第四十九話「一万人の向こう側」
二〇二六年(令和八年)六月四日、木曜日。
都立桜丘高校、三年四組。
「美月ー! 今日だよね!」
朝の教室に、橘莉子の明るい声が響いた。
高瀬美月は鞄から教科書を取り出しかけたところで顔を上げた。
「……あ、おはよう。莉子」
「おはよ! ねえ、今日の配信!」
莉子が楽しそうに身を乗り出す。
「いよいよパンダでしょ?」
「……うん」
美月は少し照れくさそうに笑った。
「昨日、ちゃんと準備したから」
「えー! 楽しみ!」
そこへ、三浦茜がやってきた。
「おはよー! 何の話?」
「美月の配信!」
「あー! 今日パンダの日じゃん!」
茜がぱっと顔を輝かせた。
「私も見るつもり! あの服、絶対可愛いって!」
「……ありがとう」
美月は小さく頭を下げた。
「……ちょっと、緊張するけど」
「何でー? 絶対似合うじゃん!」
茜は笑いながら、美月の机に軽く手を置いた。
「あ、そういえばさ、美月」
「……ん?」
「美月って、なんでスパチャなしにしてるの?」
「……スパチャ?」
「そう! 投げ銭!」
茜はスマートフォンを取り出した。
「配信に結構人来てるじゃん? だったら、お金送ってくれる人もいるんじゃないかなって」
「ああ……」
美月は少し考えた。
「……まだ高校生だし、そういうのは良くないかなって思って」
「そっかあー」
茜は納得したように頷いた。
「でも、もったいないなーって思っちゃう!」
「茜らしいね」
莉子が笑う。
「えー、だってさ! せっかく見てくれる人がいるんだよ? 私だったら絶対考えちゃうもん!」
茜はあっけらかんと答えた。
それから、美月へ顔を向ける。
「まあ、美月がそれでいいならいっか!」
「……うん」
美月は微笑んだ。
「私は、見に来てもらえるだけで嬉しいから」
「そっか!」
茜はすぐに笑顔を戻した。
「じゃあ今日も見に行くね!」
「私も! 始まったらコメントする!」
「……ありがとう。二人とも」
美月の声は小さかったが、その表情は嬉しそうだった。
そこへ、教室の扉が開いた。
『おはよう!』
凛が入ってくる。
生徒たちが次々に挨拶を返す中、莉子が手を挙げた。
「リン先生! 今日、美月が配信するんですよ!」
『おお! そうだったな』
凛は美月へ顔を向けた。
『例のパンダだろう?』
「……はい」
美月は照れくさそうに頷いた。
『楽しみにしているよ』
「……ありがとうございます」
『ただし、明日も学校だからな。あまり遅くまで起きていないように』
「……はい」
「先生もですよ!」
莉子が笑った。
『……私も?』
「配信見て、夜更かししないでくださいね!」
『ははは! 気をつけよう!』
凛が笑うと、周囲の生徒たちもつられて笑った。
美月はそんなやり取りを見ながら、そっと机の上のスマートフォンへ目を落とした。
今夜の配信。
昨日から何度も準備を確認していた。
楽しみにしてくれる人がいる。
それが、何より嬉しかった。
◇
放課後。
美月は帰宅すると、自分の部屋で鞄を下ろした。
窓から差し込む夕方の光が、机の上を照らしている。
ベッドには、今日着る予定のルームウェアが広げてあった。
白と黒の柔らかな生地。
フードには、丸い耳が二つ。
パンダを模した、少しゆったりしたデザインだった。
「……よし」
美月はまず学校の課題を片づけ始めた。
いつもより少しだけ、時計が気になる。
配信開始までは、まだ十分時間があった。
それでも、何となく落ち着かなかった。
問題集の最後の一問を解き終えると、美月はノートを閉じた。
「……終わった」
小さく息を吐く。
それから、ベッドの上のルームウェアへ目を向けた。
手に取って、身体の前に当ててみる。
鏡の中には、白と黒のパンダが映っていた。
「…………」
美月は少し首を傾げた。
フードの丸い耳が揺れる。
「……ふふ」
思わず笑ってしまった。
もう一度、鏡の前で向きを変える。
横から見ても、後ろから見ても、変ではない。
それでも何となく気になって、耳の位置を整えた。
「……大丈夫、だよね」
スマートフォンを手に取り、鏡越しに写真を撮ってみる。
画面に映った姿を見て、美月は少し頬を赤くした。
学校では、こんな格好を人に見せることはない。
けれど、今夜はたくさんの人が見に来てくれるかもしれない。
そのことを考えると、胸が少し高鳴った。
コンコン。
部屋の扉がノックされた。
「美月、ご飯できたわよ」
母の由紀子の声だった。
「……うん、今行く」
「宿題は終わったの?」
「……終わったよ」
「そう。じゃあ、冷めないうちに降りてきなさい」
「……はーい」
足音が遠ざかっていく。
美月は扉を見つめ、ほっと息を吐いた。
母には、配信のことを話していない。
学校で友達に知られることには、少しずつ慣れてきた。
けれど、家ではまだ秘密だった。
美月はパンダのルームウェアを丁寧に畳み、ベッドの端へ置いた。
夕食が終わったら、着替えよう。
そう決めて、部屋を出た。
◇
午後八時五十五分。
美月は机の前に座っていた。
夕食を済ませ、入浴も終えている。
パンダのルームウェアに着替え、フードの耳を整えた。
照明の位置を確認する。
マイクの音量を確認する。
配信画面を開き、映り方を確かめる。
いつもの手順。
けれど、今日は少しだけ手が落ち着かなかった。
念のため、部屋の扉が閉まっていることを確認する。
母には、もう休むと伝えてあった。
大きな声を出さなければ、普段どおり配信できるはずだった。
「……よし」
美月は深く息を吸った。
画面には、配信開始を待つ人たちのコメントが流れている。
《待機!》
《今日パンダだよね?》
《楽しみー!》
《なでしこ待ってるよ》
美月は口元を緩めた。
「……ありがとう」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
時計が午後九時を示した。
美月は配信開始のボタンに指を伸ばした。
そして、画面を押した。
「……こんばんは」
少し緊張した声が出た。
「なでしこです」
画面に、自分の姿が映し出される。
白と黒のルームウェア。
丸い耳のついたフード。
美月は少し照れながら、手を振った。
「……今日は、いつもとちょっと違う格好です」
コメントが一斉に流れ始めた。
《パンダきたーー!》
《かわいい!!》
《耳ついてる!》
《似合ってる!》
《今日のなでしこ、雰囲気違う!》
《パンダなでしこかわいい!》
美月は画面を見て、思わず笑った。
「……ありがとうございます」
少し頬を赤くしながら、フードの耳に触れる。
「これ……昨日から何回も鏡で確認してたんです」
《気合い入ってる!》
《めっちゃ似合ってるよ》
《耳動かして!》
「……耳?」
美月は少し首を傾げた。
フードの耳が揺れる。
《かわいいw》
《もう一回!》
《パンダちゃん!》
「……ええ?」
美月は困ったように笑いながら、もう一度首を傾げた。
コメントがさらに流れる。
「……そんなに面白いですか?」
《かわいいんだよ!》
《最高!》
《今日来てよかった》
美月は照れくさそうに笑った。
いつもなら少し言葉を選んでしまうような場面でも、今日は自然に笑顔がこぼれた。
「……じゃあ、今日はこの格好でお話ししますね」
配信が始まった。
◇
最初は、いつもどおりの雑談だった。
学校であったこと。
最近食べたお菓子。
好きな動物の話。
美月はコメントを読みながら、一つずつ返事をしていった。
「……好きな動物ですか?」
美月は少し考えた。
「パンダも好きですけど……猫も好きです」
《猫派だったの!?》
《パンダじゃないんだw》
《猫耳も見たい!》
「……猫耳?」
美月は目を丸くした。
「……それは、ちょっと恥ずかしいです」
《今日パンダ着てるのにw》
《次は猫!》
《絶対似合う》
美月は困ったように笑った。
「……考えておきます」
コメント欄が賑やかになる。
少しすると、見覚えのある名前が流れてきた。
《パンダ大成功じゃん!》
莉子だった。
「……あ」
美月は思わず笑った。
「……見に来てくれたんだ」
続けて、別のコメントが流れる。
《パンダかわいいー!!》
茜からだった。
「……ふふ」
美月は少し照れながら手を振った。
「……ありがとうございます」
学校で話していた友達が、本当に見に来てくれている。
それが何だか不思議で、嬉しかった。
さらにコメントが続く。
《今日めっちゃ人多くない?》
《いつもより賑やか!》
《パンダ効果すごいw》
美月は画面の数字へ目を向けた。
同時視聴者数が、普段より多い。
「……あ、本当ですね」
驚きながらも、美月は笑った。
「……今日は、初めて来てくださった方も多いみたいで」
《初見です!》
《おすすめから来ました》
《可愛かったので登録しました!》
「……ありがとうございます!」
美月は何度も頭を下げた。
いつも配信へ来てくれる人たちがいる。
今日、初めて見つけてくれた人たちもいる。
コメントは途切れることなく流れ続けた。
美月は少しずつ、いつもより大きな声で笑うようになっていた。
「……えっ、それは違いますよ!」
《絶対そうだってw》
「……違いますってば!」
自分でも驚くほど、言葉が自然に出てくる。
配信を始めたばかりの頃は、画面の向こうに誰かがいると思うだけで緊張していた。
今も緊張しないわけではない。
けれど、コメントを読むたびに、少しだけ安心できるようになっていた。
自分の話を聞いてくれる人がいる。
笑ってくれる人がいる。
また来るね、と言ってくれる人がいる。
美月は、その一つ一つが嬉しかった。
◇
配信開始から、しばらく経った頃だった。
《なでしこ、登録者数見て!》
コメントが流れた。
「……登録者数?」
《もうすぐ!》
《あと少しで1万人!》
《今日いけるんじゃない!?》
「……え?」
美月は驚いて、画面の端に表示されている数字を確認した。
九千九百七十六人。
「……あ」
いつの間にか、そこまで増えていた。
少し前までは、まだ遠いと思っていた数字。
一万人。
自分の配信を登録してくれた人が、それだけいるということ。
「……すごい」
美月は小さく呟いた。
コメント欄が賑やかになる。
《あと24人!》
《もうちょっと!》
《頑張れなでしこ!》
《初見だけど登録したよ!》
「……ありがとうございます」
美月は何度も頭を下げた。
数字が少しずつ増えていく。
九千九百八十七人。
九千九百九十三人。
九千九百九十八人。
「……あ、あと二人」
美月は思わず声に出していた。
画面を見つめる。
九千九百九十九人。
《あと1人!》
《いける!》
《なでしこおめでとう準備!》
そして。
一〇〇〇〇。
「…………」
美月は目を丸くした。
もう一度、数字を確認する。
一〇〇〇〇。
「……一万人?」
信じられなかった。
何度瞬きをしても、数字は変わらない。
《1万人きたーー!!》
《おめでとう!!!》
《すごい!!》
《なでしこちゃんおめでとう!》
《ずっと応援してるよ!》
コメントが次々に流れる。
美月はしばらく、言葉を失っていた。
最初は、ほんの少しの人に見てもらえればいいと思っていた。
自分の好きなことを話して。
誰かが聞いてくれて。
少しでも楽しい時間を過ごせたら、それで十分だった。
けれど、今。
画面には、一万人という数字が表示されている。
「……ありがとうございます」
美月はようやく声を出した。
少しだけ、震えていた。
「……あの、本当に……ありがとうございます」
言葉を探す。
伝えたいことはたくさんあるはずなのに、うまくまとまらなかった。
「……私、最初は……こんなにたくさんの人が見に来てくれるなんて、思ってなくて」
美月は照れくさそうに笑った。
「……何を話したらいいか分からなくなることもあったし……緊張して、あまりしゃべれない日もあって」
《知ってるw》
《最初の頃懐かしい》
《今もたまに固まるよねw》
「……そうなんです」
美月は思わず笑った。
「……今も、ちょっと緊張します」
《それがいいんだよ》
《なでしこらしい》
《これからも応援する!》
美月は画面を見つめた。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……これからも、よろしくお願いします!」
顔を上げると、自然に笑顔がこぼれた。
何度も。
何度も。
嬉しくて、つい笑ってしまう。
《笑顔かわいい!》
《1万人おめでとう!》
《次は2万人!》
《ずっと見に来るよ!》
「……ふふ」
美月は少し照れながら、もう一度頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございます」
それから、フードの耳をそっと触った。
「……今日、パンダにしてよかったです」
コメント欄が、また賑やかになった。
◇
配信が終わったのは、午後十時を少し過ぎた頃だった。
美月は終了ボタンを押し、画面が切り替わったことを確認した。
「……終わった」
部屋が静かになる。
さっきまで、あんなにたくさんのコメントが流れていたのに。
今は、時計の針の音だけが聞こえる。
美月は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
そして、もう一度チャンネルの画面を開く。
一万人。
「……ほんとに、一万人だ」
思わず笑ってしまった。
スマートフォンには、莉子からメッセージが届いていた。
《美月!! 1万人おめでとう!!》
続いて、茜からも届いている。
《すごすぎ! パンダ大成功じゃん!!》
美月は一つずつ返事を打った。
《ありがとう! 見に来てくれて嬉しかった》
送信してから、もう一度チャンネルを確認する。
数字は、ほんの少しだけ増えていた。
「……ふふ」
美月はベッドに腰を下ろした。
まだパンダのフードをかぶったままだった。
鏡に映った自分の姿を見て、思わず笑う。
「……変なの」
けれど、その言葉とは裏腹に、表情は嬉しそうだった。
学校では、あまり大きな声で話せない。
人前に出ると、つい緊張してしまう。
それでも。
画面の向こうには、自分の話を楽しみにしてくれる人たちがいる。
学校の友達も、応援してくれている。
そして、リン先生も。
美月はフードの耳を指でつまんだ。
「……パンダ、喜んでもらえたんだ」
少し考える。
「……次は、何にしようかな」
猫。
ウサギ。
それとも、また別の格好。
今日のコメントを思い出すと、いろいろな案が浮かんできた。
けれど、今夜はもう遅い。
美月はスマートフォンを置き、ルームウェアを脱いで丁寧に畳んだ。
母には、今日のことを話していない。
家の中では、いつもと変わらない木曜日の夜だ。
それでも、美月にとっては特別な一日だった。
ベッドに入り、明かりを消す。
暗くなった部屋で、今日のコメントを思い出した。
《1万人おめでとう!》
《これからも応援する!》
《ずっと見に来るよ!》
美月は布団の中で、小さく笑った。
「……ありがとう」
誰にも聞こえない声で呟く。
次の配信は、土曜日。
その日が、今から楽しみだった。
美月は静かに目を閉じた。
一万人の向こう側には、まだ会ったことのない誰かがいる。
その人たちと、また楽しく話せたらいい。
今夜の美月は、ただそれだけを願っていた。




