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第三十五話「千夏は千夏のままで」

 二〇二六年(令和八年)五月二十日、水曜日。


 都立桜丘高校、体育館。


「はい、次! レシーブから!」


 宮野千夏の声が響いた。


 部員たちがそれぞれの位置につく。


「一本目、しっかり上げよう! 声も忘れないで!」


「はい!」


 ボールが打ち出される。


 レシーブ。


 トス。


 そしてスパイク。


 ボールは相手コートの奥へ落ちた。


「ナイス!」


 千夏が声を上げる。


 だが、次の瞬間には腕を組んでいた。


「……あ、待って。今の、もう一回やろう」


「え? 決まったよ?」


「うん。でも、後ろのカバーがちょっと遅れてたから」


「じゃあ、位置変える?」


「えっと……」


 千夏はコートを見渡した。


 右後方の守備位置。


 前衛との距離。


 その場で修正するなら、誰をどこへ動かすべきか。


 頭の中に浮かんだのは、紗奈の姿だった。


 紗奈なら、どうするだろう。


「……千夏?」


「あっ、ごめん! もう一回、同じ形で!」


 部員たちが動き出す。


 しかし、千夏はすぐに手を叩いた。


「あ、やっぱり待って!」


「……え?」


「先にブロックの確認しよう!」


 再び練習が止まった。


 部員たちは顔を見合わせる。


 千夏は慌てて笑った。


「ごめんごめん! ちょっと順番間違えた!」


 誰も文句は言わなかった。


 千夏が一生懸命なのは、全員が知っている。


 それでも、練習の流れは少しずつ悪くなっていた。


     ◇


 体育館の端では、水瀬結衣が練習記録をつけていた。


 記録用紙の上に、同じような書き込みが増えている。


 攻撃の開始位置。


 守備の連係。


 中断した練習の回数。


 結衣はペンを止め、コートを見た。


「……」


 紗奈が怪我をしてから、一週間。


 まだ、たった一週間だ。


 けれど、体育館の雰囲気は以前と少し違っていた。


 千夏は毎日、誰よりも大きな声を出している。


 練習メニューも確認している。


 紗奈から引き継いだことを、何一つ忘れないようにしている。


 それなのに。


「千夏、次どうする?」


「えっと、ちょっと待って!」


 結衣は記録用紙へ目を落とした。


 紗奈がいたときは、こんなに何度も練習が止まることはなかった。


 もちろん、それは紗奈が何でも一人で決めていたからではない。


 必要なときは十五秒ミーティングで意見を集め、すぐに練習へ戻していた。


 紗奈は、話し合う場面と自分が決める場面を、自然に使い分けていたのだ。


 結衣は改めて、その難しさを感じていた。


「……結衣?」


 隣から声をかけられ、顔を上げる。


 別の部員が記録用紙を覗き込んでいた。


「今日、結構ミス多い?」


「……うん。いつもより、連係が合ってないかも」


「やっぱり」


 部員は少し困ったように笑った。


「紗奈が戻ってくるまで、何とかしないとね」


「……そうだね」


 結衣は頷いた。


 その返事をしたあと、胸の奥が少し重くなった。


 紗奈が戻ってくるまで。


 その言葉を、最近何度も聞いている。


 けれど、いつ戻ってこられるのかは、まだ分からない。


 結衣も不安だった。


 紗奈がいないチームで、これからどこまで戦えるのか。


 千夏一人に負担が集中していることも気になっている。


 何か役に立ちたい。


 そう思って記録を続けているのに、今の自分に何ができるのか、はっきりしなかった。


     ◇


「じゃあ、次はサーブレシーブ!」


 千夏が声をかけた。


 部員たちが移動する。


 その中に、少し動きの遅れている後輩がいた。


 ボールが飛んでくる。


「お願い!」


「……っ!」


 後輩は慌てて腕を出した。


 ボールが大きく弾かれ、コートの外へ転がっていく。


「あっ……すみません!」


「大丈夫! もう一本!」


 千夏が声をかける。


 再びサーブが打たれる。


 しかし、またレシーブが乱れた。


「すみません!」


 後輩が頭を下げる。


 千夏はコートを見た。


 足の位置。


 腕の角度。


 相手のサーブが来る方向。


 紗奈なら、こういうときに何を指摘するだろう。


「……もう少し、足を動かしてみて」


「はい!」


「あと、腕の面を……えっと……」


 説明しようとして、言葉が止まった。


 千夏自身も、どう伝えればいいのか分からない。


 後輩は何度も頷いていたが、表情は硬くなっていった。


 次の一本も失敗した。


「……すみません」


 今度は、声が小さかった。


 千夏はその顔を見た。


 技術的な問題は、確かにある。


 けれど。


「……ちょっと、こっち来て」


「はい……」


 千夏は後輩をコートの端へ呼んだ。


「さっきから、ずっと謝ってるじゃん」


「……すみません」


「ほら、また!」


「あっ……」


 後輩は慌てて口を閉じた。


 千夏は少し笑った。


「怒ってるわけじゃないよ」


「……はい」


「なんか、いつもより動き硬くない?」


 後輩は目を伏せた。


「……ミスばっかりしてるから」


「うん」


「私がちゃんと取らないと、みんなの練習が止まっちゃうし……」


 千夏は黙って聞いた。


「紗奈先輩もいないのに、これ以上迷惑かけたくなくて……」


「……そっか」


 千夏は後輩の隣に立った。


「でもさ」


「……はい」


「今、ミスしたからって、誰か怒った?」


「……いえ」


「でしょ?」


 千夏は笑った。


「私なんか、さっきから練習の順番間違えてばっかだよ?」


「……それは」


「うん。私の方がよっぽど迷惑かけてるかも」


「そ、そんなことないです!」


「ありがと」


 千夏は後輩の肩を軽く叩いた。


「だからさ、ミスしたら次どうするか考えればいいんだよ。最初から全部上手くやろうとしなくていいって」


「……はい」


「それに、分かんなかったら聞いて。私が答えられなかったら、藤沢先生にも相談するし」


 後輩が少し笑った。


「……はい!」


「よし。じゃあ、もう一本いこう!」


 二人はコートへ戻った。


 その様子を、凛が体育館の端から見ていた。


     ◇


『……なるほどな』


 凛が小さく呟く。


 隣にいた藤沢和彦が顔を向けた。


「何かありましたか?」


『いえ。千夏のことです』


 藤沢もコートを見る。


 千夏は先ほどの後輩に声をかけながら、練習を再開させていた。


「頑張っていますよね」


『はい。ただ、少し無理をしているようにも見えます』


「……そうですね」


 藤沢は頷いた。


「朝倉さんが抜けた分まで、全部引き受けようとしているのでしょう」


『……はい』


「宮野さんも、これまでは朝倉さんを支える立場でしたから。急に全体をまとめるのは簡単ではありません」


 凛はコートへ視線を戻した。


 紗奈の指示は、いつも明確だった。


 部員の動きを見て、必要なときに声をかける。


 練習全体の流れを考えながら、一人ひとりにも気を配る。


 それを当たり前のようにこなしていた。


 千夏は今、その仕事を一つずつ引き受けようとしている。


 だが、紗奈と千夏は違う人間だ。


 同じようにできなくても、不思議ではない。


『……藤沢先生』


「はい」


『今日の練習が終わったら、千夏と少し話してもいいでしょうか』


「ええ。もちろんです」


 藤沢は穏やかに笑った。


「私も気になっていましたから」


     ◇


 練習終了後。


 千夏は体育館の端で、練習メニューを書いた用紙を見つめていた。


「……あー、もう!」


 小さく声を上げ、頭を抱える。


「全然できてないじゃん、私……」


『千夏』


「ひゃっ!?」


 突然声をかけられ、千夏は肩を跳ねさせた。


 振り返ると、凛が立っていた。


「や、山本先生!」


『お疲れさま』


「お疲れさまです……」


 千夏は慌てて用紙を畳んだ。


『何を見ていたんだ?』


「……今日の練習メニューです」


『そうか』


「全然予定どおりに進まなくて……」


 千夏は苦笑した。


「紗奈だったら、もっとちゃんとできたと思うんです」


『……うん』


「練習の順番も、声かけも、全部」


 千夏は用紙を握り直した。


「私、紗奈がやってたこと、ちゃんと引き継ぎたいんです」


『そうか』


「でも、思ってたよりずっと難しくて」


 視線が下がる。


「紗奈って、ほんとすごかったんだなって……」


 凛は頷いた。


『ああ。紗奈は、いいキャプテンだ』


「……はい」


『私も、そう思っている』


 千夏は少し笑った。


「ですよね」


『うん』


 凛は千夏の隣に腰を下ろした。


『でもな、千夏』


「……はい」


『今日、後輩がレシーブで苦戦していたときのこと、覚えているか?』


「あ……はい」


『あの子に何を話したんだ?』


「えっと……」


 千夏は少し考えた。


「ミスを気にしすぎなくていいよ、って」


『うん』


「失敗したら、次どうするか考えればいいし……」


 そこまで話して、千夏は首を傾げた。


「……それが、何か?」


『あの子、最後は笑っていただろう』


「……ああ」


『そのあと、動きも少しよくなっていた』


「……そうですか?」


『ああ。私にはそう見えた』


 千夏はコートを振り返った。


 さっきの後輩は、練習の最後に一本、きれいなレシーブを上げていた。


 ただ、それを自分のおかげだとは思っていなかった。


「……でも、あれくらい普通ですよ」


『普通か?』


「はい。困ってたから、声かけただけで……」


『それが自然にできるのは、千夏のいいところだと思うぞ』


 千夏は顔を上げた。


「……え?」


『技術的なことを伝えるのも大事だ。紗奈はそれが上手い』


「はい」


『でも、今日のあの子は、技術だけで困っていたわけじゃなかったんだろう?』


「……そうですね」


『千夏は、それに気づいた』


 千夏は黙った。


 凛は続ける。


『千夏が紗奈を尊敬しているのは、よく分かる』


「……はい」


『だから、紗奈がやってきたことを大事にしたいんだよな』


「……はい」


『でもな』


 凛は千夏を見た。


『千夏は、千夏のままでいい』


「…………」


 千夏は瞬きをした。


『紗奈と同じようにできなくてもいいんだ』


「……でも、私がちゃんとしないと……」


『ちゃんとすることと、紗奈と同じになることは違うだろう?』


「……!」


 千夏は口を閉じた。


『千夏には千夏の得意なことがある。今日みたいに、困っている子へ自然に声をかけられることも、立派な強みだ』


「……」


『もちろん、苦手なことはこれから覚えていけばいい。全部一人でできるようになる必要もない』


 千夏は膝の上の用紙へ目を落とした。


 紗奈が残してくれた練習メニュー。


 そこには、練習の順番や注意点が細かく書かれていた。


 今までは、それを一つも間違えずに再現しなければならないと思っていた。


「……私」


 千夏が口を開いた。


「紗奈が戻ってきたとき、チームが弱くなってたら嫌なんです」


『……うん』


「紗奈、絶対悔しいと思うから」


 凛は頷いた。


 千夏は用紙を見つめたまま続ける。


「怪我して、一番悔しいのは紗奈なのに……私たちまでちゃんとできなかったら、もっと辛いじゃないですか」


『……そうだな』


「だから、何とかしなきゃって」


 凛は少し考え、それから答えた。


『だったら、千夏ができることから始めてみないか』


「……できること?」


『うん。千夏がチームを見て、必要だと思ったことを、自分のやり方でやってみるんだ』


 千夏は顔を上げた。


「……私のやり方」


『そうだ』


 凛は笑った。


『それに、きみには仲間がいるだろう?』


 千夏はしばらく黙っていた。


 やがて、小さく笑った。


「……そうですね」


 その声は、先ほどより少し軽くなっていた。


     ◇


 同じ頃。


 朝倉紗奈は自宅の居間で、スマートフォンを見つめていた。


 右膝には、医師から指示された装具がつけられている。


 負傷後の検査を受け、現在は治療方針に従って運動を休んでいた。


 画面には、女子バレー部のグループチャットが開かれている。


《今日の練習お疲れ!》


《千夏、明日のメニュー確認したい!》


《紗奈、無理しないでね!》


 紗奈は指を動かした。


《お疲れ! 明日のメニューは千夏に確認してね》


 送信する。


 しばらくして、千夏から返事が届いた。


《了解! ちゃんと確認する!》


 紗奈は小さく笑った。


「……頑張ってるな、千夏」


 スマートフォンを置く。


 そして、右膝へ目を落とした。


 痛みは、最初の頃より落ち着いてきている。


 けれど、まだ思うようには動かせない。


 歩くときにも気をつけなければならない。


 ジャンプなんて、とてもできる状態ではなかった。


「…………」


 紗奈はゆっくりと息を吐いた。


 本当なら、今頃は体育館にいた。


 千夏と一緒に練習して、結衣の記録を見て、部員たちと明日の課題を話していたはずだった。


 今は、そのどれもできない。


 スマートフォンが震えた。


 部員から写真が届いている。


 練習後の体育館。


 千夏を中心に、何人かの部員が笑っていた。


《今日も頑張ったよ!》


 紗奈は写真を開いた。


 みんな、いい顔をしている。


 それが嬉しかった。


 千夏が頑張っていることも、部員たちが練習を続けていることも。


 ……でも。


「……私も、そこにいたかったな」


 小さく呟いた。


 誰に聞かせるでもない言葉だった。


 写真の中には、自分だけがいない。


 紗奈はしばらく画面を見つめていた。


 そして、スマートフォンを伏せた。


 悔しい。


 早く戻りたい。


 けれど、焦ってはいけないことも分かっている。


 分かっているからこそ、どうしようもなかった。


     ◇


 翌日。


 放課後の体育館。


 千夏は練習前に、部員たちを集めていた。


「えーっと、今日は……」


 手元のメニューを見る。


 昨日までなら、まず紗奈がどう進めていたかを考えていただろう。


 けれど、今日は少し違った。


「最初に、みんなに一個だけ聞きたいんだけど」


 部員たちが顔を上げる。


「昨日の練習で、困ったことあった?」


「……困ったこと?」


「そう。練習してて、ちょっとやりにくかったこととか」


 何人かが顔を見合わせる。


 千夏は笑った。


「別に、私への文句でもいいよ!」


「えー、ほんとに?」


「ほんとほんと!」


 部員の一人が手を上げた。


「あのさ、昨日のレシーブ練習、ちょっと順番が分かりにくかったかも」


「あー、それは私も思った」


「次のメニューが急に変わったから、準備し直したし」


 千夏は頷いた。


「……うん。ごめん、それ私のせいだ」


「いや、責めてるわけじゃないよ!」


「分かってるって!」


 千夏は笑った。


「じゃあ、今日はメニューを変えるとき、先にちゃんと伝えるようにする」


「うん。それなら助かる」


「ありがと!」


 千夏は手を叩いた。


「じゃ、アップ始めよう!」


 部員たちが動き出す。


 その様子を、結衣がコート脇から見ていた。


「……千夏」


「ん?」


「今日、ちょっと違うね」


「……そう?」


「うん」


 結衣は小さく笑った。


「昨日より、話しやすいかも」


 千夏は一瞬驚いた顔をした。


 それから、照れくさそうに笑う。


「……そっか」


 結衣は記録用紙へ目を落とした。


 昨日の練習で気になったことは、まだいくつもある。


 けれど、何から伝えればいいのか分からない。


 紗奈がいないことへの不安も、消えたわけではなかった。


 そんな結衣に、千夏が声をかけた。


「結衣」


「……ん?」


「今日も、よろしくね」


 結衣は顔を上げた。


「……うん。よろしく」


 千夏は笑って、コートへ向かった。


 結衣もペンを握り直す。


 まだ、何かが大きく変わったわけではない。


 紗奈のいない体育館にも、慣れていない。


 それでも、千夏は昨日より少しだけ落ち着いていた。


「よーし! 始めるよ!」


 部員たちが返事をする。


 ボールが上がった。


 千夏はコートの中央で、その動きを追いかけた。


 次のプレーをどうするか。


 誰に声をかけるか。


 今度は、紗奈ならどうするかではなく、自分がどうしたいかを考えていた。

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