第四十四話「譲れないもの」
二〇〇〇年五月二十三日、火曜日。
「凛ちゃん! ちょっと聞いてよ!」
朝の三年二組。
出席簿を手に教室へ入ったリンは、席に着くより早く西野沙織に呼び止められた。
『ん? どうしたの、西野さん』
「昨日ね、悠斗がさ!」
『……悠斗?』
「そう! もう聞いてよ、すっごい嬉しいことがあって!」
沙織は満面の笑みを浮かべている。
その隣では、片岡美奈がにやにやしながら頬杖をついていた。
「凛ちゃん、沙織の話聞くなら覚悟した方がいいよ。昨日からずーっとこれだから」
「ちょっと美奈! まだそんなに話してないじゃん!」
「もう三回目だって!」
何やら随分と楽しそうだ。
リンは出席簿を教卓に置くと、二人の方へ近づいた。
『で、その悠斗って誰?』
「えっ?」
沙織が目を丸くした。
「高木だよ。高木悠斗!」
『……高木さん?』
「うん!」
『……同じクラスの?』
「そうだよ!」
『……えっ、何? 付き合ってるの!?』
「ええーっ!?」
沙織と美奈の声が重なった。
「凛ちゃん、知らなかったの!?」
『知らないよ! 初耳なんだけど!』
「もう三か月くらい付き合ってるよ!」
『三か月!?』
リンは思わず教室を見渡した。
窓際では、森田翔平と男子生徒が何やら話し込んでいる。
その男子生徒――高木悠斗は、森田の言葉に笑いながら、軽く肩を小突いていた。
(……うわぁ)
(同じクラスの高校生カップル!)
(しかも三か月も付き合ってるの!?)
(……眩しっ!)
リンが一人で衝撃を受けている間にも、沙織の話は止まらなかった。
「それでね! 昨日、帰りに駅前のお店に寄ったんだけど、あたしが前にかわいいって言ってたキーホルダー、悠斗が覚えててくれたの!」
『へえ! いいじゃん!』
「でしょ!? もう売り切れたと思ってたのに、別のお店で見つけたんだって!」
「それ昨日も聞いたー」
美奈がわざとらしく伸びをする。
「だって嬉しかったんだもん!」
『いや、それは嬉しいよ! 覚えててくれたんでしょ?』
「そうなの!」
沙織は大切そうに鞄から小さな袋を取り出した。
中に入っていたのは、透明な青い飾りのついたキーホルダーだった。
「これ!」
『おお、かわいい!』
「でしょ!?」
沙織の顔が、ますます明るくなる。
(……いいなぁ)
(高校生らしいデートして、プレゼントもらって)
(……あー、あたしも彼氏欲しい)
そんなことを考えていると、美奈が突然立ち上がった。
「ねえ高木ー!」
「ん?」
窓際にいた悠斗が振り返る。
「沙織がまた凛ちゃんに惚気てるよー!」
「ちょっと美奈ぁ!」
沙織が慌てて美奈の腕を引っ張った。
しかし、もう遅い。
「……は?」
悠斗がこちらを見る。
その横で森田が吹き出した。
「お前、またキーホルダーの話?」
「またって何だよ!」
「昨日も聞いたぞ、それ」
「……お前まで言うなよ!」
悠斗の耳が赤くなる。
リンは思わず笑ってしまった。
『高木さん、やるじゃん!』
「えっ、凛先生まで!?」
『いやぁ、見直したよ!』
「何をですか!」
「高木、先生に褒められてんじゃん!」
森田が悠斗の背中を叩く。
「だから、うるさいって!」
教室のあちこちから笑い声が上がった。
沙織は恥ずかしそうにしていたものの、どこか嬉しそうだった。
その顔を見て、リンもつられて笑う。
(……青春っていいなぁ)
そして、少しだけ自分の年齢を思い出した。
(……って、あたしもまだ二十二歳なんだけど!?)
そんな心の叫びは、当然誰にも届かなかった。
やがて予鈴が鳴り、生徒たちがそれぞれの席へ戻っていく。
沙織もキーホルダーを大切そうに鞄へしまった。
『はいはい、それじゃ朝のホームルーム始めるよー』
「はーい!」
元気な返事が教室に響いた。
いつもと変わらない、賑やかな朝だった。
◇
その日の昼休み。
三年二組の窓際では、二枚のデザイン画が机いっぱいに広げられていた。
「……ねえ、真理ちゃん。やっぱりここ、揃えた方がよくない?」
美奈が指さしたのは、ワンピースの裾だった。
真理が描いた服は、左右で裾の長さが異なっている。
右側は膝の辺りまで。左側はそこから少し長く伸び、斜めの線を描いていた。
全国高校服飾コンテスト。
そのテーマである「変化」を、どう服の形に表すか。
二人は何日も考え、何枚ものデザイン画を描き直してきた。
その中で真理が特に気に入っていたのが、この裾の形だった。
「ほら、こっちの方がすっきりするしさ」
美奈は別の紙を重ね、左右の長さが揃った形を見せた。
「作るのも簡単そうじゃん。変に引っかかったりもしないし」
「…………」
真理は黙って二枚の絵を見比べた。
しばらくして、ゆっくり首を横に振る。
「……嫌」
「……え?」
「そこは、変えたくない」
美奈の指が止まった。
「え、でもさ。こっちの方が着やすそうじゃない?」
「……うん」
「じゃあ、こっちにしようよ」
「……嫌なの」
「…………」
美奈は少しだけ眉を寄せた。
「真理ちゃん、どうしたの?」
「……どうもしないよ」
「だって、いつもは一緒に考えてくれるじゃん」
「……考えてるよ」
真理は自分のデザイン画を引き寄せた。
「でも、この線は残したいの」
「なんで?」
「……好きだから」
「いや、好きなのは分かるけどさ」
美奈は裾の部分を指さした。
「これ、実際に作るんだよ? 絵のままじゃないんだから」
「……分かってる」
「だったら、動きやすい方がいいじゃん。裾が変に絡まったら困るし」
真理は返事をしなかった。
美奈も引き下がらない。
「せっかくコンテスト出るんだからさ、ちゃんと着られる服にしたいんだよ、あたし」
「……私もだよ」
「じゃあ、なんでそこだけ変えられないの?」
真理は鉛筆を手に取った。
机の隅に置いてあった別の紙を広げる。
そこには、同じワンピースの裾だけを描き直した小さな絵が並んでいた。
まっすぐなもの。
緩やかに斜めになったもの。
途中で角度を変えたもの。
何度も消しゴムをかけた跡が残っている。
「……最初は、まっすぐだったの」
「……うん」
「でも、それだと……何だか違うなって」
真理は、一番端に描かれた絵を指さした。
「こっちを短くして、こっちを長くしたら、歩いたときに違う形に見えるかなって思ったの」
「…………」
「ずっと描き直して……やっと、これがいいって思えたから」
真理は顔を上げた。
「……そこは変えたくない」
美奈は口を開きかけた。
しかし、そのまま少し黙った。
真理がここまで一つの形にこだわる姿を、美奈はあまり見たことがなかった。
けれど、それで疑問が消えたわけではない。
「……でもさ、真理ちゃん」
「……うん」
「その形で作って、ちゃんと歩けるか分かんないじゃん」
「…………」
「作り方だって分かんないし。そこ考えないで決めちゃうのは違うと思う」
「……考えてないわけじゃないよ」
「じゃあ、どうやって作るの?」
「……それは」
真理の声が小さくなる。
「……まだ、分からないけど」
「ほら!」
美奈の声が少し大きくなった。
「分かんないままじゃ、作れないじゃん!」
「……でも」
「何?」
「……私だって、ちゃんと考えて描いたんだよ」
その言葉に、美奈は黙った。
真理の声は大きくなかった。
怒鳴ったわけでもない。
ただ、いつもよりはっきりしていた。
「……美奈ちゃんの言うことも分かるけど」
真理はデザイン画から手を離さなかった。
「だからって、全部変えたくない」
「……全部なんて言ってないじゃん」
「……でも、一番大事なところだから」
「…………」
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。
二人とも、すぐには動かなかった。
先に紙を片づけ始めたのは美奈だった。
「……とりあえず、午後の授業始まるし」
「……うん」
「またあとで考えよう」
「……うん」
いつもなら、次に試すことを決めて笑い合う二人だった。
けれど今日は、どちらも何も決められなかった。
放課後になっても、二人の意見は平行線のままだった。
『……なるほどねぇ』
三年二組の教室。
リンは二枚のデザイン画を前に、腕を組んでいた。
向かいには真理と美奈が座っている。
昼休みのことが気になり、リンの方から声をかけたのだった。
『つまり、小川さんはこの斜めの線を残したい』
「……はい」
『で、片岡さんは実際に着たときのことが心配』
「そう! だってさ、せっかく作っても動きにくかったら困るじゃん!」
『うん。それは分かる』
「でしょ?」
『でも、小川さんがこの形を気に入ってるのも分かるんだよね』
「……そうなんです」
真理が小さく頷いた。
「私、この形にするまで、何回も描き直したので……」
『うんうん』
「でもさ、凛ちゃん」
美奈が身を乗り出した。
「それだけじゃ服って作れないでしょ?」
『……まあ、そうだよね』
「ほら!」
「……でも、まっすぐにしたら、私が考えてたのと違う服になっちゃう」
「だからさぁ……!」
『はい、ちょっと待った!』
リンは両手を上げた。
美奈と真理が口を閉じる。
『……えーっと』
二人の顔を見る。
どちらも真剣だった。
真理は自分のデザインを守りたい。
美奈は、実際に着られる服を作りたい。
どちらかが適当なことを言っているわけではない。
(……いや、難しくない? これ)
リンはもう一度、デザイン画へ目を落とした。
斜めになった裾。
確かに、形としては面白い。
けれど、これを実際の布で作ったとき、どうなるのだろう。
重さは。
広がり方は。
歩いたときの動きは。
(……全然分かんない)
リンは服を買うのは嫌いではなかった。
むしろ、かわいい服を見るのは好きだ。
だが、着ることと作ることは別問題である。
『……ねえ、これってさ』
「うん?」
『斜めのまま、動きやすくするとか……できないの?』
「それが分かんないから困ってるんじゃん!」
『……ですよねぇ』
美奈が頬を膨らませる。
「凛ちゃん、何かいい方法ないの?」
『……うーん』
「先生でしょ?」
『先生だって、何でも知ってるわけじゃないよ!』
「えーっ!」
美奈が大げさに肩を落とす。
普段なら、真理もここで笑ったかもしれない。
しかし今日は、デザイン画に視線を落としたままだった。
リンはその横顔を見た。
『……小川さん』
「……はい」
『この形、そんなに気に入ってるんだね』
「…………」
真理は少し迷ってから頷いた。
「……はい」
『そっか』
今度は美奈を見る。
『片岡さんも、ちゃんと着られるものにしたいんだよね』
「……うん」
『……そっかぁ』
二人はリンを見つめた。
何か答えが返ってくるのを待っているようだった。
けれど、リンにはその答えが見つからなかった。
『……ごめん。今、あたしにも分かんない』
「…………」
『どっちかに我慢してもらえば早いんだろうけど、それでいいとも思わないし』
リンはデザイン画を机の中央へ戻した。
『ちょっと、あたしにも考えさせて』
美奈は小さく息を吐いた。
「……分かった」
真理も頷いた。
「……ありがとうございます、凛先生」
『いやいや、何もできてないから』
リンは苦笑した。
二人はデザイン画を丁寧に片づけ、教室を出ていった。
扉が閉まる。
静かになった教室で、リンはしばらく動かなかった。
(……うーん)
(何とかしてあげたかったんだけどなぁ)
机の上には、二人が消し忘れた小さな消しゴムのかすが残っていた。
リンはそれを指先で集め、屑入れに捨てた。
窓の外では、運動部の掛け声が聞こえている。
少し考え込んでから、リンは鞄を持ち上げた。
まだ、片づけておきたい仕事があった。
◇
夕方の校舎は、昼間よりもずっと静かだった。
リンは職員室へ戻る途中、武道場の前で足を止めた。
明かりがついている。
(……あれ? まだ誰かいる?)
部活動の時間は、もう終わっているはずだった。
リンはそっと入口から中を覗いた。
広い道場の中央に、一人の男子生徒が座っていた。
佐伯大輔だった。
背筋をまっすぐ伸ばし、正座したまま目を閉じている。
両手は腿の上。
呼吸は静かで、ほとんど動かない。
リンは声をかけようとして、やめた。
(……黙想、かな)
荒川の指導で、生徒たちが稽古の前後に行っている姿は何度も見た。
けれど、一人きりの道場で黙想する佐伯を見るのは初めてだった。
リンは入口の脇に立ったまま、しばらくその姿を眺めていた。
窓から差し込む夕日が、磨かれた床に長い四角形を作っている。
遠くから野球部の声が聞こえた。
やがて佐伯が、ゆっくりと目を開いた。
「……凛先生」
『あっ、ごめん。邪魔しちゃった?』
「いえ」
佐伯は小さく首を振った。
「もう終わるところだったので」
『そっか。遅くまで頑張ってるね』
「……はい」
佐伯は立ち上がろうとしたが、途中で動きを止めた。
何かを考えるように視線を落とす。
リンはそれに気づいた。
『……どうかした?』
「…………」
佐伯は少しだけ迷った。
それから、床に視線を向けたまま口を開いた。
「……先生」
『うん』
「俺、今でも怖いんです」
リンは黙って続きを待った。
「東央大学の特待生に……選ばれなかったらって」
佐伯の声は静かだった。
「挑戦するって決めたことは、後悔してません」
『……うん』
「大学で空手を続けたいって気持ちも、変わってないです」
そう言ってから、佐伯は膝の上で手を握った。
「でも……」
少しだけ、言葉が途切れる。
「もし駄目だったらって考えると……」
リンは佐伯の顔を見た。
普段の稽古では、どんなに苦しくても前を向こうとする生徒だった。
東央大学の話をしたときも、自分の意思ではっきり挑戦を選んだ。
その佐伯が、今はどこか頼りなく見えた。
「……母さんとか、弟たちの顔が浮かぶんです」
『…………』
「家のこと考えると、俺が大学に行くなんて……やっぱり贅沢なんじゃないかって」
佐伯は小さく笑った。
けれど、その笑顔には力がなかった。
「決めたはずなのに、また迷いそうになるんです」
『……そっか』
リンはそれだけ答えた。
佐伯には、家族を支えたいという気持ちがある。
それと同じくらい、自分の夢を諦めたくないという気持ちもある。
その両方が本当だから、簡単には割り切れないのだろう。
「……情けないですよね」
『え?』
「凛先生みたいに、心も身体も強ければ……こんなに迷わないんでしょうね」
佐伯は顔を上げた。
その目には、まっすぐな尊敬があった。
リンは、すぐには答えられなかった。
佐伯が見ているのは、空手に打ち込んできた山元凛だ。
強くて、真面目で、何事にも迷わず向き合えそうな教師。
でも。
(……あたし、そんなに強くないんだけどなぁ)
今日の真理と美奈の顔が浮かんだ。
どちらも真剣だった。
どちらの気持ちも分かった。
それなのに、リンは何一つ解決できなかった。
この時代へ来てから、そんなことは何度もあった。
何が正解なのか分からない。
教師として、どうするべきなのか迷う。
自分の判断が、生徒にとって本当に良かったのかも分からない。
リンは静かに息を吐いた。
『……迷うよ』
佐伯が目を瞬かせた。
「……え?」
『あたしだって、迷うことばっかりだよ』
「……先生でも、ですか?」
『うん』
リンは少し笑った。
『今日だって、どうしたらいいか分かんなかったこと、あったし』
「……そうなんですか」
『そうだよ。毎日、知らないことばっかり』
佐伯は意外そうな顔をした。
リンはその表情を見て、また小さく笑う。
『……佐伯さんさ』
「はい」
『怖いって思っちゃ駄目なの?』
「……え?」
『いや、だって。怖いんでしょ?』
「……はい」
『それ、仕方なくない?』
佐伯は少し黙った。
『特待生に選ばれるかどうかなんて、今のあたしたちには分かんないし』
「…………」
『大事なことだから、怖いんじゃないの?』
佐伯は答えなかった。
けれど、膝の上で握っていた手が、少しだけ緩んだ。
リンは道場の中央へ視線を向けた。
夕日が、先ほどより少し低く差し込んでいる。
しばらくして、リンが口を開いた。
『……ねえ、佐伯さん』
「はい」
『あたしも一緒に黙想してもいい?』
「……え?」
佐伯が顔を上げる。
『いや、何か……ちょっと座ってみたくなっちゃった』
「…………」
『駄目?』
佐伯は一瞬きょとんとした。
それから、ほんの少し笑った。
「……いえ。どうぞ」
『ありがと』
リンは靴を脱ぎ、道場へ入った。
佐伯から少し離れたところに腰を下ろす。
正座をして、両手を腿の上に置いた。
佐伯の姿勢をちらりと横目で確認する。
(……背筋は、こんな感じ?)
慣れない姿勢に、膝が少し突っ張った。
(……これ、何分くらいやるんだろ)
思わずそんなことを考える。
けれど、隣の佐伯はもう静かに目を閉じていた。
リンも、それにならった。
目を閉じると、道場の音が少しだけ近くなった気がした。
外を吹く風。
遠くの掛け声。
どこかで鳴る、ボールの弾む音。
リンはゆっくり息を吸った。
吐いた。
目を閉じたからといって、急に頭の中が静かになるわけではない。
真理のデザイン画が浮かんだ。
美奈の困った顔も浮かんだ。
自分には分からないことが、まだたくさんある。
どうすれば二人が納得できるのだろう。
そんなことを考えて、リンは小さく息を吐いた。
(……あ、また考えてる)
少しおかしくなった。
目を開けたくなったが、隣の佐伯は動かなかった。
だからリンも、もう一度静かに呼吸を整えた。
佐伯の不安を消してあげることはできない。
特待生に選ばれると約束することもできない。
真理と美奈の問題だって、まだ何も解決していない。
それでも今は、隣に座っていることができる。
リンはゆっくりと息を吐いた。
佐伯もまた、静かに呼吸を続けていた。
二人の間に、言葉はなかった。
夕日が少しずつ傾いていく。
誰もいなくなった武道場の真ん中で、二人は並んで目を閉じていた。
その時間だけは、何かの答えを急ぐ必要もなかった。




