第三十三話「決められた将来」
二〇二六年(令和八年)五月十八日、月曜日。
都立桜丘高校、職員室。
凛は机に広げた進路希望調査票を、一枚ずつ確認していた。
三年四組の生徒たちが提出したものだ。
大学進学、専門学校、就職。
それぞれの希望に合わせて、面談で確認する内容も変わってくる。
『……よし。次は高瀬美月だな』
凛は一枚の用紙を手に取った。
氏名、高瀬美月。
卒業後の進路希望、就職。
希望する就職先の欄には、高瀬興産と記入されている。
『……ふむ』
凛はその文字を確かめた。
就職先まで決めているのであれば、今後の準備について具体的に話を進められそうだ。
机の上に用紙を戻し、必要な資料を揃えていく。
「山本先生、準備はどうですか?」
声をかけてきたのは早川奈緒だった。
『はい! 順調です!』
「今日も面談、入ってますよね」
『はい。高瀬美月と、そのお母様です』
「高瀬さんですか」
早川は頷いた。
「進路希望は?」
『就職です。希望先も決まっているようなので、今日は今後の準備について確認しようと思っています』
「そうですか。本人にも、気になることがないか聞いてあげてくださいね」
『はい!』
早川は軽く頷き、自分の席へ戻っていった。
凛は再び調査票に目を落とす。
就職。
大学進学が多いなかで、早くから社会へ出る道を選ぶ生徒もいる。
進路は人それぞれだ。
本人が選んだ道なら、教師としてできる限り支えたい。
凛は資料を揃え、面談に使う教室へ向かった。
◇
放課後。
三者面談のために用意された教室で、凛は時計を確認した。
約束の時刻までは、あと数分。
机を三人で囲めるように並べ、用意した資料を手元へ置く。
やがて、扉が控えめにノックされた。
「失礼いたします」
『はい! どうぞ!』
扉が開く。
先に入ってきたのは、落ち着いた雰囲気の女性だった。
淡い色のブラウスに、きちんとしたジャケット。
整えられた髪と、無駄のない立ち居振る舞い。
その後ろに、美月が続いていた。
「高瀬美月の母、由紀子です。本日はよろしくお願いいたします」
『担任の山本リンです! こちらこそ、よろしくお願いいたします!』
凛が頭を下げると、由紀子も丁寧に一礼した。
美月も小さく頭を下げる。
「……よろしくお願いします」
『うん。美月も、よろしくな』
凛は二人に席を勧めた。
美月は母親の隣に腰を下ろす。
由紀子は鞄から手帳を取り出し、膝の上に置いた。
『それでは、始めさせていただきます』
「はい」
『まず、学校での美月の様子ですが、授業には真面目に取り組んでいます。提出物なども、特に問題はありません』
「そうですか」
由紀子は静かに頷いた。
「家でも、学校のことはきちんとするように言い聞かせていますので」
『はい。しっかり取り組めていますよ』
「それなら安心しました」
凛は美月へ視線を向けた。
『美月、何か学校生活で困っていることはあるか?』
「……いえ、特には」
『そうか。何かあったら、いつでも言ってくれ』
「……はい」
美月は小さく頷いた。
ここまでは、特に変わったところのない面談だった。
凛は進路希望調査票を手に取る。
『それでは、進路についてお話ししましょう』
「お願いいたします」
『美月は、卒業後の進路として就職を希望しているんだな』
「はい」
答えたのは由紀子だった。
「主人の会社に入る予定です」
『高瀬興産ですね』
「ええ。主人が経営しておりますので」
『なるほど!』
凛は頷いた。
『では、卒業後の受け入れについては、ご家庭でもお話が進んでいるんですね』
「もちろんです。主人とも相談してあります」
『それは心強いですね』
「わざわざ外の企業を探す必要もありませんし、本人にとっても、その方が安心でしょう」
由紀子は落ち着いた口調で続けた。
「会社のことも、今のうちから少しずつ覚えさせるつもりです」
『そうですか』
凛は手元の資料に目を落とした。
希望先はすでに決まっている。
それなら、入社までに必要な手続きや学校側で確認する事項について話せばよい。
そう考え、再び顔を上げる。
『美月。会社では、どんな仕事をしたいと考えているんだ?』
「……えっと」
美月が口を開いた。
しかし、答えるより先に由紀子が言った。
「最初は事務の仕事から覚えさせようと思っています」
『……事務ですか』
「ええ。まずは会社の仕事を一通り知ることが大切ですから」
『なるほど』
凛は頷いた。
ただ、今の質問は美月に向けたものだった。
『美月も、事務の仕事に興味があるのか?』
「……私は」
「この子は、まだ具体的な仕事の内容までは分かっていませんので」
由紀子が再び答える。
「入社してから、少しずつ覚えていけばいいと思っています」
美月は口を閉じた。
凛はその様子を見た。
何か言いかけていたように思う。
『……そうですか』
少し間を置いて、凛はもう一度美月へ向き直った。
『美月は、卒業したらすぐ働きたいと思っているんだな?』
「……」
美月は母親の方を見た。
その視線に気づいた由紀子が、当然のように頷く。
「ええ。そのつもりです」
『……』
「進学して何年も時間をかけるより、早く実務を経験した方がこの子のためになると思いますので」
『なるほど……』
凛は返事をしながら、美月を見た。
美月は膝の上で両手を重ねている。
視線は机の端へ落ちたままだった。
先ほどから、ほとんど話していない。
学校でも、美月はどちらかといえば控えめな生徒だ。
自分から積極的に発言する方ではない。
けれど。
今の様子は、それだけなのだろうか。
◇
『高瀬さん』
「はい」
『少し、美月本人にも話を聞かせていただいてよろしいでしょうか』
「ええ、もちろんです」
由紀子は微笑んだ。
凛は美月へ向き直る。
『美月』
「……はい」
『進路希望調査票には、就職と書いてくれていたな』
「……はい」
『それを見て、私は美月が就職を希望しているんだと思っていた』
美月は黙って聞いている。
『今も、その気持ちは変わっていないか?』
「……」
美月は顔を上げかけた。
しかし、すぐに母親の方を見る。
「……あの」
由紀子が口を開いた。
「先生。この子は昔から自分で決められないので」
凛は由紀子を見た。
「何かを選ばせようとしても、いつまでも迷ってしまうんです」
『……そうなんですか』
「ええ。ですから、私がある程度道筋をつけてあげないと」
由紀子は淡々と続けた。
「高校を卒業すれば、もう社会人ですからね。いつまでも迷っていては困りますでしょう?」
『……』
「主人の会社なら、私たちも様子を見られますし、本人にとっても良い環境だと思っています」
凛は美月へ視線を戻した。
美月は俯いていた。
調査票に書かれていた、就職という二文字。
それを見たとき、凛は疑問を持たなかった。
今も、就職という選択自体がおかしいとは思っていない。
ただ。
美月はまだ、自分の希望を一度も話していない。
『……美月』
「……はい」
『きみは、どう思っている?』
美月の肩がわずかに動いた。
「……私は」
そこで言葉が止まる。
凛は待った。
由紀子も黙っている。
数秒の沈黙が流れた。
「……お母さんの、言うとおりで……」
小さな声だった。
『……そうか』
凛は静かに頷いた。
『それは、美月自身がそうしたいと思っている、ということでいいのか?』
「……」
美月は答えなかった。
また、母親の方を見る。
「美月」
由紀子が娘の名前を呼んだ。
「先生が聞いていらっしゃるでしょう。きちんと答えなさい」
「……はい」
美月は背筋を伸ばした。
けれど、なかなか次の言葉が出てこない。
凛は二人を見比べた。
由紀子は何も怒鳴っていない。
娘の進路についても、真剣に考えているのだろう。
話し方は丁寧で、説明にも筋が通っている。
それなのに。
美月は、母親が隣にいるだけで何かを言いにくそうにしている。
凛は調査票を机に置いた。
『……分かりました』
由紀子が顔を上げる。
『高瀬興産への就職を前提として、ご家庭で準備を進めていらっしゃることは理解しました』
「はい」
『ただ、美月本人の気持ちについては、もう少し確認していきたいと思っています』
由紀子はわずかに眉を上げた。
「本人の気持ち、ですか?」
『はい』
「ですが、進路希望調査票にも就職と書いておりますし、本人も今、そう答えたと思いますが」
『ええ。そのとおりです』
凛は頷いた。
『ただ、働き始めるのは美月自身です。どんな仕事をして、どんな生活を送りたいのか。そういう話も聞いておきたいと思っています』
「……なるほど」
由紀子は手帳へ視線を落とした。
「そういうことであれば、家でも話しておきます」
『ありがとうございます』
凛は答えた。
しかし、その言葉を聞いて、美月の表情が少し強張ったように見えた。
「美月。先生もこうおっしゃっているんだから、もう少し自分の考えをまとめておきなさい」
「……うん」
美月が頷く。
由紀子は時計を確認した。
「それで、先生。今後の学校側の手続きについてですが……」
『はい』
凛は資料を開いた。
面談は、予定していた進路確認へ戻っていった。
◇
面談が終了した。
「本日はありがとうございました」
由紀子が立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
『こちらこそ、お越しいただきありがとうございました!』
「今後とも、美月をよろしくお願いいたします」
『はい!』
美月も椅子から立ち上がった。
「……ありがとうございました」
『うん。美月も、ありがとう』
由紀子は鞄を持ち、娘へ声をかけた。
「美月、帰るわよ」
「……うん」
「帰ったら、今日の話を整理しておきましょう」
「……分かった」
美月は母親の後ろについて、教室を出ていった。
扉が閉まる。
凛はしばらく、その扉を見つめていた。
『…………』
机の上には、美月の進路希望調査票が残っている。
就職。
高瀬興産。
きちんと本人の字で記入されていた。
それなのに、今日の面談では、美月自身が何を望んでいるのか分からなかった。
『……ううむ』
凛は椅子に腰を下ろした。
美月が本当に就職を希望しているのであれば、もちろん応援したい。
父親の会社へ入ることも、本人が望んだ道であるなら問題はない。
ただ、母親がいないところでも、同じ答えが返ってくるのだろうか。
凛は調査票を揃え、面談記録へ手を伸ばした。
確認した進路の方向性を記入する。
そして、少し考えてから、別の欄にも短く書き添えた。
――本人の希望について、継続して確認。
そこまで記入したところで、次の面談の予定時刻が近づいていることに気づいた。
『……よし』
凛は資料を揃え直した。
今すぐ何かを決める必要はない。
けれど、今日の美月の様子は、忘れないでおこうと思った。
◇
その夜。
高瀬家。
「美月」
夕食を終え、自室へ戻ろうとした美月が足を止めた。
「……何?」
由紀子は食卓に置いた書類を揃えていた。
「今日、先生に聞かれたこと、ちゃんと考えておきなさい」
「……うん」
「高瀬興産に入ったら、何をしたいのか。少しくらい答えられるようにしておかないと」
「……分かった」
「あなたも、もう三年生なんだから」
「……うん」
美月はそれだけ答えて、階段を上がった。
自分の部屋に入り、扉を閉める。
鞄を机の横へ置き、ベッドに腰を下ろした。
「…………」
しばらく、何もせずに座っていた。
やがてスマートフォンを取り出す。
画面を操作し、慣れたアプリを開いた。
そこには、いつもの仲間たちからメッセージが届いていた。
《今日も配信する?》
《この前の話の続き聞きたい!》
《なでしこ、今日どうだった?》
美月は画面を見つめた。
そして、少し笑った。
「……ふふっ」
指を動かし、返信を打つ。
いつものハンドルネーム、なでしこ。
《するよー! ちょっと待ってて!》
机の上を片づけ、スマートフォンを置く位置を調整する。
画面に余計なものが映り込んでいないか確かめる。
そして、いつもの配信画面を開いた。
チャンネル名は、なでしこちゃんねる。
ここでは、学校の高瀬美月ではなく、なでしことして仲間たちと過ごしている。
美月は配信開始のボタンを押した。
「こんばんはー! なでしこです!」
昼間とは違う、明るい声。
「みんな、来てくれてありがと!」
次々とコメントが流れ始める。
《なでしここんばんは!》
《待ってた!》
《今日もお疲れ!》
「ありがとー! みんなもお疲れさま!」
美月は笑った。
「ねえ、聞いて! 今日さ、ちょっと面白いことがあって!」
楽しそうに話し始める。
コメントが流れ、その一つに声を上げて笑う。
「ちょっと! それは違うって!」
《絶対そうでしょ笑》
「違うもん!」
また笑い声がこぼれた。
学校では、あまり大きな声を出さない。
母親の前では、何かを聞かれてもすぐに答えられない。
けれど、この画面の向こうには、自分の話を聞いてくれる人たちがいる。
好きな話題で笑ってくれる。
くだらない冗談を言い合える。
自分から話し始めても、誰かが代わりに答えてしまうことはない。
「そうそう! それでね!」
美月は身を乗り出した。
話したいことが、次から次へと浮かんでくる。
画面の向こうの仲間たちが、それに応えてくれる。
いつもの夜。
いつもの配信。
美月にとって、何より楽しみな時間だった。
階下から、かすかに母親の声が聞こえた。
「美月、あまり遅くならないようにしなさいよ」
「はーい!」
美月は扉の方へ返事をした。
そして、再び画面へ向き直る。
「ごめんごめん! それで、どこまで話したっけ?」
《今いいところ!》
《続き!》
「はいはい! ちゃんと話すから!」
美月は楽しそうに笑った。
机の片隅には、進路希望調査票の控えが置かれていた。
卒業後の希望。
就職。
高瀬興産。
昼間、自分の口からは何も言えなかった。
けれど今は、そんなことを考えずにいられる。
「えーっとね、まず最初に……」
美月は笑顔で話を続けた。
画面の向こうから、また新しいコメントが届いた。




