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第三十八話「夢への挑戦状」

 二〇〇〇年(平成十二年)五月十八日、木曜日。


 都立青葉高校、職員室。


『小野寺先生、少しお時間いいですか?』


 出勤して早々、リンは隣の席へ声をかけた。


 書類に目を通していた小野寺が顔を上げる。


「おはようございます、山元先生。どうしました?」


『進路のことで、ちょっと相談したくて』


「進路?」


『はい。昨日まで家庭訪問をしていて、何人かの生徒と進路の話をしたんですけど……』


 リンは手帳を開いた。


 昨日、森田の家から帰ったあと、忘れないように書き留めておいたものだ。


『まず森田さんなんですけど、大学進学を希望していて。ただ、まだ学びたい分野が決まってないみたいなんです』


「森田ですか」


 小野寺が少し意外そうな顔をした。


「なるほど。あいつも、ちゃんと考え始めましたか」


『本人なりに、結構悩んでるみたいですよ』


「そうでしょうね。ああ見えて、将来のことを全く考えていないわけじゃありませんから」


 小野寺は頷いた。


「大学の資料なら進路指導室にありますよ。学部ごとの案内もあるはずです」


『よかった。それで、もう二人いるんですけど……』


 リンは手帳を一枚めくった。


『小川さんと片岡さんです。二人とも、服飾関係の専門学校に興味があるみたいで』


「服飾ですか」


『はい。ただ、二人がやりたいことは少し違うんですよね』


「と言いますと?」


『小川さんは服のデザインを考える仕事。片岡さんは、そのデザインを実際の服にする仕事がしたいそうです』


 小野寺は興味深そうに頷いた。


「なるほど。それなら、調べる学校も少し変わってきそうですね」


『そうなんです。あたし、その辺りには全然詳しくなくて……』


「でしたら――」


 小野寺が何か言いかけた、そのときだった。


「おはようございます」


 職員室の扉が開いた。


 教材らしい紙の束と布の入った箱を抱えた女性が入ってくる。


 落ち着いた雰囲気の、四十歳前後の教師だった。


「……あら」


 女性は自分の机へ向かう途中、箱の上で傾いた紙束を慌てて押さえた。


「もう。こういうときに限って、崩れるんだから」


「藤崎先生、おはようございます」


 小野寺が声をかける。


「おはようございます、小野寺先生」


「ちょうどよかった。少しお聞きしたいことがあるんですが」


「はい?」


 藤崎と呼ばれた女性は、抱えていたものを自分の机へ置くと、二人の方へ振り返った。


「どうしました?」


「山元先生が、服飾関係の進路について調べているところなんです」


「あら、服飾?」


「ええ。三年二組の生徒で、専門学校を希望している子がいまして」


 女性の視線がリンへ向いた。


「山元先生のクラス?」


『はい。小川真理さんと片岡美奈さんなんですけど……』


「ああ、あの二人ね」


 女性はすぐに頷いた。


『……ご存じなんですか?』


「もちろん。私も授業で教えていますから」


 そう言って、柔らかく笑った。


 リンは少しだけ目を瞬かせた。


 考えてみれば当然だ。


 担任である自分だけが、生徒たちを見ているわけではない。


「藤崎先生は家庭科の先生ですから、服飾系の進路についても詳しいと思いますよ」


 小野寺が説明した。


「詳しいと言っても、専門学校の先生ほどではありませんけどね」


 藤崎は笑ってから、リンに向き直った。


「二人とも、服飾関係を考えているんですか?」


『はい。小川さんはデザインに興味があるみたいで。片岡さんは、服を実際に作る方に進みたいって』


「そう……」


 藤崎は少し嬉しそうな顔をした。


「小川さんは、前から絵を描くのが好きみたいでしたね。授業の合間にも、服の形を考えていることがあって」


『そうなんですか?』


「ええ。片岡さんは、実習になると楽しそうなのよ。自分の作業が終わると、ほかの子のところまで覗きに行ったりして」


『ああ……何となく想像できます』


 リンが笑う。


 美奈なら、確かにやりそうだった。


「でも、二人ともまだ基礎を勉強している段階ですからね」


 藤崎は続けた。


「デザインを専門に学ぶのか、型紙や縫製を中心に学ぶのかで、授業の内容もかなり違います。学校案内を見るときは、その辺りをよく比べた方がいいと思いますよ」


『なるほど……』


「ただし、両方を学ぶ学校もありますから、名前だけで判断しない方がいいですね」


『ありがとうございます。助かります』


「いえいえ」


 藤崎は軽く首を振った。


「何かあれば、また聞いてください。あの二人がそんなことを考えているなんて、私もちょっと楽しみです」


 そう言って、自分の机へ戻っていった。


 途中、箱から布が一枚はみ出していることに気づき、慌てて押し込む。


「……あら、また出てきた」


 リンは思わず笑ってしまった。


 どこか親しみやすい先生だ。


「では、山元先生」


 小野寺が立ち上がった。


「進路指導室へ行きましょうか」


『はい。お願いします!』


     ◇


 進路指導室には、大学や専門学校の資料が並んでいた。


 棚に収められた分厚い学校案内。


 大学ごとの募集要項。


 各地から届いたパンフレット。


 リンは、その量に少し圧倒された。


『……すごい数ですね』


「毎年いろいろ送られてきますからね」


 小野寺が棚を指さした。


「大学関係はこちら。専門学校は向こうです」


『分かりました』


 リンはまず大学の資料を探した。


 森田は、まだ具体的な学部を決めていない。


 だからといって、適当に学校を選ぶわけにもいかなかった。


『……これと、これも見せてみようかな』


 幅広い分野を紹介した大学案内を数冊選ぶ。


 どんな学部があり、どんなことを勉強するのか。


 森田自身が考えるための材料になればいい。


 リンは資料を脇へまとめると、専門学校の棚へ向かった。


『えっと……ファッション、服飾……』


 学校名がずらりと並んでいる。


『……多いなぁ』


 聞いたことのある名前もあれば、初めて見る名前もある。


 リンは一冊の案内を開いた。


 華やかなデザイン画。


 学生が制作した衣装。


 ファッションショーの写真。


『……へえ』


 思わず見入ってしまう。


 けれど、ページをめくると、そこには授業内容の一覧があった。


 デザイン。


 パターンメーキング。


 裁断。


 縫製。


 素材に関する知識。


『……こんなに勉強することあるんだ』


 服を一着作る。


 言葉にすれば簡単だ。


 けれど、そのために必要な知識や技術は、リンが考えていたよりずっと多いらしい。


「何か見つかりましたか?」


 小野寺が声をかけた。


『はい。二人に見せてみたい資料が何冊か』


「それはよかった」


『ただ……』


 リンは開いたページを見せた。


『同じファッションの学校でも、勉強することが結構違うんですね』


「そうですね。ですから、本人たちが何を学びたいのかが大事なんですよ」


『……そうですよね』


 真理と美奈。


 二人とも服が好きだ。


 けれど、好きなものが同じだからといって、目指すものまで同じとは限らない。


 リンはそれぞれに合いそうな資料を選んでいった。


 その途中だった。


『……ん?』


 棚の端に置かれた紙の束。


 学校案内とは少し違う、色鮮やかな一枚が目に留まった。


 リンはそれを手に取った。


『……全国高校生ファッション創作コンテスト?』


 思わず読み上げる。


 紙には、大きな文字が躍っていた。


 ――二〇〇〇年度 全国高校生ファッション創作コンテスト。


 募集テーマ。


 「変化」


 全国の高校生を対象に、オリジナルの衣装を募集するという案内だった。


『……小野寺先生、これって』


「何ですか?」


 小野寺が近づいてくる。


「ああ、コンテストの案内ですね。今年もいろいろ届いていますよ」


『高校生が参加できるんですか?』


「そう書いてありますね」


 リンは募集要項へ目を落とした。


 同じ学校の生徒二名から三名でチームを組むこと。


 顧問教員を登録すること。


 デザイン画と企画書による一次審査があること。


 そして、一次審査を通過したチームは――。


『……えっ』


 リンは紙に顔を近づけた。


『実際に服を作るんですか?』


「そのようですね」


 小野寺も案内を覗き込む。


「全国決勝では、制作した衣装を審査する、と」


『……なるほど』


 リンはもう一度、募集要項を読み直した。


 真理はデザインを考えることが好き。


 美奈は、そのデザインを服にする仕事がしたい。


 だったら。


『……これ、二人にぴったりじゃないですか?』


「小川と片岡ですか?」


『はい。二人で参加できるみたいですし』


 小野寺は少し考え込んだ。


「確かに、興味を持つかもしれませんね」


『ですよね!』


「ただ、簡単な大会ではないと思いますよ」


『……え?』


「全国の高校生が対象でしょう? 服飾を専門に学んでいる学校からも参加者が来るはずです」


 リンは案内へ目を落とした。


「普通科の生徒が挑戦してはいけないわけではありません。でも、制作経験には大きな差があるでしょうね」


『……ああ、そうか』


 藤崎の言葉を思い出す。


 真理も美奈も、まだ基礎を勉強している段階だという。


 相手は、日頃から服作りを専門的に学んでいる高校生かもしれない。


『……そりゃ、難しいですよね』


「それに、実際に一着仕上げるとなれば、材料も場所も時間も必要です」


『……うーん』


 リンはしばらく案内を見つめた。


 何も知らずに勧めるのは無責任だろう。


 けれど。


『……でも、見せるだけならいいですよね』


「もちろんです」


『参加するかどうかは、二人に決めてもらえばいいですし』


 小野寺が頷いた。


「そうですね。ただ、参加したいということになれば、学校として確認することもあります」


『……顧問、とかですか?』


「ええ。応募条件や施設の利用、制作中の安全管理もありますから」


『なるほど……』


 リンは案内をもう一度見た。


 簡単ではなさそうだ。


 けれど、真理と美奈がこれを見たら、どんな顔をするだろう。


 少しだけ、見てみたくなった。


『……じゃあ、これも持っていっていいですか?』


「どうぞ。まずは本人たちの希望を聞いてみましょう」


『はい!』


 リンは募集案内を、専門学校の資料と一緒に重ねた。


     ◇


 午後。


 青葉高校、三年二組。


『はい、それじゃあ今日の連絡は以上です。明日の提出物、忘れないようにしてくださいね』


「はーい」


「凛ちゃん、もう帰っていい?」


『はいはい。ちゃんと話聞いてた?』


「聞いてたって!」


 森田が笑う。


『じゃあ、さっき言った提出物は?』


「……えーっと」


『……ほら』


 教室に笑い声が広がった。


「やべ、忘れた!」


『まだ帰ってもいないのに忘れないでよ』


「はいはい、覚えた!」


『ほんとかなぁ……』


 リンは呆れたように笑った。


 帰りの挨拶が終わる。


 生徒たちが席を立ち、鞄を持ち始めた。


 そのとき。


『あ、小川さん、片岡さん』


 二人が顔を上げる。


『ちょっと残ってください』


「……え?」


 真理が小さく声を漏らした。


「私たち?」


 美奈が不思議そうに首を傾げる。


『うん。ちょっと話があるから』


「はーい」


 美奈は軽く答えた。


 けれど、真理は少し硬い表情になった。


「……はい」


 何かしただろうか。


 提出物は出したはずだ。


 授業中も、特に注意された覚えはない。


 それなのに、二人だけ残るように言われた。


(……何だろう)


 真理は自分の机を見つめた。


 その隣で、美奈が鞄を持ったまま声をかける。


「ねえ、真理ちゃん。何の話だろうね?」


「……分かんない」


「進路のことかな?」


「……そうなのかな」


 美奈は相変わらず不思議そうだった。


 真理は、少し落ち着かなかった。


 やがて、ほかの生徒たちが教室を出ていく。


「凛ちゃーん、また明日!」


『はい。また明日。気をつけて帰ってね』


 最後の生徒が出ていくと、教室は急に静かになった。


 廊下の向こうからは、部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえてくる。


 リンは教卓から資料を取り出した。


『お待たせ。二人とも、こっち来てもらっていい?』


「はーい!」


 美奈が先に歩き出す。


 真理も少し遅れて後に続いた。


「あの……凛先生」


『ん?』


「……私たち、何かしましたか?」


 リンは目を瞬かせた。


『……え?』


「その……残るように言われたので……」


『ああ!』


 リンはようやく事情を理解した。


『ごめんごめん! 怒るために残したわけじゃないから!』


「……え?」


『むしろ、二人に見せたいものがあって』


 真理が小さく息を吐く。


 その隣で、美奈が笑った。


「真理ちゃん、怒られると思ってたの?」


「……ちょっとだけ」


「えー! 何それ!」


『いや、あたしの呼び方が悪かったかな……』


 リンは苦笑した。


『まあ、とりあえず座って』


     ◇


 リンは近くの机を寄せ、持ってきた資料を並べた。


『この前、家庭訪問したときに進路の話したでしょ?』


 二人が頷く。


『それで、小野寺先生にも相談して、いくつか資料をもらってきたんだ』


「……えっ」


 真理が顔を上げた。


『小川さんはデザインの勉強ができる学校。片岡さんは、縫製とか型紙の勉強ができる学校を中心に探してみたよ』


 リンがパンフレットを差し出す。


「……凛先生、調べてくれたんですか?」


『うん。約束したからね』


 真理は受け取った資料を見つめた。


「……ありがとうございます」


『どういたしまして』


 美奈は早速、一冊を開いていた。


「うわ、見て! 真理ちゃん! これ!」


 ページいっぱいに、学生が制作した衣装の写真が載っている。


「すごくない!? これ学生が作ったんだって!」


「……ほんとだ」


 真理も覗き込む。


「……この形、すごい」


「ね! どうやって作ってるんだろ!」


 二人はページをめくり始めた。


 真理はデザイン画や作品写真のところで手を止める。


 美奈は実習風景やミシンの並んだ教室に興味を示していた。


「真理ちゃん、こっち見て! 型紙ってこんなに種類あるんだ!」


「……すごいね」


「えー、これ全部覚えるのかな!?」


『……結構大変そうだよね』


 リンが横から言う。


「でも楽しそう!」


 美奈が笑った。


 真理も、小さく頷く。


「……うん」


 リンはそんな二人を眺めた。


 同じファッションが好きでも、興味を持つところは違う。


 真理は、どんな服を生み出せるのかに目を輝かせている。


 美奈は、それをどうやって形にするのかが気になるらしい。


 先ほど藤崎が話していたことが、少し分かった気がした。


『あ、そうそう』


 リンはもう一枚、紙を取り出した。


『それとね、こんなのも見つけたんだけど』


「ん?」


 美奈が顔を上げる。


 真理もパンフレットから目を離した。


 リンは、二人の前へ募集案内を置いた。


『これ、見てみない?』


「……全国高校生……」


 真理が文字を読み上げる。


「ファッション創作コンテスト……?」


「えっ!?」


 美奈が身を乗り出した。


「何これ!? コンテスト!?」


『うん。高校生が参加できる大会らしいよ』


「へえー!!」


 美奈は案内を手に取る。


「全国って書いてある!」


『そう。全国の高校生が対象だって』


「ねえ、真理ちゃん! すごくない!?」


「……うん」


 真理は、紙に書かれた文字をじっと見つめていた。


 ――募集テーマ「変化」。


 ――オリジナル衣装作品。


 ――一次審査。


 ――全国決勝。


 華やかな言葉が並んでいる。


「凛ちゃん、これってさ!」


『ん?』


「私たちも出られるの!?」


『条件を見る限り、応募はできるみたい』


「ほんと!?」


『同じ学校の生徒二人から三人でチームを組むんだって』


 リンは案内の一部分を指さした。


『ほら、ここ』


「……二人から三人」


 真理が呟く。


「じゃあ、私たち二人でもいいってこと?」


『うん。そういうこと』


「やばっ!」


 美奈は嬉しそうに笑った。


 けれど、真理は別の部分に目を留めていた。


「……凛先生」


『何?』


「これ……実際に服を作るんですか?」


『うん。一次審査はデザイン画と企画書だけど、そこを通過したら、実物を作って決勝に出るらしいよ』


「……実物……」


 真理が小さく繰り返した。


 美奈も案内を読み直す。


「えっ、じゃあ、デザイン描くだけじゃ駄目なんだ!」


『そうみたい。ちゃんと着られる服を一着作る必要があるって』


「……すご」


 美奈が呟いた。


 今まで、真理が描く服のデザインを見るのは楽しかった。


 自分も服が好きだ。


 ミシンを使うのだって嫌いではない。


 でも、一着の服を最初から最後まで作る。


 そんなことは、まだ経験したことがなかった。


「……難しそうですね」


 真理が小さく言った。


『うん。正直、簡単ではないと思う』


 リンは頷いた。


『小野寺先生にも言われたんだけど、服飾を専門に勉強している高校の生徒も参加するだろうから、経験の差はあると思うんだ』


「……そうですよね」


 真理が視線を落とす。


 自分は、服の絵を描くのが好きだ。


 けれど、専門的な勉強をしてきたわけではない。


 美奈も同じだ。


 そんな自分たちが、全国の高校生と競う。


 考えただけで、少し怖かった。


 そのとき。


「……ねえ、真理ちゃん」


 美奈が口を開いた。


「……何?」


「これさ、私たちで出たら面白くない?」


「……え?」


「ほら、真理ちゃんがデザイン考えて、私が作るの!」


 美奈は案内を指さした。


「それって、私たちがやりたいことそのままじゃん!」


 真理は目を丸くした。


「……でも」


「うん?」


「私、デザインを描くことしかできないし……」


「それでいいじゃん!」


「……え?」


「だって、それが真理ちゃんの得意なことでしょ?」


 美奈は当然のように言った。


「私だって、服を一着作れるわけじゃないよ。分かんないこと、いっぱいあると思う」


「……うん」


「でもさ、やってみたいんだよね」


 美奈は少しだけ照れくさそうに笑った。


「真理ちゃんが考えた服、私が作ってみたい」


「…………」


「この前も言ったじゃん。私、そういう仕事がしてみたいって」


 真理は黙って美奈を見つめた。


 自分が描いた服。


 スケッチブックの中にある、まだ誰も着たことのない服。


 それが、実際に形になる。


 目の前の美奈は、本当にそれを作ってみたいと言っている。


「……美奈ちゃん」


「ん?」


「……本当に?」


「何が?」


「……私のデザインで、いいの?」


 美奈はきょとんとした。


 それから、笑った。


「真理ちゃんのがいいんじゃん!」


「……え?」


「私、真理ちゃんのデザイン好きだもん!」


 真理は言葉を失った。


 美奈は案内を持ち直す。


「もちろん、めちゃくちゃ難しいと思うよ? でもさ、何もやらないで諦めるのも、もったいなくない?」


 真理はもう一度、募集案内へ視線を落とした。


 全国。


 コンテスト。


 実際に着られる服。


 どれも、自分には遠い世界のものに思える。


 けれど。


 その世界へ、一度くらい手を伸ばしてみてもいいのかもしれない。


『……二人とも』


 リンが声をかけた。


 二人が顔を上げる。


『一応言っておくけど、無理に出なくてもいいからね』


「……はい」


『準備には時間もかかるだろうし、専門的な知識も必要になると思う。受験や進路のこともあるしね』


 リンは案内を机に置いた。


『だから、ちゃんと考えて決めてほしいんだ』


 美奈は真理を見た。


 いつもの勢いで「出ようよ!」と言いかけて、少し口を閉じる。


 真理は案内を見つめたままだった。


 しばらく、誰も話さなかった。


 廊下から、運動部の掛け声が聞こえてくる。


 窓の外では、まだ明るい日差しが校庭に落ちていた。


 真理は、ゆっくりと顔を上げた。


「……凛先生」


『ん?』


「……私、やってみたいです」


 小さな声だった。


 けれど、はっきりしていた。


『……そっか』


 リンは微笑んだ。


 真理は美奈を見る。


「……美奈ちゃん」


「……うん!」


「私、まだ全然分からないことばっかりだけど……」


「うん」


「……一緒に、作ってくれる?」


 美奈の顔がぱっと明るくなった。


「当たり前じゃん!!」


 思わず声が大きくなる。


「私が誘ったんだよ!? 絶対一緒に作るって!」


 真理は少し驚いたあと、笑った。


「……ありがとう」


「もう! 何でお礼言うの!」


 美奈は嬉しそうに笑った。


 リンも、つられて笑う。


『……じゃあ、決まりかな』


「はい!」


 美奈が勢いよく頷く。


 真理も、小さく頷いた。


「……はい」


『分かった。じゃあ、まずは応募条件をちゃんと確認しようか』


 リンは案内を引き寄せた。


『学校の許可とか、顧問の先生とか、準備しないといけないこともあるみたいだから』


「顧問?」


 美奈が首を傾げる。


『うん。学校の先生に登録してもらう必要があるんだって』


「じゃあ、凛ちゃんでいいじゃん!」


『……え?』


 リンが顔を上げる。


「だって、凛ちゃんが見つけてくれたんでしょ?」


『いや、まあ……そうだけど』


「じゃあ決まり!」


『ちょっと待って。そう簡単に決めていいものなの?』


「えー、駄目なの?」


『駄目っていうか、先生も確認しないと分かんないよ』


 美奈は頬を膨らませた。


「じゃあ、確認してきてよー!」


『……もう』


 リンは苦笑した。


『分かった。小野寺先生にも相談してみる』


「やった!」


 美奈が両手を上げる。


 真理も嬉しそうに笑っていた。


 リンはそんな二人を見て、ふと思う。


 ついこの前まで、進路について何を話せばいいのか悩んでいた子たちだ。


 それが今は、同じ募集案内を囲んで、これから作る服のことを考えている。


 まだ、何も始まっていない。


 応募できるかどうかさえ、確定していない。


 それでも、二人の表情は明るかった。


『……じゃあ、今日はこの資料を持って帰って、ゆっくり読んでみて』


「はーい!」


「……ありがとうございます、凛先生」


『うん。二人とも、気をつけて帰ってね』


 美奈は真理の腕を軽く引いた。


「ねえ真理ちゃん! 帰りにちょっと話そうよ! どんな服にするか!」


「……えっ、もう?」


「だって楽しみじゃん!」


「……ふふっ。うん」


 二人は顔を見合わせて笑った。


「凛ちゃん、ありがとー!」


『はいはい。また明日ね』


 美奈が手を振り、真理も小さく頭を下げる。


 やがて二人は、並んで教室を出ていった。


     ◇


『……さて、と』


 一人残った教室。


 リンは机の上を片づけながら、もう一度募集案内を開いた。


 参加資格。


 応募書類。


 顧問教員。


 制作上の注意事項。


 必要な手続きが、細かい文字で並んでいる。


『……ん?』


 リンは一か所で目を止めた。


 学校の承認。


 顧問の登録。


 制作環境の確保。


『…………』


 もう一度、上から読み直す。


『……あれ?』


 リンは顔を上げた。


『これ、先生がやることも結構あるんじゃない……?』


 静かな教室に、独り言が落ちた。


 さっきまで、二人の楽しそうな顔を見ていたせいだろうか。


 そんな当たり前のことに、今さら気づいてしまった。


『……はぁ』


 リンは小さく息を吐いた。


 でも。


 机の上には、真理と美奈が開いていた学校案内が残っていた。


 さっきまで二人が夢中で見ていた、学生たちの作品写真。


 そこへ視線を落とし、リンは少しだけ笑った。


『……まあ、やるって言っちゃったしね』


 募集案内を揃え、鞄へしまう。


 まずは小野寺に相談すること。


 それから、藤崎にも話を聞いてみよう。


 分からないことは、まだたくさんある。


 けれど、それはきっと、あの二人も同じだ。


『……よし』


 リンは鞄を持ち、教室を出た。


 廊下の向こうから、部活動に励む生徒たちの声が聞こえてくる。


 五月の夕日は、まだ高かった。


 真理と美奈が初めて挑む全国大会。


 その準備は、これから始まろうとしていた。

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