第三十一話「突然の離脱」
二〇二六年(令和八年)五月十三日、水曜日。
都立桜丘高校、体育館。
「千夏! 次、そっち!」
「分かってる!」
宮野千夏がネット際へ走り込む。
上がったトスに合わせて跳び、右腕を振り抜いた。
ボールは相手コートの奥へ落ちる。
「よしっ!」
「ナイス、千夏!」
朝倉紗奈が声を上げると、千夏は得意げに片手を掲げた。
「今の、結構よくなかった?」
「よかったけど、一本前のレシーブ、ちょっと危なかったよ」
「そこは褒めてから言ってよ!」
「褒めたじゃん」
「短い!」
近くの部員たちが笑う。
コート脇では、水瀬結衣が練習記録をつけていた。
得点の決まった位置、レシーブの乱れた場面、連係の成功と失敗。
最近は記録する項目も増えている。
「十五秒、いくよ!」
紗奈の声に、コート上の部員たちが集まった。
以前から続けている十五秒ミーティングだ。
「今の、後ろのカバーちょっと遅れたよね」
「私、前に寄りすぎた」
「じゃあ次は、千夏が打つとき私が少し下がる」
「オッケー。もう一本!」
短いやり取りを終え、部員たちがそれぞれの位置へ戻っていく。
体育館の壁際で見守っていた凛は、その様子に満足そうに頷いた。
『うむ。いい声が出ているな!』
隣に立つ藤沢和彦が笑う。
「前より、みんなで話すようになりましたね」
『はい! 紗奈たちがよく考えてくれています!』
「山本先生も、ずいぶん熱心に見てくださっていますから」
『いえ! 自分はまだ、バレーボールについて学ぶことばかりです!』
「ははは。私も同じですよ」
藤沢は穏やかに答えた。
凛が副顧問になってから、一か月ほど。
競技経験の乏しさは変わらないものの、部員たちの名前や動きの特徴は少しずつ覚えてきた。
空手とは違う。
一人が全力を尽くすだけでは、ボールを相手コートへ返せない。
その当たり前のことを、目の前の生徒たちは毎日のように教えてくれる。
「先生、次、六対六にします!」
紗奈が声をかけてきた。
『分かった! 水分補給も忘れるなよ!』
「はーい!」
紗奈は部員たちを集め、チームを分け始めた。
「結衣、さっきの記録、あとで見せて」
「うん。特に後半、レシーブの位置が少し変わってるから」
「そこも見たい。ありがと」
紗奈は結衣から記録用紙を受け取ると、数行だけ確認して返した。
「じゃ、始めよう!」
ボールが高く上がった。
◇
練習は順調だった。
千夏のサーブが相手コートへ入り、レシーブがつながる。
トスが上がり、スパイクが決まる。
「ナイス!」
紗奈が声を上げる。
次のラリー。
相手側の攻撃がブロックに触れ、ボールがネット際へ落ちかけた。
「私!」
紗奈が前へ出る。
味方がなんとか拾ったボールが高く上がった。
紗奈はその軌道を追い、ネット際へ踏み込んだ。
「千夏、カバー!」
「了解!」
跳ぶ。
伸ばした指先がボールに触れ、相手コートへ押し返した。
その直後だった。
着地した右足に体重が乗る。
膝が内側へ崩れた。
「っ……!」
紗奈の身体が傾いた。
右膝に走った痛みで、踏ん張ることができない。
そのまま床へ倒れ込む。
乾いた音が体育館に響いた。
「紗奈?」
千夏が振り返る。
「……っ、あ……!」
紗奈は右膝を押さえたまま、動かなかった。
「紗奈!」
千夏が駆け寄る。
凛もすぐに走り出していた。
『練習中止! 全員、ボールを止めろ!』
鋭い声が体育館に通る。
藤沢が部員たちを下がらせた。
凛は紗奈のそばに膝をついた。
『紗奈! どこが痛い!?』
「ひ、右……膝……!」
『分かった。無理に動かすな』
「先生、私……!」
『立とうとするな! まず状態を確認する!』
紗奈は床に手をつき、上体を起こそうとした。
その動きに合わせて、右膝に痛みが走る。
「いっ……!」
『そのままでいい!』
凛は紗奈の顔色を確かめ、呼吸と受け答えに問題がないことを確認した。
膝の状態を無理に調べることはせず、藤沢へ顔を向ける。
『藤沢先生! 保健室と連絡を取っていただけますか! 医療機関での診察が必要だと思います!』
「分かりました!」
藤沢が携帯電話を取り出す。
千夏は紗奈の横にしゃがみ込んだ。
「紗奈、大丈夫?」
「……ちょっと、変な着地しただけ」
「そんな顔で言われても!」
「……大丈夫、だから」
紗奈は右膝から手を離そうとした。
だが、指先が離れただけで、すぐに押さえ直す。
千夏の表情が変わった。
「……紗奈」
「……何?」
「今は、動かないで」
紗奈は返事をしなかった。
結衣が近づいてくる。
「先生、冷却用のもの、持ってきます」
『ありがとう、結衣! 保健室の先生にも確認してくれ!』
「はい!」
結衣は体育館の出口へ走った。
周囲では部員たちが声を潜め、紗奈の様子を見守っている。
つい数分前まで響いていたボールの音は、もう聞こえなかった。
◇
それからしばらくして、紗奈は医療機関で診察を受けていた。
学校から保護者へ連絡が入り、藤沢と凛も付き添っている。
診察室で医師が紗奈に尋ねた。
「着地したとき、膝が内側に入った感じがしたんですね」
「……はい」
「今、痛みが強いのはここですか」
「そこです。内側のところ……」
医師は必要な範囲で膝の状態を確認し、診察結果について説明を始めた。
「膝の内側の靱帯を傷めている可能性があります」
「……靱帯、ですか」
「はい。内側側副靱帯という、膝を支える靱帯です。ただ、今は痛みも強いですし、ほかの部分に損傷がないかも含めて確認する必要があります」
紗奈は診察台の上で、右膝に視線を落とした。
「先生。いつから練習できますか?」
「現時点では、まだはっきり言えません」
「……え?」
「損傷の程度によって、治療やリハビリに必要な期間は違います。追加の検査をして、状態を確認しましょう」
「でも、歩けるようになれば……」
「痛みが落ち着いたからといって、すぐにジャンプや急な方向転換をしていいわけではありません。今は競技を休む必要があります」
紗奈は唇を結んだ。
「……大会が、あるんです」
「そうですか」
「八月から、予選が始まって……」
医師は紗奈の言葉を遮らなかった。
「大会の時期も考えながら、回復の状態を見ていくことになります。ただ、出場できると今ここで約束することはできません」
「……はい」
それ以上、紗奈は質問しなかった。
凛も黙って説明を聞いていた。
靱帯という言葉には覚えがある。
空手でも、関節の怪我は珍しくない。
だが、競技が違えば求められる動きも違う。
まして、診察を受けているのは自分ではない。
凛は医師に向き直った。
『今、学校で気をつけるべきことはありますか?』
「運動はもちろん、日常の移動にも注意が必要です。必要に応じて補助具などを使います。詳しい指示は検査結果も踏まえてお伝えします」
『分かりました』
「学校でも、移動や授業について配慮してあげてください」
『はい!』
凛は深く頭を下げた。
◇
診察を終えた紗奈は、保護者と帰宅することになった。
藤沢は今後の学校生活について確認し、保護者と連絡を取り合うことを約束した。
凛が帰ろうとしたとき、紗奈に呼び止められた。
「……山本先生」
『ん?』
「あの……少しだけ、いいですか」
『もちろんだ』
紗奈は待合室の椅子に座ったまま、右膝を見つめていた。
「私、大学でもバレーを続けたいんです」
凛は隣の椅子に腰を下ろした。
『うん』
「推薦で行きたいって、考えてて……」
『そうか』
「だから、最後の大会は、絶対に頑張ろうって」
紗奈の言葉が途切れる。
凛はその先を待った。
「……もし、間に合わなかったら」
紗奈は顔を上げた。
「推薦って、どうなるんですかね」
凛はすぐには答えられなかった。
競技で大学へ進むという道があることは知っている。
だが、今の紗奈の怪我が選考にどう影響するのか、判断できるだけの情報は持っていなかった。
『……それは、大学ごとの条件も確認しなければ分からない』
「……ですよね」
『ただ、今ここで道がなくなったと決まったわけでもない』
紗奈は返事をせず、膝にかけられたものの端を指で整えた。
『進路のことは、学校でも一緒に調べる。藤沢先生や担任の先生とも相談しよう』
「……はい」
『だから、今は治療を大事にしてほしい』
「……先生」
『うん?』
「私、ちゃんと戻れますか」
凛は紗奈を見た。
いつもの彼女なら、多少の不安があっても、まず仲間に声をかけていただろう。
今は、返事を待っている。
『……紗奈』
凛は膝の上に置いた手を動かした。
『自分は、医者ではない。いつ戻れるか、今のきみに約束することはできない』
紗奈の視線が下がる。
『だが、戻るために必要なことを、一緒に考えることはできる』
「……」
『バレーを続けたいという気持ちも、大学へ進みたいという気持ちも、聞かせてもらった。そこは大事にしたい』
「……はい」
紗奈は短く答えた。
少しして、保護者が声をかけに来た。
紗奈は立ち上がる前に、凛へもう一度頭を下げた。
「先生。部のみんなに、よろしくお願いします」
『ああ』
「……特に、千夏に」
『分かった』
◇
翌日の放課後。
体育館には、いつもどおり部員たちが集まっていた。
ただし、主将の姿はない。
結衣は練習用のボールを準備しながら、入口の方を何度か見ていた。
千夏も同じだった。
「……昨日のこと、みんな聞いてると思うけど」
藤沢が部員たちへ話し始める。
「朝倉さんは、しばらく運動を休むことになりました。まだ検査も必要です。いつ復帰できるかは、これから判断することになります」
部員たちの間に沈黙が落ちた。
「練習は続けます。ただ、無理をしてはいけませんし、何か困ったことがあれば私たちに相談してください」
藤沢は千夏へ向き直った。
「宮野さん。朝倉さんが練習に参加できない間、主将の役割をお願いできますか」
「……はい」
千夏は背筋を伸ばした。
「私でよければ、やります」
『千夏』
凛が声をかける。
『一人で全部引き受ける必要はないぞ』
「はい。分かってます」
千夏は答えた。
しかし、その視線は紗奈がいつも立っていた場所へ向いていた。
昨日、病院へ向かう前に紗奈から言われたことがある。
練習の順番。
声をかけるタイミング。
チームが迷ったとき、最初に何を確認するか。
千夏はそれを何度も頭の中で繰り返していた。
「じゃあ……まず、アップから始めよう」
部員たちが動き始める。
千夏はいつもの位置へ向かおうとして、足を止めた。
今日は、自分が全体を見なければならない。
「……あ、待って。先に二列になって」
部員たちが並び直す。
「それから、えっと……」
紗奈なら、ここでどう言うだろう。
千夏は周囲を見渡した。
「……いつもどおり、声出していこう!」
「はい!」
返事が上がる。
練習が始まった。
結衣は記録用紙を手に、千夏の方を見る。
千夏はコートの中央で、部員たちの動きを追っていた。
「千夏、次どうする?」
「えっ? あ、次はレシーブ!」
「二人組?」
「……うん、二人組!」
千夏は急いで答えた。
体育館にボールの音が戻ってくる。
その一球目を見送りながら、千夏は唇を噛んだ。
紗奈だったら、きっともっと上手くできる。
そう考えたところで、次のボールが上がった。
「千夏!」
「あっ、はい!」
返事をしてから、千夏は慌てて言い直した。
「じゃなくて! 私が取る!」
ボールは千夏の腕に当たり、ネットの手前へ転がっていった。
いつもなら真っ先に飛んでくる紗奈の声は、どこからも聞こえなかった。




