第四十六話「コートの外から」
二〇二六年(令和八年)六月二日、火曜日。
都立桜丘高校、三年四組。
「美月、投稿見たよ。配信増やすんだね」
朝の教室で、橘莉子がスマートフォンを片手に声をかけた。
机に教科書を並べていた高瀬美月が顔を上げる。
「……うん。ちょっと、やってみようかなって」
「月曜日だけじゃなくなるんだ?」
「……うん。木曜日と土曜日も」
「じゃあ、週三回?」
「……そう。でも、まだ試しに増やしてみるだけだから」
美月は控えめに笑った。
これまで月曜日の夜に行っていた配信を、木曜日と土曜日にも増やす。
昨夜の配信を終えたあと、その予定をSNSで告知していた。
「すごいじゃん。学校もあるのに大変じゃない?」
「……うん。でも、やってみたくて」
「そっか。無理しないでね」
「……ありがとう」
莉子は画面を指で滑らせた。
「それにしても、これかわいいよね」
表示されているのは、パンダを模したルームウェアの写真だった。
白と黒のふわふわした生地に、丸い耳のついたフード。
その下には、木曜日の配信で着用する予定だと書かれている。
「……昨日、写真だけ載せてみたの」
「これ着て配信するんだ?」
「……うん」
「絶対かわいいって!」
美月は少しだけ頬を赤らめた。
「……まだ着てみないと、分からないけど」
「えー、絶対似合うよ!」
そのとき、二人のそばに別の女子生徒が近づいてきた。
「あ、茜! おはよー!」
「おはよー、莉子! 美月もおはよー!」
「……おはよう」
三浦茜は二人の顔を交互に見て、にっこり笑った。
「もしかして、昨日の投稿の話ー?」
「そうそう! 美月、配信増やすんだって」
「見た見た! 月木土でしょ? あのパンダ、めっちゃかわいくない?」
「ね! 今その話してたの!」
茜は莉子のスマートフォンを覗き込んだ。
「耳ついてるの、いいよねー。美月、これ着るんだ?」
「……うん。木曜日に」
「いいじゃん! 私も見に行こうかなー」
「……ありがとう」
美月が照れくさそうに笑う。
「でもさ、週三回って結構頑張るね」
「……うん。月曜日だけだと、もう少しやってみたいなって思うことがあって」
「分かる気がする! 好きなことって、時間足りなくなるもんね」
茜は笑いながら頷いた。
そこへ、教室に入ってきた凛が三人に気づいた。
『何だ、楽しそうだな。何の話をしているんだ?』
「あ、先生! 美月が配信増やすんだって!」
『そうなのか!』
凛は美月へ目を向けた。
『確か、月曜日にやっていたんだったな』
「……はい。今度から木曜日と土曜日もやってみようと思ってます」
『週に三回か。自分で決めたのか?』
「……はい」
『そうか。新しい挑戦だな』
凛が微笑む。
すると、茜が莉子のスマートフォンを凛へ向けた。
「先生、これも見て! 美月、木曜日これ着るんだって!」
『ん?』
画面を覗き込んだ凛が目を丸くする。
『……これは、パンダか?』
「そう! かわいくない?」
『ああ。耳までついているんだな』
凛は写真を眺めてから、美月へ顔を向けた。
『美月に似合いそうだ』
「……ありがとうございます」
『可愛いだろうな。楽しみにしているよ』
美月は一瞬、驚いたように瞬きをした。
それから、小さく笑った。
「……はい」
「あ、先生も見るんだ?」
茜が尋ねる。
『以前、一度見せてもらったんだ。美月が頑張っているところをな』
「へえー! じゃあ木曜日、みんなで見ようよ!」
「みんなでって、それぞれ家からでしょ?」
莉子が笑う。
「そうだけどさー!」
二人のやり取りを聞きながら、美月は机の上のスマートフォンへ目を落とした。
昨夜の投稿には、友人たちからも反応が届いていた。
木曜日の配信が、少しだけ待ち遠しくなる。
そんな美月の表情を見て、凛も穏やかに笑った。
『さて、そろそろ朝の準備を済ませようか』
「はーい!」
茜が元気よく返事をする。
莉子もスマートフォンをしまい、美月は教科書を揃え直した。
いつもと変わらない、朝の教室。
その中で、美月には新しい楽しみが一つ増えていた。
◇
放課後。
体育館には、ボールの弾む音と部員たちの声が響いていた。
「千夏、次!」
「分かってる!」
女子バレー部では、守備から攻撃へつなぐ練習が続いていた。
コートの中央で声を出しているのは、副主将の千夏だった。
先週の話し合いで見つかった、レシーブ後の連係という課題。
千夏はその中でも、次のプレーへ移るための声かけのタイミングに目を向けていた。
相手の攻撃を受けてから慌てるのではなく、その前から次の動きを意識する。
今日の練習では、そこを確かめたかった。
「もう一本お願いします!」
千夏の声に合わせ、向かいのコートからボールが打ち込まれる。
「私!」
後衛の部員がレシーブした。
ボールが高く上がる。
「次、お願い!」
「はい!」
前衛の選手が動き、ボールをつないだ。
最後は相手コートへ返したものの、攻撃の形を作るまでには至らない。
「……もうちょっと早く動けたかな」
千夏が呟く。
続く一本では、レシーブした部員と、その後ろの選手が同じ方向へ動きかけた。
「私が!」
「あっ、ごめん!」
ボールは何とかつながったが、次のプレーが苦しくなる。
コート脇では、松葉杖を使う紗奈が練習を見守っていた。
その少し離れたところで、結衣がノートに何かを書き込んでいる。
「……今のも、少し遅れた」
紗奈が小さく呟いた。
ボールを拾う技術そのものが大きく崩れているわけではない。
むしろ、以前より声を出そうという意識は強くなっていた。
それなのに、次の動きへ移る瞬間に、ほんのわずかな迷いが生まれる。
紗奈はコート全体へ目を向けた。
相手がボールを打つ直前。
味方の選手たちは、それぞれ構えている。
しかし、レシーブが上がってから初めて周囲を確認する選手もいる。
(……そこかもしれない)
紗奈はそう思った。
自分がコートにいた頃は、相手の打ち方を読み、味方へ声をかけ、自分自身も次の動きへ備えていた。
けれど、今は違う。
コートの端から、全員の動きを一度に見渡している。
だからこそ、ほんの小さなずれにも気づけるのかもしれなかった。
「よし! もう一本!」
千夏の声が響く。
紗奈は再びボールの行方を追った。
まだ、自分の膝は思うように動かせない。
それでも、目の前で練習する仲間たちから目を離すことはなかった。
◇
練習が終わると、部員たちは体育館の端に集まった。
今日も練習の最後に時間を取り、十五分間の振り返りを行う。
ただし、先日とは少し違う。
今日は千夏が、あらかじめ話し合いたいことを決めていた。
「今日は、レシーブのあとの動きについて話したい」
千夏が切り出す。
「先週、紗奈と話して、前衛と後衛の動きをちゃんと見直そうって思ったんだ。それで今日は、次のプレーに入る前の声かけを意識してみたんだけど……」
千夏は部員たちを見渡した。
「みんな、どうだった?」
「前より声は出てたと思う」
一人の部員が答えた。
「うん。でも、ボールを拾ったあとに動きが重なること、まだあったよね」
「私もそれ思った」
「何か、取れたあとに一瞬止まるんだよね」
千夏は頷きながら話を聞いた。
自分も練習中、同じようなことを感じていた。
ただ、どうしてそうなるのかは、まだはっきり分からない。
「……結衣はどう思った?」
千夏が顔を向けた。
結衣は手元のノートから目を上げた。
「私?」
「うん。今日はずっと外から見てたでしょ?」
「……そうだね」
結衣は少し考えてから口を開いた。
「声が出てないわけじゃないと思う」
「……うん」
「ただ、声を出すタイミングが遅い場面があるんじゃないかな」
千夏が首を傾げる。
「タイミング?」
「うん。ボールを拾ってから、次に誰が動くか確認してるように見えたの」
結衣はノートを開いた。
「例えば、さっき二人が同じ方向へ動いたとき。レシーブが上がってから、二人とも声を出してたでしょ?」
「ああ……あったね」
「その前に、次のプレーを少しでも意識できてたら、違ったのかなって」
結衣は言葉を選びながら続けた。
「もちろん、相手がどこに打つか分からないし、全部決めておけるわけじゃないと思う。でも、ボールが来てから初めて考えるんじゃ、間に合わないこともあるんじゃないかな」
千夏は腕を組んだ。
「……なるほど」
「外から見てると、次に動くまでの間がちょっと見えるんだよね」
結衣はそう付け加えた。
「でも、実際にプレーしてるとどうなのかは、みんなの方が分かると思う」
その言葉に、一人の部員が頷いた。
「確かに、ボールが上がってから周り見てるときあるかも」
「でも、相手の攻撃が来る前に、誰が取るか決めるのは難しいよね」
「それはそうだよね」
千夏が頷く。
「じゃあさ、取る人を決めるんじゃなくて、次にどう動くか考えておくってこと?」
「そうそう。それならできるかも」
「前衛も、レシーブが上がる前から準備できるところはあるし」
次々に意見が出る。
千夏はそれを聞きながら、少しずつ考えを整理していった。
「……じゃあ、明日はそこを見てみよう」
千夏が言った。
「相手が打つ前から、次につなぐことを意識する。声を出すのも、ボールが上がってからだけじゃなくて」
部員たちが頷く。
「ただ、やってみないと分からないところもあると思うから、また練習で確かめよう」
千夏はノートへ視線を落とした。
「今日の話は、こんな感じでいいかな?」
「いいと思う!」
「うん!」
話し合いは、少しだけ予定より早くまとまった。
凛はその様子を、少し離れたところから見守っていた。
前回は、何を話すのかを決めるところから始めた。
今日は千夏が課題を絞り、部員たちへ問いかけ、結衣にも意見を求めた。
まだ試し始めたばかりの時間ではある。
それでも、話し合いの進め方は少しずつ変わってきていた。
『よし。今日出たことは、明日の練習で確かめてみよう』
凛が声をかける。
『話し合って終わりでは、もったいないからな』
「はい!」
千夏が元気よく返事をした。
その隣で、結衣はノートを閉じる。
紗奈は二人の様子を見つめていた。
結衣が指摘したことは、自分も練習中に感じていたことだった。
けれど、それ以上に紗奈の心へ残ったのは、結衣が最後に言った一言だった。
(……実際にプレーしてるとどうなのかは、みんなの方が分かる)
結衣には、外から見えているものがある。
自分には、コートでプレーしてきた経験がある。
そして今、自分もまた、コートの外からチームを見ている。
そのことが、紗奈の中でゆっくりと意味を持ち始めていた。
◇
部活動が終わり、体育館には片づけの音だけが残っていた。
部員たちは帰り支度を済ませ、次々に体育館を出ていった。
千夏も最後まで残ろうとしたが、紗奈が先に帰るよう声をかけた。
「今日は千夏が頑張ってくれたんだから。残りは大丈夫」
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「うん。お疲れさま」
「お疲れ! 紗奈も無理しないでね」
千夏が体育館を出ていく。
その背中を見送ってから、紗奈は近くのベンチに置かれた記録用紙を手に取った。
松葉杖を使っているため、大きな用具を運ぶことはできない。
それでも、手の届くところにあるものをまとめるくらいならできた。
結衣はボールかごの数を確認し、凛は用具庫の扉を開けていた。
「……結衣」
紗奈が声をかける。
「ん?」
「今日の話、私も同じこと思ってた」
「……本当?」
「うん。声を出すタイミングが遅れてるところ」
結衣が少し驚いた顔をした。
「そっか。紗奈も気づいてたんだ」
「……うん」
紗奈はコートへ目を向けた。
「でもね、私がコートにいたときは、あんなふうには見えてなかったと思う」
「……え?」
「もちろん、周りを見るようにはしてたよ。キャプテンだし、次のプレーも考えてた」
紗奈は少し笑った。
「でも、自分がプレーしてると、どうしても目の前のボールとか、相手の動きとか……そういうところに意識が向くんだよね」
結衣は黙って聞いていた。
「今日みたいに外から見てると、みんながどこで迷ってるのか、前より分かる気がする」
「……うん」
「コートの中にいるときと、外から見てるときって……見えるものが違うんだね」
結衣は少し考えてから頷いた。
「私も、外から見て分かることはあるけど、実際にプレーしてるときの感覚までは分からないから」
「……そっか」
「紗奈は、その両方が分かるんだと思う」
紗奈は結衣を見た。
「……両方?」
「うん。今までコートでプレーしてきたし、今は外からも見てるでしょ?」
「…………」
「私が気づいたことでも、紗奈なら違う見方ができるかもしれない」
紗奈はしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……そうだね」
その会話を聞いていた凛が、用具庫の扉を閉めて近づいてきた。
『紗奈』
「……はい」
凛は紗奈の隣に立った。
『怪我をして、今はコートに立てなくても、紗奈にできることはまだたくさんあると思うよ』
「…………」
『今日みたいに、外から気づいたことを伝えるのも、その一つだろう?』
紗奈は静かに視線を落とした。
膝には、まだ固定具がついている。
走ることも、跳ぶこともできない。
仲間がコートで練習しているのを見るたびに、自分もそこへ戻りたいと思う。
その気持ちは、今も変わらない。
「……先生」
『ん?』
「私、早く戻りたいです」
凛は頷いた。
『ああ』
「みんなが練習してるのを見ると、やっぱり……一緒にやりたくなるんです」
『そうだろうな』
凛は紗奈の言葉を遮らずに聞いていた。
「でも……」
紗奈は顔を上げた。
「今は、ここから見てるしかないって思ってました」
「…………」
「でも、結衣の話を聞いて……それだけじゃないのかもしれないって」
凛は優しく笑った。
『そうだな』
その短い返事に、紗奈も少しだけ表情を緩めた。
隣で結衣が頷く。
「明日も、何か気づいたら教えてね」
「……うん」
紗奈は笑った。
「結衣も、また気づいたことがあったら教えて」
「もちろん」
二人は顔を見合わせた。
凛はその様子を見て、満足そうに頷いた。
『さて、片づけも終わったな。そろそろ帰ろうか』
「はい」
結衣が記録用のノートを鞄へしまう。
紗奈は松葉杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
体育館の出口へ向かう途中、紗奈は一度だけ振り返った。
夕方の光が差し込む、誰もいないコート。
あの中へ戻りたい。
その思いは、これからもきっと消えない。
けれど、今は少しだけ違う。
自分が立っている場所からも、見えるものがある。
そして、その場所で仲間の力になれることもある。
紗奈はコートから目を離し、結衣と凛の待つ出口へ向かった。




