第四十一話「十五秒の、その先へ」
二〇二六年(令和八年)五月二十九日、金曜日。
都立桜丘高校、体育館。
「……よし。今日はちょっと、試したいことがあるんだけど!」
練習開始前、宮野千夏が部員たちを集めた。
いつもなら、準備運動を終えたところでその日のメニューを伝える。だが今日は、手にしていた紙を広げて、コートの方を指さした。
「昨日、結衣と話したんだ。レシーブのとき、同じところに二人が動いちゃうこと、結構あるよね?」
「あー、ある!」
「この前もぶつかりそうになったよね」
何人かの部員が頷いた。
「それでさ、今日は一回、カバーの位置を変えてみようと思うんだ」
千夏は紙に描いた簡単なコート図を見せた。
前衛の選手がブロックに跳んだあと、後衛がどこまでカバーするのか。相手の攻撃に備えて、誰が中央を守るのか。
これまでは、それぞれが判断して動く場面が多かった。
その判断自体が間違っているわけではない。問題は、複数の選手が同じ場所を守ろうとすることだった。
「まずは、誰がどこまで動くのか意識してみない?」
「いいと思う!」
「やってみようよ!」
部員たちから前向きな声が上がった。
千夏は笑って頷く。
「じゃあ、よろしく!」
その少し後ろで、水瀬結衣が練習ノートを抱えていた。
昨日、千夏に見せた記録。
何度も同じ場所で起きていた連係の乱れ。
それが今日の練習に取り入れられようとしている。
「……結衣」
「ん?」
千夏が振り返った。
「今日も、気づいたことあったら教えてね」
「……うん」
結衣は頷いた。
「できるだけ、見てみる」
「助かる!」
千夏が笑う。
結衣も、小さく笑い返した。
◇
「一本、いくよー!」
ボールが打ち込まれた。
後衛の選手が腰を落とす。
「私!」
中央へ動きかけた選手が、味方の声を聞いて足を止めた。
もう一人がボールの正面へ入り、レシーブを上げる。
「ナイス!」
千夏が声を張った。
「今の、よかった!」
続けて、もう一本。
今度は前衛のブロックに当たったボールが、後方へ落ちる。
「カバー!」
須藤恵が、床へ飛び込んだ。
伸ばした腕が、落ちかけたボールを捉える。
ボールは高く上がり、どうにか次のプレーにつながった。
「ナイス、メグ!」
「……はい!」
千夏は嬉しそうに手を叩いた。
「いいじゃん! その調子!」
体育館の壁際では、結衣がノートへ短い線を書き足していた。
昨日まで、二人が同じ場所へ入っていた場面。
今日は、片方が声をかけ、もう片方が動きを調整できている。
少なくとも、そこは改善していた。
「……うん」
結衣は小さく頷いた。
だが。
「次、いくよ!」
ボールが右奥へ打ち込まれる。
「私!」
中央を守っていた選手が一歩踏み出した。
しかし、今度は別の選手が新しい配置を意識して動きを止める。
その結果、誰もボールの正面へ入れなかった。
乾いた音が響く。
ボールが床を転がった。
「……あっ」
「ごめん!」
「いや、今の私も迷った!」
千夏が片手を上げた。
「ちょっと確認しよ! 十五秒!」
部員たちが集まる。
「今の、誰が取るのがよかった?」
「私、中央を空けないようにしてたんだけど……」
「でも、あのコースは私が行った方がよかったかも」
「じゃあ次は、声かけて!」
「うん!」
「よし、続けよう!」
短い話し合いを終え、すぐに練習が再開した。
ところが、同じような問題がまた起きた。
今度はボールを拾えたものの、そのあとの攻撃への切り替えが遅れた。
「……あれ?」
千夏が首を傾げる。
「さっきより、守れるようになってると思うんだけどな……」
次のボールが打ち込まれる。
レシーブは上がる。
しかし、攻撃に入る選手の動きが一拍遅れた。
「……っ!」
苦しい体勢から返したボールが、ネットを越える。
千夏は床に落ちたボールを見つめた。
何かがおかしい。
けれど、何がおかしいのか。
まだ、はっきり分からなかった。
◇
「……いったん休憩!」
千夏の声で、部員たちが水分補給に入った。
結衣はノートを見ながら、先ほどの練習を思い返していた。
同じ場所へ二人が重なる回数は、確かに減っている。
でも、その代わりに別の場所が空いてしまう。
それだけではない。
ボールを拾ったあと、攻撃に移るまでの時間も少し長くなっていた。
「……結衣」
顔を上げると、千夏が隣に立っていた。
「どう? さっきの」
「……うん。昨日より、同じ場所で重なることは減ったと思う」
「だよね!」
千夏が頷く。
「でも、何か別のところが空いちゃうんだよね」
「……そうなんだよね」
結衣はノートを開いた。
「ここ、見て」
指さしたのは、同じ選手が関わった二つの場面だった。
「最初のときは、中央に動いてたから右側が空いたの。でも、次は右を意識してたから、今度は中央にボールが落ちてる」
「……あー」
千夏が覗き込む。
「ってことは、位置を決めるだけじゃ駄目ってこと?」
「……たぶん」
結衣は少し考えた。
「どこにボールが来るかによって、動き方を変えないといけないんだと思う」
「うん。それはそうだよね」
「でも……」
結衣は言葉を止めた。
「……でも?」
「私、コートの外から見てるだけだから。実際に中にいると、どう見えてるのか分からないところもあるんだよね」
千夏が瞬きをした。
結衣は、近くで水を飲んでいた部員たちへ目を向けた。
「……ちょっと、みんなにも聞いてみてもいいかな」
「もちろん!」
千夏はすぐに頷いた。
「みんなー! ちょっといい?」
休憩していた部員たちが顔を上げる。
「結衣がさ、さっきの練習で気づいたことあるんだって!」
「えっ?」
何人もの視線が結衣へ集まった。
結衣は思わずノートを抱き直した。
「……あ、えっと」
普段は、気づいたことを千夏や紗奈に伝えることが多かった。
練習の記録を見せることもある。
けれど、こうして全員から注目されると、何から話せばいいのか迷ってしまう。
千夏が隣で笑った。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
「……うん」
結衣は一度息を吸った。
「さっきの練習なんだけど……最初より、カバーが重なることは減ってると思う」
部員たちが頷く。
「でも、場所を決めることを意識しすぎて、別のコースへの反応が遅れてるところがあって……」
結衣はノートの図を示した。
「ここで、右側の選手がもう少し中央に寄れたら、間に合うかもしれないんだけど」
「……あ、それなんだけどさ」
一人の部員が手を上げた。
「私、そこまで中央に入っちゃうと、右奥のボールが見えにくいんだよね」
「……え?」
「さっきも、前の選手の動きで一瞬ボールが隠れちゃって」
結衣は目を瞬いた。
ノートへ視線を落とす。
書いてあるのは、誰がどこへ動いたかという記録だった。
けれど、その選手からボールがどう見えていたのかまでは、分からない。
「……そうなんだ」
「うん。だから、あの位置だとちょっと怖いかも」
別の部員も頷いた。
「あ、分かる。私も前に似たことあった」
「じゃあ、少し後ろに下がったら?」
「それだと前に落ちるボールが……」
次々と意見が出てくる。
結衣は、すぐに答えられなかった。
自分が見つけた問題は、確かに存在している。
でも、自分が考えた修正方法が、そのまま正解になるわけではない。
「……そっか」
結衣は小さく呟いた。
千夏が顔を覗き込む。
「結衣?」
「……ううん。何でもない」
そして、少しだけ笑った。
「……私、見えてないこともいっぱいあるんだなって」
千夏は一瞬きょとんとした。
けれど、すぐに笑った。
「そりゃそうでしょ!」
「……え?」
「私だって、全部見えてるわけじゃないもん!」
千夏は部員たちを見回した。
「だから、みんなで考えたらいいんじゃない?」
その言葉に、結衣は少し驚いた。
「……みんなで?」
「うん。結衣が外から気づいたことも、中でプレーしてる子が感じたことも、どっちも大事じゃん」
千夏は笑った。
「せっかくだし、もう一回試してみようよ!」
部員たちが頷く。
「いいね!」
「さっきより少し位置変えてみる?」
「それ、やってみたい!」
結衣は、もう一度ノートを開いた。
自分が書いていた位置に、小さく矢印を足す。
その横へ、部員から聞いたことを一行書き込んだ。
――右奥の視界。
今までの記録にはなかった言葉だった。
◇
体育館の入口近く。
朝倉紗奈は、壁際に置かれた椅子に腰を下ろしていた。
傍らには、二本の松葉杖。
右膝をかばう姿勢にも、少しずつ慣れてきた。
もっとも、慣れたからといって、楽になったわけではない。
じっと座っているだけでも、無意識に脚の位置を気にしてしまう。
「……千夏、そこじゃない」
紗奈は思わず小さく呟いた。
コートの中では、千夏が後衛の位置を調整している。
紗奈には、別の守り方が見えていた。
今の並びなら、左側の選手を半歩下げた方がいい。
そうすれば、中央のカバーへ入りやすくなる。
紗奈は口を開きかけた。
「千夏、左の――」
だが、そこで言葉が止まる。
昨日のことを思い出した。
気づいたことを、次々と千夏へ伝えてしまったこと。
千夏が困ったように笑っていたこと。
そして、昨夜、自分のメモに書いた言葉。
――千夏は、どう考えているんだろう。
「…………」
紗奈は口を閉じた。
コートでは、千夏と結衣が部員たちと話している。
少し位置を変え、もう一度ボールを打ち込む。
「……あ」
今度は、先ほど空いていた場所へ選手が入った。
ボールが高く上がる。
「ナイス!」
千夏の声が響いた。
攻撃は決まらなかった。
それでも、さっきより動きはつながっていた。
紗奈はその光景を見つめた。
「……なるほど」
自分が考えていたのとは、少し違う配置だった。
けれど、悪くない。
少なくとも、今の部員たちには動きやすそうだった。
紗奈は膝の上で手を組んだ。
また何か言いたくなる。
あそこは、もっとこうした方がいい。
次は、こう動いてほしい。
その考えは、簡単には消えなかった。
でも。
自分が何も言わなくても、千夏たちは考えている。
それだけは、目の前の練習が教えてくれていた。
◇
「……紗奈!」
練習の合間。
千夏が小走りで近づいてきた。
「今日、どう?」
「……何が?」
「さっきの練習! 見てたでしょ?」
「うん。見てたよ」
千夏は紗奈の隣へしゃがんだ。
「どう思う?」
紗奈は少し迷った。
聞かれた。
なら、答えればいい。
直した方がいい場所も、もう分かっている。
けれど。
「……千夏は、どうしたい?」
「……え?」
千夏が顔を上げた。
「さっきの配置。千夏はどう考えてるの?」
「……私?」
「うん」
千夏は少し驚いたようだった。
紗奈が先に答えを言わないことが、意外だったのかもしれない。
「……そうだなぁ」
千夏はコートへ目を向けた。
「最初は、結衣のノートにあったところを直せばいいと思ってたんだ」
「うん」
「でも、実際にやってみたら、別のところが空いちゃって」
「……そうだね」
「だから、場所を決めるだけじゃなくて、誰が何を見て動くかも大事なのかなって」
紗奈は黙って聞いていた。
千夏が続ける。
「結衣が見つけてくれたことも大事だけど、実際にプレーしてる子の意見も聞きたいんだよね」
「……うん」
「今は、一つずつ試してみたいかな」
紗奈は、コートの方へ視線を戻した。
自分なら、もっと早く判断しているかもしれない。
でも、千夏には千夏の考えがある。
その考えで、チームを動かそうとしている。
「……それならさ」
紗奈が口を開いた。
千夏が振り返る。
「さっき、右奥を守る選手がボールを見失ってたでしょ?」
「あ、うん!」
「あれ、位置だけじゃなくて、前衛の動きも関係してると思う」
「……前衛?」
「うん。ブロックに入る選手の動きで、後ろから見える範囲が変わるから」
千夏は少し考えた。
「……あー、そっか!」
紗奈が頷く。
「だから、もう一回試すなら、後衛の位置だけじゃなくて前衛との関係も見てみるといいかも」
「なるほど……」
千夏は立ち上がりかけた。
けれど、ふと動きを止める。
「……紗奈」
「ん?」
「ありがとう」
紗奈は瞬きをした。
「……何?」
「いや、なんかさ」
千夏は少し照れくさそうに笑った。
「今日、すごく話しやすかった」
「…………」
紗奈は言葉に詰まった。
別に、今まで話しにくくしていたつもりはない。
でも。
そう言われるということは、何かが違ったのだろう。
「……そっか」
紗奈は小さく笑った。
「よかった」
千夏も笑い返す。
「じゃあ、ちょっと試してくる!」
「うん。頑張って」
「ありがと!」
千夏がコートへ戻っていく。
紗奈は、その背中を見つめた。
主将として、チームのためにできること。
それは、何もかも自分で判断することだけではないのかもしれない。
そんなことを、初めて少しだけ考えた。
◇
「……よし! 今日はここまで!」
千夏の声が響いた。
「お疲れさまでした!」
部員たちが一斉に頭を下げる。
体育館には、練習を終えたあとの気の抜けた空気が広がっていた。
ネットを片づける者。
ボールを集める者。
床をモップで拭く者。
それぞれが手分けして片づけを進める。
結衣もノートを閉じようとしていた。
すると。
「……結衣」
千夏が声をかけてきた。
「ちょっといい?」
「……うん」
二人は体育館の隅へ移動した。
千夏はタオルで汗を拭いながら、今日の練習を振り返る。
「最初よりは、よくなったよね?」
「……うん。少なくとも、同じ場所で重なることは減ってた」
「だよね!」
千夏が嬉しそうに笑う。
けれど、すぐに首を傾げた。
「でもさ、最後まで直らなかったところもあったじゃん」
「……うん」
「それに、みんながどう思ってるか聞くのって、結構時間かかるんだね」
結衣は頷いた。
「……そうだね」
「十五秒じゃ、全然足りなかった」
千夏は笑った。
結衣も少し笑う。
「……まあ、十五秒で全部話すのは無理だよね」
「だよねぇ」
千夏は天井を見上げた。
「でも、練習中に何回も止めるわけにもいかないし……」
結衣はノートの表紙を指でなぞった。
今日、みんなから聞いた話。
選手によって、ボールの見え方が違うこと。
同じ位置でも、やりやすいと感じる人と、難しいと感じる人がいること。
どれも、練習を見ているだけでは分からなかった。
「……千夏」
「ん?」
「練習が終わったあとにさ、少しだけ話す時間があったらいいのかも」
「……え?」
「その日の練習で、何ができて、何ができなかったか。みんなで確認する時間」
千夏が瞬きをした。
「……それ、いいかも」
「……ほんと?」
「うん!」
千夏は勢いよく頷いた。
「練習中の十五秒は、その場のことを直す時間でしょ?」
「……うん」
「でも、今日みたいに、いろんなことが関係してる問題って、落ち着いて話さないと分かんないもんね」
結衣は小さく頷いた。
「……そう思う」
千夏は少し考え込んだ。
「……たださ」
「ん?」
「練習終わってから、みんなをずっと残すわけにもいかないよね」
「……ああ、確かに」
結衣も顔を上げた。
授業が終わってから部活動をしている。
帰りの時間だって、人によって違う。
練習を長引かせれば、それだけ負担が増える。
「……だったら」
千夏は腕を組んだ。
「練習の時間を少し調整するとか?」
「……うん。そういうのも含めて、相談した方がいいと思う」
「だよね」
千夏が頷いた。
「じゃあさ、まず藤沢先生に聞いてみようよ」
「……うん」
結衣は、ノートに一行書き足した。
――練習後、みんなで振り返る時間?
その横に、小さな疑問符がついた。
まだ、決まったわけではない。
けれど、今日の練習で見つけた新しい課題だった。
◇
体育館の入口近く。
凛は、藤沢と並んで片づけを見守っていた。
「……何か、話してますね」
藤沢が千夏と結衣へ目を向ける。
『みたいですね』
凛も二人を見る。
千夏が何かを説明し、結衣がノートを開いている。
途中で千夏が笑い、結衣も小さく頷いた。
『今日の練習について、話しているようですね』
「ええ。最近、宮野さんも少し変わりましたね」
『……そうですね』
凛は頷いた。
以前の千夏は、紗奈のやり方を再現しようとしていた。
主将なら、こうしなければならない。
全員を見て、素早く判断して、的確な指示を出さなければならない。
そう考えるあまり、自分の良さまで見失いかけていた。
だが今日は、違った。
結衣の記録を取り入れ、部員たちの意見を聞き、自分なりに練習を進めていた。
うまくいかないこともあった。
それでも、千夏は途中で投げ出さなかった。
『……いいことだと思います』
凛は小さく言った。
すると、ちょうど二人が近づいてきた。
「山本先生! 藤沢先生!」
『どうした、千夏』
「ちょっと相談があるんですけど!」
千夏は結衣を見た。
結衣も頷く。
「今日の練習で、いろいろ気づいたことがあって……」
千夏が話し始める。
十五秒のミーティングでは、確認しきれないことがあったこと。
練習が終わってから、みんなで振り返る時間を作れないかと考えていること。
藤沢は黙って聞いていた。
「……なるほど」
話を聞き終えると、少し考える。
「練習後に、全員で話し合う時間を設けたいということですか」
「はい!」
「ただ、それを毎日やるとなると、下校時刻のことも考えなければいけませんね」
「……ですよね」
千夏が頷いた。
藤沢は凛へ視線を向けた。
「山本先生は、どう思われますか?」
『……そうですね』
凛は少し考えた。
以前、部員たちの事情を十分に聞かず、練習時間を延ばすことを認めたことがある。
あのときは、練習を増やせば強くなれると考えていた。
だが、全員が同じ条件で学校生活を送っているわけではない。
通学時間。
家庭の事情。
勉強との両立。
自分が良いと思った方法が、全員にとって良いとは限らない。
凛は千夏へ目を向けた。
『千夏。その話し合いは、今の練習に追加するつもりか?』
「……あ」
千夏が少し考えた。
「最初は、そう思ってました。でも、それだと帰るの遅くなっちゃいますよね」
『そうだな』
「だから、練習の時間をちょっと調整できないかなって」
凛は頷いた。
『それなら、まず全員の意見を聞いてみるといい』
「……みんなの?」
『ああ。実際に何分くらい必要なのか。今の練習のどこを調整できるのか。帰りの時間に問題がないか』
凛は二人を見た。
『そのうえで、藤沢先生と相談して決めよう』
藤沢も頷いた。
「そうだな。話し合いのために練習がおろそかになっては本末転倒だが、目的がはっきりしているなら試す価値はある」
「……はい!」
千夏の表情が明るくなる。
「じゃあ、みんなにも聞いてみます!」
結衣も頷いた。
「……私も、今日の記録まとめてみます」
『ああ。頼む』
凛は二人へ微笑んだ。
『ただし、無理に今日中に決める必要はない。まずは、どんな時間にしたいのか考えてみてくれ』
「はい!」
二人が頭を下げる。
そして、部員たちのところへ戻っていった。
藤沢が小さく笑う。
「……頼もしくなってきましたね」
『ええ』
凛は頷いた。
自分が答えを出さなくても、生徒たちは考え始めている。
その姿を見ながら、凛は少しだけ嬉しくなった。
◇
同じ頃。
朝倉紗奈は、迎えを待つため体育館近くのベンチに座っていた。
右膝をかばいながら腰を下ろし、松葉杖を身体の脇に立てかけている。
長く立っていると、どうしても疲れが出る。
「……ふぅ」
紗奈は小さく息を吐いた。
今日は、いろいろなことがあった。
千夏たちが新しい練習方法を試していた。
結衣が、部員たちの前で自分の意見を伝えていた。
その意見に対して、別の部員が自分の感覚を話していた。
そして、千夏はその全部を聞こうとしていた。
「…………」
紗奈は鞄から小さなノートを取り出した。
昨日、千夏への助言を書きかけたあと、別の言葉を書き留めたノートだ。
ページを開く。
――千夏は、どう考えているんだろう。
その文字が、目に入った。
今日、聞いてみた。
すると、千夏は自分なりの考えを持っていた。
今までなら、その答えを聞く前に、自分の考えを伝えていたかもしれない。
「……そっか」
紗奈はペンを持った。
今日、気づいたことを書き始める。
――千夏。結衣の記録を練習に取り入れた。
――カバー位置の調整。重複は減った。
――別のコースへの反応に課題あり。
そこまで書いて、ペンを止めた。
いつもの自分なら、次は改善策を書いていただろう。
右側の選手は、もう少し中央へ寄る。
前衛は、後衛の視界を意識する。
声かけのタイミングを統一する。
そんなことが、いくつも思い浮かぶ。
けれど今日は、その下に別の言葉を書き加えた。
――千夏は、みんなの考えを聞こうとしていた。
――結衣は、見えていなかったことに気づいた。
紗奈は少しだけ首を傾げた。
「……何だろう」
今まで、練習で気になることがあれば、どう直すべきかを考えていた。
それは、主将として必要なことだと思っていたし、今も間違っているとは思わない。
けれど、今日は違うものが見えた。
千夏が、部員の意見を聞きながら考えている。
結衣が、自分の観察だけでは分からないことを受け取っている。
部員たちも、ただ指示を待っているわけではない。
「……みんな、ちゃんと考えてるんだな」
紗奈は小さく笑った。
嬉しかった。
自分がいない間も、チームが前へ進んでいることが。
けれど。
「…………」
右膝へ視線を落とす。
装具のある膝。
その横に置かれた松葉杖。
まだ、コートには戻れない。
今日の練習を見て、何度も身体が動きそうになった。
あのボールなら拾えたかもしれない。
あの場面なら、自分はこう動いた。
そう考えるたびに、今の自分にはそれができないことを思い知らされる。
大学でもバレーを続けたい。
そのために、推薦を目指してきた。
だからこそ、練習できない時間が怖い。
みんなが成長していくことは嬉しいのに、その輪の中に自分がいないことが寂しい。
その二つの気持ちは、簡単には分けられなかった。
「……でも」
紗奈はノートへ目を戻した。
今日、千夏は自分の考えを話してくれた。
そして、紗奈の助言も聞いてくれた。
自分が何もできなくなったわけではない。
ただ、今までと同じやり方ではなくてもいいのかもしれない。
紗奈は、ページの最後にもう一行書き加えた。
――明日も、まず聞いてみよう。
ペンを置く。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には、千夏からのメッセージが届いていた。
《紗奈! 今日ありがと!》
続けて、もう一通。
《結衣と、練習後にみんなで話す時間を作れないか考えてるんだ!》
《また相談させてね!》
「…………」
紗奈は、しばらく画面を見つめた。
そして、ゆっくり文字を打ち込む。
《うん。いいと思う》
少し考えてから、もう一文を足した。
《千夏は、どんな話し合いにしたい?》
送信する。
すぐに既読がついた。
そして。
《みんなが気づいたこと、ちゃんと話せる時間にしたい!》
紗奈は、その言葉を見つめた。
少し前までなら、話し合いの進め方や時間配分を、すぐに提案していただろう。
けれど、今は。
《そっか。いいね》
それだけを返した。
遠くから、迎えの車が近づいてくる音がした。
紗奈はスマートフォンを鞄へしまい、松葉杖へ手を伸ばす。
立ち上がる前に、もう一度体育館の方を見た。
中からは、片づけを終えた部員たちの声が聞こえてくる。
今の自分にできることは、まだ限られている。
それでも、何もできないわけではない。
紗奈はゆっくりと立ち上がった。
そして、小さく笑う。
「……次は、何を考えてくるのかな」
今度は、それを聞くのが少し楽しみだった。




