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第四十二話「挑戦するための準備」

 二〇〇〇年(平成十二年)五月二十二日、月曜日。


 都立青葉高校、職員室。


『……あれ?』


 山元凛の席で、リンは一枚の紙を裏返した。


 もう一度、表に戻す。


『……これ、どこに出すんだろ』


 机の上には、全国高校生ファッション創作コンテストの募集要項と、校内で使用する申請用紙が並んでいた。


 先週、真理と美奈が参加を決めたコンテスト。


 週末の間に、リンなりに必要なことを整理してきたのだが、いざ手続きを進めようとすると分からないことが出てくる。


 応募にはデザイン画と企画書が必要。


 学校の名前で参加する以上、校内での確認も必要になる。


 さらに、家庭科室を使うなら、授業やほかの活動との調整もしなければならない。


『……申請って、こんなに種類あるの?』


 リンが紙を並べ直していると、背後から声がした。


「山元」


『……はいっ!』


 振り返ると、荒川剛が立っていた。


「何をしている」


『あ、コンテストの手続きについて確認してまして』


「……そうか」


 荒川は机の上へ視線を落とした。


「藤崎先生には話を通したのか」


『はい。技術的なことは藤崎先生に相談することになっています。ただ、学校の許可とか、家庭科室の利用については、まだ正式に決まっていなくて』


「ならば、その確認を先にしろ」


『……ですよね』


「生徒がやる気になっているからといって、何でも自由にできるわけではない」


『はい』


「必要な手順を踏め。それも教師の仕事だ」


 リンは手元の用紙へ目を戻した。


『……あの、荒川先生』


「何だ」


『家庭科室の予定とか、あたしだけじゃ分からないことも多いんですけど……』


「分からんなら、担当者に聞けばいい」


『……あ』


「お前が全部知っている必要はない。必要なことを確認し、責任を持って進めろ」


『……はい!』


 荒川は頷き、自分の席へ向かった。


 リンは手元の紙を一枚ずつ重ねた。


(……そっか。あたしが全部やる必要はないんだ)


 申請については学校へ確認する。


 技術面は藤崎に相談する。


 自分は二人が活動できるように、必要な連絡と調整を進める。


 それなら、少しは見通しが立ちそうだった。


『……よし』


 リンは用紙を持って立ち上がった。


 ところが。


「山元」


『……はい?』


「今日の放課後も、武道場だぞ」


『……もちろんです!』


「忘れるな」


『忘れてませんって!』


 荒川はそれ以上何も言わず、席へ戻った。


 リンは用紙を抱えたまま、その背中を見送る。


(……絶対、ちょっと疑われてる)


 まあ、無理もない。


 先週から自分が服飾コンテストの話ばかりしているのは事実だった。


『……両方、ちゃんとやりますよーだ』


 聞こえない程度に呟き、リンは職員室を出た。


     ◇


 昼休み。


 三年二組の教室へ戻ると、小川真理と片岡美奈が一つの机を囲んでいた。


 机の上には、何枚もの紙が広げられている。


「だから、こっちの形の方が絶対かわいいって!」


「うん。でも、これ……どうやって作るの?」


「……そこは、ほら」


「ほら?」


「……頑張って?」


「ええっ!?」


『……何の相談?』


 二人が同時に顔を上げた。


「あっ、凛先生!」


「凛ちゃん! ちょうどよかった!」


 美奈が一枚の紙を持ち上げた。


「見て見て! 昨日、いろいろ考えてきたんだ!」


『おおっ! もう描いてきたの?』


「うん! 真理ちゃんと電話でも話してさ!」


 紙には、数種類の衣装が描かれていた。


 裾が大きく広がった服。


 左右で色が違う服。


 上から別の布を重ねるようなデザインもある。


『……へえ。結構いっぱいあるね』


「でしょ!」


 美奈が得意げに胸を張る。


「テーマが『変化』だからさ、見た瞬間に変わったって分かるような服がいいかなって」


『なるほどね』


 リンは一枚の絵を指さした。


『これ、左右で全然違うんだ』


「そう! 片方はかわいい感じで、もう片方はちょっと大人っぽくしてみたの!」


「でもね、凛先生」


 真理が別の紙を差し出した。


「これを実際に作ろうと思うと、少し難しい気がして……」


『……というと?』


「左右で布の厚さが違うし、形も違うから。ちゃんと着られるようにするには、考えないといけないところが多くて」


「だから、それは作りながら考えればいいじゃん!」


「でも、作ってから無理だったら……」


「うーん……」


 美奈が腕を組んだ。


「真理ちゃん、心配しすぎじゃない?」


「……そうかな」


 真理が紙へ視線を落とす。


 リンは二人の絵を見比べた。


 美奈の描いた服は、確かに目を引く。


 一方、真理が指摘していることも分かる。


 絵に描くことと、実際に作ることは違うのだろう。


『……じゃあさ』


 二人がリンを見る。


『一番やりたいことって、何?』


「……え?」


 美奈が瞬きをした。


『全部のアイデアを一つの服に入れなくてもいいんじゃない? 二人がこの服で何を表現したいのか、そこから考えてみるとか』


「……何を表現したいか」


 真理が小さく繰り返す。


「私は……着る人が変わる、みたいな感じがいいなって思ってた」


「着る人が?」


「うん。服が変わるっていうより、着た人の雰囲気が変わるような……」


 美奈が紙へ目を落とした。


「……あー、なるほど」


 そして、自分の描いた左右非対称の衣装を見つめる。


「私はさ、見た目がガラッと変わる方が面白いかなって思ってたんだよね」


『どっちも『変化』ではあるよね』


「……うん」


 真理が頷く。


 美奈はしばらく考えていたが、やがて紙を一枚取り上げた。


「じゃあさ、真理ちゃん」


「……何?」


「着た人の雰囲気が変わるって、例えばどういうこと?」


「えっと……」


 真理は鉛筆を手に取った。


「同じ服でも、形や見せ方を少し変えるだけで、印象が変わるとか……」


「……あ、それ面白いかも」


 美奈が身を乗り出す。


「じゃあ、最初はこういう形にして、ここを変えたら別の感じになるとか?」


「……うん。そういうのもいいかも」


 二人が紙の上に線を引き始めた。


 リンはその様子を見ながら、机の端に置かれた別のデザインへ目を向けた。


『……ねえ、これも候補に残しておかない?』


「え?」


『今すぐ一つに決めなくても、二人でいくつか描いて、藤崎先生にも見てもらったらいいと思う』


「……あ、そっか!」


 美奈が頷いた。


「先生に聞けば、作れるかどうかも分かるもんね!」


『うん。でも、最終的に決めるのは二人だからね』


「分かってるって!」


 美奈は笑い、真理の方を向いた。


「じゃあ、今日もうちょっと考えよ!」


「うん!」


 真理が頷く。


 リンは二人の前に置かれた紙を眺めた。


 朝から確認していた申請書類とは、随分違う。


 こちらには、まだ何も決まっていない線がたくさん引かれていた。


     ◇


 放課後。


 青葉高校、武道場。


「……やめ!」


 荒川の声が響いた。


 佐伯大輔と相原菜月が動きを止める。


 二人の道着には汗が滲んでいた。


「佐伯」


「押忍!」


「今の攻撃、なぜ二度目の踏み込みが遅れた」


「……相手の出方を見ようとして、一度止まりました」


「そうだ。見極めることと、動きを止めることは違う」


「押忍!」


「相原」


「はい!」


「お前はどう見た」


 菜月は少し考えた。


「……佐伯先輩が止まったとき、次に来ると思ったんですけど、来なくて」


「それで?」


「先に動こうとしました。でも、そのときにはもう佐伯先輩が動いていて……」


「相手の動きを読むことに意識が向きすぎたな」


「……はい!」


「観察するのはいい。だが、それで自分の動きが遅れては意味がない」


「押忍!」


 荒川は二人を見渡した。


「次の合同練習では、相手が何度も変わる。同じ間合い、同じ動きに慣れる時間はない」


 佐伯が姿勢を正す。


「……はい」


「自分の得意な形を持つことは大切だ。だが、それしかできんのでは勝てん」


「押忍!」


「続けろ」


 二人が再び礼を交わした。


 武道場の端では、リンが組み手の順番を確認していた。


 待機している部員へ水分補給を促し、様子がおかしい者がいないかを見る。


 荒川から頼まれていた仕事だった。


 組み手が始まる。


 菜月が先に踏み込んだ。


 佐伯が距離を取る。


 菜月は追いかけようとしたが、途中で足を止めた。


 次の瞬間、佐伯が前へ出る。


「……っ!」


 菜月が反応する。


 間一髪で距離を外した。


「やめ!」


 荒川の声で二人が止まった。


「相原。今の判断は悪くない」


「……はい!」


「だが、相手が動くのを待ちすぎるな」


「押忍!」


 菜月は額の汗を拭った。


「……佐伯先輩」


「何だ?」


「さっき、私が追いかけてくると思いました?」


「……ああ」


「やっぱり!」


 菜月は悔しそうに声を上げた。


「完全に読まれてた!」


「前の組み手でも同じところで前に出てきたからな」


「……えっ」


「お前、気づいてなかったのか?」


「……う」


 菜月が言葉に詰まる。


 佐伯は道着の襟元を直した。


「相原。お前、人の動きはよく見てるだろ」


「……はい」


「だったら、自分がどう動いてるかも考えた方がいいんじゃないか」


「…………」


 菜月は数秒、佐伯を見つめた。


 そして、勢いよく頷いた。


「……分かりました!」


「……おう」


「じゃあ先輩、もう一本お願いします!」


「……少し休ませろ」


「えーっ!」


「水飲んでからだ」


「……はい!」


 菜月が渋々給水場所へ向かう。


 リンは二人の会話を聞きながら、記録用紙へ目を落とした。


 前回の合同練習が終わってから、佐伯の動きは少しずつ変わっている。


 自分には技術的な良し悪しまでは分からない。


 それでも、以前ならすぐに踏み込んでいた場面で一度距離を測ったり、相手の反応によって攻撃を変えたりすることは見て取れた。


『……佐伯さん』


 給水を終えた佐伯が振り返った。


「はい?」


『次の合同練習、楽しみ?』


 佐伯は少し考えた。


「……楽しみ、というより」


『うん』


「早くやってみたいです」


『……そっか』


「前は、相手の動きについていけないことが多かったんで。今度は、どこまでできるか確かめたいです」


 リンは頷いた。


『いいね。それ』


「……はい」


『あたしも応援してるよ』


「ありがとうございます」


 佐伯が頭を下げる。


 その横から、菜月が顔を出した。


「凛先生!」


『ん?』


「私もです!」


『……え?』


「私も応援してください!」


『あははっ! もちろん、相原さんも応援してるよ!』


「やった!」


「……お前、声でかいぞ」


「だって佐伯先輩だけずるいじゃないですか!」


「……別にずるくないだろ」


 佐伯が呆れたように返す。


 リンは二人を見て笑った。


 すると。


「……佐伯、相原!」


 荒川の声が飛んだ。


「休憩は終わりだ。次の組み手に入れ!」


「押忍!」


 二人が駆け足で道場の中央へ戻る。


 リンも記録用紙を持ち直した。


『……さて、こっちも仕事しよ』


     ◇


 稽古が終わる少し前。


 武道場の入口に、事務職員が姿を見せた。


「山元先生。こちら、お預かりしていた書類です」


『……あ、ありがとうございます!』


 リンが受け取った封筒には、東央大学の名前が印刷されていた。


『……あっ!』


 すぐに荒川のもとへ向かう。


『荒川先生! 東央大学から書類が届きました!』


 荒川が手を差し出した。


「見せてみろ」


『はい!』


 封筒を開き、中の用紙を取り出す。


 次回合同練習の実施案内。


 参加校への連絡事項と、当日の集合時刻。


 そして、高校生による総当たり組み手についての説明が記されていた。


「……日程も決まったか」


『はい。来月ですね』


 荒川は書類を読み進めた。


「参加する高校生の人数は、各校の返答を受けて調整するようだな」


『じゃあ、まだ対戦相手は決まっていないんですね』


「そういうことだ」


 荒川は紙を戻した。


「佐伯と相原には、次の稽古までに確認事項を伝える。お前は学校側への連絡を進めてくれ」


『分かりました!』


「参加に必要な書類もある。漏れのないようにしろ」


『はい!』


 リンは手帳を開いた。


 東央大学への返答。


 学校側との確認。


 当日の引率と集合時刻の調整。


 書くことが増えていく。


(……うわ。結構ある)


 だが、手順ははっきりしていた。


 先週の電話では、まだ具体的な日程さえ分からなかった。


 今は、次に何をすればいいか分かる。


「……山元」


『はい?』


「浮かれるなよ」


『……えっ!?』


 荒川は書類の一箇所を指で叩いた。


「大学から声がかかったことと、結果を出せることは別だ」


『……はい』


「佐伯も相原も、そのことは分かっているはずだ」


 リンは武道場の中央へ目を向けた。


 二人はほかの部員とともに、最後の稽古へ取り組んでいた。


『……そうですね』


 荒川は書類を封筒に戻した。


「ならば、我々は必要な準備を進めるだけだ」


『はい!』


 リンは封筒を受け取り、手帳へもう一つ書き足した。


 ――合同練習、正式案内確認。


     ◇


 夕方。


 職員室へ戻ったリンは、机の上に二つの書類を並べていた。


 一つは、東央大学の合同練習に関するもの。


 もう一つは、ファッションコンテストの校内申請についてのものだった。


『……よし。こっちは明日確認して、こっちは……』


 リンが手帳と書類を見比べていると、隣から声がした。


「あら。まだお仕事中?」


『……あ、藤崎先生!』


 藤崎千尋が立っていた。


「随分たくさん広げてますね」


『そうなんですよ。何から片づけようかと思って』


「ふふっ。忙しそう」


『……まあ、ちょっとだけ』


 リンは苦笑した。


『そうだ、藤崎先生。コンテストの件なんですけど』


「ええ」


『今日、小川さんと片岡さんがデザインをいくつか見せてくれたんです』


「あら、もう?」


『はい。まだ決定ではないんですけど、結構いろんなアイデアが出てて』


「それは楽しみですね」


『ただ、二人で考え方がちょっと違うみたいで』


「……違う?」


『片岡さんは、見た目のインパクトを大事にしてて。小川さんは、実際に着られるかどうかとか、形にすることも気にしてるんです』


 千尋は頷いた。


「なるほど」


『だから、どっちの考えを優先するかで、少し迷ってるみたいなんですよね』


「……それは、いいことかもしれませんね」


『……え?』


「だって、二人とも同じことしか考えていなかったら、気づかないこともあるでしょう?」


『……ああ』


「片岡さんが思いついたものを、小川さんが形にする方法を考える。逆に、小川さんの考えたものを、片岡さんがもっと面白くすることだってできるかもしれません」


『……なるほど』


「もちろん、意見が違えば難しいこともありますけどね」


 千尋は机の上の書類へ目を向けた。


「二人で一つのものを作るなら、お互いの考えを伝えることも大事な勉強ですよ」


『……そうですね』


 リンは昼休みの二人を思い出した。


 最初は、どちらの案がいいかを話していた。


 それが途中から、どうすれば両方の良さを生かせるかという話になっていた。


『……あたし、つい正解を探そうとしちゃうんですよね』


「正解、ですか?」


『はい。どのデザインなら審査に通りそうか、とか。どれが一番作りやすいか、とか』


「それも大事ですよ」


 千尋は椅子を引き、リンの隣に腰を下ろした。


「ただ、今回は二人の作品ですからね」


『……はい』


「山元先生が選んでしまったら、二人とも少し残念でしょう?」


『……あはは。それはそうかも』


 リンは手元の申請書を一枚取り上げた。


『じゃあ、あたしはこっちを頑張ります』


「ええ。家庭科室の予定については、こちらで確認しておきますね」


『ありがとうございます!』


「ただし、授業で使う時間は空けられませんから、その点は二人にも伝えてくださいね」


『はい!』


 千尋が立ち上がる。


 帰り際、ふとリンの机を振り返った。


「……山元先生」


『はい?』


「空手部の方も、忙しいんでしょう?」


『あ、はい。来月また東央大学との合同練習があるんです』


「そうなんですね」


『しかも今回は、参加する高校生同士で総当たり戦をするみたいで』


「あら。大変そう」


『そうなんですよ。佐伯さんも相原さんも、すごく張り切ってて』


 リンは笑った。


『あの二人、今日もずっと組み手してました』


「ふふっ。元気ですね」


『ほんとに』


 千尋は穏やかに笑った。


「じゃあ、山元先生も体調には気をつけてくださいね」


『……はい! 藤崎先生も!』


「ありがとうございます。では、お先に失礼します」


『お疲れさまでした!』


 千尋が職員室を出ていく。


 リンは椅子へ座り直した。


 机の上には、まだ書類が残っている。


 合同練習の準備。


 コンテストの申請。


 それに、担任としての仕事もある。


(……さて。どれから終わらせようかな)


 リンは少し考えて、合同練習の案内を手元へ引き寄せた。


 学校への確認が必要な項目に印をつける。


 次にコンテストの申請書を確認し、分からないところへ付箋を貼った。


 どちらも、今日中に全部終わるわけではない。


 それでも、明日何をすればいいかは分かる。


『……うん。こんなもんかな』


 手帳を閉じようとしたとき、昼休みに美奈が見せてくれたデザインを思い出した。


 あの服を本当に作ることになったら、どんなものができるのだろう。


 それから、佐伯と菜月。


 次の合同練習では、どんな組み手を見せてくれるのだろう。


 リンは手帳をもう一度開いた。


 二つの予定の横に、それぞれ小さな丸印をつける。


 先週までは、どちらも予定にすらなかったことだ。


『……忙しくなるなぁ』


 誰もいない机に向かって呟く。


 それから、鞄に書類をしまい始めた。


 最後に残ったのは、二人の生徒から預かったコンテストの募集要項だった。


 リンはそれを折らないようにファイルへ挟む。


『……どんな服になるんだろ』


 今度は、返事をしてくれる相手はいない。


 それでも、リンは少し笑っていた。

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