第四十八話「二十五年後の日本」
二〇〇〇年(平成十二年)六月二日、金曜日。
東京都台東区、上野。
「うおおお! でっけえ!」
『……森田さん! まだ入ってないから!』
国立科学博物館の前で、森田翔平が大きな声を上げた。
「いや、だってさ! 何かすげえじゃん!」
『何が!?』
「……雰囲気?」
『ざっくりしすぎでしょ!』
リンのツッコミに、周囲の生徒たちが笑った。
朝からよく晴れていた。
六月に入ったばかりの上野公園には、木々の鮮やかな緑が広がっている。歩いているだけでも少し汗ばむ陽気だったが、生徒たちの足取りは軽い。
「凛ちゃん! 写真撮っていい?」
片岡美奈が鞄からインスタントカメラを取り出した。
『いいけど、集合時間には気をつけてよ?』
「分かってるって!」
「美奈ちゃん、先に班のみんなで撮ろうよ」
隣にいた小川真理が声をかける。
「いいね! じゃあ真理、こっち!」
「えっ、私も写るの?」
「当たり前じゃん!」
美奈は真理の腕を引き、近くにいた生徒にも声をかけた。
「ねえ! 写真お願いしていい?」
リンはその様子を眺めながら、手元の名簿を確認した。
(……三年生にもなって、遠足みたいなテンションだなぁ)
もっとも、自分だって少し浮かれている。
国立科学博物館。
二〇二六年に暮らしていた頃も名前は知っていたが、じっくり見学した記憶はなかった。
(……あたしも普通に楽しみなんだけど)
そんなことを考えながら、リンはもう一度生徒たちへ声をかけた。
『はーい! みんな、いったん集合!』
賑やかだった生徒たちが、少しずつ集まってくる。
『これから館内に入ります。班ごとの行動になるけど、決められた範囲から勝手に出ないこと! あと、展示物には触らない! 走らない! 大声を出さない!』
「凛ちゃん、俺だけ見て言ってない?」
『……気のせいじゃない?』
「絶対俺じゃん!」
森田の抗議に笑いが起こった。
『それから、集合場所と時間はプリントのとおり! 分からなくなったら先生たちに確認してください』
リンは名簿を閉じた。
『じゃあ、楽しんできてね!』
「はーい!」
生徒たちはそれぞれの班に分かれ、期待に満ちた表情で館内へ向かっていった。
◇
「……うわ」
最初に声を漏らしたのは、佐伯大輔だった。
目の前には、大きな恐竜の骨格標本がそびえている。
長い尾。
巨大な胴体。
人間とはまるで違う骨格。
森田は首を反らして見上げた。
「……いや、でかすぎだろ!」
「……本当に、こんなのが歩いてたんだな」
佐伯も感心したように言った。
「なあ佐伯。お前、こいつと戦ったら勝てる?」
「……勝てるわけないだろ」
「空手やってんじゃん!」
「空手やってても無理だろ」
「蹴りとかでさ!」
「……どこ蹴るんだよ」
「……すね?」
「すねに届く前に踏まれるぞ」
森田が恐竜の脚を見上げた。
「……確かに」
二人は顔を見合わせ、笑った。
その近くでは、美奈が別の骨格標本を指さしていた。
「真理! 見て見て! こっち、頭ちっちゃくない?」
「……本当だ。身体はあんなに大きいのに」
「絶対バランス悪いって!」
「……でも、歩けてたんだよね」
「不思議だよねー」
真理は展示の解説を読みながら、骨格の形をもう一度見上げた。
「……こんな生き物がいたなんて、想像できないね」
「ね!」
美奈はカメラを構えた。
「せっかくだし撮っとこ!」
「……フラッシュは禁止って書いてあるよ」
「あっ、ほんとだ!」
美奈は慌ててカメラを下ろした。
「危なっ! 真理、ありがと!」
その少し離れた場所で、リンは別の班の生徒に集合時刻を確認されていた。
『うん、その時間で合ってるよ。次は向こうの展示を見てから移動してね』
「はい、ありがとうございます!」
生徒が走り出しかけたところで、リンが声を上げる。
『こら! 走らない!』
「すみませーん!」
生徒は慌てて歩き直した。
(……もう)
リンは小さく息を吐き、顔を上げた。
視線の先には、大きな恐竜の骨格があった。
(……にしても、でっか)
しばらく見上げてから、ふと思う。
(……これ、もし生きてたら絶対近寄りたくないな)
そんな当たり前の感想に、自分で少し笑ってしまった。
◇
動物の展示へ移ると、美奈の興奮はさらに増した。
「うわー! 見て! これ可愛い!」
美奈が指さしたのは、小さな哺乳類の標本だった。
「何これ! めっちゃちっちゃい!」
「……こっちはすごく大きいね」
真理は大型の動物の標本を見上げていた。
「同じ哺乳類なのに、こんなに違うんだ……」
「ねえ真理、こっちの鳥も見て!」
美奈が別の展示へ歩いていく。
真理はその後を追いながら、色鮮やかな羽を持つ鳥の前で足を止めた。
「……綺麗」
「でしょ? この色すごくない?」
「……うん。羽の重なり方も、すごく綺麗」
真理は少し顔を近づけた。
「一枚一枚、違う方向に重なってるんだね」
「……あ、ほんとだ!」
美奈も隣に並び、同じ場所を覗き込んだ。
「真理ってさ、よくそういうとこ気づくよね」
「……え?」
「私、最初は色しか見てなかったもん」
真理は少し照れたように笑った。
「……何となく、気になって」
「へえー」
美奈はもう一度標本を眺めた。
「……確かに、よく見ると面白いね」
二人はしばらく並んで、羽の模様を観察していた。
◇
海の生き物を紹介する展示では、西野沙織が大きなクジラの模型を見上げていた。
「……うわっ! 悠斗、見て!」
「ん?」
「これ! クジラってこんなに大きいの!?」
高木悠斗も隣に並び、模型を見上げた。
「……すげえな」
「ね! こんなの海で見たらびっくりしちゃう!」
「……でも、一回くらい見てみたいな」
「えっ、本物を?」
「うん。船とか乗ってさ」
沙織は少し考えてから、にやりと笑った。
「……じゃあ、一緒に行く?」
「……え?」
「クジラ見に行くの!」
「……いや、簡単に行ける距離じゃないだろ」
「いつかでいいじゃん!」
悠斗は少し驚いた顔をした。
それから、小さく笑う。
「……そうだな。いつか行けたらいいな」
「約束ね!」
「……分かったよ」
沙織は満足そうに頷いた。
そのまま二人は、隣の深海生物の展示へ移動する。
「……って、何これ!?」
沙織が足を止めた。
「顔、怖っ!」
展示されていたのは、深海に暮らす魚の写真だった。
鋭い歯。
大きな口。
暗い海の底で生きる、不思議な姿。
「……すごい顔だな」
悠斗も思わず覗き込む。
「ねえ、悠斗!」
「ん?」
「これ、ちょっと森田に似てない?」
「……は?」
悠斗はもう一度写真を見た。
そして、思わず吹き出した。
「……いや、似てないだろ!」
「えー! 目元とか!」
「森田に失礼だって!」
「じゃあ、本人に聞いてみようよ!」
「やめとけって!」
二人は笑いながら、次の展示へ歩いていった。
少し離れた場所では、クジラの大きさを示す展示を見上げていた生徒たちが、口々に驚きの声を上げている。
「えっ、これ全部クジラの大きさ!?」
「こんなの海で見たら怖くない?」
「船より大きいんじゃね?」
「種類によるだろ!」
リンはそんな会話を聞きながら、班の人数を確認していた。
朝からあちこち歩き回っているが、生徒たちはまだまだ元気だった。
(……高校生の体力、恐るべし)
リンは足元を見下ろした。
(……あたし、もうちょっと座りたいんだけど)
とはいえ、引率中にそんなことも言っていられない。
『はーい! 次の見学場所へ移動する班は、時間確認してねー!』
リンの声に、生徒たちが返事をした。
◇
宇宙の展示へ移ると、生徒たちは太陽系の惑星を紹介する模型の前に集まっていた。
「……宇宙って、どこまで続いてるんだろうな」
一人の男子生徒が呟いた。
「終わりとかあるのかな?」
「さあ? 宇宙の外ってどうなってんだろ」
「そもそも、外ってあるのか?」
「分かんねえ!」
生徒たちは笑いながら、惑星の模型を見上げていた。
「ねえ、宇宙旅行っていつか普通にできるようになるのかな?」
別の生徒が言った。
「宇宙旅行!?」
「そう! 普通の旅行みたいにさ!」
「月とか行けたりして!」
「……でも、めっちゃ高そうじゃね?」
「確かに!」
生徒たちは顔を見合わせて笑った。
「じゃあ、宝くじ当てるしかないな!」
「当たると思ってんの?」
「夢くらい見させろよ!」
そんな声が、展示室のあちこちで響いていた。
そこへ、美奈と真理がやってきた。
「ねえねえ! 次、未来の展示行かない?」
美奈がパンフレットを広げる。
「ほら! 『25年後の日本』!」
「あっ、それ!」
森田が顔を上げた。
「俺、見たかったんだよ!」
「じゃあ行こ!」
真理も頷いた。
「……そろそろ、そっちの見学時間だね」
佐伯が腕時計を確認する。
「集合まで、まだ余裕あるな」
「よし! じゃあ行こうぜ!」
森田が先頭に立った。
「……走るなよ」
「分かってるって!」
佐伯は笑いながら、その後を追った。
◇
企画展示「25年後の日本」。
入り口近くには、さまざまな職場で使われる未来のコンピューターを紹介したパネルが並んでいた。
最初の展示は、病院だった。
白衣を着た医師が机の上のコンピューターを操作し、患者の診療記録を確認している。
紙のカルテではなく、コンピューターに保存された情報を使って診察を進めるというものだった。
「……へえ、カルテもコンピューターになるんだ」
真理が解説を読んだ。
「でもさ、先生が字を書くより早いのかな?」
美奈が首を傾げる。
「……どうなんだろう」
「だって、お医者さんって字めっちゃ速く書くじゃん!」
「……美奈ちゃん、それ関係あるのかな」
「あるでしょ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
隣には、鉄道の運行管理を紹介した展示があった。
路線図の上に列車の位置が表示され、コンピューターが運行状況を把握する。
「これ、電車がどこ走ってるか全部分かるんだって!」
森田が解説を指さした。
「へえ……すごいな」
佐伯が覗き込む。
「遅れてる電車とかも分かるのか?」
「そうみたい!」
「……じゃあ、遅刻しそうなときに便利だな」
「それ!」
森田が勢いよく頷いた。
「俺、毎朝これ見たい!」
「……まず早く起きろよ」
「正論やめろって!」
佐伯が笑った。
さらに進むと、工場の生産管理や店舗の在庫管理についての展示が続いていた。
工場では、必要な部品の数や製品の完成状況をコンピューターで確認する。
店舗では、売れた商品の数を記録し、在庫が少なくなったものを把握する。
美奈がその前で足を止めた。
「……ねえ真理、これ服屋さんでも使えるのかな?」
「……在庫管理?」
「そう! この服が何枚売れたとか、あと何枚あるとか!」
「……うん。使えるんじゃないかな」
「便利だねー! いちいち数えなくてもいいんだ!」
真理はパネルに描かれた画面を眺めた。
「……でも、最初に商品の情報を入れないといけないんだよね」
「あ、そっか!」
「……色とか、サイズとかも」
「うわっ、服って種類多いもんね!」
美奈は少し考えた。
「……でも、ちゃんと管理できたら楽そう!」
「……そうだね」
真理も頷いた。
二人はしばらく展示を見比べていた。
その近くで、別の班を確認していたリンが足を止めた。
(……あー、こういうのか)
病院。
鉄道。
工場。
お店。
どれも、未来の仕事の様子を紹介している。
(……二〇二六年じゃ、もう普通に使ってるところも多いよね)
もちろん、映像に描かれた予想と実際の姿がすべて一致しているわけではない。
けれど、コンピューターが社会のさまざまな場所で使われるようになるという点では、大きく外れていなかった。
リンは展示を眺めながら、少し感心した。
(……二十五年前から、こんなこと考えてたんだ)
そのとき、館内の奥から美奈の声が聞こえた。
「ねえ! こっち、映像始まるって!」
リンは顔を上げた。
企画展示の最後には、大きなスクリーンが設けられているらしい。
生徒たちが少しずつ、そちらへ向かって歩き始めていた。
◇
見学時間も、残りわずかとなっていた。
企画展示の終盤。
美奈、真理、森田、佐伯たちは、大きなスクリーンの前に集まっていた。
周囲には同じ三年二組の生徒たちもいる。
やがて照明が少し落ち、映像が始まった。
スクリーンには、二〇二五年の日本を予想した街並みが映し出される。
高層ビル。
行き交う人々。
その手には、小型の情報端末が握られていた。
画面に指先で触れるだけで、さまざまな情報が表示される。
コンピューターに声をかけると、必要な情報が呼び出される。
キーボードや複雑な操作を覚えなくても、誰もが簡単に機械を使える社会。
「……すっげえ」
森田が思わず呟いた。
「今の、声だけで動いたよね!?」
美奈が目を丸くする。
「すごくない!?」
「……本当に、そんなことできるのかな」
真理も驚いた様子でスクリーンを見上げていた。
映像は次の場面へ移る。
全国に張り巡らされた高速通信網。
家庭や学校、職場を結ぶインターネット。
離れた場所にいる人々が、瞬時に情報を送り、受け取り、共有する。
遠くの街で起きた出来事が、すぐに全国へ伝わる。
家庭にいながら必要な情報を調べ、商品を注文し、離れて暮らす家族と顔を見ながら会話する。
そして、そうした情報のやり取りを支える、小型で高性能なコンピューターや通信機器。
「……何か、映画みたい」
美奈が呟いた。
「これ、家から出なくても買い物できちゃうってこと?」
「……お店の人と直接会わなくても、買えるんだね」
真理も小さく頷いた。
「便利そうだな」
佐伯が感心したように言う。
「だよな!」
森田は目を輝かせていた。
スクリーンの中では、全国の人々がネットワークを通じてつながっている。
それぞれが離れた場所にいながら、同じ情報を共有し、仕事や勉強に役立てている。
今の自分たちには、まだ遠い未来の話だった。
「……でもさ」
森田がぽつりと言った。
美奈が顔を向ける。
「ん?」
森田はスクリーンを見上げたまま続けた。
「いくらなんでも、たった二十五年でこんな日本になるのかな?」
誰も、すぐには答えなかった。
指先だけで動く機械。
声で操作するコンピューター。
全国の誰もが当たり前のようにつながる社会。
そこに描かれた日本は、どこか夢物語のようにも見えた。
そのとき。
『……なるよ』
後ろから、声がした。
森田が振り返る。
美奈も、真理も、佐伯も。
そこには、いつの間にか戻ってきていたリンが立っていた。
リンはスクリーンを見上げていた。
そこに描かれた未来は、彼女の知っている世界とまったく同じではない。
けれど、指先で画面を動かすことも、声で機械を操作することも、遠く離れた誰かと簡単につながることも。
リンにとっては、当たり前だった日常だ。
ほんの数か月前まで暮らしていた世界。
そこへ至るまでに、どれほど多くの人が新しい技術を考え、試し、失敗を重ねてきたのか。
リンは、そのすべてを知っているわけではない。
それでも。
今、目の前で未来を見上げている生徒たちに、一つだけ言えることがあった。
リンは少しだけ微笑んだ。
『なるよ、きっとね』
「…………」
森田はリンを見つめた。
「……凛ちゃん?」
『ん?』
「何でそんな自信満々なの?」
リンは少し首を傾げた。
『……何となく!』
「何となくかよ!」
森田が吹き出した。
「もー! 凛ちゃん、適当なんだから!」
美奈も笑う。
『えー? いいじゃん! 未来なんて、どうなるか分かんないんだし!』
「今、なるって言ったじゃん!」
『……細かいことは気にしない!』
「絶対ごまかしてる!」
周囲に笑い声が広がった。
けれど、森田はもう一度スクリーンへ目を向けた。
そこには、二〇二五年の日本が映し出されている。
まだ誰も見たことのない未来。
自分が大人になった頃の日本。
「……なあ」
森田がぽつりと言った。
「二十五年後、答え合わせしようぜ!」
「……答え合わせ?」
佐伯が尋ねる。
「そう! 今日見たやつが、本当にできてるかどうか!」
「あー! いいね、それ!」
美奈が笑う。
「その頃、私たち何してるんだろうね!」
「……四十過ぎてるんだよね」
真理が呟く。
「うわっ! そうじゃん!」
美奈が大げさに驚いた。
「全然想像つかない!」
佐伯も笑った。
「……まあ、何をしてるかは分からないな」
「だから面白いんじゃん!」
森田が言った。
「二十五年後、みんなで集まってさ! 今日のこと思い出そうぜ!」
「いいじゃん!」
「……楽しそうだね」
真理も微笑んだ。
リンはそんな生徒たちを見つめていた。
二十五年後。
二〇二五年。
リンが生まれ育った時代からすれば、つい最近のことだ。
けれど。
そこにいる森田が。
美奈が。
真理が。
佐伯が。
どんな人生を歩んでいるのかは、リンにも分からなかった。
(……そっか)
(……あたしが知ってる未来にも、この子たちの知らない部分があるんだよね)
リンは小さく笑った。
『……いいね、答え合わせ!』
「だろ!?」
森田が嬉しそうに笑う。
『じゃあ、それまでみんな元気でいないとね!』
「二十五年なんて余裕だって!」
「森田、絶対忘れてそう!」
美奈が笑う。
「忘れねえよ!」
「ほんとかなー?」
「絶対覚えてるって!」
そんな会話が続く中、館内放送が流れた。
見学終了時刻が近づいている。
『……あっ! みんな、そろそろ集合だよ!』
「えー! もう!?」
『もうじゃない! 時間は守る!』
「はーい!」
生徒たちは名残惜しそうにスクリーンを振り返りながら、出口へ向かって歩き始めた。
リンはその後ろ姿を見つめていた。
今、目の前にいる生徒たちは、まだ自分たちの未来を知らない。
けれど、その未来へ向かって歩いている。
誰もが、それぞれの時間を生きながら。
◇
帰りのバスは、行きとはずいぶん雰囲気が違っていた。
朝は賑やかだった生徒たちも、さすがに歩き疲れたらしい。
窓際の席で眠っている者。
隣の友人と小声で話している者。
撮った写真の現像を楽しみにしている者。
車内には、穏やかな空気が流れていた。
リンは座席の間をゆっくり歩きながら、生徒たちの様子を確認していた。
(……あー、疲れた)
(……あたしも寝たい)
そんなことを考えていると、窓際の席でパンフレットを開いている森田が目に入った。
『……森田さん』
「……あ、凛ちゃん」
『まだ読んでるの?』
「……うん」
森田は少し照れくさそうに笑った。
「何かさ、今日の展示、結構面白かったなって」
『……そっか』
「特に、最後のやつ」
森田はパンフレットのページを指さした。
「コンピューターとか、ネットワークとか……ああいうのってさ」
『うん』
「誰が作ってんだろうな」
リンは少し考えた。
『……いろんな人が関わってると思うよ。機械を作る人もいるし、動かす仕組みを考える人もいるだろうし』
「……へえ」
森田はパンフレットへ目を落とした。
「……こういうのって、大学で勉強できんの?」
『できるよ。情報工学とか、情報科学とか、そういう分野かな』
「……情報工学」
森田はその言葉を小さく繰り返した。
『大学によって学べることも違うだろうから、詳しくは調べないと分からないけどね』
「……そっか」
森田はしばらく黙っていた。
窓の外には、都内の街並みが流れている。
やがて、ぽつりと言った。
「……俺さ、大学には行きたいって思ってるじゃん」
『……うん』
「でも、何勉強したいのか、ずっとよく分かんなくてさ」
リンは黙って続きを待った。
「……でも、今日見たやつは面白かった」
『……うん』
「こういうのなら、ちょっと勉強してみたいかも」
森田はパンフレットを閉じた。
リンは微笑んだ。
『……じゃあ、学校に戻ったら大学の資料、一緒に探してみよっか』
「……いいの?」
『もちろん!』
「……マジで?」
『マジで!』
森田は笑った。
「……ありがと、凛ちゃん!」
『どういたしまして!』
リンは軽く手を振り、自分の席へ戻った。
森田はもう一度、パンフレットを開いた。
そこに載っている未来の技術。
今日までは、そんな世界があることすら考えたことがなかった。
けれど今は、もう少し知ってみたいと思う。
自分が大学で何を学ぶのか。
どんな仕事に就くのか。
まだ、何一つ決まっていない。
それでも。
少なくとも、初めて自分から調べてみたいと思えるものが見つかった。
森田は窓の外へ目を向けた。
道路を走る車。
立ち並ぶビル。
行き交う人々。
今はまだ、いつもと変わらない景色だ。
けれど、その景色もいつか変わっていくのだろう。
森田は小さく笑った。
「……楽しみだな」
その声は、隣の席にも届かないほど小さかった。
バスは夕方の街を走っていく。
それぞれの未来へ向かって。
今日という一日が、静かに過ぎていった。




