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第三十話「あと一人」

 二〇二六年(令和八年)五月七日、木曜日。


 東京都立桜丘高校。


 大型連休が明け、校舎にはいつもの日常が戻っていた。


 三年四組の教室では、生徒たちがそれぞれの席で過ごしている。


 友人同士で小さく話す者。


 スマートフォンを眺める者。


 机に伏せている者。


 教室には、いくつもの控えめな話し声が重なっていた。


 その窓際で、橘莉子は頬杖をついていた。


「……それで、結局どこも混んでたんだよね」


「……連休だし、仕方ないんじゃない?」


「……まあね」


 友人たちの会話を聞きながら、莉子は何気なく教室の反対側へ目を向けた。


 水瀬結衣が、一人で教科書を読んでいた。


 いつもと変わらない光景。


 誰かに話しかけるでもなく、誰かが話しかけてくるでもなく。


 ただ、静かに座っている。


「……莉子?」


「……え?」


「……聞いてた?」


「……あ、ごめん。何?」


「……今度の休みに、みんなで出かけないって話」


「……ああ、うん」


 莉子は、曖昧に頷いた。


 友人が再び話し始める。


 莉子は、もう一度だけ結衣の方を見た。


 先週の土曜日。


 空手の試合を見に行った。


 先生に誘われて、何となく。


 正直、最初は面倒だと思っていた。


 それなのに。


 試合は、想像していたよりずっと面白かった。


 速くて、力強くて。


 何より、勝った選手も負けた選手も、最後にはきちんと頭を下げていた。


 負けた選手が悔しそうにしていたのを、今でも覚えている。


 その相手に、勝った選手が礼を返していたことも。


 莉子は、小さく息を吐いた。


 あんなものを見せられたら。


 今までと同じように考えるのが、少し難しくなる。


 教室の扉が開いた。


『……おはよう』


 山本凛が教室へ入ってきた。


「……おはようございます」


 何人かの生徒が顔を上げ、挨拶を返す。


 凛は教卓へ向かい、出席簿を置いた。


『……連休明けで疲れている者もいるだろうが、今日からまた頑張ろう』


 生徒たちは、それぞれ小さく頷いたり、教科書を取り出したりしている。


 凛は、その様子を見渡してから出席確認を始めた。


 莉子は、教卓に立つ凛を見つめた。


 先週の土曜日。


 試合を見ている先生は、随分楽しそうだった。


 普段は真面目で、時々妙なことを言う。


 こちらが反論しても、簡単には引き下がらない。


 正直、面倒な先生だと思っていた。


 今も、その印象がなくなったわけではない。


 けれど。


(……ほんと、変な先生……)


 そう思いながら、莉子は少しだけ口元を緩めた。


     ◇


 午前十一時十分。


 体育館。


 三年四組の女子生徒たちは、体育の授業でバスケットボールに取り組んでいた。


 凛は、コートの中央でボールを手にしていた。


『……今日は、グループごとにパスとシュートの練習をする』


 生徒たちは、凛の方へ顔を向けている。


『……四人か五人でグループを作ってくれ。人数が決まったら、こちらへ知らせるように』


「……はい」


 凛の指示を受け、生徒たちが動き始めた。


 近くにいる友人同士で声をかけ合い、少しずつグループができていく。


「……莉子、一緒になろ」


「……うん」


 莉子は、いつもの友人たちのところへ向かった。


 一人。


 二人。


 三人。


 気づけば、四人になっていた。


「……これで四人だね」


「……五人でもいいんだよね?」


「……誰か来たら入れればいいんじゃない?」


「……そうだね」


 そんな会話を交わしながら、ボールを一つ受け取る。


 周囲では、ほかのグループも次々に出来上がっていた。


 凛は、人数を確認しながら体育館を回っている。


『……そちらは五人だな。よし』


 莉子は、何気なく辺りを見渡した。


 そのとき。


 少し離れた場所に、一人で立っている生徒が目に入った。


 水瀬結衣だった。


「…………」


 結衣は、周囲を見回していた。


 声をかけようとしているのか、何度か口を開きかける。


 けれど、近くの生徒たちはもう別のグループに入っていた。


「……あ、うち五人なんだ。ごめんね」


「……あ、うん。大丈夫」


 結衣は、小さく笑った。


 そして、もう一度辺りを見回す。


 莉子は、その姿を見つめていた。


 見慣れた光景だった。


 水瀬が、一人で残っている。


 今までだって、何度もあった。


 そのたびに、自分は何もしなかった。


 別に、意地悪をしたつもりはなかった。


 そう思っていた。


 けれど。


 先週の土曜日。


 負けた選手を、仲間たちが迎えていた。


 勝った相手も、最後まで礼を返していた。


 あの光景が、不意に頭へ浮かんだ。


「……莉子?」


 隣の友人が、声をかけてきた。


「……どうしたの?」


「…………」


 莉子は、結衣から目を離した。


「……何でもない」


 そう答えてから、もう一度だけ振り返った。


 結衣は、まだ一人だった。


 凛が、その姿に気づく。


『……結衣、まだ決まっていないのか?』


「……はい」


『……そうか。では、四人のグループを――』


 そのときだった。


「……先生」


 声を上げたのは、莉子だった。


 凛が振り返る。


『……どうした、莉子』


 莉子は、少しだけ唇を結んだ。


 友人たちの視線が、自分に集まる。


 一瞬、言葉が詰まった。


 それでも。


「……ここ、四人なんで。あと一人入れますけど」


 体育館の喧騒の中で、その声は決して大きくなかった。


 けれど、凛には届いた。


『……そうか。ありがとう』


 友人の一人が、驚いたように莉子を見る。


「……え、莉子?」


「……何?」


「……いや、別に……」


 莉子は、何でもないことのように答えた。


「……五人までいいんでしょ」


「……まあ、そうだけど」


 凛は、結衣へ向き直った。


『……結衣。莉子たちのところが四人だそうだ。入ってもらえるか?』


 結衣が、顔を上げた。


「…………え?」


 視線の先に、莉子がいた。


 目が合う。


 莉子は、すぐに視線を逸らした。


 結衣は、少しだけ戸惑ったあと、凛へ向き直る。


「……はい」


 小さく答えた。


 そして、莉子たちのところへ歩いていく。


 友人たちが、微妙な表情を浮かべていた。


 結衣は、その手前で足を止める。


「……よろしくお願いします」


 莉子は、何も言わなかった。


 ただ。


 結衣が立てるように、少しだけ横へずれた。


 それだけだった。


 凛は、二人を見ていた。


 莉子が自分から声を上げたこと。


 そして、結衣がそのグループへ入ったこと。


 それ以上は、何も言わなかった。


『……よし。では、練習を始めよう』


     ◇


『……まずは、五人でパスを回してみてくれ。相手が受け取りやすい位置を意識するように』


 凛の声が響く。


 生徒たちは、それぞれ練習を始めた。


 莉子たちのグループも、輪になってボールを回す。


「……はい」


 友人がパスを出す。


 次の生徒が受け取り、さらに横へ。


 莉子のところへボールが来た。


「……よっと」


 受け取る。


 そして、次の相手を見る。


 結衣だった。


「…………」


 ほんの一瞬、手が止まった。


 結衣も、少し身構える。


 莉子は、短く息を吐いた。


「……水瀬」


「……え?」


「……行くよ」


「……あ、うん」


 莉子は、普通にパスを出した。


 結衣が、両手で受け取る。


 少しだけ体勢が崩れたが、何とか持ち直した。


「……っ、よし」


 結衣は、次の生徒へパスを出した。


 輪が続く。


 また、ボールが回ってくる。


 莉子は、さっきと同じように結衣へボールを投げた。


 今度は、きれいに受け取った。


 それだけのことだった。


 けれど、結衣は少しだけ驚いていた。


 同じグループに入っただけでも、不思議だった。


 莉子が、普通に自分へパスを出している。


 必要だから。


 同じチームだから。


 それだけなのかもしれない。


 それでも。


 こうして莉子と何かをするのは、随分久しぶりだった。


『……次は、少し動きながらやってみよう。無理に速くする必要はないぞ』


 凛の声が響く。


 グループが動き始めた。


 結衣は、少し遅れて走り出す。


 前方にいた友人から、ボールが飛んできた。


「……あっ!」


 受け取り損ねた。


 ボールが床に落ち、跳ねる。


「……あ、惜しい」


 友人の一人が声を上げる。


 結衣は、慌ててボールを追いかけた。


「……ごめんなさい」


「……大丈夫だよ」


 結衣がボールを拾う。


 その横を、莉子が通った。


「……もうちょい前で待ってた方が取りやすいかも」


「…………」


 結衣は、莉子を見た。


「……うん」


 莉子は、それ以上何も言わなかった。


 結衣も、続きを話せなかった。


 それでも次の練習では、言われたとおり少し前へ動いた。


 今度は、ボールを受け取れた。


「……よし」


 小さく声が出る。


 莉子は、その様子を横目で見た。


 けれど、何も言わなかった。


     ◇


 授業の後半は、シュート練習になった。


 グループごとにゴールを使い、順番にシュートを打っていく。


 結衣の番が回ってきた。


 ボールを持ち、ゴールを見上げる。


 少しだけ膝を曲げた。


 投げる。


 ボールはリングに当たり、外れた。


「……あ……」


 結衣は、小さく肩を落とした。


「……惜しいね」


 友人が声をかける。


 次の順番へ移る。


 莉子は、結衣の後ろでボールを受け取った。


 リングを見る。


 軽く膝を曲げ、シュート。


 ボールは、きれいにリングを通った。


「……ナイス、莉子」


「……ありがと」


 莉子は、短く答えた。


 列の後ろへ戻る。


 結衣は、もう一度シュートの動きを確認していた。


 肘の位置。


 膝の曲げ方。


 ボールの持ち方。


 何度か、小さく動きを繰り返している。


 莉子は、その姿を見つめた。


 昔から、そうだった。


 水瀬は、何かができないと、こっそり何度も練習する。


 人前で大騒ぎすることはない。


 けれど、意外と諦めない。


 そんなことを、ふと思い出した。


「……次、水瀬だよ」


 友人の声。


「あ、うん」


 結衣が前へ出る。


 ボールを持つ。


 さっきより少し深く膝を曲げた。


 シュート。


 ボールがリングに当たる。


 くるりと回り。


 そのまま、ネットを揺らした。


「……入った」


 結衣が、小さく声を上げた。


「……ナイス」


 周囲から声が上がる。


 莉子も、無意識に頷いていた。


(……やるじゃん……)


 けれど、その言葉を口にはしなかった。


 結衣も、莉子の方を見ることはなかった。


 練習は、そのまま続いた。


 凛は、コートの端からそれぞれのグループを見ていた。


 莉子が、結衣へ普通にパスを出している。


 結衣も、それを受け取っている。


 それだけのことだった。


 けれど、凛は少しだけ目を細めた。


『……いいぞ。その調子だ』


 凛の声に、生徒たちは小さく頷いて練習を続けた。


     ◇


 授業終了のチャイムが鳴った。


『……よし。今日はここまでにしよう』


 凛が、手を叩く。


『……ボールは籠に戻してくれ。使ったビブスも忘れないようにな』


「……はい」


 生徒たちが、片づけを始める。


 凛も、コートの端に転がっていたボールを拾った。


 莉子の友人たちは、先に籠の方へ向かっていた。


「……莉子、先戻ってるね」


「……うん」


 莉子は、少し遅れて歩いていた。


 結衣は、最後に残ったボールを抱えている。


 体育館の端へ向かう、その背中。


 莉子は、立ち止まった。


「…………」


 声をかける。


 それだけのことが、妙に難しかった。


 今まで、何度も話す機会はあった。


 同じ教室にいる。


 同じ授業を受けている。


 廊下ですれ違うことだってある。


 それでも、何も言わなかった。


 言えなかった。


 いつの間にか、話しかける理由がなくなっていた。


 話しかけ方も、分からなくなっていた。


 そして。


 あの日。


 自分から、ひどい言葉をぶつけた。


 水瀬は、何も言い返さなかった。


 ただ、驚いた顔をしていた。


 莉子は、唇を結んだ。


 先週、空手の試合で見た光景が浮かぶ。


 負けた選手が、悔しそうに頭を下げていた。


 勝った選手も、同じように礼を返していた。


 先生は言っていた。


 相手がいるから、試合ができる。


 相手の努力を、勝ったからといって否定していいわけじゃない。


 そして。


 言葉も、相手を知るために使えるものだと。


 莉子は、目の前の結衣を見た。


 何を言えばいいのか。


 まだ、よく分からない。


 でも。


 言わなければいけないことが、一つだけあった。


「……水瀬」


 声が出た。


 結衣が、振り返った。


「……え?」


 莉子は、その場に立っていた。


 結衣は、少し戸惑ったように目を瞬いた。


「……橘さん?」


「…………」


 莉子は、言葉を探した。


 いくらでも、言い訳は思いつく。


 あのときは腹が立っていた。


 先生にいきなり疑われた。


 水瀬が告げ口したと思った。


 周りが先に悪口を言っていた。


 自分だけが悪いわけじゃない。


 どれも、言おうと思えば言えた。


 けれど。


 どれを言ったところで、あの日の言葉が消えるわけじゃない。


「……あのさ」


「……うん」


 結衣は、ボールを抱えたまま待っていた。


 莉子は、視線を落とした。


「……この前のこと」


「…………」


「……教室で、言ったこと」


 結衣の表情が、少しだけ変わった。


 莉子は、続けようとして口を閉じた。


 胸の奥が、妙に苦しい。


 こんなことなら、何も言わずに帰ればよかった。


 一瞬、そう思った。


 けれど。


 結衣は、まだそこにいた。


 何も言わずに、待っていた。


 莉子は、ゆっくり顔を上げた。


 そして。


「……ごめん」


 その声は、小さかった。


 体育館には、片づけをする生徒たちの声が響いている。


 ボールが籠に入る音。


 誰かの笑い声。


 外から聞こえる、運動部の掛け声。


 その中で、結衣は莉子を見つめていた。


「…………」


 すぐには、返事ができなかった。


 莉子から謝られるなんて、思っていなかった。


 ずっと、避けられていた。


 同じ教室にいるのに、目も合わせてもらえなかった。


 何かをした覚えはなかった。


 それでも、いつの間にか距離ができていた。


 そして、あの日。


 莉子から直接、ひどい言葉を言われた。


 怖かった。


 悲しかった。


 何より。


 どうして、そんなことを言われなければならないのか分からなかった。


 結衣は、腕の中のボールを見つめた。


 莉子も、何も言わずに立っている。


 長い沈黙。


 けれど、莉子はもう逃げなかった。


 結衣は、ゆっくり息を吸った。


 そして。


「……うん」


 小さく答えた。


 莉子が、顔を上げる。


 結衣は、まだ少し困ったような表情をしていた。


 笑ってはいなかった。


 でも、目を逸らさなかった。


「……聞いたよ」


「…………」


 莉子は、唇を結んだ。


「……うん」


 それだけ答えた。


 すべてが元に戻ったわけではない。


 昔のように笑い合えるわけでもない。


 まだ、何を話せばいいのか分からない。


 けれど。


 初めて、ちゃんと向き合って話せた。


 結衣は、ボールを抱え直した。


「……これ、片づけてくるね」


「……うん」


 莉子は、小さく頷いた。


 結衣が、籠の方へ歩いていく。


 莉子は、その背中を見送った。


 そして、ゆっくり息を吐いた。


 胸の奥に残っていた重たいものが、少しだけ軽くなった気がした。


 ただ、それが何なのかは、まだうまく言葉にできなかった。


     ◇


 同日、午後四時三十分。


 三年四組の教室。


 凛は、翌日の授業で使う書類を整理していた。


 窓の外には、五月の青空が広がっている。


 校庭では、部活動の生徒たちが走っていた。


 遠くから、掛け声が聞こえる。


『……よし』


 最後の書類を揃え、机へ置いた。


 今日も、いろいろなことがあった。


 連休明けの授業。


 提出物の確認。


 生徒からの質問。


 体育の授業では、莉子が自分から声を上げた。


『……ここ、四人なんで。あと一人入れますけど』


 あのときの声が、ふと思い出される。


 凛は、少しだけ口元を緩めた。


 莉子が何を考えていたのかは、分からない。


 結衣との間に、何があったのかも知らない。


 ただ、莉子自身が声を上げた。


 凛が指示する前に。


 自分から。


 それが、嬉しかった。


 凛は、窓の外へ目を向けた。


 校門へ向かう生徒たちが見える。


 その中に、見覚えのある二人の姿があった。


『…………』


 結衣と莉子だった。


 二人は、少し距離を空けて歩いている。


 並んでいるわけではない。


 楽しそうに話しているわけでもない。


 ただ、同じ方向へ向かっていた。


 凛は、その姿を静かに見つめた。


 結衣が、少し先を歩いている。


 莉子が、その後ろを歩いていた。


 やがて、莉子が何気なく顔を上げる。


 結衣も、少し振り返った。


 目が合ったようだった。


 何か言葉を交わしたわけではない。


 二人は、再び前を向いて歩き始めた。


 凛は、小さく微笑んだ。


 何があったのかは分からない。


 けれど。


 あの二人が、同じ場所にいる。


 それだけの光景を、今日は少し嬉しく感じた。


 凛は、机の上へ目を戻した。


 まだ、採点を待つ答案用紙が残っている。


 授業準備も終わっていない。


 女子バレー部の練習にも、顔を出したい。


 やるべきことは、山ほどあった。


『……さて』


 凛は、袖をまくった。


『……頑張るか』


 机へ向かう。


 ペンを取り、最初の答案用紙を開いた。


 窓の外では、五月の風が木々を揺らしている。


 校門へ向かう二人の少女は、まだ少し離れて歩いていた。


 その距離が、いつか縮まるのかどうか。


 今は、誰にも分からない。


 それでも。


 言葉にできなかった思いが、一つだけ、相手へ届いた。


 そんな一日が、静かに過ぎていった。

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