第三十六話「夢のない進路」
二〇〇〇年(平成十二年)五月十七日、水曜日。
青葉高校、職員室。
『……えっと、今日は森田さんか』
リンは机の上に広げた家庭訪問の予定表を確認した。
家庭訪問が始まって三日目。
最初こそ戸惑うことばかりだったが、今では少し勝手が分かってきた。
玄関での挨拶。
保護者との会話。
学校生活の報告。
そして、進路相談。
もちろん、慣れたからといって簡単な仕事になったわけではない。
昨日も、真理と美奈の家庭で、それぞれが抱いている将来の夢を聞いたばかりだ。
リンは机の端に置いていたメモ帳を開いた。
服飾専門学校について調べる。
小川さんと片岡さんの進路相談。
忘れないよう、昨日書き留めたものだった。
『……よし。これもあとで小野寺先生に相談しよう』
メモ帳を閉じ、今日の資料へ目を戻す。
森田翔平。
進路希望調査票には、具体的な志望先が記入されていなかった。
『……未定、かぁ』
リンは小さく呟いた。
森田といえば、教室ではいつも元気な生徒だ。
休み時間には友達と冗談を言い合い、先生に軽口を叩いては注意されている。
けれど、卒業後のことをどう考えているのかは、あまり聞いたことがない。
『……まあ、聞いてみないと分かんないよね』
リンは資料を鞄へしまった。
◇
午後三時四十分。
森田家。
『……ここだ』
リンは表札を確認し、呼び鈴を押した。
少しして、家の中から足音が近づいてくる。
「はーい!」
玄関の扉が開いた。
「おっ! 凛ちゃん!」
『こんにちは、森田さん!』
「うわ、すげえ!」
『……え?』
森田はリンを上から下まで眺めた。
「ちゃんと先生っぽいじゃん!」
『ちゃんと先生なんですけど!?』
「あはは! 知ってる知ってる!」
『もう……』
リンが頬を膨らませると、森田はますます笑った。
「翔平! 先生に失礼なこと言わないの!」
家の奥から女性の声が飛んできた。
「言ってねえって!」
「聞こえてるわよ!」
ほどなくして、森田の母親が姿を現した。
「すみません、先生。うちの子が……」
『いえいえ! いつものことなので!』
「いつものことなの!?」
母親が森田を睨む。
「いや、凛ちゃんが勝手に……」
『勝手に何ですか!?』
「ほら、そうやってすぐ反応してくれるからさ!」
『もーっ!』
母親は呆れたように笑った。
「先生、どうぞ上がってください」
『あっ、はい! お邪魔します!』
◇
案内された居間には、すでにお茶が用意されていた。
リンは勧められた座布団に腰を下ろす。
「先生、お茶どうぞ」
『ありがとうございます!』
湯飲みに口をつける。
家庭訪問三日目。
もう、お茶を勧められただけで慌てたりはしない。
リンが湯飲みを置くと、母親が口を開いた。
「それで先生。翔平は学校でどうしていますか?」
『はい! 森田さんは、いつも元気ですね』
「でしょうねえ」
母親は即座に答えた。
「家でもずーっと喋ってますから」
「母さん!」
『あはは!』
「でも、授業中はちゃんとしていますか?」
『……えっと』
「えっ、何その間!?」
森田が慌てて身を乗り出す。
『授業中も、元気ですね!』
「全然褒めてねえ!」
「翔平!」
「はい!」
思わず返事をした森田に、リンも笑ってしまった。
『ふふっ。でも、最近は以前より授業に集中していると思います』
「……ほんと?」
『うん。ちゃんと見てるよ』
森田は少しだけ照れたように頭を掻いた。
「……まあ、三年だしな」
「そうよ。もう受験だってあるんだから」
母親が言った。
その言葉に、森田の笑顔がほんの少しだけ止まった。
リンはそれに気づいたものの、すぐには何も言わなかった。
◇
『それじゃあ、進路のことについてもお話ししましょうか』
リンは鞄から資料を取り出した。
母親が頷く。
「お願いします」
『森田さんは、まだ具体的な進路が決まってないんだよね?』
「……まあ」
森田は曖昧に答えた。
「別に、そんな急いで決めなくてもよくね?」
「翔平」
「何?」
「卒業まで、もう一年もないのよ?」
「分かってるって」
「本当に?」
「分かってるよ!」
森田は少し大げさに肩をすくめた。
「将来の夢とか言われてもさあ。大金持ちとかじゃ駄目なの?」
「駄目に決まってるでしょう」
「えー、何でだよ!」
「どうやって大金持ちになるのよ」
「……宝くじ?」
『あはは!』
リンが笑うと、森田は得意げに指を立てた。
「ほら、凛ちゃんは分かってくれる!」
『いや、分かってないよ!?』
「えー!」
母親がため息をついた。
「もう、ふざけてばっかり」
「ふざけてないって」
「じゃあ、ちゃんと考えなさいよ」
「……」
森田は口を閉じた。
母親は少し声を和らげた。
「そろそろ考えないといけない時期なのは、分かってるんでしょう?」
「……うん」
先ほどまでの勢いがなくなっていた。
リンは資料を置いた。
『……森田さん』
「……ん?」
『何になりたいか、まだ分かんない?』
森田はしばらく黙っていた。
やがて、視線を逸らす。
「……うん」
『そっか』
リンは頷いた。
森田は座卓の端を指でなぞった。
「……別にさ」
『うん』
「何も考えてないわけじゃないんだよ」
母親も黙って息子を見ていた。
「俺だって、そろそろ決めなきゃって思ってるし」
「……うん」
「でも、考えても分かんねえんだよ」
森田は顔を上げた。
「何になりたいかとか、何がやりたいかとか」
リンは何も言わず、続きを待った。
「みんな、なんかあるじゃん」
『……みんな?』
「進学したいとか、就職したいとか。将来こういう仕事がしたいとか」
森田は苦笑した。
「そういうの聞くとさ、俺だけ何もねえなって思うんだよ」
母親が息子を見た。
「翔平……」
「別に、遊んでたいわけじゃねえよ」
森田は少し俯いた。
「でも、何がしたいか分かんねえのに、どうやって進路決めんだよ」
その声には、いつもの軽さがなかった。
リンは森田を見つめていた。
教室では、いつも冗談ばかり言っている。
将来のことなど、何も気にしていないように見えた。
けれど、それは違った。
森田は森田なりに、考えていたのだ。
◇
『……森田さん』
「……何?」
『まだ、見つかってないだけじゃない?』
森田が顔を上げた。
「……は?」
『やりたいこと』
リンは続けた。
『今はまだ、何になりたいか分かんないんでしょ?』
「……そうだけど」
『だったら、これから探せばいいんじゃない?』
森田は眉を寄せた。
「いや、だからさ……」
『うん?』
「そんな簡単に見つかるなら、苦労しねえって」
『……それはそうだね』
「えっ」
『あたしだって、簡単に見つかるとは思わないよ』
リンは少し笑った。
『実はさ、先生だって、友達に誘われて体育の先生になったんだよ?』
「……え?」
森田が目を丸くした。
「誘われて?」
『うん。友達が体育の先生を目指すって言うから、あたしもやってみようかなって』
「……マジで?」
『マジです!』
「え? でも凛ちゃん、空手で全国準優勝だったんでしょ?」
『うん、まあ……』
「俺、もうなるべくして体育教師になったんだと思ってた」
『あはは。そんなことないよ』
リンは首を横に振った。
『先生が森田さんと同じ高校三年生だった頃は、まさか自分がこんな仕事してるなんて想像もしてなかったもん』
「……へえ」
森田は少し驚いたようにリンを見つめた。
空手で全国準優勝。
そんな実績を持っている人なら、最初からスポーツに関わる仕事を目指していたのだと思っていた。
けれど、目の前の凛先生は違うらしい。
友達に誘われたことがきっかけで、体育教師を目指し始めたという。
……いや。
森田は、これまでの凛先生を思い返した。
初めて教室に来た頃は、何を考えているのか分からない先生だと思っていた。
妙なところで驚いたり、生徒の冗談に本気で言い返したり。
先生らしくないところも、たくさんある。
けれど、いざというときには真剣に話を聞いてくれる。
今日だって、将来のことを何も決められない自分に、呆れもせず付き合ってくれている。
そう考えると。
「……ははっ」
『……ん?』
「いや、なんかさ」
森田は笑った。
「最初は意外だと思ったけど……今の話、ちょっと凛ちゃんらしいかも」
『……え? どういうこと?』
「何つーか、最初から全部決めて動くっていうより、やってみようって思ったら本当にやっちゃいそうじゃん」
『……そうかな?』
「そうだよ!」
森田は笑った。
「でも、そっか……」
少しだけ、その表情が真面目になる。
「凛ちゃんだって、高三のときは決まってなかったんだな」
『うん。もちろん、きっかけが友達だったってだけで、先生になるための勉強はちゃんとしたけどね』
「……そっか」
『だから、今やりたいことが分からなくても、これから何かをきっかけに見つかることだってあると思うんだ』
「……うん」
『それに、何も見つかってないからって、何もできないわけじゃないでしょ?』
「……どういうこと?」
『例えば、大学とか専門学校とか、いろんなところを調べてみる』
森田は黙って聞いていた。
『今まで知らなかった仕事を調べたり、興味のある分野の話を聞いたりするのもいいと思う』
「……うん」
『そうやって少しずつ、自分が何に興味あるのか探してみたら?』
森田は腕を組んだ。
「……でもさ」
『うん』
「それで結局、何も見つからなかったら?」
リンは少し考えた。
『……そのときは、また考えよう』
「えー!」
『だって、今から絶対に見つかるって約束はできないもん』
森田は思わず笑った。
「……凛ちゃん、そこは大丈夫って言ってくれよ」
『言えないことは言えないよ』
「真面目かよ!」
『先生だからね!』
「さっきまで全然先生っぽくなかったくせに!」
『何ですって!?』
母親が吹き出した。
「ふふっ……もう、二人とも」
リンと森田も笑った。
さっきまでの重たい空気が、少しだけ和らいだ。
◇
「……先生」
母親が口を開いた。
『はい』
「大学へ行ってから、やりたいことを探すというのも、ありなんでしょうか」
『はい。選択肢の一つだと思います』
リンは頷いた。
『もちろん、大学に行けば自動的に夢が見つかるわけじゃありませんけど』
「そうですよね」
『でも、いろんな分野を勉強したり、今まで知らなかったことに触れたりする機会は増えると思います』
森田が顔を上げる。
「……大学か」
『うん』
「俺、今まであんま考えてなかったな」
森田は少し考え込んだ。
「大学って、何かやりたいことがある奴が行くところだと思ってた」
『そういう人もいると思うよ』
「……うん」
『でも、まだ将来の仕事が決まっていないからって、進学しちゃいけないわけじゃないでしょ?』
森田は頷いた。
母親が尋ねる。
「翔平は、どう思う?」
「……」
森田は少し黙った。
それから、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……俺さ」
「うん」
「今まで、大学って別に行かなくてもいいかなって思ってたんだよ」
母親は静かに聞いている。
「何か勉強したいわけでもないし、だったら就職でもいいかなって」
「……そうね」
「でも」
森田はリンを見た。
「何がしたいか分かんねえから、大学に行くってのも……ありなんだよな?」
『うん。ただ、大学にもいろんな学部があるからね。どこに行くかは、ちゃんと考えないと』
「……そっか」
森田は膝の上で拳を握った。
「……俺、大学に行ってみたい」
母親が顔を上げた。
「……翔平?」
「まだ、何になりたいかは分かんねえけど」
森田は続けた。
「いろんなこと勉強して、そこでちゃんと探してみたいんだ」
母親は息子を見つめていた。
やがて、少し笑った。
「……そう」
「……うん」
「あなたがそう思うなら、いいんじゃない?」
森田が顔を上げる。
「……いいの?」
「もちろん、行くならちゃんと勉強しないと駄目よ」
「……分かってるって」
「受験だってあるんだから」
「うん」
母親は頷いた。
「でも、自分で考えて決めたことなら、お母さんも応援するわ」
森田は少し照れくさそうに笑った。
「……ありがと」
『……よし!』
リンが元気よく声を上げた。
二人がこちらを向く。
『じゃあ、まずは大学の資料を見てみよう!』
「……資料?」
『うん! どんな学部があるのか、どんなことを勉強するのか。学校でも調べられると思うから』
森田が頷いた。
「……分かった」
『それから、興味があることも少しずつ探してみようね』
「……うん」
リンは笑った。
『森田さんが何になりたいのか、今すぐ決めなくてもいい。でも、進路を考えることは始めよう』
森田は少しだけ背筋を伸ばした。
「……はい」
その返事は、いつもよりずっと真面目だった。
◇
家庭訪問が終わり、リンは玄関へ向かった。
「先生、今日はありがとうございました」
『こちらこそ、ありがとうございました!』
母親が頭を下げる。
「翔平があんな話をするなんて、思ってませんでした」
『……あたしも、ちょっと驚きました』
「ふふっ。いつもふざけてばっかりですからね」
「母さん!」
森田が抗議する。
「本当のことでしょう?」
「……まあ、そうだけどさ」
『あはは!』
リンは靴を履き、玄関の扉を開けた。
「凛ちゃん」
『ん?』
森田が声をかける。
「……ありがとな」
『……どういたしまして』
リンは微笑んだ。
『これから、一緒に調べようね』
「……おう」
森田は少し照れくさそうに頷いた。
そして、いつもの調子に戻る。
「でもさ、凛ちゃん」
『うん?』
「大学の資料とか、どれ見ればいいか分かんねえから、全部選んでよ」
『自分で選びなさい!』
「えー!」
『もう! さっき自分で決めるって言ったばっかりでしょ!?』
「あはは! 冗談だって!」
母親が後ろから声を飛ばした。
「翔平! 先生を困らせないの!」
「はいはい!」
『返事は一回!』
「はい!」
リンは思わず笑った。
『じゃあ、また学校でね!』
「おう! またな、凛ちゃん!」
リンは手を振り、森田家を後にした。
◇
夕方の住宅街。
リンは歩きながら、鞄に入れたメモ帳のことを思い出していた。
佐伯は、大学で空手を続けたいと決めた。
真理は、服のデザインを勉強したいと伝えた。
美奈は、誰かのデザインを形にする仕事を目指し始めた。
そして森田は、大学で自分のやりたいことを探すと決めた。
みんな、違う。
目指すものも。
今の悩みも。
これから必要なことも。
『……そっかぁ』
リンは小さく呟いた。
将来の夢が決まっている人もいる。
まだ、決まっていない人もいる。
だからといって、どちらかが偉いわけではない。
森田はずっと、何も決まっていないことを気にしていた。
周りが先へ進んでいるように見えて、自分だけ取り残されている気がしていたのだろう。
『……焦っちゃうよね』
リンは空を見上げた。
自分だって、先のことがすべて分かっているわけではない。
明日、何が起こるのか。
どんな選択をすることになるのか。
今の自分には分からないことばかりだ。
それでも、分からないからといって、立ち止まっているわけにはいかない。
『……よしっ』
リンは歩く速度を少し上げた。
学校に戻ったら、小野寺先生に相談しよう。
森田の大学進学について。
そして、真理と美奈の服飾関係の進路についても。
調べなければならないことは、たくさんある。
『……先生って、結構大変だなぁ』
思わず笑ってしまった。
昨日まで、家庭訪問といえばお茶を飲みすぎないことばかり気にしていたのに。
今は、生徒たちの将来のことで頭がいっぱいだ。
『……でも』
リンは小さく微笑んだ。
『悪くないかもね』
五月の夕暮れ。
リンは鞄を握り直し、青葉高校へと歩いていった。




