっと、一つ」
隣の部員が頷いた。
「次も取ろう」
「……うん!」
◇
第三セットも、簡単には終わらなかった。
相手は桜丘の守備位置を見ながら、攻撃先を変えてくる。
千夏たちも、少しずつ対応する。
しかし、一度うまくいった守備が、次も通用するとは限らなかった。
二十二対二十二。
両チームの声が体育館に響く。
桜丘のサーブ。
相手のレシーブが少し乱れた。
「チャンス!」
千夏は仲間へ声をかける。
返ってきたボールを拾い、セッターへつなぐ。
スパイクが決まった。
二十三対二十二。
「あと二本!」
千夏が叫んだ。
次のラリーでは、相手のスパイクが桜丘のブロックに当たり、コートの外へ飛んだ。
「ワンタッチ!」
桜丘の選手が叫んだ。
線審も判定を示す。
相手の得点。
二十三対二十三。
「……くっ!」
千夏は一瞬だけ俯いた。
しかし、すぐに顔を上げた。
「大丈夫! 次!」
再びサーブが放たれる。
レシーブが上がった。
千夏は相手のブロックが中央へ寄るのを見た。
「左、空いてる!」
セッターが左へトスを上げる。
アタッカーが踏み込む。
スパイク。
ボールは相手コートの奥へ落ちた。
二十四対二十三。
「……あと一本!」
千夏が声を絞り出した。
次の一点。
相手は何とか攻撃を返してきた。
千夏が拾う。
セッターがつなぐ。
右からのスパイク。
相手が受ける。
再びラリーが続く。
千夏は足を止めなかった。
「もう一本!」
最後のボールが、相手コートへ落ちた。
笛が鳴る。
二十五対二十三。
桜丘の勝利だった。
「……勝った」
千夏が呟いた。
隣の部員が、肩で息をしながら頷く。
「……うん」
何人かが小さく拳を握った。
けれど、いつものような歓声は上がらなかった。
千夏は両手を膝につき、大きく息を吐いた。
「……はぁっ、はぁっ……」
「千夏、大丈夫?」
「……うん。大丈夫」
千夏は顔を上げ、得点板を見つめた。
第一セット、二十二対二十五。
第二セット、二十五対二十三。
第三セット、二十五対二十三。
二対一。
以前なら、もっと余裕を持って勝てた相手だった。
「……勝ったけど」
千夏がぽつりと呟いた。
「……これじゃ、駄目だね」
「駄目ってことはないよ」
声がした。
千夏が振り返る。
紗奈が松葉杖をつきながら、ゆっくり近づいてきた。
「紗奈……」
「勝ったんだから、そこはちゃんと喜んでいいでしょ」
「……うん」
「第二セットの後半、よかったよ」
「……本当?」
「うん。相手の動きを見て、自分で声を出せてた」
紗奈は少し笑った。
「私が外から言うより、ずっと早かった」
千夏は照れくさそうに頭を掻いた。
「……でも、第一セットからできてたら、もっと楽だったのに」
「それはそうだね」
紗奈はあっさり頷いた。
「反省するところは、いっぱいある」
「……うん」
「でも、できたことまで無かったことにしなくていいよ」
千夏が顔を上げた。
紗奈は続けた。
「今日は、千夏たちが自分で勝ったんだから」
「…………」
千夏は一瞬黙った。
それから、少しだけ笑った。
「……ありがと、紗奈」
◇
試合後。
桜丘の部員たちは、体育館の端に集まっていた。
結衣がノートを広げる。
「じゃあ、今日の振り返り、始めるね」
千夏が頷いた。
「十五分でまとめよう。帰りの片づけもあるし」
藤沢と凛は、少し離れた場所でその様子を見守っていた。
以前は、試合が終わると顧問からの指摘を聞き、それぞれが反省することが多かった。
今は、選手たちが自分たちで話し始めている。
「まず、今日よかったことから聞きたい」
千夏が口を開いた。
「第二セットの後半、守備を変えられたのはよかったと思う」
「うん。でも、最初は下がりすぎたよね」
「そうそう。前に落とされてた」
「じゃあ、どうしたらよかったんだろ」
結衣がノートを見た。
「相手の打つ方向を見てから動けたときは、拾えてたよ」
「でも、それって結構難しくない?」
部員の一人が言った。
「打たれてからじゃ間に合わないし」
「うん。だから、最初にどこに立つかも大事なんだと思う」
千夏が答えた。
結衣がノートの端を指で押さえる。
「第一セットで落とされた場所、全部同じじゃないんだよね」
「……ほんとだ」
「右奥が多いけど、前にも落とされてる」
部員たちがノートを覗き込む。
紗奈も椅子に座ったまま、その輪に加わっていた。
「一つ、言ってもいい?」
紗奈が声をかける。
「うん!」
千夏が頷いた。
「相手のライト、打つ前にこっちのブロックを見てたと思う」
結衣が顔を上げた。
「私もそう思った」
「だから、こっちが動いたのを見てから打つ場所を変えられてたんじゃないかな」
「……じゃあ、どうすればいい?」
部員が尋ねる。
紗奈はすぐに答えず、千夏へ顔を向けた。
「千夏はどう思う?」
「……私?」
「うん。中で見てたでしょ」
千夏は少し考えた。
「……最初から右奥だけ守ろうとしない方がいいと思う」
「うん」
「それと、ブロックが動いたとき、後ろの人がちゃんと分かるように声を出す」
千夏は手を動かしながら説明した。
「第二セットの途中から、それが少しできるようになったから」
「たしかに!」
後衛の選手が頷く。
「声があると動きやすかった!」
「でも、何を言ってるか分かんないときもあったよ」
「えっ、そうだった?」
「うん。『右!』だけだと、誰が動くのか分かんない」
「あー……」
千夏は苦笑した。
「それは、ごめん」
「次は名前も呼ぼうよ」
「そうだね!」
話し合いが続く。
結衣が残り時間を確認した。
「あと四分くらい」
「やば、もうそんなに経った?」
千夏が慌てる。
「じゃあ、次の練習で何やるか決めよう!」
「声かけ!」
「守備の位置!」
「ブロックとの連係!」
次々と声が上がる。
千夏は両手を軽く叩いた。
「待って待って! 一回に全部は無理!」
部員たちが笑った。
「じゃあ、まずはブロックが動いたときの声かけからやろう」
結衣が提案する。
「それなら、守備の位置も一緒に確認できると思う」
「……うん。それがいい!」
千夏が頷いた。
「次の練習は、そこを意識しよう!」
紗奈も小さく頷いた。
「私も外から見てる。声が届いてるか、確認するね」
「お願い!」
千夏が笑った。
十五分が過ぎた。
結衣がノートを閉じる。
「じゃあ、今日はここまで」
「お疲れさま!」
部員たちが立ち上がり、片づけに向かった。
◇
「……いやあ、皆さん、よく頑張りましたねえ」
藤沢が、部員たちを見ながら言った。
『……そうですね』
凛は片づけを始めた部員たちへ目を向けた。
『ですが、今日の試合はずいぶん苦戦しました』
「ええ。これまでは、もう少し落ち着いて試合を進められていたんですがねえ」
藤沢は少し困ったように笑った。
「……やはり、紗奈さんがコートにいない影響もあるのでしょうね」
『……はい』
「ですが、千夏さんも頑張ってくれていましたよ」
藤沢が続ける。
「いやあ、最初はどうなることかと思いましたが、後半は随分よく声が出ていました」
『私もそう思います』
凛は頷いた。
『相手の動きを見て、自分で判断できる場面が増えていました』
「そうですねえ」
藤沢は穏やかに笑った。
「紗奈さんも、きっと嬉しいでしょうね」
そのとき、紗奈が松葉杖をついて近づいてきた。
「山本先生、藤沢先生。今日はありがとうございました」
『紗奈。お疲れさま』
「紗奈さんも、お疲れさまでした」
藤沢が微笑む。
「膝は大丈夫でしたか?」
「はい。途中、ちょっと立ち上がりかけちゃいましたけど……」
「おやおや」
藤沢は心配そうに紗奈の膝へ目を向けた。
「気持ちは分かりますが、今は無理をしないでくださいねえ」
「……はい」
紗奈は少し照れくさそうに笑った。
「ちゃんと気をつけます」
「ええ。それが一番ですよ」
藤沢は頷いた。
「では、私は片づけの方を見てきますね。山本先生、お願いします」
『はい』
藤沢は部員たちのもとへ歩いていった。
凛は紗奈に声をかけた。
『今日は、どうだった?』
「……勝ててよかったです」
『そうだな』
「千夏も、すごく頑張ってました」
『ああ。私もそう思う』
紗奈はコートへ目を向けた。
床に残ったボールの転がる音。
ネットを外す部員たちの声。
いつもなら、自分もあの中にいるはずだった。
「……でも」
紗奈が小さく口を開いた。
『ん?』
「……やっぱり、悔しいです」
凛は黙って待った。
「相手がどこを狙ってるか分かっても……私、声をかけることしかできなくて」
『……ああ』
「千夏たちが頑張ってるの、嬉しいんです」
紗奈は松葉杖の握り手に視線を落とした。
「でも……」
少し間が空いた。
「……私も、あそこでプレーしたかった」
凛は紗奈を見つめた。
そして、静かに頷いた。
『そうだろうな』
「…………」
『今日の試合を見ていて、私も何度か思った』
「……え?」
『紗奈がコートにいたら、どう判断しただろうかと』
紗奈は顔を上げた。
『お前がいないことで、チームに足りなくなったものは確かにある』
「…………」
『だが、千夏たちもそれを埋めようと、自分たちで考えていた』
「……はい」
『紗奈も、その助けになっていたじゃないか』
紗奈は少しだけ目を伏せた。
「……そう、ですかね」
『ああ。さっきの振り返りでも、皆がお前の話を聞いていた』
「…………」
『今できることを、十分にやっていると思うぞ』
紗奈はコートの方を見た。
千夏がこちらに手を振っている。
「紗奈ー! 帰り、一緒に行こ!」
「……うん!」
紗奈が返事をした。
それから、凛へ向き直る。
「先生」
『ん?』
「……私、ちゃんと戻りたいです」
『……ああ』
「千夏たちと、もう一回一緒に試合したい」
凛は頷いた。
『そのためにも、今は膝を治そう』
「……はい!」
紗奈は笑った。
「ありがとうございました!」
『気をつけて帰るんだぞ』
「はい!」
紗奈は松葉杖をつきながら、千夏たちの方へ向かった。
千夏が近づき、紗奈の鞄を持つ。
「重くない?」
「大丈夫だって」
「いや、持つよ!」
「……ありがと」
二人は笑い合った。
結衣もその隣に並び、今日の試合について何かを話し始めた。
凛は三人の後ろ姿を見送った。
勝った。
けれど、課題はまだ山ほどある。
それでも、今日の試合で千夏たちは自分たちの力で一つの答えを見つけた。
紗奈もまた、コートの外からチームを支えていた。
誰か一人が、すべてを背負わなくてもいい。
凛は体育館に残ったボールを拾い上げ、かごへ戻した。
『……さて、私も片づけるか』
そう呟いて、最後の一球に手を伸ばした。




