第四十三話「十五分の使い方」
二〇二六年(令和八年)六月一日、月曜日。
都立桜丘高校、三年一組。
「……話し合う時間、かぁ」
宮野千夏は、机の上に広げたノートを見つめていた。
金曜日の練習が終わってから、ずっと考えていたことがある。
練習中には気づかなかった問題。
その場では話しきれなかったこと。
そして、ほかの部員が何を考えてプレーしていたのか。
そうしたことを、全員で振り返る時間があってもいいんじゃないか。
必要だとは思う。
ただ、実際にどうやればいいのかは、まだ分からない。
「……毎日やるのかなぁ」
千夏は鉛筆を動かした。
――練習が終わってから、全員で話す。
その下に、もう一行。
――何分くらい?
「……うーん」
「何を悩んでるの?」
「うわっ!」
顔を上げると、朝倉紗奈が松葉杖をついて立っていた。
「……紗奈! びっくりした!」
「そんな驚かなくてもいいじゃん」
「いや、急に声かけるから!」
紗奈は小さく笑った。
「それ、金曜日に言ってた話し合い?」
「……うん」
千夏はノートを少し傾けた。
「週末に考えてみたんだけどさ」
「うん」
「十五秒ミーティングって、今起きたことをすぐ直すためのものでしょ?」
「そうだね」
「でも、金曜日みたいに、守備の位置を変えたら別のところに問題が出ることもあるじゃん」
紗奈が頷く。
「だから、一回のプレーだけじゃなくて、その日の練習を全部見て考える時間が欲しいなって」
「……なるほど」
「あとさ」
千夏はノートの端を指さした。
「失敗したことばっかりじゃなくて、うまくいったことも話したい」
「うまくいったこと?」
「うん。例えば、誰かの声かけで動きやすくなったとか。前よりレシーブの位置がよくなったとか」
千夏は少し照れくさそうに笑う。
「そういうのも、みんなで共有できたらいいかなって」
紗奈はしばらくノートを眺めた。
「……いいと思う」
「ほんと?」
「うん。たださ」
千夏の表情が引き締まる。
「それ、どれくらい時間が必要だと思う?」
「……え?」
「五分とか、十分とか。それとも、もっと?」
「……あ」
千夏はノートを見下ろした。
「そこが分かんないんだよね」
「そうだよね。全員が一回ずつ話すだけでも、結構時間かかると思うし」
「……うん」
「それに、話し始めたら一つのことに時間を使っちゃうかもしれない」
千夏は鉛筆を指先で回した。
「……十五分くらいあったら、できるかな」
「十五分?」
「うん。何となくだけど」
紗奈は少し考えた。
「短すぎるってことはないと思う。でも、全部を話そうとしたら足りないかもね」
「……そっか」
「私なら、話すことを絞るかな」
「……絞る?」
「全部を一回で解決しようとしないで、次の練習で何をするか、一つでも決まればいいんじゃない?」
千夏は顔を上げた。
「……なるほど」
「まあ、あくまで私なら、だけど」
紗奈は笑った。
「どんな時間にしたいかは、千夏が考えたことでしょ?」
「……うん」
「だったら、まずはその形で考えてみればいいと思う」
千夏はノートに一行書き足した。
――一度に全部決めようとしない。
「……ありがと、紗奈」
「どういたしまして」
紗奈は椅子に手を添え、ゆっくりと腰を下ろした。
右膝をかばいながら松葉杖を立てかける。
その動きを見て、千夏は少しだけ表情を曇らせた。
「……足、大丈夫?」
「うん。いつもどおり」
「……そっか」
紗奈は千夏のノートへ目を戻した。
「……あ、でも」
「ん?」
「その十五分、練習のどこに入れるつもり?」
「……えっと」
千夏の鉛筆が止まる。
「…………」
「……千夏?」
「……そこも、まだ」
紗奈が吹き出した。
「ちょっと!」
「ごめんごめん!」
「今から考えるところだったの!」
「はいはい」
千夏は頬を膨らませた。
けれど、すぐに自分でも笑ってしまった。
◇
昼休み。
千夏と水瀬結衣は、職員室を訪れていた。
「……十五分程度の振り返りですか」
藤沢和彦が、二人の持ってきたノートを見つめる。
「はい」
千夏が頷いた。
「まだ決めたわけじゃないんですけど、そのくらい時間があれば、みんなで話せるかなって」
「なるほど」
「でも、練習が全部終わってから十五分追加するんじゃなくて、今の練習時間の中でやりたいんです」
藤沢は隣にいた凛へ視線を向けた。
「リン先生は、どう思われますか?」
『そうですね……』
凛は腕を組んだ。
『話し合うこと自体はいいと思います。ただ、十五分を作るなら、その分どこかを短くする必要がありますね』
「……はい」
『今の練習で、最後の十五分は何をしていますか?』
千夏はノートを見た。
「えっと……サーブレシーブの確認とか、連係練習とか……日によって違います」
『そうですね』
藤沢が口を開いた。
「では、その時間をなくしても問題ないでしょうか?」
「……それは」
千夏は言葉に詰まった。
普段の練習が十分だとは思っていない。
もっとボールに触りたい部員もいるはずだ。
「……正直、分からないです」
藤沢は頷いた。
「それなら、皆さんにも聞く必要がありますね」
「……はい」
隣で聞いていた結衣が口を開いた。
「先生、ちょっといいですか?」
「はい。どうぞ」
「金曜日の練習で、守備の位置を変えたら、前よりよくなったところもあったんです。でも、攻撃に切り替えるところで遅れが出て」
結衣は手元のノートを開いた。
「その場では一つずつ直してたんですけど、練習が終わってから見返したら、別々の問題だと思ってたことがつながってる気がして」
「……なるほど」
「だから、次の練習を始める前に、一度みんなで整理できたらいいなって」
凛が頷いた。
『結衣の記録だけでなく、実際にプレーした部員の意見も聞くわけですね』
「はい」
『それは意味がありそうです』
凛は千夏へ目を向けた。
『ただし、練習時間を短くすることで困る部員がいないか、そこは確認してください』
「……はい!」
『それから、終わる時刻は変えないこと。話し合いが長引いたからといって、勝手に延長するのは認められません』
その言葉に、千夏は真剣に頷いた。
凛自身、以前は練習時間を増やすことばかり考えて、部員それぞれの事情を十分に聞かなかった。
同じことを繰り返すわけにはいかない。
藤沢が穏やかに言った。
「まず、今日の練習前に皆さんの意見を聞いてみましょう。賛成が多ければ、試しに一度やってみてもいいと思います」
「……本当ですか?」
「ええ。ただし、続けるかどうかは実際にやってから考えましょう」
「ありがとうございます!」
千夏が頭を下げた。
結衣も続く。
「ありがとうございます」
二人が職員室を出ていくと、凛は藤沢へ顔を向けた。
『藤沢先生』
「はい?」
『十五分って、短いようで結構長いですね』
「そうですね」
『でも、練習を十五分減らすとなると、やっぱり少し気になります』
藤沢は微笑んだ。
「私もです」
『……えっ』
「その十五分を使った方がいいのか、これまでどおり練習した方がいいのか。まだ分かりませんから」
『……そうですよね』
「だからこそ、一度試してみる価値があるのでしょう」
凛は少し考えた。
『……なるほど』
練習時間を増やせば強くなる。
かつては、そう信じて疑わなかった。
だが、練習の量と、その中で何を身につけたかは、必ずしも同じではない。
『……私も、勉強になります』
藤沢は穏やかに頷いた。
◇
放課後。
桜丘高校、体育館。
「……というわけで、今日はちょっと相談があります!」
千夏が部員たちの前に立った。
隣には結衣。
少し離れた場所には、松葉杖をついた紗奈が椅子に座っている。
「金曜日にも少し話したんだけど、練習の最後に、みんなで振り返る時間を作ってみたいと思ってます」
千夏は続けた。
「十五秒ミーティングは今までどおりやるよ。あれは練習中に、すぐ直したいことを確認するためのものだから」
部員たちが頷く。
「今回やりたいのは、その日一日を振り返って、次の練習で何をするか考えること」
一瞬、静かになった。
「それで、今日一回だけ、十五分くらい使って試してみたいんだけど……」
すると、一人の部員が手を挙げた。
「……それって、練習時間が短くなるってことですよね?」
「……うん」
千夏は頷いた。
「最後の十五分を使うから、ボールを使う時間は少し減る」
「……それはちょっと嫌かも」
別の部員が呟いた。
「私も。まだ全然できてないことあるし」
「十五分あったら、結構練習できるよね」
周囲から小さな声が上がる。
千夏は一瞬、口を開きかけた。
でも、そこで言葉を飲み込んだ。
「……うん。そうだよね」
部員たちが千夏を見る。
「私も、練習が減るのは不安なんだ」
「……え?」
「だから、絶対にこれがいいって決めたわけじゃなくて。みんながどう思うか聞きたい」
千夏は少し笑った。
「反対でも、ちゃんと言ってほしい」
すると、別の部員が手を挙げた。
「私はやってみたいかも」
「……ほんと?」
「うん。金曜日、守備の位置が変わってから、どう動けばいいか分からないことがあったし」
「私もそれあった!」
別の声が重なる。
「でも、練習中に止めて聞くほどじゃないかなって思って」
「……ああ」
千夏が頷いた。
結衣がノートを開いた。
「実は、金曜日の練習で気になったことが三つあったんだ」
結衣は記録を見せる。
「一つは、守備の位置が重ならなくなったこと。これは前よりよくなったと思う」
部員たちが頷く。
「でも、その分、前衛と後衛の間が空く場面があった。それと、ボールを拾ったあと、攻撃に切り替えるのが遅れた場面もあった」
「……あ、それ!」
一人の部員が声を上げた。
「私、前に出ようとしたら後ろが空いちゃう気がして、動けなかった!」
「私も!」
別の部員が続く。
「前に行った方がいいのか迷った!」
結衣が顔を上げる。
「……そうだったんだ」
「うん。外からだと分からなかった?」
「……そこまでは」
結衣は少し考えてから頷いた。
「記録には残ってなかった」
千夏が二人を見比べる。
「……ほら、こういうの!」
思わず声が大きくなった。
「こういう話をしたいんだよね!」
部員たちの間に笑いが起きる。
「千夏、声でかい!」
「……ごめん!」
千夏も笑った。
部員たちが次々と意見を口にする中、恵は黙って話を聞いていた。
「……メグは、どう思う?」
千夏が尋ねる。
「……あ、私は……」
恵は少し迷ってから、小さく答えた。
「……みんなで考える時間があるのは、いいと思います」
「そっか。ありがとう!」
そのとき、紗奈が手を挙げた。
「……千夏、一ついい?」
「うん!」
「私も少し気になることがある」
千夏が頷く。
「何?」
「話し合いの内容はいいと思う。でも、毎日十五分ってなると、練習メニューをかなり考え直さないといけないでしょ?」
「……うん」
「今まで最後にやってた確認練習にも意味があるから。それを全部なくすのは、ちょっと心配かな」
部員たちが頷いた。
千夏はしばらく考えた。
「……じゃあさ」
顔を上げる。
「今日は、一回だけ試してみない?」
「……一回?」
「うん。やってみて、やっぱり練習した方がいいって思ったら、また考えればいいし」
千夏は全員を見渡した。
「十五分が長すぎたら、短くしてもいいと思う」
藤沢が口を開いた。
「その進め方なら、私もいいと思います」
凛も頷いた。
『では、今日の終了時刻は変えず、最後の十五分を試しに使ってみましょう』
「……はい!」
千夏は大きく頷いた。
「じゃあ、今日は最後の十五分、お願いします!」
部員たちから返事が返った。
全員が完全に納得したわけではない。
それでも、まずは一度試してみることになった。
◇
練習が始まった。
いつものように、準備運動から基礎練習へ。
そして、守備の連係確認。
「……はい、次!」
千夏が声をかける。
ボールが前衛の横を抜けた。
後衛の部員が一歩前へ出る。
「私!」
声が上がり、レシーブがつながった。
しかし、次の攻撃ではタイミングが合わない。
「……ごめん!」
「大丈夫!」
千夏が手を叩いた。
「今の、ちょっと確認しよう!」
部員たちが集まる。
「後ろから前に出るとき、声が遅れたかな?」
「うん。次は早めに言う!」
「了解!」
短いやり取り。
十五秒ほどで、全員がそれぞれの位置へ戻った。
既存のミーティングは、今までどおり機能している。
その様子を、紗奈は体育館の端から見ていた。
「……いい感じ」
思わず呟く。
千夏の声かけは、以前より自然になった。
ただ指示を出すのではなく、相手が何に困っているかを確かめている。
結衣も、ノートに記録しながら選手たちの動きを追っていた。
そして。
「……はい! ここまで!」
千夏の声が響いた。
普段より十五分早い、実技練習の終了だった。
「……じゃあ、振り返り始めよう!」
部員たちが体育館の端へ集まる。
結衣がノートを用意した。
千夏は全員の顔を見渡した。
「……えっと、まずは今日うまくいかなかったことから……」
「はい!」
一人が手を挙げる。
「後衛の位置、まだちょっと分かりにくいです!」
「うん、そうだね!」
「あと、声かけも!」
「うんうん!」
「それから、攻撃に切り替えるところも!」
「……うん!」
千夏は頷きながら、次々と出てくる意見を聞いた。
結衣が急いでノートに書き込んでいく。
「待って。今の、もう一回言って」
「えっと、後衛の位置?」
「その前!」
「……声かけ?」
「そう、それ!」
結衣は鉛筆を動かした。
その間にも、別の部員が話し始める。
「あとさ、サーブレシーブも気になったんだけど」
「あ、それ私も!」
「……ちょっと待って!」
千夏が両手を上げた。
「一回、順番に話そう!」
しかし、今度は誰から話すかで少し時間がかかった。
後衛の位置について話していたはずが、いつの間にかサーブレシーブの話になり、さらに別の連係の話へと移っていく。
「……えっと、今どこまで話したっけ?」
千夏が首を傾げる。
結衣はノートを見下ろした。
「……後衛の位置と、声かけと、攻撃への切り替え。それからサーブレシーブ」
「……多いね」
「うん」
千夏は壁の時計を見た。
残り、五分。
「……えっ、もう!?」
思わず声が出た。
「まだ全然まとまってないじゃん!」
部員たちから苦笑が漏れる。
「だから十五分じゃ足りないって!」
「でも、最初の話が長かったんじゃない?」
「そもそも何を決めればいいのか分かんなかったし」
「……ああ、そっか」
千夏は口を閉じた。
確かに、そのとおりだった。
自分は話したいことを考えてきた。
でも、みんなに何を決めてほしいのか、最初にはっきり伝えていなかった。
「……千夏」
紗奈が静かに声をかけた。
「ちょっといい?」
「……うん」
「このあと、どうしたい?」
千夏は少し考えた。
「……せめて、一つくらい決めたい」
「うん」
「明日の練習で、何を直すか」
紗奈は頷いた。
「だったら、今出た意見の中から一つ選んでみたら?」
「……一つ?」
「全部を今日決めなくてもいいんじゃない?」
千夏は顔を上げた。
「……そっか」
紗奈は続けた。
「それに、金曜日からずっと気になってること、あるでしょ?」
「……攻撃への切り替え」
「うん」
「守備の位置を変えてから、そこが遅くなってる」
結衣が頷いた。
「記録でも、同じところが何回か出てた」
千夏は全員を見渡した。
「……じゃあ、明日はそこを意識して練習してみない?」
「攻撃への切り替え?」
「うん。レシーブしたあと、誰がどこに動くか。そこをもう一回確認したい」
一人の部員が頷いた。
「それなら、今日の練習でも気になってた」
「私も!」
千夏はほっと息を吐いた。
「……じゃあ、明日はそれで!」
結衣がノートに大きく書き込む。
――明日の課題:守備から攻撃への切り替え。
ちょうどそのとき、終了時刻になった。
「……はい! 今日はここまで!」
千夏が声をかける。
部員たちは立ち上がり、片づけを始めた。
十五分。
話したいことは、まだいくつも残っている。
それでも、明日何をするかは一つ決まった。
◇
練習終了後。
体育館では、部員たちが片づけを終えようとしていた。
「……結構難しかったね」
結衣がノートを閉じながら言った。
「うん……」
千夏は苦笑した。
「もっとスムーズに話せると思ってた」
「私も。記録を取るだけで結構大変だった」
「……だよね」
結衣は少し考えた。
「でも、聞けてよかったこともあった」
「……何?」
「前衛と後衛の間が空く理由。金曜日は、位置が悪いんだと思ってたけど」
「うん」
「実際には、後ろが空くのが怖くて前に出られない人もいたんだよね」
「……ああ」
「それって、位置だけ直しても解決しないかもしれない」
千夏が頷く。
「声かけとか、周りがどう動くかも関係あるもんね」
「うん」
結衣はノートを見下ろした。
「……記録だけじゃ、全部は分かんないね」
千夏は笑った。
「だから、みんなで話すんじゃん」
「……そうだね」
二人は顔を見合わせた。
少し離れたところでは、紗奈が椅子に座り、ノートを開いていた。
そこには、今日の振り返りで出た意見がいくつも書かれている。
――後衛の位置。
――声かけ。
――攻撃への切り替え。
――サーブレシーブ。
紗奈は一つずつ目で追った。
自分が導入した十五秒ミーティングは、今も練習中に役立っている。
その場で気づいたことを共有し、すぐに次のプレーへ生かす。
けれど、今日の話し合いでは、それだけでは見えてこなかったことが出てきた。
誰かが動かなかった理由。
声を出せなかったときの迷い。
ほかの選手が何を見ていたのか。
紗奈は鉛筆を置いた。
「……面白いな」
小さく呟く。
自分なら、もっと短くまとめられたかもしれない。
話が脱線する前に止めて、先に課題を整理することもできたはずだ。
でも、今日の千夏たちは、途中で失敗しながら自分たちで一つの答えを出した。
そのことが、少し嬉しかった。
「……紗奈!」
顔を上げると、千夏が近づいてきた。
「今日、どうだった?」
「……振り返り?」
「うん」
紗奈はノートを閉じた。
「よかったと思うよ」
「……ほんと?」
「うん。最後にちゃんと明日の課題も決まったし」
「でも、時間足りなかった」
「そうだね」
「それに、途中で何の話してたか分かんなくなっちゃったし」
「うん」
千夏は少し肩を落とした。
「……やっぱり、やり方考え直した方がいいかな」
紗奈はすぐには答えなかった。
「千夏は、どう思ってる?」
「……私?」
「うん。今日やってみて」
千夏は少し考えた。
「……続けてみたい」
紗奈が頷く。
「うん」
「でも、毎日十五分って決めるのは、まだ早いかなって」
「……そうだね」
「だから、藤沢先生にも相談して、もう少し試してみたい」
紗奈は微笑んだ。
「いいと思う」
千夏は少し安心したように笑った。
「……ねえ、紗奈」
「ん?」
「今日みたいに、話がまとまらなくなったときって、どうしたらいいと思う?」
紗奈は千夏を見た。
今度は、千夏の方から助言を求めている。
「……そうだなぁ」
少し考えてから、答えた。
「最初に、今日決めたいことを一つだけ伝えておくといいかも」
「……最初に?」
「うん。例えば、今日だったら『守備から攻撃への切り替えについて、次の練習で試すことを決める』って」
「……ああ!」
「そうすれば、ほかの話が出ても、戻る場所があるでしょ?」
千夏は大きく頷いた。
「なるほど! それいいね!」
「あと、全員の意見を一回で聞こうとしなくてもいいと思う」
「……え?」
「最初に近くの人同士で少し話して、それから全体で共有するとか」
「……あ、それなら話しやすいかも!」
「ただ、人数や時間によって変わるから。そこは藤沢先生とも相談してみて」
「うん!」
千夏は笑った。
「ありがと、紗奈!」
「どういたしまして」
千夏が結衣のもとへ戻っていく。
紗奈はその背中を見送った。
体育館の床には、もうボールが転がっていない。
部員たちも次々と帰り支度を終えていく。
紗奈は椅子の横へ立てかけた松葉杖を手に取った。
立ち上がるとき、右膝に負担をかけないよう慎重に身体を動かす。
さっきまで千夏たちが走り回っていたコート。
自分も、あの中にいたかった。
レシーブをして、声を出して、仲間と一緒に次のボールを追いかけたかった。
紗奈は一瞬、コートを見つめた。
そして、手元のノートへ視線を落とす。
今日、部員たちが考えたこと。
自分が気づかなかったこと。
千夏が最後に決めたこと。
まだ、全部がうまくいっているわけではない。
それでも。
「……明日、どうなるかな」
紗奈は小さく笑った。
少し先では、千夏と結衣がもう明日の練習について話している。
紗奈は松葉杖をつき、二人の方へ歩き始めた。
十五分で決められたことは、たった一つ。
けれど、その一つを試す明日が、少し楽しみだった。




