第三十九話「コートの外の主将」
二〇二六年(令和八年)五月二十七日、水曜日。
都立桜丘高校、体育館。
床を叩くボールの音。
シューズが擦れる音。
部員たちの掛け声。
「ナイスレシーブ!」
「カバー、お願い!」
「もう一本!」
放課後の体育館には、いつもと変わらない練習風景が広がっていた。
コートの中央で、宮野千夏が手を叩く。
「はい! 次いこう!」
千夏は周囲を見渡した。
「さっきのはちょっと連係がずれてたから、次は声かけ合ってね!」
「はい!」
部員たちが配置につく。
千夏も自分の位置へ戻り、膝を軽く曲げた。
少し前までなら、こういうとき、真っ先に紗奈の顔を見ていた。
何をすればいいのか。
どんな指示を出せばいいのか。
紗奈なら、きっとすぐに答えを出してくれる。
けれど、今は違う。
自分で考え、自分の言葉で伝える。
それが簡単ではないことも、ようやく分かってきた。
「よし、お願い!」
千夏の声に合わせて、練習が再開された。
そのときだった。
――コツ。
体育館の入口から、小さな音が聞こえた。
――コツ、コツ。
硬いものが床に触れる、規則的な音。
入口の近くにいた部員が振り返った。
「……あっ!」
その声につられ、千夏も顔を上げる。
「……紗奈?」
体育館の入口に、朝倉紗奈が立っていた。
両脇には松葉杖。
右足をかばいながら、一歩ずつゆっくり進んでいる。
「……お疲れ」
紗奈はいつものように笑った。
千夏は思わず駆け寄りかけて、途中で足を緩めた。
「紗奈! 来るなら言ってよ!」
「そんな大げさなことじゃないでしょ」
「いや、だって……膝、大丈夫なの?」
「うん。無理はしてないから」
紗奈は松葉杖を持ち直した。
「ちょっと、みんなの練習が見たくなって」
「……そっか」
千夏は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、こっち座って! 椅子あるから!」
「ありがと」
紗奈が体育館の壁際へ向かう。
松葉杖をつくたびに、乾いた音が響いた。
その音を聞きながら、千夏は胸の奥が少し痛むのを感じた。
ついこの前まで、紗奈は誰よりも早くコートを走り回っていた。
声を出し、指示を飛ばし、部員たちを引っ張っていた。
その紗奈が、今は松葉杖をついている。
「ここでいい?」
「うん。ありがとう」
椅子に腰を下ろした紗奈は、ゆっくりと松葉杖を壁際へ立てかけた。
右足を無理のない位置に置く。
そして、顔を上げた。
視線の先には、コートがあった。
「……じゃあ、私、練習戻るね」
「うん。頑張って」
千夏が小さく頷く。
そのままコートへ戻っていった。
紗奈は、走っていく千夏の背中を見つめた。
ほんの少し前まで、自分もあそこにいた。
床を蹴る感触。
ボールを追う瞬間。
仲間の声。
どれも、当たり前だった。
今は、その場所へ戻ることさえできない。
「……よし」
紗奈は小さく呟いた。
せっかく来たんだ。
みんなの練習を、ちゃんと見よう。
◇
「千夏、次の一本!」
「うん!」
コートでは、レシーブから攻撃へつなぐ練習が続いていた。
ボールが打ち込まれる。
後衛の部員が腕を伸ばした。
「取った!」
レシーブが上がる。
しかし、その次の瞬間。
「あっ!」
セッターへ向かうボールに、別の部員が反応しかけた。
一瞬、動きが重なる。
ボールは中途半端な位置へ落ちた。
「ごめん!」
「今の、私が行くべきだった!」
千夏が手を叩いた。
「大丈夫! もう一回やろう!」
練習が再開される。
しかし、数本後。
同じような位置で、再び連係が乱れた。
「……あれ?」
千夏が首を傾げる。
ボールを取る技術そのものが足りないわけではない。
それぞれが反応している。
なのに、なぜか動きが重なってしまう。
「ちょっと十五秒!」
千夏の声に、部員たちが集まった。
紗奈が以前から取り入れていた、短い作戦会議。
練習の流れを大きく止めず、その場で確認するための時間だ。
「今の、誰が取るか迷っちゃったよね」
「うん。私、前に出ようとしたんだけど……」
「私も同じタイミングで動いちゃった」
「じゃあ、次は先に声出そう!」
「了解!」
部員たちはすぐに位置へ戻った。
短い確認。
判断をそろえる。
その目的は間違っていない。
けれど。
「……違う」
壁際で、紗奈が小さく呟いた。
今の問題は、声を出すかどうかだけではなかった。
最初にボールへ反応した選手と、その後ろでカバーへ入る選手。
二人の距離が近すぎる。
だから、一人が前へ出たとき、もう一人の動ける場所がなくなる。
ほんの半歩。
位置を変えるだけでも違うはずだった。
「……そこ、もう少し下がればいいのに」
紗奈は思わず膝の上で拳を握った。
言いたい。
今すぐ声をかけたい。
けれど、練習はもう始まっている。
紗奈は口を閉じた。
コートの向こうでは、千夏が懸命に声を出していた。
「次、いこう!」
その姿を、紗奈は黙って見つめた。
◇
「……あっ」
体育館の端で、水瀬結衣がペンを止めた。
膝の上には、練習記録用のノート。
いつもどおり、気になった動きやミスの傾向を書き留めていた。
さっきから、似たような失敗が続いている。
結衣はページを見返した。
一回目。
二回目。
三回目。
ミスをした選手は同じではない。
それなのに、ボールが落ちた場所はよく似ていた。
「……何でだろう」
結衣はコートへ視線を向けた。
選手たちは声を出している。
動きも悪くない。
でも、誰かがボールを追った直後、周囲の選手の位置が少しずつ崩れているように見えた。
結衣はノートへ小さく印をつけた。
今度は、ボールが上がる前の動きも見る。
「……あ」
また、同じ場所で動きが重なった。
結衣はペンを握り直した。
偶然ではないのかもしれない。
けれど、自分には競技者としての経験があるわけではない。
見ているだけで、何が正しいのか判断できるのだろうか。
(……千夏に言ってみようかな)
そう思った。
でも、すぐには声が出なかった。
千夏も必死に考えている。
そこへ自分が余計なことを言ったら、かえって迷わせてしまうかもしれない。
結衣は一度、ノートへ視線を落とした。
気づいたことだけは、残しておこう。
そう決めて、もう一つ印を書き加えた。
◇
練習が一区切りついた。
「はーっ、疲れた!」
「水飲も、水!」
部員たちがそれぞれ水筒を取りに向かう。
千夏も額の汗を拭いながら、体育館の端へ歩いてきた。
「紗奈、どう? 久しぶりの練習」
「……うん」
紗奈は少し笑った。
「みんな、頑張ってるね」
「でしょ?」
千夏も笑顔になる。
「まだ全然うまくいかないところもあるけどさ」
「……千夏」
「ん?」
「さっきのレシーブのところなんだけど」
紗奈がコートを指さした。
「後ろの子、もう半歩下がった方がいいと思う」
「……え?」
「前に出る子と位置が近いから、動きが重なるんだよね」
千夏はコートを振り返った。
「あっ……」
思い返してみる。
確かに、同じ場所へ二人が動いていた。
「……そっか!」
千夏が頷く。
「声だけじゃなくて、最初の位置が問題だったんだ」
「そう」
紗奈も頷いた。
「あと、次の攻撃への切り替えも、ちょっと遅れてる」
「ああ……うん」
「レシーブが上がったら、もう少し早く周りが動いた方がいいと思う」
「分かった」
「それと、さっきのカバーも――」
紗奈は続けた。
気になっていたことが、次々と口から出てくる。
千夏はその一つひとつを聞いていた。
どれも的確だ。
自分では気づけなかったことばかり。
「……なるほど」
千夏は頷く。
「じゃあ、次の練習で試してみる」
「うん。たぶん、その方が――」
紗奈はそこで言葉を止めた。
千夏が、少し考え込んでいたからだ。
「……千夏?」
「あ、ううん。大丈夫!」
千夏が慌てて顔を上げた。
「ちょっと、どう伝えようかなって思って」
「……そっか」
紗奈は頷いた。
「ごめん。一気に言いすぎたかな」
「そんなことないって!」
千夏は笑った。
「助かるよ。ほんとに」
それは本心だった。
紗奈の指摘には、いつも説得力がある。
実際、今も自分では分からなかった原因を見つけてくれた。
けれど。
その全部を、どうやって練習へ反映すればいいのだろう。
一度に直そうとすれば、部員たちも混乱するかもしれない。
まず何から取り組むべきなのか。
千夏は、まだ答えを出せずにいた。
「千夏ー! 次始めるよ!」
「あっ、はーい!」
千夏が振り返る。
「じゃあ紗奈、またあとで!」
「うん」
千夏はコートへ戻っていった。
紗奈はその背中を見送り、少しだけ視線を落とした。
「……言いすぎたかな」
自分では、そんなつもりはなかった。
ただ、気づいたことを伝えただけだ。
チームが少しでもよくなるなら、それでいいと思っていた。
でも。
さっきの千夏は、少し困ったような顔をしていた。
紗奈は膝の上で手を重ねた。
何が正しかったのか。
自分にも、よく分からなかった。
◇
練習終了後。
体育館には、後片づけをする部員たちの声が響いていた。
千夏は仲間とボールを集め、結衣は記録用のノートを閉じていた。
その少し離れた場所。
紗奈が椅子から立ち上がろうとしていると、声がかかった。
『紗奈』
「……あ、山本先生」
凛だった。
『今日は来ていたんだな』
「はい。少しだけ、練習を見たくて」
『そうか』
凛は壁際に立てかけられた松葉杖へ目を向けた。
『膝の具合はどうだ? 移動も大変だっただろう』
「大丈夫です。無理はしてません」
『それならいいが、疲れたら遠慮せず休むんだぞ』
「はい」
紗奈は頷いた。
そして、すぐにコートへ視線を向けた。
「先生、さっきの練習なんですけど」
『ん?』
「レシーブの連係で、同じミスが何度かあったんです」
『ああ。私も見ていたよ』
「立ち位置を少し変えれば、もっとよくなると思うんです。それと、攻撃へ切り替えるときも――」
紗奈は身振りを交えながら説明し始めた。
凛は黙って耳を傾ける。
紗奈の言葉は具体的だった。
どこで動きが重なったのか。
誰が悪いという話ではなく、どうすれば改善できるのか。
コートの外からでも、これだけのことに気づいている。
『……よく見ているな、紗奈』
「……え?」
『さすが主将だと思ったよ』
紗奈は少し驚いたあと、笑った。
「……ありがとうございます」
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
「でも、やっぱり……」
小さく呟く。
『どうした?』
「……いえ」
紗奈は首を振った。
「何でもないです」
凛は少し考えた。
紗奈は、練習のことならいくらでも話してくれる。
けれど、自分の膝のことになると、決まって短い返事になる。
『……紗奈』
「はい」
『チームのことは、よく分かった』
凛は近くの椅子を引き寄せ、紗奈と目線を合わせた。
『でも、紗奈自身はどうなんだ?』
「……私、ですか?」
『ああ。今、どんな気持ちでいる?』
紗奈は黙り込んだ。
体育館の向こうでは、ボールかごを運ぶ音が聞こえる。
千夏の笑い声もした。
紗奈は、その方へ目を向けた。
「……早く、戻りたいです」
声は小さかった。
『……そうか』
「みんな、すごく頑張ってるんです」
紗奈は続けた。
「千夏も、前より自分で考えて動いてるし。結衣も、ずっと支えてくれてて……」
『ああ』
「それは、嬉しいんです」
紗奈は膝の上の手を握った。
「……でも」
続く言葉が、なかなか出てこなかった。
凛は急かさなかった。
紗奈は、ゆっくりと息を吐いた。
「……私も、あそこにいたい」
視線の先には、コートがあった。
「みんなが練習してるのを見ると、どうしても思っちゃうんです」
「自分だったら、あそこでこう動くのに、とか」
「今なら、あのボール取れたのに、とか……」
紗奈は苦笑した。
「……怪我してるくせに、変ですよね」
『変じゃない』
凛は静かに答えた。
紗奈が顔を上げる。
『それだけ、バレーが好きなんだろう』
「…………」
『戻りたいと思うのは、当然だ』
紗奈は唇を結んだ。
「……先生」
『ん?』
「私、大学でもバレーを続けたいんです」
『ああ。聞いているよ』
「……でも」
紗奈は視線を落とした。
「このまま練習できなかったら、推薦だってどうなるか分からないし……」
その先は、口にできなかった。
焦っていた。
何もしないまま時間だけが過ぎていく。
チームは、自分がいなくても少しずつ前へ進んでいる。
それが嬉しいはずなのに。
同時に、自分だけが取り残されているような気がした。
凛はしばらく考えた。
大丈夫だと、簡単に言うことはできない。
いつ復帰できるのか。
推薦がどうなるのか。
今の自分には、答えられないことばかりだった。
『……不安だよな』
「…………」
『紗奈がどれだけ頑張ってきたか、私は全部知っているわけじゃない。でも、今のきみを見ていれば、バレーを大切にしてきたことは分かる』
紗奈は黙って聞いていた。
『その気持ちまで、怪我でなくなったわけじゃないだろう?』
「……はい」
『だったら、今は身体を治すことを大事にしてほしい』
凛は穏やかに続けた。
『戻りたい気持ちは、無理に消さなくていい。ただ、焦って膝に負担をかけることだけはしないでくれ』
「……はい」
『進路のことも、一人で抱え込まなくていい。相談できることは一緒に考えよう』
紗奈はしばらく俯いていた。
やがて、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
凛も頷く。
それ以上、無理に明るい言葉を重ねることはしなかった。
紗奈の不安は、今この場で消えるものではない。
それでも。
言葉にできたことには、少しだけ意味がある気がした。
◇
二〇二六年(令和八年)五月二十八日、木曜日。
放課後。
体育館へ向かう途中、千夏は結衣の姿を見つけた。
「結衣!」
「……あ、千夏」
「昨日の練習なんだけどさ」
千夏が声をかける。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「……何?」
「昨日、同じところで何回かミスしてたじゃん?」
「……うん」
「紗奈に立ち位置のこと教えてもらったんだけど、それ以外にも何か気になるところあった?」
結衣は少し驚いた。
「……私に?」
「うん」
千夏は頷いた。
「結衣、いつも練習のこと記録してくれてるでしょ?」
「……まあ、うん」
「昨日も、何か書いてたよね」
結衣は鞄からノートを取り出した。
少し迷ってから、ページを開く。
「……これなんだけど」
そこには、昨日の練習で起きたミスが記録されていた。
千夏は覗き込む。
「……結構、細かく書いてるんだね」
「忘れないようにしてるだけだよ」
結衣は少し照れくさそうに答えた。
そして、印をつけた部分を指さす。
「ここ。同じ場所にボールが落ちてるんだよね」
「……ほんとだ」
「でも、ミスした人は毎回違うの」
千夏が顔を上げる。
「……え?」
「だから、誰か一人の問題じゃないのかもって」
結衣は言葉を選びながら続けた。
「最初のレシーブは取れてるんだけど、そのあと周りが動くときに……」
ノートの余白へ、小さく丸を描く。
選手の位置を示す丸。
そこから伸びる矢印。
「……ここで、二人が同じ方向に動いてることが多くて」
千夏はじっと見つめた。
「……あ」
昨日、紗奈から聞いたことを思い出す。
立ち位置が近すぎる。
確かに、そのとおりだった。
けれど、結衣の記録を見ると、それだけではないように思えた。
「……もしかして」
千夏が呟いた。
「最初の位置を直しても、ボールが上がったあとの動きが同じだったら、また重なっちゃう?」
「……たぶん」
結衣は少し不安そうに答えた。
「でも、私、プレーしてるわけじゃないから……合ってるか分かんないよ」
「ううん」
千夏は首を振った。
「これ、すごく助かる」
「……え?」
「私、昨日ずっと、誰が取るかってことばっかり考えてたんだ」
千夏はノートを見つめた。
「でも、そのあとの動きまでちゃんと考えてなかった」
結衣は少しだけ目を丸くした。
千夏は顔を上げる。
「ねえ、結衣」
「……うん?」
「今日の練習、ちょっと一緒に確認してくれない?」
「……私が?」
「うん。昨日みたいに、気づいたことがあったら教えてほしい」
結衣は戸惑った。
これまでも、練習記録はつけてきた。
でも、自分の気づいたことを、こうして頼まれたのは少し意外だった。
「……でも、間違ってるかもしれないよ?」
「そしたら、みんなで確認すればいいじゃん」
千夏は笑った。
「私だって、まだ分かんないことだらけなんだから」
「…………」
結衣は少し考えた。
そして、頷いた。
「……うん。分かった」
「ありがとう!」
千夏が嬉しそうに笑う。
「じゃあ、今日もよろしくね!」
「……うん」
二人は並んで体育館へ向かった。
千夏は思った。
自分一人で、紗奈の代わりを全部できるわけじゃない。
でも、だからといって、何もできないわけでもない。
結衣が見つけたこと。
紗奈が教えてくれたこと。
みんなが練習の中で感じたこと。
そういうものを、少しずつつなげていけばいいのかもしれない。
まだ、やり方は分からない。
それでも。
昨日より少しだけ、前へ進めそうな気がした。
◇
同じ日の夜。
紗奈は自宅の机に向かっていた。
椅子の横には、松葉杖が立てかけられている。
机の上には、バレー部の練習について書き留めたメモ。
昨日、体育館で気づいたことを、忘れないようにまとめたものだった。
レシーブの立ち位置。
カバーに入るタイミング。
攻撃へ切り替えるときの動き。
紗奈は、ひとつずつ読み返した。
「……ここも、直せそうなんだけどな」
ペンを持ち、余白へ書き足す。
次にスマートフォンを手に取った。
千夏とのメッセージ画面を開く。
昨日気づいたことを、もう少し詳しく伝えようと思った。
《昨日の練習なんだけど、レシーブのあとは――》
そこまで入力して、指が止まる。
「…………」
昨日の千夏を思い出した。
自分の話を真剣に聞いてくれていた。
でも、途中から少し困ったような顔をしていた。
あれは、どうしてだったのだろう。
紗奈は画面を見つめた。
自分の指摘が間違っていたとは思わない。
今でも、こうした方がいいと考えている。
けれど。
千夏だって、自分で考えながらチームを動かしている。
そのことは、昨日の練習を見れば分かった。
「……千夏、頑張ってたな」
紗奈は小さく呟いた。
自分がいない間、何もしていなかったわけじゃない。
むしろ、自分の代わりを務めようと、必死に動いていた。
それは嬉しい。
本当に、嬉しい。
でも。
「……私も、何かしたいんだよ」
紗奈はスマートフォンを握った。
コートには立てない。
練習にも参加できない。
今できることといえば、気づいたことを伝えるくらいだ。
なのに、それさえ控えた方がいいのだとしたら。
自分は、何をすればいいのだろう。
紗奈はしばらく画面を見つめていた。
やがて、入力しかけたメッセージを下書きのまま残し、スマートフォンを机へ置いた。
送るのは、もう少し考えてからにしよう。
そう決めたものの、気持ちが軽くなったわけではなかった。
紗奈は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
部屋は静かだった。
体育館のような掛け声も、ボールの音も聞こえない。
「……早く、戻りたいな」
その言葉は、誰にも届かなかった。
けれど、紗奈の視線は再び机の上のメモへ戻った。
まだ、自分に何ができるのかは分からない。
それでも、チームのことを考えるのをやめるつもりはなかった。
紗奈はもう一度ペンを手に取る。
そして、さっきまで書いていた改善案の下に、短い言葉を書き足した。
――千夏は、どう考えているんだろう。
それをしばらく見つめる。
自分の考えを伝えることばかり考えていた。
でも、千夏が何を考えているのか、ちゃんと聞いただろうか。
「…………」
紗奈はペンを置いた。
答えは、まだ出ていない。
ただ、今までとは少し違う問いが、心に残っていた。




