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第三十七話「画面の向こうの居場所」

 二〇二六年(令和八年)五月二十五日、月曜日。


 都立桜丘高校、三年四組。


『よし。それじゃあ、今日は修学旅行について話をするぞ』


 六時間目。


 ロングホームルームの時間だった。


 教壇に立った凛は、手にした資料を掲げた。


『七月に予定されている修学旅行だ。行き先は、沖縄!』


 その瞬間、教室がざわついた。


「やっと修学旅行の話だ!」


「先生! 自由行動ってありますか?」


「海に入れるんですか?」


『待て待て。まだ説明を始めてないだろう?』


 凛が片手を上げる。


『楽しみなのは分かるが、まずは話を聞いてくれ。質問はそのあとだ』


 生徒たちが笑いながら前を向いた。


 凛は頷くと、資料を配り始めた。


『今日は大まかな行程を説明したあと、みんなの希望を聞こうと思っている。行ってみたい場所や、やってみたいことがあれば書いてくれ』


「先生、国際通りって行きますか?」


『国際通りか……』


 凛は手元の資料に目を落とす。


『希望として出すことはできる。ただし、実際に行けるかどうかは今後の調整次第だな』


「絶対行きたい!」


「お土産買いたいよね!」


 橘莉子が友人と顔を見合わせ、楽しそうに笑っている。


 その少し離れた席では、藤原悠真が行程表を確認していた。


「先生、行きたい場所の希望って、班で出すんですか?」


『今日は個人で構わないよ。班については、また改めて説明する予定だ』


「分かりました」


『ほかに質問はあるか?』


 何人かの手が挙がった。


 食事。


 宿泊先。


 移動時間。


 自由行動。


 質問は次々と出てくる。


 凛は資料を確認しながら、一つずつ答えていった。


 その途中。


「先生! 海で泳げるんですか?」


『……海?』


「沖縄ですよ! せっかくだし!」


 凛は少し考えた。


『気持ちは分かる。だが、安全上の決まりもあるからな。許可されていない場所で勝手に泳ぐのは駄目だぞ』


「えー!」


『えー、じゃない。怪我をしてからでは遅いんだ』


 きっぱりと言い切る。


 その様子に、何人かの生徒が苦笑した。


「先生、そういうところ体育教師っぽいよね」


『私は体育教師だぞ?』


 教室に笑いが起きた。


 凛は少し不思議そうな顔をしたあと、資料へ目を戻した。


『まあ、とにかくだ。せっかくの修学旅行だからな。みんなが楽しめるものにしたいと思っている。希望があれば遠慮なく書いてくれ』


 生徒たちがそれぞれ用紙へ向き直る。


 水瀬結衣は、配布された資料を確認しながら静かに希望を書き込んでいた。


 そして、窓際の席。


 高瀬美月も、沖縄の写真が載った資料を眺めていた。


 青い海。


 白い砂浜。


 並んだ観光地の写真。


 美月は小さく微笑む。


 けれど、周囲の生徒たちのように、大きな声で希望を口にすることはなかった。


 凛は教室を見渡した。


 それぞれが、修学旅行を楽しみにしているらしい。


 その様子を見て、凛も自然と表情を緩めた。


     ◇


 放課後。


『よし。今日はここまでだ』


 凛が資料を揃える。


『希望調査は、次のホームルームまでに提出してくれ。忘れないようにな』


「はーい!」


 帰りの挨拶が終わると、生徒たちが一斉に帰り支度を始めた。


 教室のあちこちから、修学旅行の話が聞こえてくる。


 凛も教卓の上を片づけていた。


 そのとき。


「山本先生、さようなら」


『ん? ああ、美月。気をつけて帰れよ』


「はい」


 美月は短く頭を下げると、足早に教室を出ていった。


 いつもよりずいぶん動きが速い。


 鞄を肩に掛け、ほとんど立ち止まることなく廊下の向こうへ消えていった。


『……ん?』


 凛は少し首を傾げた。


 普段の美月は、どちらかといえば物静かだ。


 帰りの挨拶も、いつも落ち着いている。


 その美月が、今日は何かに急かされているように見えた。


 何か急ぎの用事でもあるのだろうか。


 凛は教室を見回した。


 莉子が鞄を持ち、友人へ手を振っている。


 その近くでは悠真がスマートフォンを確認していた。


 結衣は少し離れた席で、まだ修学旅行の資料を片づけている。


 凛は莉子の方へ歩いていった。


『莉子、少しいいか?』


「ん? 何ですか、先生?」


『美月はいつもあんなに急いで帰るのか?』


「美月?」


 莉子は廊下へ目を向けた。


「あー、今日は月曜日だからじゃない?」


『月曜日?』


「うん」


『何か予定があるのか? 習い事か何かか?』


「え?」


 莉子が不思議そうな顔をした。


「先生、知らないの?」


『……何をだ?』


「美月、月曜日はいつもライブしてるんですよ」


『……ライブ?』


 凛は瞬きをした。


 そして、少し考える。


『美月は、バンドでもやっているのか?』


「……は?」


 莉子が固まった。


 悠真が思わず顔を上げる。


「いや、先生。そっちのライブじゃないっすよ」


『……違うのか?』


 少し離れた席から、結衣が口を開いた。


「山本先生、ライブ配信のことです」


『……ライブ配信?』


 凛は三人を見比べた。


 莉子が吹き出した。


「あはは! 先生、本当にバンドだと思ったんだ!」


『笑うな。ライブと聞けば、普通はそう考えるだろう?』


「今はスマホでライブするんだって!」


『……スマホで?』


 凛は思わず聞き返した。


 悠真が苦笑する。


「先生、ライブ配信知らないんですか?」


『……知らないな』


 正直に答える。


 莉子が目を丸くした。


「えー! 先生、スマホ持ってるのに?」


『スマホとライブに、何の関係があるんだ?』


「だから、それを今から説明するんですって!」


『……そうか。頼む』


 凛は素直に頷いた。


     ◇


「ほら、こういうの!」


 莉子がスマートフォンを取り出した。


 画面には、動画配信サービスが表示されている。


「普通の動画と違って、今やってるところをそのまま見られるの」


『……つまり、テレビの生放送のようなものか?』


「そうそう! そんな感じ!」


 悠真が横から補足した。


「ただ、見るだけじゃなくて、視聴者がコメントも送れるんですよ」


『……コメント?』


「文字で話しかけるんです。配信者がそれを読んで返事することもできるし」


『……なっ!?』


 凛は画面へ顔を近づけた。


『では、見ている人が、その場で配信している本人に話しかけられるのか?』


「そういうことです」


『……すごいな』


 思わず感心する。


 テレビ番組なら、出演者と視聴者は基本的に別々の場所にいる。


 手紙や電話で番組に参加することはあっても、誰もがその場で言葉を送れるわけではなかった。


 それが、手のひらほどの機械一つでできるという。


「先生、スマホ持ってますよね?」


『もちろんだ』


 凛は即座に答えた。


 ――まあ、山本リンさんのスマホなんだがな。


 心の中で、そっと付け加える。


「なのにライブ配信知らなかったんですか?」


『……知らないものは仕方ないだろう』


 莉子が笑った。


「先生、ほんと不思議な人だよね」


『そうか?』


 凛は首を傾げた。


『まあ、知らないことは教わればいい。こうしてきみたちが教えてくれているわけだしな』


「……確かに」


 悠真が少し笑った。


 結衣も、口元を緩めていた。


『それで、美月もこれをやっているのか?』


「はい」


 莉子が頷いた。


「なでしこちゃんねるって名前でやってます」


『……なでしこ?』


「美月のハンドルネームが、なでしこなの」


『なるほど。配信では別の名前を使っているのか』


「そういうこと」


 凛は感心したように頷いた。


 美月が、学校以外の場所で何かに夢中になっている。


 しかも、たくさんの人に向けて話しているらしい。


 凛には、なかなか想像がつかなかった。


『……莉子』


「はい?」


『そのライブというもの、私も見てみたいんだが』


「えっ、先生も?」


『ああ。美月がどんなことをしているのか、興味がある』


 悠真が自分のスマートフォンを取り出した。


「じゃあ、見方を教えますよ」


『ありがとう、悠真』


「先生のスマホ、出してください」


『分かった』


 凛は鞄からスマートフォンを取り出した。


「まず、ここを開いて……」


『うん』


「検索のところに、なでしこちゃんねるって入れてください」


『なでしこちゃんねる……』


 言われたとおりに操作する。


 画面にチャンネルのページが表示された。


『……おっ、出た!』


「そう、それです」


 悠真が頷いた。


「配信が始まったら、ここから見られます」


『なるほどな』


 凛は画面をじっと見つめた。


 結衣が少し近くから声をかける。


「山本先生、今日も配信予定が出てますよ」


『本当か?』


「はい。月曜日は定期配信の日なので」


 結衣が画面に表示された予定を示す。


『……ああ、これが開始時刻か』


 凛は頷いた。


『三人とも、ありがとう。今夜、見てみることにするよ』


 莉子が少し笑った。


「先生、いきなりコメント欄で先生ですって名乗ったりしないでくださいよ?」


『……どうしてだ?』


「美月、びっくりしちゃうじゃん!」


『……ああ、なるほど』


 凛は少し考えた。


 確かに、本人に知らせず突然教師が現れれば、驚くかもしれない。


『そうだな。今日は見るだけにしておこう』


「うん、それがいいと思う」


 悠真も頷いた。


「分かんなくなったら、また聞いてください」


『ああ、助かるよ』


 凛は三人に礼を言った。


     ◇


 その夜。


 凛は自室でスマートフォンを手にしていた。


『……ここを開いて……』


 昼間、悠真に教えてもらった手順を思い出す。


 画面には、なでしこちゃんねるの文字。


 配信開始までは、あとわずかだった。


『……よし』


 凛は少し姿勢を正した。


 美月がどんなことを話すのか。


 学校では静かなあの子が、どうしてライブ配信をしているのか。


 興味は尽きなかった。


 そして。


 画面が切り替わった。


「こんばんはー! なでしこです!」


『……えっ!?』


 凛は目を見開いた。


 画面に映っていたのは、美月だった。


 間違いない。


 高瀬美月だ。


 しかし。


「みんな、今日も来てくれてありがとー!」


 声が明るい。


 表情も、驚くほど豊かだった。


 笑顔で手を振り、画面へ向かって楽しそうに話している。


『……美月、なのか?』


 思わず呟いた。


 もちろん、顔を見間違えたわけではない。


 ただ、教室での様子とはずいぶん違っていた。


 次々と画面に文字が表示される。


《なでしここんばんは!》


《待ってたよー!》


《今日もお疲れ!》


「ありがとう! みんなもお疲れさま!」


 美月はコメントを読み、嬉しそうに笑った。


「ねえねえ! 今日はみんなに聞きたいことがあるの!」


《何なに?》


《どうした?》


「実はね、今日学校で修学旅行の話があったんだ!」


『……あっ』


 凛は小さく声を漏らした。


 今日のロングホームルーム。


 自分が教壇で説明したばかりの話題だ。


《修学旅行!?》


《どこ行くの?》


「なんと! 沖縄でーす!」


《いいなー!》


《羨ましい!》


《沖縄最高じゃん!》


「でしょ!? 私、今からすっごく楽しみなの!」


 美月が満面の笑みを浮かべた。


 凛は思わず口元を緩めた。


『……そうか。美月も楽しみにしていたんだな』


 昼間は静かに資料を読んでいた。


 大きな声で希望を話すこともなかった。


 けれど、これほど楽しみにしていたらしい。


「それでさ、みんなに聞きたいんだけど……沖縄って、どこがおすすめ?」


 美月が画面へ顔を近づける。


 コメントが次々と流れ始めた。


《美ら海水族館!》


《国際通り!》


《沖縄そばは絶対!》


《サーターアンダギー!》


「待って待って! 一気に来すぎ!」


 美月が笑う。


「えーっと、ちゅらうみ水族館……あっ、聞いたことある!」


《ジンベエザメいるよ!》


「えっ!? ジンベエザメ!? 本物!?」


《本物に決まってる笑》


《偽物だったら困るw》


「あははっ! それもそうか!」


 美月が声を上げて笑った。


 凛も、思わず笑みをこぼす。


『……ふふっ』


 次のコメントが流れる。


《沖縄そばも食べて!》


《海ぶどうおすすめ!》


《ブルーシールのアイス!》


「アイス!? 沖縄ってアイスも有名なの?」


《紅イモ味おすすめ》


「えー! 何それ、おいしそう!」


 美月は本当に楽しそうだった。


 コメントを一つ拾っては、目を輝かせる。


 知らなかったことに驚き、視聴者へ質問を返す。


 そのたびに新しいコメントが届く。


 凛はスマートフォンを見つめたまま、静かに頷いた。


『……なるほど』


 画面の向こうには、実際に会ったことのない人たちがいる。


 それでも、美月が話せば返事が届く。


 誰かの言葉に笑い、別の誰かの話を聞いて、また会話が広がっていく。


 凛にはまだ分からないことが多い。


 しかし、少なくとも目の前の美月が、この時間を心から楽しんでいることは分かった。


『……いい笑顔だな』


 凛は小さく呟いた。


     ◇


 配信は、沖縄の話だけでは終わらなかった。


 好きな食べ物。


 最近あった出来事。


 視聴者から寄せられた質問。


 美月は次々と話題を広げていく。


《なでしこ、沖縄初めて?》


「初めて! だから何から楽しめばいいのか分かんないの!」


《全部楽しんでこい!》


「それができたら苦労しないって!」


《笑》


 美月が笑う。


 凛も小さく笑った。


 いつの間にか、凛は一人の視聴者として配信を楽しんでいた。


 そのとき、画面の下にコメントを入力する欄があることに気づく。


『……ここから私も話しかけられるのか』


 試しに触れてみる。


 文字入力の画面が表示された。


『……ほう』


 何か書いてみようか。


 そんな考えが頭をよぎった。


 だが。


 ――いきなり先生からコメント来たら美月びっくりしちゃうじゃん!


 莉子の声を思い出す。


『……そうだったな』


 凛は入力画面を閉じた。


『今日は見るだけにしておこう』


 スマートフォンを持ち直し、再び配信に目を向ける。


 美月は相変わらず楽しそうだった。


 話して。


 笑って。


 時にはコメントに驚いて。


 また笑う。


 凛も、いつしか時間を忘れていた。


 そして、配信が終了した頃。


『……ん?』


 凛は時計へ目を向けた。


『なっ!? もうこんな時間か!?』


 慌てて立ち上がる。


 明日も学校がある。


 普段なら、とっくに眠っている時間だった。


『……しまった』


 凛は額に手を当てた。


『つい最後まで見てしまったな……』


 規則正しい生活は、昔から心がけてきた。


 早寝早起き。


 翌日の準備。


 体調管理。


 どれも大切なことだ。


 それなのに、今日は夢中になってしまった。


『……反省だな』


 凛は小さく息を吐いた。


 しかし。


『……ふふっ』


 思わず笑いが漏れる。


 面白かった。


 美月があんなに楽しそうにしている姿を見られたことも、嬉しかった。


『……明日、本人にも伝えてみよう』


 凛はスマートフォンを置いた。


 そして、急いで就寝の準備を始めた。


     ◇


 二〇二六年(令和八年)五月二十六日、火曜日。


 都立桜丘高校。


 朝。


『……ふぁ』


 凛は廊下を歩きながら、小さく欠伸を噛み殺した。


 少し眠い。


 昨夜、いつもより遅くまで起きていたせいだ。


『……少し、夜更かしをしてしまったな』


 自分への反省はある。


 だが、不思議と気分は悪くなかった。


 昨日の配信を思い出す。


 美月の笑顔。


 沖縄の話題。


 次々と流れるコメント。


 凛は背筋を伸ばし、教室の扉を開けた。


『おっはー!』


「おはようございまーす!」


「先生、今日も元気ですね」


『ああ。今日も一日、頑張ろう!』


 生徒たちが笑う。


 凛は教室を見渡した。


 そして、窓際の席に美月を見つけた。


『美月、少しいいか?』


「……はい?」


 美月が顔を上げた。


 凛は歩み寄った。


『昨日のライブ、見させてもらったよ』


「…………え?」


 美月が固まった。


「……ライブ?」


『ああ。なでしこちゃんねるだ』


「……えっ!?」


 美月は目を見開いた。


「せ、先生……見たんですか?」


『うん。最初から最後まで見てしまった』


「……最後まで?」


『ああ。面白くて、ついな。おかげで今日は少し寝不足だ』


 凛は苦笑した。


「…………」


 美月の表情が、少しずつ変わった。


 驚きから、戸惑いへ。


 そして、緊張へ。


「……あの」


『どうした?』


「……すみません」


『……ん?』


 凛は首を傾げた。


『何故謝るんだ?』


「……その、配信……」


 美月は視線を落とした。


「先生に見られてるなんて思ってなかったので……」


『……そうか』


「……あんまり、よくないですよね」


 凛は少し考えた。


『美月』


「……はい」


『私は、とても面白いと思ったよ』


「…………え?」


 美月が顔を上げる。


『沖縄の話も楽しかったし、視聴者のコメントにも丁寧に答えていただろう?』


「……はい」


『みんな楽しそうだった。もちろん、美月もな』


 凛は笑った。


『私も、つい夢中になってしまったよ』


 美月は目を瞬かせた。


「……怒らないんですか?」


『……どうしてだ?』


「……だって、学校の先生ですし……」


 凛は少し眉を寄せた。


『きみが好きなことをして、楽しそうにしている。それだけで叱る理由にはならないだろう?』


「…………」


『もちろん、人に迷惑をかけたり、危ないことをしていたら話は別だが……』


「……いえ」


『なら、何も問題ない』


 凛は穏やかに言った。


『むしろ、私は昨日、今まで知らなかった美月の一面を見られて嬉しかったよ』


 美月はしばらく何も言わなかった。


 やがて、少しだけ頬を緩めた。


「……ありがとうございます」


『ああ』


 凛は頷いた。


 そして、ふと思い出した。


『……ああ、そうだ。美月』


「……はいっ!?」


 美月の肩が跳ねる。


 凛は少し表情を引き締めた。


『昨日は、ずいぶん遅くまで配信していただろう』


「……あ、はい」


『私は見ているだけだったが、きみはずっと話していたわけだからな。疲れは残っていないか?』


「……え?」


『睡眠はきちんと取れたか? 今日は眠くないか?』


 美月は凛を見つめた。


 また、しばらく答えられなかった。


「……大丈夫です。終わってから、すぐ寝たので」


『そうか』


 凛は頷いた。


『でも、あまり無理はするなよ。楽しいことでも、身体を壊してしまっては元も子もないからな』


「……はい」


『まあ、私も時間を忘れて見てしまったんだ。あまり人のことは言えないが』


 凛は少し苦笑した。


「……ふふっ」


 美月が笑った。


 凛も笑う。


『それにしても、あのコメントというのはすごいな』


「……コメント、ですか?」


『ああ。次から次へと文字が流れていただろう? あれを全部読んでいるのか?』


「……全部は無理ですけど」


 美月が答える。


「目についたコメントを拾って、返事するようにしてます」


『なるほど』


「よく来てくれる人だと、名前も覚えてるので」


『……名前まで?』


 凛が少し驚く。


『では、あの人たちは美月の知り合いなのか?』


「……いえ、本名は知らないですよ」


 美月が小さく笑った。


「みんな、ハンドルネームなので」


『……そうか。きみも、なでしこという名前を使っているんだったな』


「はい」


『しかし、顔も本名も知らない者同士で、あんなに会話が弾むとは……』


 凛は感心したように腕を組んだ。


『不思議なものだな』


「……ふふっ」


 美月は少し笑った。


「私も最初は、全然うまく話せなかったんです」


『そうなのか?』


「はい。何を話せばいいのか分からなくて……」


『うん』


「でも、コメントしてくれる人が増えてきて。少しずつ話せるようになったんです」


 凛は頷きながら聞いていた。


『それは、きみが続けてきた成果だな』


「……そんな、大したことじゃないです」


『いや、立派なことだと思うよ』


 美月が顔を上げる。


『人前で話すというのは、簡単なことではないからな。私だって、教師になったばかりの頃は緊張したものだ』


「……先生も?」


『もちろんだ』


 凛は笑った。


『今でも、生徒全員の前に立つときは気を引き締めているよ』


「……そうなんですね」


『ああ。だから、あれだけ楽しそうに話せるのは素晴らしいことだと思った』


 美月は少しだけ俯いた。


 その口元には、小さな笑みが浮かんでいた。


     ◇


『それから、もう一つ聞いてもいいか?』


「……はい」


『昨日、画面の背景が途中で変わっただろう。あれはどういう仕組みなんだ?』


「ああ、あれは……」


 美月は少し顔を上げた。


「配信の設定で、背景を切り替えられるんです」


『……へえ』


「コメントを画面に表示したり、文字を入れたりもできます」


『あれも自分で操作しているのか?』


「はい」


『……大したものだな』


 凛は本気で感心していた。


 美月は少し照れくさそうに笑う。


「慣れれば、そんなに難しくないですよ」


『そうなのか? 私には相当難しそうに見えたが……』


「……ふふっ」


 美月が笑った。


『ああ、そうだ。沖縄そばについても聞きたかったんだ』


「……沖縄そば?」


『昨日、ずいぶんおすすめされていただろう? 私も食べてみたくなってな』


「……私も、まだ食べたことないですよ」


『ああ、そうだったな』


 凛は小さく笑った。


『では、現地で食べるのが楽しみだな』


「……はい!」


 美月の声が、少し弾んだ。


「あと、水族館も行ってみたいんです」


『美ら海水族館か?』


「はい。昨日、ジンベエザメがいるって教えてもらって……」


『ああ、言っていたな』


「大きい水槽で泳いでるところ、見てみたいです」


『それは楽しみだな。希望調査にも書いておくといい』


「……はい」


 美月が頷く。


 そのまま、沖縄で食べてみたいものや、行ってみたい場所の話になった。


 美月は、少しずつ自分から話し始めていた。


 凛は、その一つひとつに耳を傾けた。


 途中で答えを先回りすることもなく。


 何を話すべきか、決めつけることもなく。


 ただ、楽しそうに聞いていた。


 美月はふと、そんな凛を見つめた。


 先日の三者面談では、自分の考えをほとんど口にできなかった。


 先生に何かを聞かれても、母親の顔ばかり見ていた。


 けれど、今は違う。


 何を話しても、先生は最後まで聞いてくれる。


 知らないことがあれば、素直に質問してくれる。


 自分が好きなものを、面白いと言ってくれる。


『……美月』


「……はい?」


『次のライブはいつなんだ?』


 美月は目を丸くした。


「……次、ですか?」


『ああ』


 凛は頷く。


『また見たいと思っているんだ。次回の予定を教えてくれないか?』


「……また、見てくれるんですか?」


『もちろんだ』


 凛は笑った。


『ただし、今度はきちんと時間を管理しながら見るつもりだよ』


「……ふふっ」


『きみも、無理はしないようにな』


「……はい」


 美月は嬉しそうに頷いた。


「次は、来週の月曜日です」


『来週の月曜日か。分かった』


 凛は頷く。


『楽しみにしているよ』


「……ありがとうございます」


     ◇


 会話が一段落し、凛は教卓へ戻ろうとした。


 美月は、その背中を見つめていた。


 先日の三者面談。


 母親の前では、何も言えなかった。


 自分がどうしたいのか。


 何を望んでいるのか。


 言葉にしようとしても、いつも途中で止まってしまう。


 けれど、今日は違った。


 沖縄へ行くのが楽しみだと話せた。


 自分の配信について、いろいろ説明できた。


 好きなことを好きだと言っても、先生は笑わなかった。


 むしろ、もっと聞きたいと言ってくれた。


「……山本先生」


 美月が声をかけた。


『ん?』


 凛が振り返る。


 美月は少しだけ迷った。


 それから、顔を上げる。


「……また、見てくださいね」


 凛は、まっすぐに頷いた。


『ああ。約束だ』


 美月は小さく笑った。


「……はい!」


 凛は教卓へ戻っていく。


 いつもの教室。


 いつもの朝。


 けれど、美月の胸には、昨日までとは少し違う気持ちが残っていた。


 自分の好きなものを、誰かに話せた。


 その人が、また聞きたいと言ってくれた。


 それが、今はとても嬉しかった。

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