第三十四話「二人の夢」
二〇〇〇年(平成十二年)五月十六日、火曜日。
青葉高校、職員室。
『……今日は、絶対に飲みすぎない』
リンは机に向かい、小さく呟いた。
目の前には、今日の家庭訪問の予定表。
昨日、初めて家庭訪問を経験した。
佐伯家をはじめ、訪問先では温かく迎え入れられ、お茶まで用意してもらった。
問題は、そのお茶だった。
勧められると断れない。
せっかく淹れてもらったのだから、残すのも申し訳ない。
そう思って全部飲み干すと、今度はおかわりが出てくる。
そして、それも断れない。
結果。
『……お腹、ちゃぽちゃぽだったもんなぁ』
昨日の帰り道を思い出す。
何度トイレに行きたくなったことか。
家庭訪問でこんな苦労をするとは思わなかった。
『よし。今日は最初から、ちゃんと断ろう』
「何を断るんですか?」
『ひゃっ!?』
突然声をかけられ、リンは肩を跳ねさせた。
振り返ると、小野寺が立っていた。
「……山元先生?」
『あっ、小野寺先生! い、いえ、何でもありません!』
「そうですか?」
小野寺は首を傾げた。
「今日も家庭訪問がありますから、よろしくお願いしますね」
『はい!』
元気よく返事をする。
そして、予定表に目を落とした。
今日の訪問先には、小川真理と片岡美奈の名前がある。
『……よしっ』
今度こそ、飲みすぎない。
リンは密かに決意した。
◇
午後三時三十分。
小川家。
「いらっしゃいませ、先生。どうぞお入りください」
『お邪魔します! 本日はよろしくお願いします!』
真理の母親に案内され、リンは居間へ通された。
落ち着いた色合いの家具。
壁際には本棚が置かれ、きれいに片づけられた座卓の上には、すでに湯飲みが用意されていた。
『…………』
やっぱり出るんだ。
リンは一瞬だけ湯飲みを見つめた。
「凛先生、こんにちは」
『こんにちは、小川さん!』
真理は母親の隣に座っていた。
いつもより少し緊張しているようで、膝の上に両手を揃えている。
「先生、お茶をどうぞ」
『あっ、ありがとうございます!』
母親が湯飲みを勧める。
リンは笑顔で受け取った。
……大丈夫。
一杯なら大丈夫。
今日は、おかわりを断ればいいだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、一口飲んだ。
「それで、先生。真理は学校でどうしていますか?」
『はい! 授業にも真面目に取り組んでいますし、最近はお友達とも楽しそうに過ごしています』
「あら、そうですか」
母親は真理を見た。
「家では学校のこと、あんまり話さないものね」
「……別に、話すことないし」
「そういうところがあるんですよ、この子」
真理は少しだけ視線を逸らした。
リンはその横顔を見る。
以前、真理は自分の天然パーマをからかわれていた。
今も、それについて何もかも解決したわけではない。
けれど、最近は美奈と服やメイクの話をする姿を見かけるようになった。
その時間の真理は、教室で静かにしているときとは少し違う。
『小川さん、最近は片岡さんともよく話してるよね』
「……はい」
「片岡さん?」
母親が尋ねる。
「友達」
真理が答えた。
「服とか、そういう話をするの」
「へえ。そうなの」
母親は少し意外そうに笑った。
「この子、昔から服の雑誌は好きなんですけど、何を読んでるのか私にはよく分からなくて」
『あはは。あたしも、最近教えてもらうことが多いです』
リンが笑うと、真理も小さく笑った。
母親は安心したように頷いた。
「学校で楽しく過ごせているなら、よかったです」
◇
学校生活について一通り話したあと、リンは進路希望に関する資料を取り出した。
『それでは、卒業後のことについてもお話しできればと思います』
「はい」
母親が頷いた。
「うちは、できれば大学へ進んでもらいたいと思っているんです」
『大学ですか』
「ええ。特に行きたいところがあるわけでもないようですし、大学へ行ってから考えても遅くないでしょう?」
母親は真理へ視線を向けた。
「この子はやりたい事も特になくて」
「…………」
真理は何も言わなかった。
「ですから、あまり難しく考えずに、ちゃんと大学を出て、安定した会社に入ってくれたらと思っているんです」
『なるほど……』
リンは頷いた。
真理の母親は、落ち着いた口調だった。
娘に何かを無理強いしているというより、本当にそうだと思っているようだった。
ただ、リンには一つ気になることがあった。
『小川さん』
「……はい」
『小川さん自身は、どう考えてる?』
「……えっと」
真理は視線を落とした。
母親が不思議そうに顔を向ける。
「真理?」
「……」
『急いで答えなくてもいいよ』
リンは穏やかに言った。
『ただ、小川さんが最近頑張ってること、あたしは知ってるから』
真理が顔を上げる。
「……凛先生」
『あのノート、お母さんに見せたことある?』
「……ないです」
「ノート?」
母親が首を傾げた。
「何のノート?」
真理は唇を結んだ。
しばらく迷ったあと、小さく答える。
「……服の」
「服?」
「……デザイン、描いてるの」
母親は瞬きをした。
「あなた、そんなもの描いてたの?」
「……うん」
真理は座卓の端を見つめた。
『もしよかったら、見せてあげない?』
リンが尋ねる。
『もちろん、嫌だったら無理に見せなくてもいいけど』
真理は少し考えた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「……持ってきます」
そう言って、自室へ向かった。
母親はその背中を見送った。
「……先生、あの子、そんなに服が好きなんですか?」
『はい。すごく好きみたいです』
「そうだったんですね……」
『片岡さんと話しているときなんか、いろんなアイデアが次々に出てくるんですよ』
「へえ……」
『あたしは服の専門家じゃないので、詳しいことは分からないんですけど』
リンは少し笑った。
『小川さんが楽しそうに話しているのは、よく分かります』
母親は廊下の方を見た。
やがて、真理が一冊のスケッチブックを抱えて戻ってきた。
◇
「……これ」
真理はスケッチブックを座卓の上に置いた。
表紙の角は少し擦れていた。
何度も開いたのだろう。
「見てもいいの?」
「……うん」
母親が最初のページを開く。
そこには、一着のワンピースが描かれていた。
肩から裾へ広がるシルエット。
胸元の切り替え。
袖口の細かな装飾。
隅には小さな文字で、素材や色の組み合わせが書き込まれている。
「あら……」
母親が次のページをめくった。
今度はジャケットだった。
襟の形を変えたものが、いくつも並んでいる。
さらに次のページ。
スカート。
ブラウス。
コート。
描きかけのものもあれば、何度も線を引き直したものもある。
「……これ、全部あなたが描いたの?」
「……うん」
「いつの間に……」
母親はゆっくりとページをめくった。
途中で、同じ服を描いたページが何枚か続いた。
「これ、同じもの?」
「……ちょっと違う」
真理が指を伸ばす。
「最初は、ここの形をこうしようと思ったんだけど……」
指先が、服の腰の部分をなぞる。
「でも、それだとバランスが悪い気がして。だから、こっちでは少し細くしてみたの」
「……そうなの」
「あと、こっちは袖を変えたんだけど……」
真理はそこまで話して、はっとしたように口を閉じた。
「……ごめん。こんなの、分かんないよね」
「ううん」
母親は首を横に振った。
「続けて」
「……え?」
「お母さん、聞きたいわ」
真理は少し驚いたようだった。
それから、もう一度スケッチブックへ目を落とす。
「……こっちはね」
再び説明を始めた。
服の形。
色の組み合わせ。
雑誌で見かけた服を参考にしながら、自分なりに変えてみた部分。
リンは二人のやり取りを聞いていた。
いつの間にか、真理の声が少し大きくなっている。
母親も、ページをめくるたびに質問していた。
「これ、実際に作れるの?」
「……分かんない」
真理が苦笑する。
「作り方までは、まだ全然知らないから」
「そうなのね」
「でも……」
真理はスケッチブックの端を指で押さえた。
「いつか、ちゃんと作れるようになりたい」
母親が顔を上げた。
真理は少し迷ったあと、言葉を続ける。
「……私、服のデザインを勉強したい」
「……真理?」
「服飾の専門学校に行きたいの」
居間が静かになった。
母親はスケッチブックに目を落とす。
「……専門学校?」
「うん」
「大学じゃなくて?」
「……うん」
真理は頷いた。
「ちゃんと服のことを勉強できるところに行きたい」
「…………」
「まだ、どこの学校がいいのかとか、全然分かんないけど」
真理の指が、スケッチブックの表紙を握る。
「でも、私……こういうのが好きだから」
母親は娘を見つめていた。
少しして、静かに口を開いた。
「……お母さん、知らなかった」
「……うん」
「こんなにたくさん描いてたのね」
真理は小さく頷いた。
「どうして言ってくれなかったの?」
「……だって」
真理は口ごもった。
「ちゃんとした夢って、言えるか分かんなかったから」
「…………」
「絵を描いてるだけだし……上手い人なんて、いっぱいいるだろうし」
母親は、もう一度スケッチブックを開いた。
何度も描き直されたデザイン。
ページの隅まで書き込まれた小さな文字。
その一枚一枚に、娘が費やしてきた時間が残っている。
「……そうね」
母親が言った。
「お母さん、あなたはまだ何も決まってないんだと思ってた」
「……うん」
「でも、違ったのね」
真理が顔を上げる。
「ちゃんと、やりたいことがあったのね」
「……うん」
母親は少し笑った。
「専門学校のこと、調べてみましょうか」
「……え?」
「どんな学校があるのか、何を勉強できるのか。そういうことを知ってから、一緒に考えましょう」
「……いいの?」
「だって、あなたが自分で見つけたことでしょう?」
真理は何も言わなかった。
その目が、少しだけ潤んでいるように見えた。
『……あの!』
リンが口を開いた。
二人がこちらを向く。
『学校にも進路資料がありますし、専門学校のことも調べられると思います!』
「そうなんですね」
『はい! あたしも一緒に調べます!』
真理がリンを見た。
「……ありがとうございます、凛先生」
『ううん! これからだよ、小川さん!』
リンが笑うと、真理も小さく笑った。
◇
家庭訪問が終わる頃。
「先生、お茶のおかわりはいかがですか?」
『あっ!』
来た。
ついに来た。
リンは一瞬だけ身構えた。
昨日の教訓。
ここで全部飲んでしまったら、また同じことになる。
『ありがとうございます! でも、今日はこのあとも訪問があるので、大丈夫です!』
「あら、そうですか」
『はい! ごちそうさまでした!』
言えた。
断れた。
リンは内心で小さく拳を握った。
「先生、今日はありがとうございました」
『こちらこそ、ありがとうございました!』
母親が頭を下げる。
真理も玄関まで見送りに出てきた。
「凛先生」
『ん?』
「……あの」
真理は少し恥ずかしそうに笑った。
「私、専門学校のこと、ちゃんと調べてみます」
『うん!』
「……まだ、どうなるか分かんないですけど」
『そうだね』
リンは頷いた。
『でも、今日お母さんに話せてよかったね』
「……はい」
真理はスケッチブックを胸に抱えた。
「……よかったです」
その声は、いつもより少しだけ明るかった。
◇
小川家を出たリンは、予定表を確認した。
次は片岡家。
真理とは違い、美奈は自分の好きなものを隠さずに話す生徒だ。
流行の服やメイクにも詳しく、リンも何度か教えてもらっている。
『……片岡さんのお母さんって、どんな人なんだろ』
リンは少し楽しみになった。
それから、ふと思い出す。
『……あっ』
さっき、お茶を断れた。
しかも、変に気まずくならなかった。
『……よしっ』
小さく頷き、次の訪問先へ向かった。
◇
午後四時四十分。
片岡家。
「凛ちゃーん!」
玄関の扉が開くなり、美奈の声が響いた。
『わっ! 片岡さん!?』
「いらっしゃーい!」
美奈は楽しそうに笑っていた。
「待ってたよ!」
『あはは。こんにちは!』
「美奈、先生に向かってその呼び方はどうなの?」
奥から母親の声が聞こえた。
「えー、いいじゃん。凛ちゃんは凛ちゃんだもん」
『あ、あはは……』
もう慣れてきたとはいえ、生徒からちゃん付けで呼ばれると少しくすぐったい。
母親が玄関に出てきた。
「すみません、先生。この子、いつもこんな調子で」
『いえいえ! 元気があっていいと思います!』
「ほら、凛ちゃんもこう言ってる!」
「もう、美奈ったら」
母親は呆れたように笑った。
「どうぞ、先生。上がってください」
『お邪魔します!』
案内された居間には、ファッション雑誌が何冊か置かれていた。
美奈が慌てて片づける。
「あ、それ私の!」
「昨日から出しっぱなしでしょう」
「あとで読むつもりだったの!」
『あはは! 片岡さんらしいね』
「でしょ?」
美奈は得意げに笑った。
「褒めてないでしょ、それ」
母親の突っ込みに、リンも笑ってしまった。
◇
「それで先生、美奈は学校でどうしていますか?」
『はい! いつも明るくて、クラスの雰囲気を盛り上げてくれています』
「でしょうねえ」
母親は笑った。
「家でもずっと喋ってますから」
「ちょっと、母さん!」
『あはは!』
「でも、最近は服のことを話しているときが特に楽しそうですね」
リンが言うと、美奈が身を乗り出した。
「そうなの! 今、真理ちゃんといろいろ考えててさ!」
「真理ちゃん?」
母親が尋ねる。
「友達! すっごく服の絵が上手い子!」
「へえ、そうなの」
「そう! 私じゃ思いつかないようなの、いっぱい描くんだよ!」
美奈は興奮気味に話し始めた。
リンはその様子を見て、少し笑った。
真理の家で見たスケッチブック。
そこに描かれていた服を、美奈もよく知っているのだろう。
『二人で服を作ってみたいって、話してたよね』
「うん!」
美奈は大きく頷いた。
「まだ全然分かんないことばっかだけどね!」
「そうなのね」
母親が嬉しそうに笑った。
「美奈は昔から、服のことが大好きなんですよ」
『そうなんですね!』
「ええ。小さい頃から、服をデザインする仕事がしたいって言ってて」
美奈が母親を見た。
「母さん! ちょっと変わったんだ」
「……え?」
「将来の夢!」
母親は瞬きをした。
「そうなの?」
「うん!」
美奈は少し姿勢を正した。
「私ね、服をデザインする仕事じゃなくて……」
そこで一度言葉を止める。
「誰かが考えたデザインを、実際の服にする仕事がしたいんだ」
「……作る方?」
「そう!」
美奈は頷いた。
「デザイン画を見て、型紙を考えたり、布を切ったり、縫ったりして……ちゃんと着られる服にするの!」
母親は興味深そうに聞いていた。
「どうして、そう思うようになったの?」
美奈は少し考えた。
そして、笑った。
「私には考えつかないようなデザインを、考えられる人がいるって知ったから」
「……そうなの」
「うん」
美奈は座卓の上に置かれた雑誌を指さした。
「こういう服って、誰かがデザインを考えて、それを作る人がいるでしょ?」
「そうね」
「私、前は全部自分でやりたいって思ってたんだ」
美奈は続けた。
「でも、すごいデザインを考えられる人がいるなら、その人が考えた服をちゃんと形にできる人になりたいなって」
母親は美奈を見つめた。
「……へえ」
「なんか、そっちの方が私には合ってる気がするんだよね」
美奈は少し照れくさそうに笑った。
「もちろん、まだ全然作れないんだけどさ」
『あはは。これから勉強すればいいんじゃない?』
「そう! だから、ちゃんと勉強したいの!」
母親は少し驚いたように息を吐いた。
「……そっか」
「うん」
「美奈、そんなこと考えてたのね」
「えへへ」
美奈は笑った。
「母さんには、まだ言ってなかったから」
「そうね。初めて聞いたわ」
母親は微笑んだ。
「でも、いいんじゃない?」
「……え?」
「自分で考えて、やりたいことが変わったんでしょう?」
「……うん」
「だったら、応援するわよ」
美奈の表情がぱっと明るくなった。
「ほんと!?」
「もちろん。ただし、ちゃんと勉強はしなさいよ?」
「分かってるって!」
「本当かしら」
「もう、母さん!」
親子のやり取りに、リンも笑ってしまった。
『ふふっ』
美奈がこちらを向く。
「凛ちゃんも応援してくれる?」
『もちろん!』
「やったー!」
美奈は両手を上げた。
その勢いに、母親がまた笑う。
「もう、高校三年生なんだから、少し落ち着きなさい」
「いいじゃん、嬉しいんだから!」
リンは二人を見ながら、真理のことを思い出した。
真理は、自分のデザインを描き続けたい。
美奈は、誰かのデザインを実際の服へ仕立てたい。
二人の目指すものは、違っている。
けれど、その違いがあるからこそ、一緒にできることもあるのかもしれない。
◇
家庭訪問が終わり、リンは玄関で靴を履いた。
「凛ちゃん、今日はありがと!」
『ううん! こちらこそありがとう、片岡さん!』
「今度、真理ちゃんの新しいデザインも見せてあげるね!」
『ほんと? 楽しみにしてる!』
「うん!」
母親が頭を下げた。
「先生、これからもよろしくお願いします」
『はい! こちらこそ、よろしくお願いします!』
リンは笑顔で頭を下げた。
片岡家を後にする。
外へ出ると、夕方の風が少し涼しくなっていた。
『……ふぅ』
今日も、いろんな話を聞けた。
真理が初めて母親に伝えた夢。
美奈が自分で考えて変えた夢。
二人とも、同じ服が好きなのに、目指している仕事は違う。
リンは歩きながら、今日の会話を思い出した。
『……なんか、いいなぁ』
まだ、二人がどんな道へ進むのかは分からない。
専門学校のことだって、これから調べなければならない。
けれど、二人とも自分のやりたいことを、少しずつ言葉にできるようになっている。
リンは鞄の持ち手を握り直した。
『……よしっ』
学校に戻ったら、小野寺先生に相談してみよう。
服飾関係の専門学校について、どんな資料があるのか。
何を勉強できるのか。
真理や美奈が、自分で進路を選ぶために必要なことを、一緒に調べてみたい。
リンは少し歩く速度を上げた。
そして、ふと思い出す。
『……あれ?』
今日は、何度もお茶を勧められた。
けれど。
『……全然、苦しくない!』
リンは思わず笑った。
おかわりを断る。
ただそれだけのことなのに、昨日はあんなに苦労したのだ。
『……あたしもちょっとは成長したかな?』
誰にともなく呟き、リンは夕暮れの道を歩いていった。




