↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
32/44

第三十二話「お茶と家庭訪問」

 二〇〇〇年(平成十二年)五月十五日、月曜日。


 青葉高校、職員室。


『……家庭訪問、ですか?』


「ええ。今日から順番に回っていただきます」


 小野寺修一が、机の上に置いた書類を指さした。


「訪問先の住所と予定時刻はこちらです。保護者の方には、事前に連絡してありますから」


『あ、はい。それは分かるんですけど……』


 リンは書類を覗き込んだ。


 生徒の名前。


 住所。


 訪問予定時刻。


 そして、備考欄。


 今日の最初の訪問先には、佐伯大輔の名前があった。


『……家まで行くんですよね?』


「家庭訪問ですからね」


『ですよねぇ……』


 なんとも間の抜けた返事になってしまった。


 家庭訪問というものが存在することは、もちろん知っている。


 ただ、リンが馴染んでいたのは、玄関先で短く話を済ませたり、学校での個人面談に切り替えたりするやり方だった。


 わざわざ生徒の家を一軒ずつ訪ねるとなると、少し勝手が違う。


「山元先生は、今年が初めてでしたね」


『はい。ちょっと緊張します』


「そんなに構えなくても大丈夫ですよ。学校での様子を伝えて、家庭での様子を聞く。それが基本です」


『なるほど……』


「三年生ですから、進路の話も出るでしょう。すぐに結論を出そうとせず、まずは本人と保護者の考えを聞いてください」


『はい!』


 リンは頷いた。


 小野寺は書類を一枚めくる。


「それから、お茶などを勧められることもあると思いますが、あまり長居しないようにしてくださいね」


『……お茶?』


「ええ」


『あ、はい。分かりました』


 言われてみれば、訪問先で飲み物を出されることくらいはあるのかもしれない。


 リンはそれほど深く考えず、書類を鞄にしまった。


     ◇


 午後三時四十分。


 リンは佐伯家の前に立っていた。


 住宅街の一角にある、落ち着いた佇まいの一軒家。


 住所を確認し、表札を確かめる。


『……よし。ここだ』


 予定時刻より少し早い。


 リンは身だしなみを整え、玄関へ向かった。


 そして、足を止めた。


『……ん?』


 玄関の引き戸が開いている。


 正確には、ガラス戸が開け放たれ、その手前に網戸が張られていた。


 中へ風を通すためだろう。


 今日は五月にしては少し暑い。


 確かに、これなら涼しい風が入ってきそうだ。


 ただ。


『……え、開けっぱなし?』


 リンは思わず周囲を見回した。


 門扉はあるものの、鍵がかかっている様子はない。


 玄関も、網戸一枚。


 外から声をかければ、そのまま家の中まで届きそうな造りだった。


 ――いやいやいや。


 不用心じゃない!?


 知らない人が来たらどうするんだろう。


 もちろん、網戸を閉めているからといって誰でも入っていいわけではない。


 それは分かっている。


 分かっているのだが。


『……平成って、こんな感じなの?』


 小さく呟いてから、リンは自分の考えを打ち消した。


 いや、家によるよね。


 きっとそう。


 それに、いつまでも玄関を眺めているわけにはいかない。


 リンは網戸の前で背筋を伸ばした。


『すみませーん』


 自分では、それなりに大きな声を出したつもりだった。


 しかし。


 …………。


 返事がない。


『……あれ?』


 もう少し耳を澄ませてみる。


 家の奥から、かすかにテレビの音が聞こえていた。


 誰かが動いているような気配もする。


 声が届かなかったのだろうか。


 もう一度呼んでみようかと思ったが、リンは少しためらった。


 もしかしたら今、こちらへ向かっている最中なのかもしれない。


 そこで大声を出したら、なんだか催促しているみたいだ。


 …………。


 さらに数秒。


 誰も出てこない。


『…………』


 リンは網戸を見つめた。


 ……うん。


 もう一回、呼ぼう。


 今度はちゃんと届くように。


 小さく息を吸う。


『すみませーーーん!!』


「はーーい! 今行きまーす!」


『……!』


 今度はすぐに返事があった。


 リンは安堵したものの、少し恥ずかしくなった。


 さすがに大きすぎただろうか。


 ほどなくして、家の奥から一人の女性が姿を現した。


「はいはい、お待たせしました!」


 女性はリンの姿を確認すると、にこやかに頭を下げた。


「あら、凛先生ですね?」


『あ、はい! 山元です! 今日はよろしくお願いします!』


「こちらこそ。大輔がお世話になっております」


『いえ、そんな! こちらこそ、いつも助けてもらってます!』


「ふふっ。そうですか」


 佐伯の母親は笑いながら、網戸を横へ滑らせた。


「さあ、どうぞ上がってください」


『……えっ?』


 リンは瞬きをした。


「どうぞ。大輔も中で待ってますから」


『あ、いえ! 玄関で大丈夫です!』


「え?」


『その、ここでお話しできれば……』


 母親は少し不思議そうな顔をした。


 しかし、すぐに柔らかく笑った。


「そんな、先生を玄関先に立たせたままなんて。どうぞ遠慮なさらずに」


『えっ、でも……』


「お茶も用意してありますから」


『……お茶!?』


 思わず声が裏返った。


「はい?」


『あっ、いえ! ありがとうございます!』


 ――本当にお茶、出るんだ!?


 小野寺の言葉を思い出す。


 あれは、こういうことだったのか。


「ほら、先生。どうぞ」


『あ、はい。お邪魔します……!』


 リンは慌てて靴を脱いだ。


     ◇


 案内されたのは、畳敷きの居間だった。


 座卓の上には湯飲みが三つ。その隣には、小皿に盛られた菓子が並んでいる。


『…………』


 リンは思わず立ち止まった。


 え。


 本格的。


 これ、本当に家庭訪問?


「先生、こちらへどうぞ」


『あっ、はい!』


 勧められた座布団に腰を下ろす。


 正面には佐伯大輔が座っていた。


「凛先生、こんにちは」


『佐伯さん、こんにちは!』


「……先生、緊張してます?」


『えっ!? そんなことないよ!?』


「そうですか?」


 佐伯は少し笑った。


 そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。


「兄ちゃん、先生来たの?」


「来たよ。お前ら、静かにしてろよ」


 居間の入り口から、小学生くらいの男の子が二人、顔を覗かせた。


 一人は興味津々といった様子でリンを見つめ、もう一人は兄の後ろへ回り込む。


「あ! 女の先生だ!」


「こら、失礼だろ」


『あはは! こんにちは!』


「こんにちは!」


「……こんにちは」


 二人は元気よく、あるいは少し恥ずかしそうに挨拶した。


 母親が台所から顔を出す。


「二人とも、先生と大事なお話があるんだから、向こうで遊んでてね」


「えー!」


「あとで大輔に宿題を見てもらうんでしょう?」


「……はーい」


 二人は渋々といった様子で廊下へ戻っていく。


 佐伯がその背中へ声をかけた。


「走るなよ。あと、テレビの音、小さくしとけ」


「分かったー!」


 遠ざかっていく足音。


 リンは佐伯を見た。


『弟さん?』


「はい。二人とも、まだ小学生なんです」


『元気だねぇ』


「元気すぎるくらいです」


 佐伯は苦笑した。


 学校で後輩をまとめているときとは違う、兄としての顔だった。


 居間の隅には、使い込まれた学習机が一つ置かれていた。


 その横にはランドセルが二つ並び、壁には学校から配られたらしいプリントが留められている。


 机の上には教科書とノートが重ねてあり、空いた場所に鉛筆立てが置かれていた。


 家族の暮らしが、そのまま目に入ってくる。


「お待たせしました」


 母親がお茶を運んできた。


「先生、どうぞ。お菓子も遠慮なく」


『ありがとうございます!』


 リンは湯飲みを両手で持った。


 温かいお茶を一口飲む。


『……おいしいです』


「あら、よかった」


 母親が嬉しそうに笑う。


 その笑顔を見て、リンもようやく肩の力を抜いた。


     ◇


「それで先生。学校では、大輔はどうでしょうか」


『はい! 佐伯さんは、クラスでも部活動でも、とても頑張っています』


「そうですか」


『空手部では主将として後輩たちをまとめていますし、練習にも熱心です』


「先生、大げさですよ」


『大げさじゃないよ。ちゃんと見てるから』


 佐伯が照れくさそうに目を逸らした。


「家ではあんまり学校の話をしないんですよ、この子」


 母親が笑う。


「空手の話はするんですけどね」


「母さん……」


「本当でしょう?」


「……まあ」


 佐伯は頭を掻いた。


 学校では、いつも落ち着いた空手部主将。


 けれど母親の前では、年相応の表情を見せる。


 リンはその違いを少し面白く感じた。


「この間も、大学へ練習に行かせていただいたそうで」


『はい。東央大学ですね』


「帰ってきた日は、ずいぶん悔しそうにしてました」


「……そんな顔してた?」


「してたわよ。ご飯食べながら、ずっと難しい顔してたもの」


『あはは……』


 リンは小さく笑った。


 東央大学の合同練習で、佐伯は一度も勝てなかった。


 しかし、ただ負けただけではない。


 強い相手と組み手を重ねるなかで、自分の動きを何度も修正していた。


 鬼塚監督も、その姿勢を評価していた。


『佐伯さんにとって、すごく良い経験になったと思います』


「そうですか。よかったわね、大輔」


「……うん」


 佐伯は短く答えた。


 リンはそこで、進路の話を切り出した。


『それで……卒業後のことについても、少しお話しできればと思っています』


 母親が頷く。


「はい」


『佐伯さん。今は、どう考えてる?』


「……就職です」


 佐伯は答えた。


「高校を卒業したら、働こうと思ってます」


 リンは佐伯を見た。


『東央大学に行ってからも、その考えは変わってない?』


「…………」


 佐伯の返事が止まった。


 母親が息子を見る。


「大輔?」


「……いや」


 佐伯は座卓へ視線を落とした。


「変わってないって言ったら、嘘になります」


『……うん』


「でも、だからって……」


 佐伯は言葉を探していた。


 そのとき、台所から小さな電子音が聞こえた。


「あら、いけない」


 母親が立ち上がる。


「ちょっと失礼しますね」


 台所へ向かった母親は、何かを確認すると居間へ戻ってきた。


「夕飯の支度、途中だったものですから」


『あっ、こちらこそ、お忙しい時間にすみません!』


「いいんですよ。今日は仕事も早く上がらせてもらいましたし」


 母親はそう言って座布団に戻った。


「それに、この子たち三人とも、よく食べるんですよ」


「俺は普通だろ」


「そう? この前だって、おかわり三杯してたでしょう」


「……二杯だよ」


『あはは!』


 リンが笑うと、佐伯もつられて笑った。


 母親は嬉しそうに息子を見つめていた。


 その横顔を見ながら、リンはふと先ほどの学習机を思い出した。


 二つのランドセル。


 重ねられた教科書。


 仕事を早く切り上げて家庭訪問の準備をしてくれた母親。


 そして、弟たちに宿題を見てやるよう声をかけていた佐伯。


 この家での佐伯は、空手部の主将であると同時に、二人の弟の兄でもあるのだ。


「……母さん」


 佐伯が口を開いた。


「俺、やっぱり就職した方がいいと思う」


「どうして?」


「……僕が、そうするべきだと思ってるからです」


 母親は少し黙った。


 そして、静かに首を横に振った。


「大輔」


「……うん」


「どうするべきかじゃない。あなたがどうしたいかを教えて」


 佐伯は顔を上げた。


「……でも」


「お母さんが聞きたいのは、あなたが何を我慢できるかじゃないの」


「…………」


「あなた自身が、これからどうしたいのか。それを教えてほしいのよ」


 佐伯は膝の上で拳を握った。


 リンは何も言わなかった。


 やがて。


「……空手を」


 佐伯が顔を上げる。


「空手を、まだまだ続けていきたい」


 母親が静かに頷いた。


「東央大学に行ったとき、思ったんだ。今まで自分なりに頑張ってきたつもりだったけど、全然通用しなかった」


「……うん」


「すごく悔しかった。でも、あそこで練習してる人たちを見て……俺も、ああなりたいって思った」


 佐伯は母親をまっすぐに見た。


「東央大学で、空手がしたい」


 母親はその言葉を聞くと、ゆっくりと息を吐いた。


「……そう」


「うん」


「やっと聞けたわね」


「……え?」


「大輔が本当にやりたいこと」


 佐伯は少し驚いた顔をした。


 母親が笑う。


「そんなに言いにくかった?」


「……そりゃ、まあ」


「お母さん、そんなに怖い?」


「違うって!」


 佐伯の反応に、リンも思わず笑ってしまった。


『ふふっ』


「先生まで……」


『ご、ごめんね』


 母親は湯飲みを置いた。


「大学へ行きたいのね」


「……うん」


「だったら、どうすれば行けるのか、一緒に考えましょう」


 佐伯が顔を上げた。


「……いいの?」


「もちろん、簡単なことじゃないわよ」


 母親は穏やかに答えた。


「でも、あなたが本当にやりたいことなら、最初から諦める必要はないでしょう?」


 佐伯はしばらく母親を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと頷いた。


「……ありがとう」


     ◇


『あの、東央大学には、空手の特待生制度があります』


 リンが口を開いた。


「特待生?」


 母親がこちらを向く。


『はい。選考に通れば、学費などの支援を受けられる制度です』


「そういう制度があるんですね」


『ただ、佐伯さんが選ばれると決まったわけではありません』


「……はい」


『鬼塚監督は、佐伯さんの取り組む姿勢を評価してくださっていました。でも、正式な選考はこれからです』


 佐伯が頷いた。


「……凛先生」


『うん?』


「俺、その特待生を目指したいです」


 リンは佐伯を見た。


「東央大学に、特待生で入れるように頑張りたい」


『……うん』


「でも」


 佐伯は一度言葉を区切った。


「もし、特待生になれなかったら……そのときは就職します」


 母親が息子を見る。


「大輔」


「大学には行きたい。でも、どうしても行かなきゃ嫌だって、母さんに無理を言うつもりはない」


「…………」


「特待生になれるように、俺ができることを全部やる。それでも駄目だったら、働く」


 佐伯は母親を見つめた。


「それが、俺の決めたことだから」


 母親はしばらく黙っていた。


 やがて、静かに頷いた。


「……分かったわ」


「……うん」


「でもね、大輔」


 母親は少しだけ身を乗り出した。


「それで駄目だったら、もう何もできないって決めつける必要もないのよ」


 佐伯が瞬きをする。


「お母さんだって、一緒に考えるんだから」


「……母さん」


「だから今は、特待生を目指して頑張りなさい」


 佐伯は少しだけ俯いた。


 それから顔を上げ、力強く頷いた。


「……うん!」


 リンは二人を見つめていた。


 佐伯が決めた条件。


 母親が示した理解。


 どちらも、相手のことを考えている。


『佐伯さん』


「はい」


『じゃあ、まずは特待生の選考条件を詳しく調べよう。小野寺先生や荒川先生にも相談してみる』


「……お願いします!」


『うん!』


 リンは笑顔で頷いた。


『佐伯さんが自分で決めたことなら、あたしもできる限り応援するよ!』


 佐伯は深く頭を下げた。


「ありがとうございます、凛先生」


 廊下から、弟たちの声が聞こえてきた。


「兄ちゃーん! 宿題終わったー!」


「これ、合ってるか見てー!」


 佐伯は思わず笑った。


「……ちょっと待ってろ!」


 母親も笑っている。


「ほら。家でも頼りにされてるんですよ、この子」


『ふふっ。学校でも同じですよ』


「……先生、もう勘弁してください」


 佐伯は照れくさそうに笑った。


     ◇


 話が一段落した頃には、予定していた訪問時間を少し過ぎていた。


 リンは壁の時計を見て、慌てて立ち上がった。


『あっ! すみません、そろそろ次の訪問があるので……!』


「あら、もうそんな時間ですか」


『はい! 今日はありがとうございました!』


「こちらこそ。わざわざ来ていただいて」


 母親も立ち上がる。


「先生、お茶のおかわりはいかがですか?」


『えっ!?』


「まだ少しありますから」


『あ、いえ! 大丈夫です! 十分いただきました!』


「そうですか?」


『はい! とってもおいしかったです!』


「ふふっ。それならよかった」


 リンは鞄を持ち、玄関へ向かった。


 佐伯も見送りについてくる。


「凛先生」


『ん?』


「……ありがとうございました」


『何が?』


「今日、来てくれて」


 リンは少し首を傾げた。


『家庭訪問だから、来るのは当たり前だよ?』


「……そうなんですけど」


 佐伯は一度視線を落とし、それから言った。


「先生がいなかったら、東央大学の練習に参加する事もなかったから」


『…………』


「だから、ちゃんと目指してみます」


 リンは佐伯を見つめた。


『……うん』


「まだ、どうなるか分かりませんけど」


『そうだね』


 リンは微笑んだ。


『でも、佐伯さんが本当に行きたい場所なんでしょ?』


「……はい」


『だったら、そこを目指して頑張ろう』


「はい!」


 佐伯は力強く頷いた。


 その返事を聞いて、リンも笑顔になった。


『じゃあ、また学校でね!』


「はい。お気をつけて!」


 母親にも頭を下げ、リンは佐伯家を後にした。


     ◇


 リンの姿が見えなくなるまで、佐伯は玄関先に立っていた。


「大輔」


 背後から母親に呼ばれ、振り返る。


「いい先生じゃない」


「……うん」


「冷めてるようで、あなたの事ちゃんと考えてくれているのね」


 佐伯は少し考えてから、笑った。


「……そうなんだよ」


「やっぱり?」


「最初は、何考えてるのか分かんない先生だと思ってたけどさ」


 佐伯はリンが歩いていった道へ、もう一度目を向けた。


「ちゃんと見てくれてるんだ。俺たちのこと」


 母親は嬉しそうに微笑んだ。


「そう。よかったわね」


「……うん」


 そのとき、家の奥から声が飛んできた。


「兄ちゃーん! 宿題まだー!?」


「早く見てよー!」


「あー、分かった! 今行く!」


 佐伯は苦笑して、玄関の網戸を閉めた。


     ◇


 住宅街を歩きながら、リンは次の訪問先を確認した。


『……えっと、次は……』


 鞄から予定表を取り出す。


 まだ、今日の家庭訪問は終わっていない。


 リンは少しだけ足を緩めた。


 教室では、いつも落ち着いている佐伯。


 後輩の前では、頼れる主将。


 けれど家では、母親に自分の希望を伝えることさえ、ためらっていた。


 学校で見ている姿だけでは、分からないこともあるのだ。


『……なるほどなぁ』


 リンは小さく呟いた。


 家庭訪問。


 最初は、どうしてわざわざ家まで行くのだろうと思っていた。


 けれど、今日の佐伯の言葉は、学校で二人きりで話していたときとは違っていた。


 本人が自分の気持ちを伝える。


 家族がそれを聞く。


 そして、これからどうするかを一緒に考える。


 そんな時間を、教師もそばで見守ることができる。


『……悪くないかも』


 リンは少し笑った。


 その直後。


『……あっ』


 ふと思い出した。


 玄関先での、あの出来事。


 開け放たれた引き戸。


 網戸。


 二度目の大きな呼びかけ。


 そして、居間へ案内されたこと。


『…………』


 次の家も、あんな感じなのだろうか。


 また、お茶が出てくるのだろうか。


 もしかして、お菓子も?


『……いや、さすがに全部の家がそうじゃないよね』


 誰にともなく呟く。


 リンは予定表を折りたたみ、鞄に戻した。


 そして、少しだけ歩く速度を上げた。


 初めての家庭訪問は、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。