↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
44/195

第四十四話「譲れないもの」

 二〇〇〇年五月二十三日、火曜日。


「凛ちゃん! ちょっと聞いてよ!」


 朝の三年二組。


 出席簿を手に教室へ入ったリンは、席に着くより早く西野沙織に呼び止められた。


『ん? どうしたの、西野さん』


「昨日ね、悠斗がさ!」


『……悠斗?』


「そう! もう聞いてよ、すっごい嬉しいことがあって!」


 沙織は満面の笑みを浮かべている。


 その隣では、片岡美奈がにやにやしながら頬杖をついていた。


「凛ちゃん、沙織の話聞くなら覚悟した方がいいよ。昨日からずーっとこれだから」


「ちょっと美奈! まだそんなに話してないじゃん!」


「もう三回目だって!」


 何やら随分と楽しそうだ。


 リンは出席簿を教卓に置くと、二人の方へ近づいた。


『で、その悠斗って誰?』


「えっ?」


 沙織が目を丸くした。


「高木だよ。高木悠斗!」


『……高木さん?』


「うん!」


『……同じクラスの?』


「そうだよ!」


『……えっ、何? 付き合ってるの!?』


「ええーっ!?」


 沙織と美奈の声が重なった。


「凛ちゃん、知らなかったの!?」


『知らないよ! 初耳なんだけど!』


「もう三か月くらい付き合ってるよ!」


『三か月!?』


 リンは思わず教室を見渡した。


 窓際では、森田翔平と男子生徒が何やら話し込んでいる。


 その男子生徒――高木悠斗は、森田の言葉に笑いながら、軽く肩を小突いていた。


(……うわぁ)


(同じクラスの高校生カップル!)


(しかも三か月も付き合ってるの!?)


(……眩しっ!)


 リンが一人で衝撃を受けている間にも、沙織の話は止まらなかった。


「それでね! 昨日、帰りに駅前のお店に寄ったんだけど、あたしが前にかわいいって言ってたキーホルダー、悠斗が覚えててくれたの!」


『へえ! いいじゃん!』


「でしょ!? もう売り切れたと思ってたのに、別のお店で見つけたんだって!」


「それ昨日も聞いたー」


 美奈がわざとらしく伸びをする。


「だって嬉しかったんだもん!」


『いや、それは嬉しいよ! 覚えててくれたんでしょ?』


「そうなの!」


 沙織は大切そうに鞄から小さな袋を取り出した。


 中に入っていたのは、透明な青い飾りのついたキーホルダーだった。


「これ!」


『おお、かわいい!』


「でしょ!?」


 沙織の顔が、ますます明るくなる。


(……いいなぁ)


(高校生らしいデートして、プレゼントもらって)


(……あー、あたしも彼氏欲しい)


 そんなことを考えていると、美奈が突然立ち上がった。


「ねえ高木ー!」


「ん?」


 窓際にいた悠斗が振り返る。


「沙織がまた凛ちゃんに惚気てるよー!」


「ちょっと美奈ぁ!」


 沙織が慌てて美奈の腕を引っ張った。


 しかし、もう遅い。


「……は?」


 悠斗がこちらを見る。


 その横で森田が吹き出した。


「お前、またキーホルダーの話?」


「またって何だよ!」


「昨日も聞いたぞ、それ」


「……お前まで言うなよ!」


 悠斗の耳が赤くなる。


 リンは思わず笑ってしまった。


『高木さん、やるじゃん!』


「えっ、凛先生まで!?」


『いやぁ、見直したよ!』


「何をですか!」


「高木、先生に褒められてんじゃん!」


 森田が悠斗の背中を叩く。


「だから、うるさいって!」


 教室のあちこちから笑い声が上がった。


 沙織は恥ずかしそうにしていたものの、どこか嬉しそうだった。


 その顔を見て、リンもつられて笑う。


(……青春っていいなぁ)


 そして、少しだけ自分の年齢を思い出した。


(……って、あたしもまだ二十二歳なんだけど!?)


 そんな心の叫びは、当然誰にも届かなかった。


 やがて予鈴が鳴り、生徒たちがそれぞれの席へ戻っていく。


 沙織もキーホルダーを大切そうに鞄へしまった。


『はいはい、それじゃ朝のホームルーム始めるよー』


「はーい!」


 元気な返事が教室に響いた。


 いつもと変わらない、賑やかな朝だった。


     ◇


 その日の昼休み。


 三年二組の窓際では、二枚のデザイン画が机いっぱいに広げられていた。


「……ねえ、真理ちゃん。やっぱりここ、揃えた方がよくない?」


 美奈が指さしたのは、ワンピースの裾だった。


 真理が描いた服は、左右で裾の長さが異なっている。


 右側は膝の辺りまで。左側はそこから少し長く伸び、斜めの線を描いていた。


 全国高校服飾コンテスト。


 そのテーマである「変化」を、どう服の形に表すか。


 二人は何日も考え、何枚ものデザイン画を描き直してきた。


 その中で真理が特に気に入っていたのが、この裾の形だった。


「ほら、こっちの方がすっきりするしさ」


 美奈は別の紙を重ね、左右の長さが揃った形を見せた。


「作るのも簡単そうじゃん。変に引っかかったりもしないし」


「…………」


 真理は黙って二枚の絵を見比べた。


 しばらくして、ゆっくり首を横に振る。


「……嫌」


「……え?」


「そこは、変えたくない」


 美奈の指が止まった。


「え、でもさ。こっちの方が着やすそうじゃない?」


「……うん」


「じゃあ、こっちにしようよ」


「……嫌なの」


「…………」


 美奈は少しだけ眉を寄せた。


「真理ちゃん、どうしたの?」


「……どうもしないよ」


「だって、いつもは一緒に考えてくれるじゃん」


「……考えてるよ」


 真理は自分のデザイン画を引き寄せた。


「でも、この線は残したいの」


「なんで?」


「……好きだから」


「いや、好きなのは分かるけどさ」


 美奈は裾の部分を指さした。


「これ、実際に作るんだよ? 絵のままじゃないんだから」


「……分かってる」


「だったら、動きやすい方がいいじゃん。裾が変に絡まったら困るし」


 真理は返事をしなかった。


 美奈も引き下がらない。


「せっかくコンテスト出るんだからさ、ちゃんと着られる服にしたいんだよ、あたし」


「……私もだよ」


「じゃあ、なんでそこだけ変えられないの?」


 真理は鉛筆を手に取った。


 机の隅に置いてあった別の紙を広げる。


 そこには、同じワンピースの裾だけを描き直した小さな絵が並んでいた。


 まっすぐなもの。


 緩やかに斜めになったもの。


 途中で角度を変えたもの。


 何度も消しゴムをかけた跡が残っている。


「……最初は、まっすぐだったの」


「……うん」


「でも、それだと……何だか違うなって」


 真理は、一番端に描かれた絵を指さした。


「こっちを短くして、こっちを長くしたら、歩いたときに違う形に見えるかなって思ったの」


「…………」


「ずっと描き直して……やっと、これがいいって思えたから」


 真理は顔を上げた。


「……そこは変えたくない」


 美奈は口を開きかけた。


 しかし、そのまま少し黙った。


 真理がここまで一つの形にこだわる姿を、美奈はあまり見たことがなかった。


 けれど、それで疑問が消えたわけではない。


「……でもさ、真理ちゃん」


「……うん」


「その形で作って、ちゃんと歩けるか分かんないじゃん」


「…………」


「作り方だって分かんないし。そこ考えないで決めちゃうのは違うと思う」


「……考えてないわけじゃないよ」


「じゃあ、どうやって作るの?」


「……それは」


 真理の声が小さくなる。


「……まだ、分からないけど」


「ほら!」


 美奈の声が少し大きくなった。


「分かんないままじゃ、作れないじゃん!」


「……でも」


「何?」


「……私だって、ちゃんと考えて描いたんだよ」


 その言葉に、美奈は黙った。


 真理の声は大きくなかった。


 怒鳴ったわけでもない。


 ただ、いつもよりはっきりしていた。


「……美奈ちゃんの言うことも分かるけど」


 真理はデザイン画から手を離さなかった。


「だからって、全部変えたくない」


「……全部なんて言ってないじゃん」


「……でも、一番大事なところだから」


「…………」


 昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。


 二人とも、すぐには動かなかった。


 先に紙を片づけ始めたのは美奈だった。


「……とりあえず、午後の授業始まるし」


「……うん」


「またあとで考えよう」


「……うん」


 いつもなら、次に試すことを決めて笑い合う二人だった。


 けれど今日は、どちらも何も決められなかった。


 放課後になっても、二人の意見は平行線のままだった。


『……なるほどねぇ』


 三年二組の教室。


 リンは二枚のデザイン画を前に、腕を組んでいた。


 向かいには真理と美奈が座っている。


 昼休みのことが気になり、リンの方から声をかけたのだった。


『つまり、小川さんはこの斜めの線を残したい』


「……はい」


『で、片岡さんは実際に着たときのことが心配』


「そう! だってさ、せっかく作っても動きにくかったら困るじゃん!」


『うん。それは分かる』


「でしょ?」


『でも、小川さんがこの形を気に入ってるのも分かるんだよね』


「……そうなんです」


 真理が小さく頷いた。


「私、この形にするまで、何回も描き直したので……」


『うんうん』


「でもさ、凛ちゃん」


 美奈が身を乗り出した。


「それだけじゃ服って作れないでしょ?」


『……まあ、そうだよね』


「ほら!」


「……でも、まっすぐにしたら、私が考えてたのと違う服になっちゃう」


「だからさぁ……!」


『はい、ちょっと待った!』


 リンは両手を上げた。


 美奈と真理が口を閉じる。


『……えーっと』


 二人の顔を見る。


 どちらも真剣だった。


 真理は自分のデザインを守りたい。


 美奈は、実際に着られる服を作りたい。


 どちらかが適当なことを言っているわけではない。


(……いや、難しくない? これ)


 リンはもう一度、デザイン画へ目を落とした。


 斜めになった裾。


 確かに、形としては面白い。


 けれど、これを実際の布で作ったとき、どうなるのだろう。


 重さは。


 広がり方は。


 歩いたときの動きは。


(……全然分かんない)


 リンは服を買うのは嫌いではなかった。


 むしろ、かわいい服を見るのは好きだ。


 だが、着ることと作ることは別問題である。


『……ねえ、これってさ』


「うん?」


『斜めのまま、動きやすくするとか……できないの?』


「それが分かんないから困ってるんじゃん!」


『……ですよねぇ』


 美奈が頬を膨らませる。


「凛ちゃん、何かいい方法ないの?」


『……うーん』


「先生でしょ?」


『先生だって、何でも知ってるわけじゃないよ!』


「えーっ!」


 美奈が大げさに肩を落とす。


 普段なら、真理もここで笑ったかもしれない。


 しかし今日は、デザイン画に視線を落としたままだった。


 リンはその横顔を見た。


『……小川さん』


「……はい」


『この形、そんなに気に入ってるんだね』


「…………」


 真理は少し迷ってから頷いた。


「……はい」


『そっか』


 今度は美奈を見る。


『片岡さんも、ちゃんと着られるものにしたいんだよね』


「……うん」


『……そっかぁ』


 二人はリンを見つめた。


 何か答えが返ってくるのを待っているようだった。


 けれど、リンにはその答えが見つからなかった。


『……ごめん。今、あたしにも分かんない』


「…………」


『どっちかに我慢してもらえば早いんだろうけど、それでいいとも思わないし』


 リンはデザイン画を机の中央へ戻した。


『ちょっと、あたしにも考えさせて』


 美奈は小さく息を吐いた。


「……分かった」


 真理も頷いた。


「……ありがとうございます、凛先生」


『いやいや、何もできてないから』


 リンは苦笑した。


 二人はデザイン画を丁寧に片づけ、教室を出ていった。


 扉が閉まる。


 静かになった教室で、リンはしばらく動かなかった。


(……うーん)


(何とかしてあげたかったんだけどなぁ)


 机の上には、二人が消し忘れた小さな消しゴムのかすが残っていた。


 リンはそれを指先で集め、屑入れに捨てた。


 窓の外では、運動部の掛け声が聞こえている。


 少し考え込んでから、リンは鞄を持ち上げた。


 まだ、片づけておきたい仕事があった。


     ◇


 夕方の校舎は、昼間よりもずっと静かだった。


 リンは職員室へ戻る途中、武道場の前で足を止めた。


 明かりがついている。


(……あれ? まだ誰かいる?)


 部活動の時間は、もう終わっているはずだった。


 リンはそっと入口から中を覗いた。


 広い道場の中央に、一人の男子生徒が座っていた。


 佐伯大輔だった。


 背筋をまっすぐ伸ばし、正座したまま目を閉じている。


 両手は腿の上。


 呼吸は静かで、ほとんど動かない。


 リンは声をかけようとして、やめた。


(……黙想、かな)


 荒川の指導で、生徒たちが稽古の前後に行っている姿は何度も見た。


 けれど、一人きりの道場で黙想する佐伯を見るのは初めてだった。


 リンは入口の脇に立ったまま、しばらくその姿を眺めていた。


 窓から差し込む夕日が、磨かれた床に長い四角形を作っている。


 遠くから野球部の声が聞こえた。


 やがて佐伯が、ゆっくりと目を開いた。


「……凛先生」


『あっ、ごめん。邪魔しちゃった?』


「いえ」


 佐伯は小さく首を振った。


「もう終わるところだったので」


『そっか。遅くまで頑張ってるね』


「……はい」


 佐伯は立ち上がろうとしたが、途中で動きを止めた。


 何かを考えるように視線を落とす。


 リンはそれに気づいた。


『……どうかした?』


「…………」


 佐伯は少しだけ迷った。


 それから、床に視線を向けたまま口を開いた。


「……先生」


『うん』


「俺、今でも怖いんです」


 リンは黙って続きを待った。


「東央大学の特待生に……選ばれなかったらって」


 佐伯の声は静かだった。


「挑戦するって決めたことは、後悔してません」


『……うん』


「大学で空手を続けたいって気持ちも、変わってないです」


 そう言ってから、佐伯は膝の上で手を握った。


「でも……」


 少しだけ、言葉が途切れる。


「もし駄目だったらって考えると……」


 リンは佐伯の顔を見た。


 普段の稽古では、どんなに苦しくても前を向こうとする生徒だった。


 東央大学の話をしたときも、自分の意思ではっきり挑戦を選んだ。


 その佐伯が、今はどこか頼りなく見えた。


「……母さんとか、弟たちの顔が浮かぶんです」


『…………』


「家のこと考えると、俺が大学に行くなんて……やっぱり贅沢なんじゃないかって」


 佐伯は小さく笑った。


 けれど、その笑顔には力がなかった。


「決めたはずなのに、また迷いそうになるんです」


『……そっか』


 リンはそれだけ答えた。


 佐伯には、家族を支えたいという気持ちがある。


 それと同じくらい、自分の夢を諦めたくないという気持ちもある。


 その両方が本当だから、簡単には割り切れないのだろう。


「……情けないですよね」


『え?』


「凛先生みたいに、心も身体も強ければ……こんなに迷わないんでしょうね」


 佐伯は顔を上げた。


 その目には、まっすぐな尊敬があった。


 リンは、すぐには答えられなかった。


 佐伯が見ているのは、空手に打ち込んできた山元凛だ。


 強くて、真面目で、何事にも迷わず向き合えそうな教師。


 でも。


(……あたし、そんなに強くないんだけどなぁ)


 今日の真理と美奈の顔が浮かんだ。


 どちらも真剣だった。


 どちらの気持ちも分かった。


 それなのに、リンは何一つ解決できなかった。


 この時代へ来てから、そんなことは何度もあった。


 何が正解なのか分からない。


 教師として、どうするべきなのか迷う。


 自分の判断が、生徒にとって本当に良かったのかも分からない。


 リンは静かに息を吐いた。


『……迷うよ』


 佐伯が目を瞬かせた。


「……え?」


『あたしだって、迷うことばっかりだよ』


「……先生でも、ですか?」


『うん』


 リンは少し笑った。


『今日だって、どうしたらいいか分かんなかったこと、あったし』


「……そうなんですか」


『そうだよ。毎日、知らないことばっかり』


 佐伯は意外そうな顔をした。


 リンはその表情を見て、また小さく笑う。


『……佐伯さんさ』


「はい」


『怖いって思っちゃ駄目なの?』


「……え?」


『いや、だって。怖いんでしょ?』


「……はい」


『それ、仕方なくない?』


 佐伯は少し黙った。


『特待生に選ばれるかどうかなんて、今のあたしたちには分かんないし』


「…………」


『大事なことだから、怖いんじゃないの?』


 佐伯は答えなかった。


 けれど、膝の上で握っていた手が、少しだけ緩んだ。


 リンは道場の中央へ視線を向けた。


 夕日が、先ほどより少し低く差し込んでいる。


 しばらくして、リンが口を開いた。


『……ねえ、佐伯さん』


「はい」


『あたしも一緒に黙想してもいい?』


「……え?」


 佐伯が顔を上げる。


『いや、何か……ちょっと座ってみたくなっちゃった』


「…………」


『駄目?』


 佐伯は一瞬きょとんとした。


 それから、ほんの少し笑った。


「……いえ。どうぞ」


『ありがと』


 リンは靴を脱ぎ、道場へ入った。


 佐伯から少し離れたところに腰を下ろす。


 正座をして、両手を腿の上に置いた。


 佐伯の姿勢をちらりと横目で確認する。


(……背筋は、こんな感じ?)


 慣れない姿勢に、膝が少し突っ張った。


(……これ、何分くらいやるんだろ)


 思わずそんなことを考える。


 けれど、隣の佐伯はもう静かに目を閉じていた。


 リンも、それにならった。


 目を閉じると、道場の音が少しだけ近くなった気がした。


 外を吹く風。


 遠くの掛け声。


 どこかで鳴る、ボールの弾む音。


 リンはゆっくり息を吸った。


 吐いた。


 目を閉じたからといって、急に頭の中が静かになるわけではない。


 真理のデザイン画が浮かんだ。


 美奈の困った顔も浮かんだ。


 自分には分からないことが、まだたくさんある。


 どうすれば二人が納得できるのだろう。


 そんなことを考えて、リンは小さく息を吐いた。


(……あ、また考えてる)


 少しおかしくなった。


 目を開けたくなったが、隣の佐伯は動かなかった。


 だからリンも、もう一度静かに呼吸を整えた。


 佐伯の不安を消してあげることはできない。


 特待生に選ばれると約束することもできない。


 真理と美奈の問題だって、まだ何も解決していない。


 それでも今は、隣に座っていることができる。


 リンはゆっくりと息を吐いた。


 佐伯もまた、静かに呼吸を続けていた。


 二人の間に、言葉はなかった。


 夕日が少しずつ傾いていく。


 誰もいなくなった武道場の真ん中で、二人は並んで目を閉じていた。


 その時間だけは、何かの答えを急ぐ必要もなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。