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第四十五話「形にするために」

 二〇〇〇年(平成十二年)五月二十四日、水曜日。


 都立青葉高校、職員室。


 始業前の職員室で、リンは一枚の紙を手に、藤崎千尋の机を訪ねていた。


『藤崎先生、ちょっと相談してもいいですか?』


「ええ。どうしました?」


『実は、小川さんと片岡さんのことで……』


 リンは昨日の出来事を話した。


 真理が考えた左右非対称の裾。そこだけは絶対に変えたくないという真理と、実際に着ることを考えて形を変えた方がいいと主張する美奈。


 二人とも譲らず、リンが間に入っても答えは出なかった。


『……で、結局あたしも何も言えなくて』


「なるほど」


 藤崎はリンが持ってきたデザイン画の写しに目を落とした。


「きれいな線ですね」


『あ、やっぱりそう思います?』


「ええ。ただ、これは実際に布にしてみないと分からないことも多いですね」


『……布に?』


「同じ形でも、布の厚さや重さで見え方が変わりますから。斜めの裾だから動きにくいとも限りませんし」


 藤崎は裾の部分を指でなぞった。


「二人とも、まだ実際には試していないんですよね?」


『はい。デザイン画の段階です』


「それなら、まず作って確かめましょう」


『……作る? もうですか?』


「本番の衣装ではありませんよ。裾の形を確認するための簡単な試作品です。家庭科室に練習用の布が残っていますから」


 リンは思わずデザイン画を見た。


(……そっか)


(絵だけ見て、できるかどうか悩んでたんだ)


「二人とも、自分の考えにちゃんと理由があるんでしょう?」


『……はい』


「だったら、どちらが正しいか決めるより、まず確かめた方が早いかもしれませんね」


『……なるほど』


 リンは大きく頷いた。


『ありがとうございます! 今日の放課後、二人を連れてきてもいいですか?』


「ええ。私も家庭科室にいますから」


『助かります!』


 リンはデザイン画を大切そうに持ち直した。


 昨日、二人の前で何も答えられなかったことを思い出す。


 けれど、今日も同じように悩んでいるだけでは、何も変わらない。


『……よし』


 小さく呟いたリンに、藤崎が微笑んだ。


「山元先生も、一緒にやってみます?」


『えっ、あたしもですか!?』


「もちろん。見ているだけより、分かることがありますよ」


『……お手柔らかにお願いします』


 リンの返事に、藤崎は声を立てて笑った。


     ◇


 放課後の家庭科室。


「……本当に、これで試せるんですか?」


 真理は机の上に広げられた布を見つめていた。


 藤崎が用意したのは、淡いベージュ色の練習用の布だった。


 隣には裁ちばさみ、まち針、巻き尺、糸などが並べられている。


「完成品を作るわけではないからね。まずは裾の形だけ確認しましょう」


「へえー。何か、本格的!」


 美奈が布を手に取った。


「これ、切っちゃっていいんですか?」


「必要な分だけね。先に寸法を確認してからにしましょう」


「はーい!」


 美奈の返事は元気だった。


 けれど、真理との間にはまだ少しぎこちなさが残っていた。


 昨日の言い合いを引きずっているのだろう。


 リンは二人を見比べた。


『じゃ、あたしは何すればいいですか?』


「山元先生は、こちらの布を押さえていただけます?」


『了解です!』


 藤崎の指示を受け、リンは布の端を押さえた。


 真理はデザイン画を確認しながら、裾の長さを測っていく。


 美奈はその横で、切り出す布の位置を確かめた。


「……ここから斜め?」


「……うん。もう少し緩やかに」


「これくらい?」


「……もうちょっとだけ」


「……細かいなぁ、真理ちゃん」


 美奈が苦笑する。


 真理は少しだけ顔を伏せた。


「……ごめん」


「いや、別に怒ってないって!」


 美奈は巻き尺を持ち直した。


「でも、ちゃんと測っとかないとね」


「……うん」


 二人はもう一度、布へ向き直った。


 藤崎に手順を確認しながら、裾の形を仮縫いしていく。


 何度かまち針の位置を直し、ようやく腰に巻いて形を確認できる程度の試作品ができた。


「それじゃ、まず当ててみましょうか」


 藤崎の言葉に、美奈が手を挙げた。


「あたしがやる!」


 美奈は制服のスカートの上から布を当てた。


 藤崎が位置を調整し、動いても落ちないよう仮留めする。


「はい。少し歩いてみて」


「はーい」


 美奈が教室の端まで歩く。


 くるりと向きを変え、戻ってきた。


「……あれ?」


 美奈が足元を見る。


「思ったより普通に歩ける」


 真理は裾をじっと見つめていた。


「……でも」


「ん?」


「……何か、違う」


 真理はデザイン画を持ち上げた。


 紙に描かれた斜めの線。


 目の前の布は、重みで緩やかに垂れ、思っていたほどはっきりした角度になっていない。


「……もっと、こうなると思ってたのに」


 真理は指先で斜めの線をなぞった。


 美奈もデザイン画を覗き込む。


「あー、確かに。絵だともっとシュッとしてるね」


「……うん」


「布って、思ったとおりになんないんだ」


 藤崎が頷いた。


「そうね。布の種類によっても変わるし、縫い方でも違ってくるわ」


 真理は少し考え込んだ。


 それから、もう一度美奈の裾を見る。


「……美奈ちゃん」


「ん?」


「長い方、少し短くしてもいい?」


「……え?」


「その代わり、斜めの線は残したい」


 美奈は真理の顔を見た。


 昨日、あれほど変えたくないと言っていた裾。


 その真理が、自分から修正を提案している。


「……うん。やってみようよ」


 真理が顔を上げた。


「……いいの?」


「いいよ! だって、今のままだと真理ちゃんの思った形になってないんでしょ?」


「……うん」


「じゃあ、変えてみよう!」


 二人はもう一度布を外し、長さを測り直した。


 少しだけ裾を短くし、角度を変える。


 藤崎が縫い代や仮留めの位置を教え、リンも指示されたところを押さえた。


『……あっ』


 リンが声を上げる。


『さっきより、いい感じじゃない?』


 真理が顔を上げた。


 再び布を当てた美奈が、家庭科室の中を歩く。


 斜めの裾が、動きに合わせて揺れた。


「……あ」


 真理が小さく声を漏らした。


「……それ」


「え?」


「……それが、よかったの」


 真理は美奈の足元を見つめていた。


「歩いたときに、こうやって……形が変わるの」


 美奈はもう一度歩いてみた。


 今度は少し大きく足を踏み出す。


 裾が軽く揺れる。


「……おお!」


 美奈の顔が明るくなった。


「これ、いいじゃん!」


「……うん!」


「しかも、全然邪魔にならない!」


 美奈は嬉しそうに何度か足を動かした。


 真理も、いつの間にか笑っていた。


 藤崎は二人の様子を見ながら、机の上の道具を片づけ始めた。


「まだ本番用の布で同じようになるとは限らないけれど、方向性は見えてきたわね」


「はい!」


 美奈が元気よく答える。


 真理も大きく頷いた。


 リンはそんな二人を見て、ほっと息を吐いた。


(……よかった)


(昨日、あんなに揉めてたのに)


 真理は試作品をじっと見つめていた。


 やがて、何かを思いついたように顔を上げる。


「……美奈ちゃん」


「ん?」


「……ちょっと待ってて」


「え?」


「デザイン画、描き直したい」


「……今から!?」


「……うん」


 真理は机に置いていた画用紙を引き寄せた。


「今なら、ちゃんと描ける気がする」


 その声には、昨日までになかった勢いがあった。


 美奈は目を丸くしたが、すぐに笑った。


「……よし! じゃあ、あたしも付き合う!」


 真理は鉛筆を走らせ始めた。


 美奈は試作品を持ち、真理が確認しやすいように角度を変える。


「ここ、もうちょっと短かったよね?」


「……うん。そう、そのくらい」


「じゃあ、こっちは?」


「……そこは残したい」


「了解!」


 昨日とは違う会話だった。


 どちらかが言い負かすためではなく、同じ形を作るために言葉を交わしている。


 リンはその様子を、少し離れたところから眺めていた。


『……何か、いいですね』


 隣に来た藤崎が微笑む。


「ええ。二人で作っているって感じがしますね」


『……はい』


 真理は何度も鉛筆を止め、試作品と見比べながら線を描き直した。


 美奈もその横で、自分が動いたときの感覚を伝える。


 やがて、真理の手が止まった。


「……できた」


「どれどれ!?」


 美奈が身を乗り出す。


 新しいデザイン画には、斜めの裾がしっかりと残っていた。


 ただし、昨日までとは違う。


 長い側の裾は少し短くなり、全体の線も緩やかになっている。


「……これ、いい!」


 美奈が声を弾ませた。


「真理ちゃん、これにしよう!」


「……うん!」


 二人は顔を見合わせた。


 そして、同時に笑った。


     ◇


 翌日、五月二十五日、木曜日。


 放課後の家庭科室には、真理と美奈、それにリンと藤崎が集まっていた。


 机の中央には、昨日描き直したデザイン画。


 その隣には、コンテストの応募用紙が置かれている。


「……いよいよだね」


 美奈が用紙を見つめた。


「うん……」


 真理も少し緊張した様子で頷く。


 募集要項には、デザイン画による一次選考のあと、通過したチームが実際に衣装を制作し、決勝でファッションショー形式の審査を受けると書かれていた。


 まずは、作品の説明をまとめなければならない。


『テーマは「変化」だよね』


「うん!」


 美奈が頷く。


「歩いたときに、裾の形が変わるんだよ!」


「……見る角度によっても、少し違って見えるようにしたいです」


 真理が続けた。


 リンは二人の言葉を聞きながら、応募用紙を指さした。


『だったら、それをそのまま書けばいいんじゃない?』


「……そのままでいいの?」


『もちろん、ちゃんと文章にはするけどさ。変に難しい言葉にしなくても、二人が考えたことを書けばいいと思うよ』


 藤崎も頷いた。


「ええ。審査する方に伝わるように、具体的に書いてみましょう」


 二人は相談しながら説明文をまとめていった。


 斜めの裾によって生まれるシルエット。


 歩くことで変わる印象。


 見た目だけでなく、着る人が自然に動けるように考えたこと。


 書いては直し、また書き足す。


 やがて、応募用紙の記入欄が埋まっていった。


「……よし!」


 美奈が鉛筆を置いた。


「これで完成!」


『じゃあ、あとは必要な書類が揃ってるか確認しようか』


 リンが募集要項を手に取った。


 藤崎と一緒に、応募用紙とデザイン画を確認していく。


 学校名。


 代表者名。


 チームの人数。


 作品の説明。


 必要な項目を一つずつ確かめていた、そのときだった。


「……あっ!」


 美奈が突然声を上げた。


『うわっ、何!?』


「モデル!」


「……モデル?」


 真理が顔を上げる。


「そうだよ! 決勝ってファッションショーなんでしょ? 誰かに着てもらわなきゃ!」


『ああ、そういうことか』


 リンも募集要項へ目を戻した。


 一次選考ではモデルを正式登録する必要はないものの、決勝では出場チームが着用者を用意することになっている。


「今のうちに考えといた方がよくない?」


 美奈は少し考えた。


「……あ! 沙織とかどうかな?」


『ああ、西野さん?』


「そう! あの子、こういうの好きそうじゃん!」


『確かに、楽しんでくれそうだね』


「でしょ!? 明日、声かけてみようよ!」


 美奈はすっかりその気になっていた。


 しかし、その隣で真理が静かに口を開いた。


「……美奈ちゃん」


「ん?」


「……私、美奈ちゃんに着てほしい」


「…………え?」


 美奈の動きが止まった。


「……あたし?」


「……うん」


「いやいや! あたし、モデルなんかやったことないよ!?」


 美奈は慌てて手を振った。


「人前で歩くんでしょ!? しかも、すっごい人いるんじゃないの!?」


 真理は少しだけ俯いた。


 それから、描き直したばかりのデザイン画へ目を落とした。


「……この服を考えてたときね」


「……うん?」


「頭の中で、この服を着て笑ってるの……ずっと美奈ちゃんだったから」


「…………」


 美奈は何も言えなくなった。


 真理は少し照れくさそうに笑った。


「……歩いたときに、裾が揺れるところも」


 デザイン画の斜めの線へ、そっと指を添える。


「……美奈ちゃんが着てるところを、ずっと想像してたの」


「……真理ちゃん」


「だから……美奈ちゃんに着てほしい」


 真理は顔を上げた。


「……駄目かな?」


 美奈はしばらく黙っていた。


 いつもなら、すぐに何か言い返す。


 冗談を言って笑ったり、大げさに騒いだりする。


 けれど、今は何も言葉が出てこなかった。


 真理はそんな美奈を見つめている。


 やがて、美奈が小さく息を吐いた。


「……ずるいじゃん」


「……え?」


「そんなこと言われたら、断れないじゃん!」


 美奈は照れ隠しのように笑った。


「……分かった! あたしが着る!」


「……本当?」


「うん!」


 美奈は胸を張った。


「どうせ出るなら、思いっきり歩いてやる!」


 真理の顔が、ぱっと明るくなった。


「……ありがとう、美奈ちゃん」


「その代わり!」


「……うん?」


「絶対、かわいい服にしようね!」


 真理は力強く頷いた。


「……うん!」


 リンは二人のやり取りを、口を挟まずに見守っていた。


 美奈が真理を引っ張ってきた場面は、何度も見ている。


 けれど、今回は違った。


 真理が自分の気持ちを伝え、美奈がそれを受け取った。


 藤崎も穏やかな表情で二人を見ていた。


「モデルも決まったことですし、あとは一次選考ですね」


「……あっ!」


 美奈が固まった。


「そうだった!」


 リンが吹き出した。


『まだ通るかどうかも分かんないもんね!』


「凛ちゃん! そこは応援してよ!」


『もちろん応援してるって!』


 真理も声を立てて笑った。


 応募用紙の最終確認を終えると、藤崎は必要な学校側の確認を済ませることを伝えた。


 リンも書類を揃え、提出先と締切をもう一度確かめた。


 その日のうちに、応募書類は封筒へ収められた。


 翌日、学校から郵送する手はずとなった。


 真理と美奈は、封筒をじっと見つめていた。


「……何かさ」


 美奈がぽつりと言った。


「急に、本当っぽくなってきたね」


「……うん」


 真理が頷く。


「今までは、二人で絵を描いてるだけだったのに」


「そうそう!」


 美奈は封筒を指さした。


「これが審査されるんだよね」


「……うん」


「……緊張するなぁ」


 真理は小さく笑った。


「……美奈ちゃんでも、緊張するんだ」


「するよ! 当たり前じゃん!」


 美奈は頬を膨らませる。


 けれど、すぐに笑った。


「……でも、楽しみ!」


「……うん。私も」


 二人は顔を見合わせた。


 机の上には、修正を重ねたデザイン画。


 その中には、真理がどうしても譲れなかった斜めの線が残っている。


 そして、その形を実際に着られるものにしようと考えた、美奈の工夫もあった。


 リンは封筒を手に取った。


『じゃあ、これで応募しようか』


「はい!」


 二人の返事が重なった。


 まだ、一次選考を通過できるかも分からない。


 実際の衣装を完成させられるかどうかも、これからだ。


 それでも、二人は確かに一歩を踏み出した。


 リンは封筒を大切そうに抱え、二人へ笑いかけた。


『……よし。じゃあ、あとは結果を待つだけだね!』


「……うん!」


 真理と美奈は、もう一度顔を見合わせた。


 そして、どちらからともなく笑った。


 二人で考えた一着の服が、ようやく教室の外へ飛び出そうとしていた。

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