第四十話「ふたつの放課後」
二〇〇〇年(平成十二年)五月十九日、金曜日。
都立青葉高校、職員室。
『……顧問教員の登録、学校の承認、制作場所の確保……』
リンは机に広げた募集要項を見つめていた。
昨日、真理と美奈に紹介した全国高校生ファッション創作コンテスト。
二人が参加を決めたときは、純粋に嬉しかった。けれど、いざ自分が何をすればいいのか調べてみると、思っていた以上に確認事項が多い。
『……これ、学校の名前で応募するんだもんね』
リンは手帳へ必要事項を書き込んだ。
すると。
「山元」
『……はいっ!』
顔を上げると、荒川剛が立っていた。
相変わらず、鋭い眼光だ。
「今日の練習には来られるな」
『はい。ただ、実は昨日、うちのクラスの生徒がファッションコンテストに出たいって話になりまして……』
「……ファッションコンテスト?」
『はい。あたしも準備のお手伝いをすることになったんです』
荒川は、机に広げられた募集要項へ目を向けた。
数秒、黙って文字を追う。
「……そうか」
『はい』
「やるなとは言わん。ただ空手部の副顧問である事も忘れるな」
『……はい! もちろんです!』
リンは背筋を伸ばした。
荒川は短く頷く。
「ならいい。今日も頼むぞ」
『はい!』
荒川が自分の席へ戻っていく。
リンは、その背中を見送った。
『……ふぅ』
思わず息が漏れる。
別に怒られたわけではない。むしろ、言っていることはもっともだった。
ファッションコンテストを手伝うことになったからといって、空手部の副顧問でなくなるわけではない。そもそも、担任の仕事だってある。
『……教師って、結構忙しいなぁ』
リンは小さく笑った。
そして、手帳へ一行書き加える。
――放課後、空手部。
その下に、もう一行。
――コンテストの件、藤崎先生に相談。
どちらも、忘れるわけにはいかなかった。
◇
午前の授業が終わったあと。
リンは三年二組の教室で、一人の男子生徒を呼び止めた。
『あ、森田さん。ちょっといい?』
「ん? 何、凛ちゃん」
森田翔平が振り返る。
『この前の進路の話なんだけど』
「……ああ」
森田は思い出したように頷いた。
『大学の資料、いくつか探してきたよ』
リンは持っていたパンフレットを差し出した。
「……え?」
森田が受け取る。
大学の学部紹介や、学べる分野をまとめた案内。それぞれの学校の特色が載った資料だった。
「……これ、俺の?」
『うん。まだ何を勉強したいか決まってないって言ってたから、いろんな学部が紹介されてるものを選んでみた』
森田は表紙を見つめた。
「……へえ」
『全部読まなくてもいいから、気になるところがあったら見てみて』
「……凛ちゃんさ」
『ん?』
「ほんとに調べてくれたんだな」
『そりゃ、約束したからね』
森田は少し照れくさそうに笑った。
「……サンキュ」
『どういたしまして』
リンも笑う。
『面白そうな学部があったら教えてね。そこからもう少し調べられると思うから』
「おう」
森田はパンフレットを鞄へしまった。
その仕草は、いつもの軽い調子とは少し違って見えた。
「……じゃあ、ちょっと読んでみるわ」
『うん』
森田が教室を出ていく。
リンは、その背中を見送った。
夢が決まっている生徒もいれば、まだ見つかっていない生徒もいる。どちらが正しいというわけではない。
今の森田には、いろいろなものを見てみる時間が必要なのだろう。
『……さて』
リンは時計を確認した。
『次は、藤崎先生だ』
◇
昼休み。
家庭科準備室の扉を軽く叩く。
『失礼しまーす』
「はーい」
中から声が返ってきた。
扉を開けると、藤崎千尋が机に向かっていた。
目の前には、布の見本と授業用のプリントが並んでいる。
「あら、山元先生」
『こんにちは。少しお時間いいですか?』
「ええ。どうぞ」
千尋は手にしていたペンを置いた。
「小川さんと片岡さんのこと?」
『……あ、分かります?』
「昨日、進路の話をしていたでしょう?」
『そうなんです。実は、その続きで……』
リンはコンテストの募集要項を差し出した。
『二人とも、これに出てみたいって言ってくれたんです』
「……あら」
千尋が少し驚いた。
「全国高校生ファッション創作コンテスト?」
『はい』
「そう……二人で挑戦することにしたのね」
千尋は嬉しそうに微笑んだ。
「いい経験になりそうですね」
『そう思って紹介したんですけど……』
リンは少し困ったように笑った。
『実際に服を作ることになると、あたし、全然教えられなくて』
「そうですね。一次審査を通過したら、衣装を仕上げなければならないんですものね」
『はい。なので、藤崎先生に相談できたらと思って』
千尋は募集要項へ目を落とした。
「まず、二人がどのくらいのものを作りたいのか、確認する必要がありますね」
『あ、そうですよね』
「それから、ミシンを使うなら安全面も考えないと。家庭科室は授業で使いますから、放課後の利用についても調整が必要です」
『なるほど……』
リンは手帳を開いた。
千尋が続ける。
「技術的なことなら、私もできる範囲で教えますよ。ただ、作品そのものは二人が作らなければいけませんからね」
『はい。それはもちろん』
「難しいところを全部こちらで直してしまったら、二人の作品じゃなくなりますもの」
千尋は柔らかく笑った。
「とはいえ、使い方も分からないままミシンに向かわせるわけにはいきませんけど」
『……ですよね』
リンも笑う。
『じゃあ、あたしの方で応募の手続きとか、学校との調整を進めてみます。技術的なことは藤崎先生に相談する形でも大丈夫ですか?』
「ええ。ただ、家庭科室の予定は確認しておきますね」
『ありがとうございます!』
「それと、最初に二人の話を聞かせてください」
『……二人の話、ですか?』
「ええ。どんな服を作りたいのか。何ができて、何がまだできないのか」
千尋は布の見本を片づけながら言った。
「そこが分からないと、私も何から教えればいいのか決められませんから」
『……確かに』
リンは頷いた。
参加を決めるだけなら、二人の意思があればよかった。けれど、実際に何かを作るとなれば、そう簡単にはいかない。
『……やること、いっぱいですね』
「ふふっ。そうですね」
千尋は笑った。
「でも、あの二人なら楽しそうに取り組むんじゃないかしら」
『……それは、あたしもそう思います』
昨日の真理と美奈の顔が浮かんだ。
二人とも、目を輝かせていた。あの表情を見てしまったら、少しくらい手間が増えても仕方がない。
『……じゃあ、また相談させてください』
「ええ。いつでも……と言いたいところですけど、授業のない時間にお願いしますね」
『あははっ、もちろんです!』
リンは頭を下げ、準備室をあとにした。
◇
放課後。
青葉高校、武道場。
「……始め!」
荒川の低い声が響いた。
「押忍!」
部員たちが一斉に動き始める。
畳を踏み込む音。
道着の擦れる音。
気合いの入った声。
リンは道場の端で、練習の様子を見守っていた。
目の前では、佐伯大輔と相原菜月が向かい合っている。
「……お願いします!」
「おう」
二人が礼を交わした。
菜月が構える。
佐伯も、静かに間合いを取った。
先に動いたのは菜月だった。
「……っ!」
素早く踏み込む。
しかし佐伯は、すぐには反応しなかった。
相手の動きを見極め、距離を調整する。そして、菜月がもう一歩踏み込んだ瞬間、佐伯が動いた。
「……!」
菜月が身体を引く。
そのわずかな隙を追い、佐伯が前へ出る。
「やめ!」
荒川の声が飛んだ。
二人が動きを止める。
「佐伯。今の入りは悪くない」
「押忍!」
「だが、相手が引いた後の追いが甘い。そこで動きが止まれば意味がない」
「……押忍!」
「相原」
「はい!」
「お前は相手の踏み込みを見ている。だが、見てからの判断が遅れたな」
「……はい!」
「分かっているなら、次で直せ」
「押忍!」
荒川が手を下ろす。
「続けろ」
二人が再び構えた。
菜月が小さく笑う。
「……佐伯先輩」
「何だ?」
「今の入り方、前と違いましたよね?」
「……ああ」
佐伯が短く答える。
「ちょっと試してる」
「やっぱり!」
菜月が嬉しそうに目を輝かせた。
「じゃあ、もう一本お願いします!」
「……お前、休憩する気ないだろ」
「まだまだいけます!」
「……元気だな、お前」
佐伯は呆れたように笑った。しかし、すぐに構え直す。
「……来い」
「押忍!」
菜月が踏み込んだ。
再び、二人の組み手が始まる。
リンはその様子を見つめていた。
前に東央大学へ行ったとき、佐伯は何度も負けた。大学生にも、他校の高校生にも。
それでも、試合が終わるたびに何かを考え、次の動きを変えていた。
今は、その続きをやっているのだろう。
『……頑張ってるなぁ』
思わず声が漏れた。
菜月も同じだ。
あのとき、格上の大学生を相手に、自分から勝負を申し込んだ。結果は負けだった。
けれど、あの子はそこで終わらなかった。今も、こうして佐伯へ何度も挑んでいる。
「山元」
『……はい!』
荒川が振り返った。
「次の組み手に入る前に、部員の体調を確認しておけ」
『はい!』
リンは頷き、待機している部員たちの方へ向かった。
空手の技術を教えることはできない。けれど、今の自分にもできる仕事はある。
『みんな、水分はちゃんと取ってる? 無理してない?』
「はい!」
『少しでも具合が悪かったら、すぐ言ってね』
部員たちが頷く。
そのときだった。
武道場の入口から、学校職員の声が聞こえた。
「山元先生、いらっしゃいますか?」
『……あ、はい!』
リンが振り返る。
「職員室にお電話です。東央大学の篠原先生という方から」
『……えっ?』
思わず声が大きくなった。
東央大学。
篠原圭介。
その名前を聞いただけで、あの日の道場が頭に浮かんだ。
『分かりました。すぐ行きます!』
リンは荒川へ向き直る。
『荒川先生、少し職員室へ行ってきます!』
「……電話か」
『はい』
「……そうか。行ってこい」
リンは武道場を出た。
◇
職員室へ戻ると、リンは受話器を取った。
『お電話代わりました。山元です』
「山元か。篠原だ」
『あ、篠原先生! お久しぶりです!』
「久しぶりだな。今、少し話せるか?」
『はい、大丈夫です』
「この間の合同練習のことなんだが、また近いうちにやる予定でな」
『……えっ、本当ですか?』
「ああ。今回は少し形式を変えることになった」
『形式……ですか?』
「参加する高校生同士で、総当たりの組み手を行う予定だ」
『……総当たり戦?』
「そうだ。相手を変えながら対戦してもらう。前回とは違った形で、それぞれの実力を見たいという話になってな」
『へえ……!』
リンは受話器を握り直した。
あの合同練習。
佐伯は何度も負けながら、最後まで諦めなかった。その姿を、鬼塚監督も見ていた。
「それでな、山元」
『はい』
「佐伯は、今回も参加できそうか?」
『……佐伯さん、ですか?』
「ああ。前回の練習からどう変わったか、監督も気にしている」
『……!』
リンは息を呑んだ。
鬼塚が、佐伯のことを覚えている。しかも、もう一度見たいと思ってくれている。
『……はい! 本人に確認してみます!』
「頼む。ただし、これで何かが決まるわけじゃない。そこは間違えないようにな」
『はい。分かっています』
「それと、もう一人」
『……はい?』
「相原にも声をかけてやってくれ」
『……相原さんもですか?』
「ああ」
篠原の声に、少し笑みが混じった。
「あの子も、なかなか面白かったからな」
リンは思わず笑ってしまった。
『……あははっ。そうですよね』
菜月が大学四年生の強さを見抜き、自分から勝負を申し込んだ場面を、今でも鮮明に覚えている。
「監督も覚えている。本人が希望するなら、今回も参加してほしい」
『……はい! 二人に伝えます!』
「日程と詳しい要項は、追って学校へ送る。荒川先生にも伝えておいてくれ」
『分かりました。ありがとうございます!』
「ああ。それじゃ、よろしくな」
『はい! 失礼します!』
リンは受話器を置いた。
数秒、その場に立ち尽くす。
『…………』
そして。
『……やった!』
思わず小さく拳を握った。
佐伯にも、菜月にも、もう一度挑戦する機会ができた。しかも今回は、東央大学側から名前を挙げてもらえた。
『……二人とも、喜ぶだろうなぁ』
リンは笑った。
すぐに手帳を開き、篠原から聞いた内容を書き留める。
そして、足早に武道場へ戻った。
◇
「荒川先生!」
武道場へ戻ると、リンは荒川のそばへ向かった。
荒川は部員たちの組み手を見ていたが、リンの声に振り返る。
「……何だ」
『荒川先生。今、東央大の篠原先生から連絡がありまして』
「……篠原さんから? 用件は何だ」
『東央大学で、また合同練習を行うそうです』
「……そうか」
『それで、佐伯さんと相原さんにも参加してほしいと』
荒川の目が、わずかに細くなった。
「……二人ともか」
『はい!』
「……続けろ」
『今回は、参加する高校生同士で総当たり戦をする予定だそうです』
「……総当たりか」
荒川は腕を組んだ。
しばらく考える。
その視線が、道場の中央へ向いた。佐伯と菜月が、再び組み手を行っている。
「……なるほどな」
『……何か、気になることがあるんですか?』
「前回の稽古から、どれだけ修正できたかが問われる」
荒川は静かに言った。
「相手が一人なら、たまたま通用することもある。だが、相手が変われば、同じやり方が通るとは限らん」
『……確かに』
「その中で、自分の空手をどこまで出せるか。そういうことだろう」
リンは頷いた。
同じ相手にもう一度挑むわけではない。何人もの選手を相手にする。
それぞれ、体格も得意な技も違うはずだ。
佐伯にとっても、菜月にとっても、簡単なことではない。
「……山元」
『はい』
「二人を呼べ」
『……はい!』
「参加するかどうか、本人たちに確認する」
『分かりました!』
荒川は道場の中央へ向き直った。
「……やめ!」
鋭い声が響く。
部員たちが一斉に動きを止めた。
「佐伯、相原。前へ来い」
「押忍!」
二人が駆け寄ってきた。
道着には汗が滲んでいる。
佐伯は真剣な表情のまま、荒川の前へ立った。菜月も背筋を伸ばす。
「……何でしょうか」
佐伯が尋ねる。
荒川はリンへ目を向けた。
リンは頷き、二人に向き直った。
『佐伯さん、相原さん。実は今、東央大学から連絡があったんだけど』
「……東央大学?」
佐伯の表情が変わった。
菜月も目を丸くする。
『また合同練習をするんだって』
「……えっ!」
菜月が声を上げた。
『それで、二人にも参加してほしいって』
佐伯は一瞬、黙り込んだ。
「……本当ですか」
『うん。佐伯さんも、相原さんも』
リンは微笑んだ。
『篠原先生が、二人に声をかけてほしいって』
菜月が佐伯を見る。
佐伯は、リンをじっと見つめていた。
『しかも今回は、参加する高校生同士で総当たり戦をする予定なんだって』
「……総当たり」
佐伯が小さく呟いた。
前回の合同練習。
大学生との圧倒的な実力差。
他校の高校生たちにも、一本を取れなかった悔しさ。
どれも忘れていない。
あの日から、毎日の練習で考えてきた。
どこで踏み込むべきだったのか。どの間合いなら攻撃が届いたのか。相手の動きを、どう誘えばよかったのか。
まだ答えが出ていないこともある。けれど、何も変わっていないわけではない。
佐伯は顔を上げた。
「……参加させてください」
その声に、迷いはなかった。
「今の自分が、どこまで通用するのか確かめたいです」
荒川が静かに頷く。
「……よし」
リンも笑った。
『うん。頑張ってね』
すると。
「……あの!」
菜月が勢いよく手を挙げた。
『ん?』
「私も……本当に呼ばれたんですか?」
『うん。相原さんにも声をかけてほしいって』
「……!」
菜月の顔が、ぱっと明るくなった。
「……私も行きたいです!」
『もちろん、そう言ってくれると思ってた』
リンは嬉しそうに笑った。
しかし。
「相原」
荒川の低い声が響いた。
「……はい!」
菜月が姿勢を正す。
「前回のことは忘れておらんな?」
「……はい」
「自ら挑む姿勢は悪くない。だが、相手への礼節を欠くような真似はするな」
「……押忍!」
「勝負を申し込むなら、それにふさわしい振る舞いをしろ」
「はい!」
菜月は力強く頷いた。
そして、少しだけ顔を上げる。
「……でも、先生」
「何だ」
「私、今度こそ一本取りたいです!」
荒川は菜月を見据えた。
「……ならば、稽古で示せ」
「押忍!」
佐伯が小さく笑った。
菜月は、その笑顔を見逃さなかった。
「……佐伯先輩、笑いました?」
「いや」
「絶対笑いましたよね!?」
「……お前らしいなと思っただけだ」
「何ですか、それ!」
菜月が頬を膨らませる。
佐伯は少しだけ口元を緩めた。
荒川が咳払いをする。
「……話は終わりだ」
二人が慌てて背筋を伸ばした。
「正式な日程と参加条件が届き次第、確認する。それまでは余計なことを考えず、稽古に集中しろ」
「押忍!」
二人の声が重なった。
再び、武道場に練習の音が戻る。
リンはその様子を見つめていた。
佐伯は、もう迷っていない。
菜月もまた、自分の目標を見つめている。
前回の敗北は、二人の中で終わった出来事にはなっていなかった。
あの日から、ずっと続いている。
そして今、その先にもう一つ、新しい挑戦が待っている。
『……楽しみだなぁ』
リンは小さく呟いた。
◇
空手部の練習が終わったあと。
リンは校舎へ戻った。
廊下には、部活動を終えた生徒たちの声が響いている。
教室へ向かう途中、時計を確認した。
『……あ、まだ大丈夫』
真理と美奈には、放課後に少し相談したいと言われていた。空手部の練習後になることは、あらかじめ伝えてある。
三年二組の教室を覗くと。
「あっ、凛ちゃん!」
美奈が顔を上げた。
真理も、机に広げていた紙から視線を離す。
「……凛先生」
『ごめんね、待たせちゃった?』
「ううん! 私たちも今まで話してたから!」
『そっか。よかった』
リンは二人の近くへ歩いていった。
机の上には、昨日渡した募集案内と、何枚かの紙が並んでいる。
『……もう何か考えたの?』
「そうなの!」
美奈が嬉しそうに紙を差し出した。
「ほら、テーマが『変化』でしょ?」
『うん』
「だったらさ、着る前と着たあとで印象が変わる服とか、面白くない!?」
『……へえ』
リンは紙を覗き込んだ。
そこには、美奈が思いつくままに書き留めた言葉が並んでいた。
色が変わる。
形が変わる。
広がる。
重ねる。
『……いっぱい考えたね』
「でしょ!?」
美奈が笑う。
その隣で、真理が少し困ったような顔をしていた。
『……小川さんは?』
「……私は、まだ」
『そっか』
「……いくつか考えてはいるんですけど、どれがいいのか分からなくて」
真理は、自分の紙を見つめた。
小さな服の形が、いくつも描かれている。
どれも、まだ途中だった。
「……『変化』って、いろんな意味があるじゃないですか」
『うん』
「……だから、どんな服にしたらいいのかなって」
リンは頷いた。
確かに、簡単なテーマではない。
見た目が変わること。
季節が変わること。
気持ちが変わること。
成長することだって、変化と言える。
『……じゃあさ』
二人が顔を上げた。
『今すぐ一つに決めなくてもいいんじゃない?』
「……え?」
『小川さんが思いついたもの、いくつか描いてみたらどうかな』
真理が瞬きをする。
『それを見ながら、片岡さんと一緒に考えてみればいいと思う』
「……なるほど」
美奈が頷いた。
「確かに! 絵になってた方が分かりやすいもんね!」
『うん。それに、実際に作れるかどうかも考えないといけないでしょ?』
「あっ、そっか!」
美奈が手を叩く。
「それ、私の仕事じゃん!」
『……仕事って、まだコンテストだけどね』
「あははっ!」
真理も小さく笑った。
「……じゃあ、私、いくつか描いてきます」
『うん。いいと思う』
「私も家にある裁縫道具、確認してくる!」
美奈が続けた。
「あと、どんな布があるかも見てみたい!」
『……あ、それはちょっと待って』
「え?」
『材料を買ったりするのは、ちゃんと作るものが決まってからにしよう?』
「……あー、確かに」
『必要なものも、藤崎先生に相談してからの方がいいと思うし』
「藤崎先生?」
真理が顔を上げた。
『うん。今日、少しお話ししてきたんだ』
「……本当ですか?」
『家庭科室のこととか、服の作り方のこととか、協力してもらえるか相談してきたよ』
「……凛先生」
真理は驚いたようにリンを見つめた。
『ただ、まだ学校の許可も必要だからね。全部決まったわけじゃないよ』
「……はい」
真理は小さく頷いた。
その顔には、嬉しさと緊張が入り混じっていた。
美奈は、そんな真理の肩を軽く叩いた。
「真理ちゃん、楽しみだね!」
「……うん」
「絶対、かわいい服作ろうね!」
真理は少し考えたあと、笑った。
「……うん。頑張ろう」
リンは二人を見つめた。
まだ、デザインすら決まっていない。実際に服を作るとなれば、きっと分からないことだらけだろう。
それでも、二人はもう、自分たちで考え始めている。
『……じゃあ、今日はここまでにしようか』
「はーい!」
『遅くなる前に帰ってね』
「凛ちゃんもね!」
『……あたしは、まだちょっと仕事があるかな』
「えー! 先生って大変!」
『ほんと、それ』
リンが笑う。
美奈も笑った。
真理は紙を丁寧に揃え、鞄へしまった。
「……凛先生、ありがとうございました」
『うん。また何か思いついたら教えてね』
「……はい」
二人は並んで教室を出ていった。
廊下の向こうから、美奈の声が聞こえる。
「ねえ真理ちゃん! 明日さ、服見に行かない!?」
「……えっ、明日?」
「うん! いろいろ参考になるかもしれないじゃん!」
「……ふふっ。そうだね」
その声が、少しずつ遠ざかっていく。
リンは教室に残された椅子を戻した。
『……元気だなぁ、二人とも』
小さく笑う。
そして、ふと思い出す。
佐伯と菜月も、さっきまであんなふうに笑っていた。
目指しているものは、まったく違う。けれど、新しい挑戦を前にした表情は、どこか似ていた。
◇
夕方。
職員室。
リンは自分の席に戻り、手帳を開いた。
机の上には、二種類の書類が並んでいた。
一つは、東央大学との合同練習について書き留めたメモ。もう一つは、全国高校生ファッション創作コンテストの募集要項。
『……さて、と』
リンはペンを持った。
東央大学から届く正式な日程と参加条件の確認。
荒川との打ち合わせ。
コンテストの学校承認。
藤崎との家庭科室の利用調整。
やるべきことが、少しずつ増えている。
『……何だか、忙しくなってきたなぁ』
思わず独り言が漏れた。
そのとき。
「山元先生、まだ残っていたんですか?」
小野寺が戻ってきた。
『あ、小野寺先生。お疲れさまです』
「お疲れさまです。何か調べものですか?」
『はい。ちょっと仕事が増えちゃいまして』
「……仕事?」
『空手部の子たちが、また東央大学の合同練習に呼んでもらえたんです』
「おお、それはよかったですね」
『はい。しかも今回は、総当たり戦もあるみたいで』
リンは嬉しそうに話した。
小野寺も頷く。
「佐伯にとっても、いい機会になりそうですね」
『そうなんです。相原さんも呼んでもらえて』
「なるほど。それは楽しみですね」
『はい!』
リンは笑った。
すると小野寺が、机のもう一つの書類に目を留めた。
「……こちらは?」
『あ、ファッションコンテストの方です』
「小川と片岡の?」
『はい。今日、藤崎先生にも相談してきました』
「そうですか」
『学校の許可とか、家庭科室のこととか、まだいろいろあるんですけど……』
リンは手帳を見つめた。
『……自分で仕事、増やしちゃいました』
小野寺が笑った。
「ははは。それは大変ですね」
『ほんとですよー』
リンも笑う。
そして、書類を一枚揃えた。
小野寺は少しだけリンの様子を眺めてから、静かに言った。
「でも、楽しそうですね」
『……え?』
「山元先生が、ですよ」
『……あたしが?』
「ええ」
小野寺は穏やかに笑った。
リンは少し驚いた。
自分では、そんなつもりはなかった。
やることが増えた。調べなければいけないこともあるし、今日だって空手部の練習が終わってから、真理と美奈の相談に乗っている。
そのうえ、まだ職員室に残って仕事をしているのだ。
(……いや、待って)
リンはふと考えた。
(少し前までのあたしだったら、部活の副顧問とか、生徒のために残業するとか、絶対考えられなかったんだけど……)
学校で決められた仕事をして、必要な授業をこなして、定時になったら帰る。
自分の時間は自分の時間。
教師という仕事が嫌いだったわけではない。ただ、仕事のために必要以上の時間を使うことには、あまり魅力を感じていなかった。
それなのに今は、頼まれたわけでもないのに進路資料を探し、コンテストの手続きを調べ、空手部の次の合同練習を楽しみにしている。
(……やっぱり先生って、コスパ悪いなぁ)
リンは心の中で苦笑した。
やることは増える。
時間も取られる。
しかも、その分だけ給料が増えるわけでもない。
冷静に考えれば、ちっとも割に合わない。
でも。
佐伯が迷わず参加を希望したときの顔。
菜月が目を輝かせていたこと。
真理が少しずつデザインを考え始めたこと。
美奈が嬉しそうに、服を作る話をしていたこと。
そんな生徒たちの表情を思い出すと、不思議と嫌な気分にはならなかった。
(……まあ、でも)
リンは机の上に並ぶ二種類の書類を見つめた。
(悪くないかも。こういうのも)
「……山元先生?」
『……あっ、はい!』
小野寺の声で、我に返る。
「どうかしました?」
『いえ、何でもないです』
リンは少し照れくさそうに笑った。
『……まあ、確かに。ちょっと楽しいかもしれないです』
「それは何よりです」
小野寺も笑った。
リンはもう一度、手帳を開いた。
東央大学からの正式な連絡を確認すること。
コンテストの応募手続きを進めること。
まだ片づいていない仕事は、いくつもある。
『……よし』
リンは次にやるべきことを書き留め、ペンを置いた。
全部を今日終わらせる必要はない。優先順位を決めて、一つずつ進めればいい。
リンは書類をまとめ、鞄へしまう。
『じゃあ、お先に失礼します!』
「お疲れさまでした」
小野寺に見送られ、職員室を出た。
廊下の窓から、五月の夕日が差し込んでいる。
武道場では、佐伯と菜月が次の挑戦へ向けて汗を流していた。教室では、真理と美奈がまだ見ぬ一着の服について楽しそうに話していた。
目指すものも、歩く速さも、それぞれ違う。
そして自分は、そんな生徒たちと毎日顔を合わせている。
(……ほんと、コスパ悪い仕事だよね)
リンは小さく笑った。
けれど、その足取りは思っていたよりも軽かった。




