第四十七話「答えをぶつけろ」
二〇〇〇年(平成十二年)五月二十六日、金曜日。
都立青葉高校、三年二組。
「ねえ悠斗、これ見て!」
「……ん?」
朝の教室で、西野沙織が隣の席に身を乗り出していた。
開いているのは、雑誌の一ページ。
「このお店、今度行ってみたくない?」
「……いいけど。何の店?」
「クレープ屋さん! ほら、駅の近くに新しくできたんだって」
「へえ。日曜日?」
「うん! 悠斗、空いてる?」
「……空いてるよ」
「やった!」
沙織が嬉しそうに笑った。
その様子を、近くの席から森田翔平がじっと眺めていた。
「……なあ、高木」
「何だよ」
「お前、最近ちょっと幸せそうすぎねえ?」
「……は?」
「朝から彼女とデートの相談とかさー。いいご身分だよな!」
「別にいいだろ!」
「いいけどさ! 俺にもクレープ奢ってくれよ!」
「何でだよ!」
沙織が吹き出した。
「森田も彼女作ればいいじゃん!」
「それが簡単にできりゃ苦労しねえよ!」
「じゃあ、誰か紹介してあげようか?」
「……マジで?」
「えー、どうしよっかなー」
「おい西野! そこで焦らすなって!」
教室に笑い声が広がる。
少し離れた席で教科書を読んでいた佐伯大輔も、顔を上げて笑った。
「……森田。朝から忙しいな」
「おっ、佐伯! お前もそう思うだろ?」
「何を?」
「高木だけずるいって話!」
「……いや、別にずるくはないだろ」
「お前までそっちかよ!」
佐伯は肩をすくめた。
「それに、紹介してもらえるかもしれないんだろ?」
「……確かに!」
森田が勢いよく沙織へ向き直る。
「西野! 今の話、忘れんなよ!」
「はいはい!」
「絶対だからな!」
「まず森田の好きなタイプ教えてよ!」
「……えっ?」
森田の勢いが止まった。
「……好きなタイプ?」
「そう。どういう子がいいの?」
「…………」
しばらく考え込んだ末、森田が真顔で答える。
「……俺のことを好きになってくれる子」
「それ、条件ゆるすぎ!」
沙織が笑い、悠斗もつられて吹き出した。
佐伯は呆れたように笑いながら、教科書を閉じる。
そのとき、教室の扉が開いた。
『おっはよー!』
「あっ、凛ちゃん!」
美奈が真っ先に声を上げた。
『……はいはい、おはよう!』
リンは出席簿を抱えて教壇へ向かう。
相変わらず賑やかな教室だった。
(……朝から元気だなぁ)
森田はまだ沙織に紹介の約束を取りつけようとしている。
悠斗はそんな二人を見て苦笑し、佐伯は隣の生徒と何やら話していた。
リンは教壇に立ち、軽く手を叩いた。
『はーい! そろそろ席に戻ってねー!』
生徒たちが次々に席へ戻っていく。
『じゃあ、朝の連絡から。まず来週の金曜日、六月二日の社会科見学について!』
「あっ、科学博物館!」
森田が声を上げた。
『そう! 国立科学博物館ね。集合時間と持ち物については、今日配るプリントを確認してください』
リンは用意していた紙を列の先頭へ渡していった。
『当日は班ごとに館内を見学する時間もあるから、事前に見たい展示を考えておいてね』
「凛ちゃん! あの未来のやつも見られるの?」
美奈が手を挙げる。
『未来のやつ?』
「ほら! 『25年後の日本』って書いてあったじゃん!」
『ああ、企画展示ね! もちろん見学する予定だよ』
「二十五年後って、二〇二五年だろ?」
森田が指を折りながら言った。
「すげえな! どんな時代になってんだろ!」
「車とか空飛んでんじゃね?」
「いやいや、それはないだろ!」
「分かんないじゃん!」
あちこちから声が上がる。
リンは思わず口元を緩めた。
(……二〇二五年か)
(あたしからしたら去年で草)
慌てて咳払いをする。
『……まあ、二十五年後の予想なんだから、みんなも自由に想像してみると面白いんじゃない?』
「先生は何ができてると思う?」
沙織が尋ねた。
『えっ、あたし?』
「そう! 二十五年後!」
『……うーん』
リンは腕を組んだ。
(スマホ、キャッシュレス、動画配信、AI……)
(……いや、言ったらいろいろまずいでしょ)
『……便利なものは、たくさん増えてるんじゃないかな!』
「ざっくりしてんなー!」
森田が笑う。
『いいの! 詳しくは見学してから!』
リンは笑いながらプリントを指さした。
『それより、集合時間! 遅刻したら置いてくよー!』
「えー!」
再び教室に笑い声が起こった。
リンが残りの連絡を確認している間も、生徒たちは小声で未来の話を続けていた。
「なあ佐伯」
森田が隣の席へ身を寄せる。
「お前、二十五年後って何してると思う?」
「……二十五年後?」
「そう! 俺たち、もう四十過ぎだぜ?」
「……そうだな」
「全然想像つかねえよな!」
佐伯は少し考えた。
二十五年後。
自分がどこで、何をしているのか。
すぐには思い浮かばなかった。
けれど、そのずっと手前に、はっきりと思い描ける場所が一つある。
「……俺は、まず来年だな」
「来年?」
「……東央大学に行けてたらいいなって」
「あー、そっか!」
森田が頷いた。
「お前、もう行きたい大学決まってんだもんな!」
「……まあな」
「いいよなー。俺なんか大学行こうとは思ってるけど、何勉強したいかもまだ決まってねえし」
「これから見つければいいんじゃないか?」
「……そう簡単に見つかるかねぇ」
森田が机に頬杖をつく。
佐伯は小さく笑った。
「少なくとも、俺には分からないな」
「そこは何かいいこと言ってくれよ!」
「……無理言うなよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
その様子を、リンは教壇から何となく眺めていた。
来年、佐伯が東央大学に通っている。
本人がそう願っていることを、リンはよく知っている。
けれど、それが実現するかどうかは分からない。
(……二十五年後、か)
リンは配り終えたプリントを揃えた。
自分は、ここにいる生徒たちより先の時代を知っている。
それでも、この子たちがどんな大人になるのかは知らない。
『……よし! じゃあ、今日も一日よろしく!』
リンが声をかける。
「はーい!」
いつもどおりの返事が教室に響いた。
◇
昼休み。
職員室で午後の授業の準備をしていたリンのもとへ、事務職員が声をかけた。
「山元先生、お電話です。東央大学の篠原様から」
『あっ、ありがとうございます!』
リンは受話器を取った。
『お電話代わりました。山元です』
「おう、山元。篠原だ」
『篠原さん! お世話になってます!』
「次の合同練習のことで連絡したんだが、今、大丈夫か?」
『はい! 大丈夫です!』
「日程が決まった。七月二十二日の土曜日だ」
『七月二十二日……』
リンは手元のメモ用紙に日付を書き込んだ。
「午前九時から受付を始める。十時から全体で稽古して、午後は高校生の組み手だ。男子と女子、それぞれ分けて行う予定になってる」
『分かりました』
「佐伯と相原は、二人とも参加でいいんだな?」
『はい。二人とも参加を希望しています』
「よし。学校と保護者の確認が済んだら、参加書類を送ってくれ。詳しい案内はそっちにも郵送する」
『はい! ありがとうございます!』
「今回は前より参加校も増えるからな。組み手の相手には困らないと思うぞ」
『……そうなんですね』
「鬼塚さんも、楽しみにしてるみたいだ」
リンは思わず背筋を伸ばした。
『……あの、佐伯さんも相原さんも、前回から頑張って練習してます』
「ああ。なら、いい機会になるだろうな」
篠原の声には、以前と変わらない親しみやすさがあった。
リンは日程と必要事項を確認し、最後にもう一度礼を言おうとした。
しかし、その前に篠原が口を開いた。
「……それと山元。佐伯のことで一つ」
『……はい?』
「まあ、おそらくだが……今回の組み手で、特待生に選ばれるかどうか、ほぼ決まると思っていい」
『…………え?』
リンの手が止まった。
『……ほぼ、決まるんですか?』
「うん。ただし、正式にそう聞いたわけじゃないぞ」
『…………』
「長いこと鬼塚さんの下でやってきたからな。あの人が何を見ようとしてるのか、何となく分かるんだ」
リンは受話器を握り直した。
「今回は他校の有力な選手も集まる。佐伯にとって、実力を見せるには十分な機会だろう」
『……はい』
「もちろん、俺の見立てだ。監督の考えを全部知ってるわけじゃない」
『……分かりました』
「佐伯に余計な重圧をかけたいわけじゃないが、お前には伝えておこうと思ってな」
『……ありがとうございます』
「まあ、そんなに硬くなるな。山元まで緊張してどうする」
『……えっ』
篠原が笑う。
「お前が組み手に出るわけじゃないんだから」
『……それは、そうですけど』
「佐伯には、今までやってきたことを出してもらえばいい。じゃあ、書類の方もよろしくな」
『はい! ありがとうございました!』
通話が終わった。
リンは受話器を置き、メモを見つめた。
七月二十二日。
まだ二か月近く先だ。
けれど、今聞いた話によって、その日付が急に重く感じられた。
(……ほぼ決まる、か)
今朝の教室が頭に浮かぶ。
森田に二十五年後のことを聞かれた佐伯は、まず来年の東央大学進学を思い浮かべていた。
その夢が、今回の試合にかかっているかもしれない。
(……佐伯さんに、何て言おう)
リンはメモを握りかけ、すぐに力を緩めた。
佐伯のことを一番よく知る教師は、自分だけではない。
リンは席を立った。
◇
「……篠原さんから?」
荒川剛が顔を上げた。
「用件は何だ」
『次の合同練習の日程が決まったそうです』
リンはメモを差し出した。
『七月二十二日の土曜日です。午前が全体稽古で、午後から男女それぞれの組み手になるそうです』
荒川はメモに目を通した。
「……そうか」
『参加書類も後日届くそうなので、確認をお願いします』
「分かった」
リンは少し迷ってから、続けた。
『……それと、佐伯さんのことで』
荒川の目がリンへ向く。
『篠原さんから、もう一つ話がありました』
リンは電話で聞いた内容を伝えた。
今回の組み手が、佐伯の特待生選考を大きく左右するかもしれないこと。
ただし、鬼塚の正式な言葉ではなく、篠原個人の見立てであること。
荒川は口を挟まず聞いていた。
すべて話し終えると、しばらく沈黙が落ちた。
「……なるほどな」
荒川が短く言った。
『……佐伯さんには、どう伝えたらいいでしょうか』
「…………」
荒川はもう一度メモを見た。
「俺から話す」
『……はい』
「正式な日程は、相原にも伝える。参加の確認は俺が進める」
『分かりました。あたしも必要な書類、準備しておきます』
荒川は頷いた。
リンが席を離れようとすると、背後から声がかかった。
「……山元」
『はい?』
「佐伯には、今日の稽古が終わってから話す」
『……はい』
「今は余計なことを考えさせる必要はない」
リンは静かに頷いた。
『……分かりました』
荒川はそれ以上、何も言わなかった。
リンも、聞き返さなかった。
顧問には、顧問として伝えるべき言葉がある。
そのことを、今は信じようと思った。
◇
放課後。
青葉高校、空手道場。
「そこ! 踏み込みが浅い!」
荒川の声が響いた。
部員たちが一斉に動きを修正する。
佐伯は相手と間合いを取りながら、何度も攻撃の入り方を確かめていた。
前へ出る。
届かない。
一度下がり、もう一度踏み込む。
今度は相手の反応が早い。
「……もう一本!」
佐伯が声をかけた。
向かい合う部員も頷く。
その横では、相原菜月が別の部員と組み手を続けていた。
「……あっ、今の!」
菜月が相手の動きを見て、ぱっと目を輝かせる。
しかし、次の瞬間にはその隙を突かれ、慌てて後ろへ跳んだ。
「うわっ! 危なっ!」
「相原! よそ見をするな!」
「は、はいっ!」
道場の端で見ていたリンは、思わず苦笑した。
(……相原さん、相変わらずだなぁ)
けれど、部員たちの表情は真剣だった。
佐伯も菜月も、それぞれの課題に向き合っている。
荒川は全体の動きを見渡しながら、ときおり短い指示を飛ばしていた。
やがて稽古が終わった。
部員たちが整列し、礼を終える。
「佐伯。相原。残れ」
荒川の声に、二人が顔を上げた。
「次の東央大学との合同練習だが、日程が決まった」
菜月の表情が明るくなる。
「本当ですか!?」
「七月二十二日、土曜日だ。午後から高校生の組み手を行う。男子と女子、それぞれ別だ」
「やった!」
菜月が思わず声を弾ませた。
「またあの大学で試合できるんですね!」
「……相原」
荒川が低い声で名前を呼ぶ。
「……はい」
「前回のように、無茶な申し出をするなよ」
「……あはは」
菜月は苦笑した。
「今回は最初から女子の試合があるんですよね?」
「そうだ」
「じゃあ、大丈夫です!」
「……何が大丈夫なんだ」
荒川の眉間にしわが寄る。
リンは横で笑いそうになるのを堪えた。
佐伯も口元を緩めていた。
菜月は、前回の合同練習で大学四年生に自分から勝負を挑んだことを、少しも後悔していないらしい。
荒川は小さく息を吐いた。
「参加に必要な書類は、後日確認する。二人とも保護者へ日程を伝えておけ」
「はい!」
菜月が答えた。
佐伯も頷く。
「……分かりました」
「相原は戻れ。佐伯には、もう少し話がある」
「……はい!」
菜月は佐伯へ顔を向けた。
「先輩、また明日お願いします!」
「ああ。お疲れ」
「お疲れさまでした!」
菜月は元気よく頭を下げ、道場を出ていった。
ほかの部員たちも片づけを終え、次々に帰っていく。
やがて、道場には荒川と佐伯、そしてリンだけが残った。
リンは道場の端で、使い終えた備品を片づけていた。
荒川は佐伯へ向き直った。
「……佐伯」
佐伯は背筋を伸ばした。
「篠原さんから、もう一つ話があった」
荒川はそこで一度、言葉を切った。
「今回の組み手で、お前が特待生に選ばれるかどうか、ほぼ決まる可能性があるそうだ」
佐伯の表情が変わった。
荒川は続ける。
「ただし、正式な話ではない。篠原さん個人の見立てだ」
佐伯は黙って聞いていた。
「篠原さんは、長年鬼塚さんのもとで選手を見てきた人だ。その見立てを、軽く考えるつもりはない」
道場に静けさが広がった。
佐伯は荒川から目を逸らさなかった。
「……佐伯」
荒川は低い声で続けた。
「鬼塚さんは、きっとお前に無双の強さを求めているわけではない」
佐伯は動かなかった。
「だが、ただ弱いだけでは話にならん」
その言葉に、佐伯の拳がわずかに握られた。
「前回、お前は一勝もできなかった」
荒川は淡々と言った。
事実だった。
東央大学での合同練習。
全国でも名の知られた大学生。
他校から招かれた高校生たち。
佐伯は何度も相手に向かっていった。
そのたびに敗れた。
けれど、あの日の敗北を忘れたことはなかった。
「……あの敗北から、何を学んだ」
荒川の問いに、佐伯は顔を上げた。
「何を積み上げてきた」
佐伯は答えなかった。
代わりに、拳を握り直した。
荒川はその姿を見つめていた。
「勝ち負けだけで決まるとは限らん。だが、結果から逃げていいわけでもない」
少しの沈黙。
そして、荒川はまっすぐ佐伯を見据えた。
「その上で、お前なりの答えをぶつけてこい」
佐伯は深く息を吸った。
背筋を伸ばし、荒川へ向かって頭を下げる。
「押忍!」
力強い声が、静かな道場に響いた。
荒川は小さく頷いた。
「……よし」
それ以上の言葉はなかった。
佐伯も何も言わず、頭を上げた。
その目は、もう逸れていなかった。
リンは道場の端から二人を見ていた。
今朝、佐伯は教室で笑っていた。
二十五年後の未来を尋ねられ、まず来年の東央大学進学を思い浮かべていた。
そして今、その未来へ向かうための大きな勝負が、具体的な日付を持った。
七月二十二日。
リンはその日付を、もう一度心の中で確かめた。
佐伯は一礼すると、片づけかけていた防具へ手を伸ばした。
そして、荒川に向き直る。
「……先生。少し、動きを確認してもいいですか」
「好きにしろ。ただし、無理はするな」
佐伯は頷き、道場の中央へ戻った。
先ほどの稽古で届かなかった間合い。
相手が動いた瞬間、踏み込みが遅れた一歩。
佐伯はその場で構えを取り、ゆっくりと足を運んだ。
一歩。
もう一歩。
そして、踏み込む。
誰もいない正面へ、拳を伸ばした。
荒川は腕を組んだまま、その動きを見ていた。
リンも、何も言わなかった。
窓の外では、夕日が校舎の向こうへ傾いている。
道場には、佐伯の足音が静かに響いていた。




