第五十三話「一夜にして」
二〇二六年(令和八年)六月十一日、木曜日。
午後九時。
「お、お帰りなさいませ……ご主人様」
《うおおおお!!》
《メイドきたあああ!》
《かわいい!!》
《似合いすぎでしょ》
《お嬢様、お水ください》
「……えっ、お嬢様なのに、お水を出す側なんですか?」
《たしかにww》
《逆メイド喫茶》
《なでしこちゃんに接客されたい人生だった》
「ふふっ。もう、皆さん自由すぎます」
高瀬美月は笑いながら、画面へ向かって軽く頭を下げた。
黒と白を基調としたメイド服。
胸元には白いリボン。袖や裾には小さなフリルがあしらわれている。
初めて袖を通したときは少し恥ずかしかったが、こうして視聴者が喜んでくれると、買ってよかったと思えた。
《くるっと回って!》
「えっ、回るんですか?」
《見たい!》
《お願い!》
「……一回だけですよ?」
美月は椅子から立ち上がり、カメラから少し距離を取った。
両手で軽くスカートの端を押さえ、その場でくるりと回る。
《888888》
《かわいいいい》
《優勝》
《めっちゃ似合う》
「……あ、ありがとうございます」
椅子に戻ると、またコメントが流れ始めた。
普段の雑談と変わらない話題も多い。
学校のこと。最近食べたお菓子のこと。週末の予定。
美月は一つずつ拾いながら、笑ったり、考え込んだり、ときどきコメントに突っ込んだりした。
《なでしこちゃん、今日こそ1万人いけそう?》
「あ……どうでしょう」
美月は画面の端に表示された登録者数を見た。
九千八百人台。
少しずつ増えてはいる。
けれど、先週のパンダのルームウェアを着た日のような勢いはなかった。
「……いけたら、嬉しいですけどね」
《応援してる!》
《友達にすすめとく》
《あとちょっとじゃん》
「ありがとうございます。無理にとは言わないので、気に入ってもらえたら……」
そのとき、新しいコメントが流れてきた。
《なでしこちゃんって切り抜きないの?》
「……切り抜き?」
《短い動画のやつ》
《切り抜き見たい》
《切り抜き作っていい?》
美月は首を傾げた。
「切り抜きって、配信の面白かったところを短く編集するやつですよね?」
《そうそう》
《SNSに流したら絶対伸びると思う》
《自分で編集しないの?》
「……やってみたいとは思ってたんですけど」
美月は少し困ったように笑った。
「学校もありますし、配信の準備もあるので……なかなか時間がなくて」
《じゃあ視聴者が作ろう》
《俺やるよ》
《許可くれたら作る!》
《切り抜き師募集しようぜ》
「……えっ、皆さんが?」
《任せろ》
《楽しそう》
《切り抜き師立候補!》
美月は画面を見つめた。
自分の配信を、わざわざ編集してくれる人がいる。
それは、少しくすぐったい話だった。
「……本当に、いいんですか?」
《いいよー》
《むしろやらせて》
《なでしこの面白さ広めたい》
美月は両手を合わせた。
「じゃあ……」
少しだけ間を置いて、笑顔を作る。
「切り抜き師さん、募集中です!」
《決定!!》
《よっしゃ》
《素材探してくる》
《公式許可きたw》
「ふふっ。皆さん、ありがとうございます!」
美月は画面へ頭を下げた。
◇
配信を終えたのは、午後十時を少し過ぎた頃だった。
美月はメイド服から部屋着に着替え、椅子に座り直した。
画面に表示された登録者数を確認する。
九千九百四十人。
「……あ」
思わず、もう一度数字を見た。
変わらない。
「……今日も、一万人いかなかったな」
先週は、あんなにあっさり超えたのに。
衣装だって新しくした。
コメントも賑やかだった。
けれど、思っていたほど数字にはつながらなかった。
「……難しいなぁ」
美月はパソコンを閉じた。
それからベッドに腰を下ろし、スマートフォンを手に取る。
SNSを開くと、早速メイド服姿の感想が投稿されていた。
《今日のなでしこ可愛かった》
《メイド服最高》
《配信楽しかった!》
「……えへへ」
美月は少しだけ笑った。
スクロールしていると、見覚えのない投稿が目に入った。
さっきまで配信していた自分の顔。
どうやら、早速誰かが短い動画を作ってくれたらしい。
「……もう作ってくれたんだ」
再生ボタンを押す。
画面の中の美月が、少し困った顔で首を傾げた。
『……お嬢様なのに、お水を出す側なんですか?』
自分の声が流れる。
コメント欄には、笑ったという反応がいくつか並んでいた。
「……なんか、自分で見ると恥ずかしい」
美月は動画にいいねを押した。
さらに別の投稿を開く。
また、自分が映っていた。
今度は、メイド服でくるりと回った場面だった。
「……ふふっ」
スマートフォンの画面上部に、バッテリー残量が少ないことを知らせる表示が出た。
「あ……充電しないと」
そう呟きながらも、もう一つだけ動画を開いてしまう。
さらにコメントをいくつか読んだ。
ベッドへ横になり、枕に頭を乗せる。
「……明日、莉子にも見せようかな」
そう考えたところまでは覚えていた。
スマートフォンは、充電ケーブルにつながれないまま枕元に置かれていた。
◇
六月十二日、金曜日。
「…………ん」
美月は薄く目を開けた。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
いつもより、ずっと明るい。
「……あれ?」
寝返りを打ち、枕元のスマートフォンを手に取った。
画面は真っ暗だった。
電源ボタンを押しても、何も起こらない。
「……え?」
もう一度押す。
やはり反応がない。
そこで、ベッド脇の充電ケーブルが外れたままになっていることに気づいた。
「……あっ」
美月は慌てて壁の時計を見上げた。
「…………えっ!?」
布団を跳ねのける。
「うそっ!!」
いつもなら、もう家を出る準備を終えている時間だった。
「やだ、やだ、やだ……!」
美月は制服を引っ張り出し、慌てて袖を通した。
シャツのボタンを一つ掛け違え、やり直す。
鞄を開き、教科書と筆箱を確かめる。
髪を整えようとして、鏡の前で手が止まった。
「……もう、いい!」
櫛を置き、鞄を肩にかける。
階段を駆け下りると、母の由紀子がダイニングにいた。
「美月?」
「お、おはよう!」
「今日は随分遅いのね」
「……寝坊しちゃって!」
由紀子が時計を見る。
「朝食は?」
「ごめんなさい! 今日は……!」
「待ちなさい。せめて何か持っていきなさい」
由紀子はテーブルにあった個包装のパンを手渡した。
「あ、ありがとう!」
「気をつけて行きなさいよ」
「うん! 行ってきます!」
美月は玄関へ走った。
靴を履きながら、もう一度腕時計を確認する。
「……間に合って!」
勢いよく扉を開けた。
◇
都立桜丘高校。
三年四組。
「……はぁっ、はぁっ……!」
美月が教室へ入ったのは、朝のホームルームが始まるほんの数分前だった。
「……美月!?」
席にいた莉子が目を丸くする。
「ちょっと、どうしたの!? めっちゃ息切れてるじゃん!」
「……ね、寝坊……!」
「えっ、珍し!」
美月は鞄を椅子に置き、ようやく息をついた。
「……スマホの、充電が切れちゃって……」
「あー、目覚まし鳴らなかったんだ?」
「……うん」
「危なかったねー」
そこへ茜が顔を出した。
「おはよー! 何、美月、走ってきたの?」
「……うん……」
「うわ、髪ちょっと跳ねてる!」
「……えっ!?」
美月は慌てて頭に手を当てた。
莉子が笑いながら鞄を探る。
「ほら、鏡貸すから」
「……ありがとう」
美月は小さな鏡を受け取り、前髪を指で直した。
「そういえばさ」
莉子が机に肘をつく。
「昨日のメイド服、めっちゃ似合ってたじゃん!」
「……えへへ。ありがとう」
「途中から見たんだけど、あのお水のくだり、笑った!」
「あ……あれ、切り抜きにしてくれた人がいて……」
「マジ? 見たい!」
「……あとで見せるね」
美月は鞄からモバイルバッテリーを取り出した。
スマートフォンをつなぎ、電源ボタンを長押しする。
「……お願い、ついて」
しばらくして、画面にロゴが現れた。
「あ、ついた!」
「よかったじゃん」
莉子が笑う。
美月もほっとして、画面を見つめた。
やがてロック画面が表示される。
「…………え?」
美月の指が止まった。
通知が、次々と画面に現れていた。
SNSの通知。
動画へのコメント。
自分のアカウントへの言及。
新しいフォロワー。
通知をまとめて知らせる数字が、見たことのない桁になっている。
「……何、これ……」
「ん? どうしたの?」
莉子が顔を寄せた。
美月はスマートフォンを少し傾けた。
「……通知が……」
「……え?」
「……すごい、いっぱい……」
莉子の目が大きくなる。
「何これ!? バグ!?」
「えー、何なに?」
茜も反対側から覗き込んだ。
「うわっ! やば! どうしたの、それ!」
「……分かんない……」
美月は震える指で通知を開いた。
昨夜の切り抜き動画が表示される。
再生数を見た瞬間、息を呑んだ。
「……え……?」
もう一つ、別の動画。
こちらも、信じられないほど再生されている。
引用や再投稿が重なり、見覚えのないアカウントからの反応まで流れてきていた。
「……これ、昨日の……」
「えっ、あのメイド服の配信!?」
莉子がスマートフォンを覗く。
「美月、これめっちゃ伸びてない!?」
「……うん……」
美月は慌てて自分のチャンネルを開いた。
画面が切り替わる。
登録者数が表示された。
「…………」
美月は動かなくなった。
「……美月?」
莉子が声をかける。
「……どうした?」
「……一万、九千……」
「ん?」
「……登録者……一万九千人……超えてる……」
「…………は?」
莉子が画面を覗き込んだ。
隣から茜も顔を寄せる。
「えっ!? ほんとじゃん!!」
「……昨日の夜は……九千九百四十人だったのに……」
「ええええっ!?」
莉子が思わず叫んだ。
近くの生徒が振り返る。
「ちょっ、莉子! 声!!」
茜が慌てて莉子の腕を引いた。
「あっ、ごめん!」
莉子は声を落とした。
けれど、興奮までは抑えられない。
「えっ、待って。ほぼ一万人増えたってこと!?」
「……たぶん……」
「一晩で!?」
「……うん……」
「やばすぎでしょ!!」
茜が身を乗り出した。
「美月、すごくない!? もう二万人じゃん!」
「……まだ、ちょっと……」
「誤差だって、誤差!」
「いや、誤差ではないでしょ!」
莉子が突っ込んだ。
美月は二人の声を聞きながら、もう一度登録者数を見た。
何度見ても、数字は変わらない。
昨日の夜まで、届かなかった一万人。
それが、今はずっと下にある。
「……ほんとに?」
思わず声が漏れた。
そのとき、予鈴が鳴った。
「あっ、やば!」
莉子が席へ戻ろうとする。
「美月、あとで詳しく見せてよ!」
「……う、うん!」
「茜もあとで見るから!」
「……うん!」
美月はスマートフォンを伏せた。
まだ心臓がどきどきしていた。
◇
最初の休み時間。
「美月! 切り抜き見せて!」
莉子が真っ先にやって来た。
「……うん」
美月はスマートフォンを取り出した。
昨夜の動画を開く。
画面に映ったのは、メイド服姿の自分だった。
『……お嬢様なのに、お水を出す側なんですか?』
短い字幕が表示され、絶妙な間で画面が切り替わる。
莉子が吹き出した。
「これ!! ここ好き!!」
「……もう、恥ずかしい……」
「いや、美月の返しが面白いんだって!」
茜も覗き込む。
「編集もうまいねー! 文字とか入ってるし!」
「……うん。すごいよね」
次の動画では、美月が視聴者に頼まれてくるりと回っていた。
別の動画では、コメントの冗談に気づかず、真面目に答えてから照れ笑いしていた。
どれも数十秒ほどの短い動画だった。
「ねえ、これ誰が作ったの?」
莉子が尋ねる。
「……昨日、配信で切り抜き師さんを募集したの」
「え、そんなのやってたんだ!」
「……うん。作っていいですかって聞いてくれた人がいて」
「へえー! すごいじゃん!」
美月は画面をスクロールした。
「……こんなに見てもらえるなんて、思わなかった」
「そりゃ見ちゃうでしょ。普通に面白いもん」
莉子は笑った。
茜は別の動画を指さす。
「でもさ、やっぱメイド服って強いね!」
「……え?」
「だって、いつもの服のときより全然伸びたじゃん!」
「……あ……」
美月は画面を見つめた。
黒と白のメイド服。
小さなフリル。
自分では少し恥ずかしかった衣装。
それを着た動画が、たくさんの人に見られている。
「……そう、なのかな」
「絶対そうだって! パンダのときも伸びたんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、衣装変えるの正解じゃん!」
莉子が笑いながら言った。
「でも、美月の喋りが面白いからでしょ。切り抜き見てもそこがいいし」
「もちろんそれもあるけどさー!」
茜はスマートフォンを指さした。
「見た目で気になって、喋り見て好きになるってことじゃない?」
「……ああ、そっか」
美月は小さく頷いた。
もう一度、動画を再生する。
たしかに、メイド服を着た自分が映っている。
そして、その動画をきっかけに何千人もの人が登録してくれた。
「……すごいなぁ」
美月は画面を見つめて、笑った。
「……ありがとう」
「ん?」
莉子が首を傾げる。
「……二人とも、いつも見てくれて」
「何、急に!」
「……だって、嬉しくて」
莉子は美月の肩を軽く叩いた。
「いいじゃん! 嬉しいときは素直に喜びなって!」
「……うん!」
◇
放課後。
美月は帰り道、信号待ちの間にスマートフォンを取り出した。
朝よりも登録者が増えている。
また、新しい切り抜き動画も投稿されていた。
美月はそのうちの一つを開いた。
画面いっぱいに、自分のメイド服姿が映る。
「……ふふっ」
少し前までは、視聴者に見てもらうだけで十分だった。
コメントを読んで、話をして、笑って。
それだけで楽しかった。
今も、楽しい。
けれど。
「……次は、何を着ようかな」
美月は画面を閉じた。
信号が青に変わる。
歩き始めた美月の足取りは、いつもより少し軽かった。
◇
同じ日の夜。
橘莉子は自室のベッドに寝転がり、スマートフォンを操作していた。
画面には、美月の切り抜き動画が映っている。
「……ぷっ」
思わず吹き出した。
「ほんと、美月ってこういうとこあるよね」
学校では静かで、遠慮がちなところもある。
でも配信では、コメントに一生懸命答えようとして、ときどき思いがけないことを言う。
莉子はそのたびに笑ってしまう。
動画を最後まで見て、コメント欄を開いた。
《この子初めて見たけどかわいい》
《反応がいちいち面白いw》
《切り抜き助かる》
《元配信も見に行ってきた》
《なでしこちゃん推せる》
「……でしょ?」
莉子は小さく笑った。
何だか、自分のことを褒められているみたいだった。
さらにスクロールする。
《メイド服めっちゃ似合ってる》
《声もかわいい》
《意外とある》
莉子の指が、少し止まった。
「…………ん?」
その下にも、コメントが続いていた。
《元気とか出た》
《今日はこれでいいや》
《次はもっと攻めた衣装で》
《こういう動画もっと欲しい》
莉子は眉をひそめた。
少しスクロールする。
普通の感想もある。
初めて見たという人も、面白かったという人も、たくさんいる。
けれど、その間に、さっきと同じような書き込みが何度も混じっていた。
別の切り抜き動画を開いてみる。
そちらのコメント欄にも、似たような言葉が並んでいた。
「…………は?」
莉子は画面を見つめた。
もう一度、いくつかのコメントを読む。
そして、小さく吐き捨てた。
「……きっしょ」
動画を閉じる。
スマートフォンを枕元へ置いた。
少しして、画面が震えた。
美月からのメッセージだった。
『莉子、今日はありがとう! まだ登録者増えててびっくりしてる……!』
莉子はそれを見て、口元を緩めた。
すぐに返事を打つ。
『すごいじゃん! マジでおめでと!』
送信して、もう一度スマートフォンを置く。
画面が暗くなる直前、さっき見たコメントの一つが頭をよぎった。
「……何見てんだか」
莉子はそう呟き、寝返りを打った。




