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第二十七話「ウザいんだよ!」

 二〇二六年(令和八年)四月二十八日、火曜日。


 午前七時四十五分。


 東京都立桜丘高校。


 橘莉子は、いつもより少し早く教室へ向かっていた。


 昨夜は、あまり眠れなかった。


 布団に入ってからも、何度も同じことを考えていた。


『……お前の態度が、周りにも影響しているんじゃないのか』


 昨日、山本先生に言われた言葉。


 思い出すたびに、胸の奥がむずむずした。


(……何で、私なの?)


 水瀬と話さなくなったのは事実だ。


 でも、別に喧嘩をしたわけじゃない。


 嫌いになったわけでもない。


 ただ、いつの間にか話さなくなっていただけ。


 それなのに。


(……何で私が、あんなふうに言われなきゃいけないの……)


 莉子は、階段を上りながら小さく息を吐いた。


 昨日の帰り道。


 何度も考えた。


 自分が何か悪いことをしたのか。


 水瀬に直接ひどいことを言った覚えはない。


 嫌がらせをしたこともない。


 ただ、周りが水瀬について何か言っていたときに、話を合わせたことはあった。


 けれど、それだって。


(……みんなが言ってたから……)


 そこまで考えて、足が止まった。


 自分でも、その言い訳があまり好きではなかった。


「…………」


 莉子は、首を横に振った。


(……もう、いいや)


 考えたところで、答えなんて出ない。


 まずは、水瀬に聞けばいい。


 昨日、先生に何を話したのか。


 それさえ分かれば、きっと納得できる。


 莉子は、教室の扉を開けた。


     ◇


 午前八時十分。


 三年四組。


「……あっ、莉子! おはよー!」


「……おはよ!」


 いつもの友人たちが、莉子へ声をかけた。


 莉子も、いつものように笑って返す。


「……今日、早くない?」


「……たまたま!」


「……珍しー!」


「……何それ、私だって早く来ることあるし!」


 友人たちが笑った。


 莉子も笑う。


 けれど、昨日のことは頭から離れなかった。


「……そういえばさ」


 隣の女子生徒が、思い出したように言った。


「……昨日、山本先生に呼ばれてたじゃん?」


「…………」


 莉子の笑顔が、わずかに止まった。


「……ああ、うん」


「……何だったの?」


「……別に、大したことじゃないよ」


「……えー、気になる!」


「……だから、何でもないって!」


 莉子は、軽く笑ってごまかした。


 すると、別の女子生徒が口を挟んだ。


「……もしかして、水瀬のこと?」


「…………え?」


 莉子が顔を上げた。


「……何で?」


「……いや、何となく」


 女子生徒は、肩をすくめた。


「……最近あの子、一人じゃん。先生も気にしてるっぽいし」


「……あー、確かに」


「……体育のときも何か言ってたよね」


 周囲が、何気なく頷く。


 莉子は、黙っていた。


 昨日の凛の言葉が、頭をよぎる。


『……結衣が、つらい思いをしているからだ』


 あのとき、先生は明らかに水瀬のことを気にしていた。


 誰かが相談したと言っていた。


 けれど、それが誰なのかは教えてくれなかった。


(……やっぱり……)


 莉子は、教室の入口へ視線を向けた。


 そのときだった。


「……おはよう」


 水瀬結衣が、教室へ入ってきた。


 結衣は、静かに自分の席へ向かう。


 いつもどおりだった。


 誰かと大きな声で話すこともない。


 自分から輪の中へ入ることもない。


 莉子は、その姿を見つめていた。


(……昨日、何か言ったのかな……)


 考えれば考えるほど、そう思えてきた。


 何かを確かめたい。


 そう思った瞬間。


「……ねえ、水瀬」


 自分でも驚くほど、自然に声が出ていた。


 結衣が、足を止めた。


「……え?」


 振り返る。


「……何? 橘さん」


 その声を聞いた途端、莉子の胸の奥が、またざわついた。


 昔は、こんなふうに呼ばれていなかった。


 自分だって、そうだった。


 いつから変わったのか。


 はっきりとは、覚えていない。


 けれど、今はそれを考えたくなかった。


「……ちょっと聞きたいことあるんだけど」


「……うん」


「……昨日、先生に何か言った?」


 結衣が、目を瞬いた。


「……先生?」


「……山本先生」


「……え?」


「……私のこと、何か言った?」


 結衣は、戸惑ったように眉を寄せた。


「……何の話?」


「……昨日、私、先生に呼び出されたんだけど」


「…………」


「……水瀬のことで、色々言われたんだよね」


 結衣の表情が変わった。


「……私のことで……?」


「……そう」


 莉子は、腕を組んだ。


「……何か言ったんじゃないの?」


「……言ってないよ」


 結衣は、すぐに首を横に振った。


「……私、何も……」


「……じゃあ、何で私が怒られなきゃいけないの?」


「……分からない……」


「……分からないって……」


 莉子の声が、少し強くなった。


 近くにいた生徒たちが、会話を止める。


 結衣は、その視線に気づいた。


「……橘さん、ちょっと……」


「……何?」


「……みんな、見てるから……」


 莉子は、周囲を見た。


 確かに、何人かがこちらを向いている。


 けれど。


 今さら引き返せなかった。


「……別に、変なこと聞いてないじゃん」


「……うん、でも……」


「……私、水瀬に何かした?」


「…………え?」


「……何か嫌がらせした? 悪口言った?」


 結衣は、言葉に詰まった。


 莉子は、畳みかける。


「……してないよね?」


「…………」


「……だったら、何で私が悪いみたいになってるの?」


 結衣は、困ったように首を横に振った。


「……私、本当に先生には何も言ってないよ……」


 その言葉は、嘘ではなかった。


 結衣は、山本先生から声をかけられたことはあった。


 けれど、莉子の名前を出して責めたことなど、一度もない。


 むしろ、何を話せばいいのか分からなかった。


 だから、いつも同じように答えていた。


 大丈夫です、と。


 しかし、莉子にはその事情が分からない。


「……もう、何なの……」


 莉子は、小さく呟いた。


 そして、顔を上げた。


「……勝手に被害者ぶってんじゃないよ」


 教室の空気が、止まった。


「…………え?」


 結衣が、小さく声を漏らした。


 莉子は、その表情を見た。


 驚いている。


 傷ついている。


 それは、分かった。


 けれど、言葉を引っ込めることはできなかった。


「……私、何もしてないじゃん……!」


「……橘さん……」


「……なのに、何で私ばっかり……!」


     ◇


『……莉子!』


 教室の入口から、鋭い声が響いた。


 山本凛だった。


 凛は、朝のホームルームに向かう途中だった。


 廊下を歩いていると、教室の中から普段とは違う声が聞こえた。


 扉の前で足を止めた瞬間、莉子の言葉が耳に入った。


『……勝手に被害者ぶってんじゃないよ』


 凛は、教室へ入った。


『……何をしている!』


 莉子が、振り返る。


「……先生……」


 凛は、二人の間へ歩み寄った。


 結衣は、俯いている。


 莉子は、まだ険しい表情をしていた。


『……莉子、やめなさい』


「…………」


『……結衣に、何を言っているんだ』


 その瞬間。


 莉子の中で、昨日の光景が蘇った。


 小会議室。


 自分を見つめる凛。


 何を言っても、最初から悪いと決められているような気がした。


 そして今。


 また、同じだった。


「……先生まで……」


『……莉子?』


「……何で、私ばっかり責めるんですか……!」


『……責めているんじゃない。今の言い方は――』


「……だって!」


 莉子が、声を上げた。


「……私、何もしてないのに!」


 凛は、言葉を止めた。


 莉子の目には、怒りだけではないものが浮かんでいた。


 納得できない。


 分かってほしい。


 そんな感情が、混ざっているように見えた。


 けれど。


 凛は、まず二人を離さなければならなかった。


『……分かった。話は聞く。だから、今は――』


「……もう、いい!」


 莉子が、凛の言葉を遮った。


 そして、結衣へ顔を向けた。


 結衣は、何も言わずに立っていた。


 その姿が、莉子にはたまらなく腹立たしく映ってしまった。


 何も言わない。


 何も説明してくれない。


 ただ、傷ついたような顔をしている。


 その顔を見ていると、自分だけがひどい人間になったような気がする。


 莉子は、唇を噛んだ。


「……ほんと……」


 結衣が、顔を上げる。


「……橘さん……?」


 その声に。


 莉子は、とうとう感情を抑えきれなくなった。


「……ウザいんだよ!」


 声が、教室に響いた。


 誰も、何も言わなかった。


 さっきまで騒がしかった教室が、嘘のように静まり返る。


 結衣は、莉子を見つめたまま動かなかった。


「…………」


 言葉が出なかった。


 目の前にいるのは、確かに橘莉子だった。


 昔から知っている。


 何度も一緒に遊んだ。


 笑い合ったことも、数え切れないほどある。


 けれど。


 こんな言葉を、自分に向けられたことはなかった。


 莉子自身も、動けずにいた。


 口にした瞬間、何かが変わってしまったのが分かった。


 今まで、直接は言わなかった。


 避けることはあっても。


 話さないことはあっても。


 こんなふうに、水瀬を傷つける言葉をぶつけたことはなかった。


 なのに。


(……私……)


 莉子は、息を呑んだ。


 結衣の顔が、少しずつ俯いていく。


 凛が、静かに二人の間へ入った。


『……莉子。もう、やめよう』


 先ほどまでの鋭い声ではなかった。


『……これ以上は、ここで話すことじゃない』


「…………」


 莉子は、何も答えなかった。


 凛は、結衣へ向き直った。


『……結衣』


「…………はい」


『……少し、先生と来てくれるか』


 結衣は、小さく頷いた。


 凛は、教室を見渡した。


『……みんなは、席について待っていてくれ』


 そして、近くにいた生徒へ声をかけた。


『……職員室へ行って、早川先生か白石先生を呼んできてほしい』


「……は、はい!」


 生徒が、慌てて教室を出ていく。


 凛は、もう一度莉子を見た。


『……莉子にも、あとで話を聞く』


「…………」


『……今は、少し落ち着いてくれ』


 莉子は、返事をしなかった。


 ただ、俯いたまま立っていた。


     ◇


 午前九時五分。


 桜丘高校、面談室。


 凛は、結衣と向かい合って座っていた。


 教室は、駆けつけた白石が対応している。


 早川も状況を把握し、必要な確認を進めることになった。


 結衣は、膝の上で両手を重ねていた。


 凛は、しばらく何も言わなかった。


 何を聞くべきか。


 何を言うべきか。


 昨日のことを思い出すと、簡単には言葉が出てこなかった。


『……結衣』


「……はい」


『……怖い思いをさせたな』


「…………」


『……すまなかった』


 結衣は、首を横に振ろうとした。


 けれど、その動きが途中で止まった。


「……先生は……」


『……ああ』


「……先生は、悪くないです……」


 凛は、静かに答えた。


『……それでも、もっと早く止めるべきだった』


「…………」


『……今は、無理に話さなくていい。少し休んでいてもいいんだぞ』


 結衣は、俯いたまま頷いた。


 しばらく、沈黙が続いた。


 廊下を歩く生徒の足音。


 遠くから聞こえる授業の声。


 いつもなら、何でもない学校の音。


 けれど、今はどれも遠く感じられた。


 やがて。


「……先生」


『……ん?』


「……私……」


 結衣は、言葉を探していた。


「……あんなふうに、言われると思わなかったです……」


 凛は、何も言わなかった。


 結衣は、膝の上の手を握り直した。


「……最近、あんまり話してなかったから……」


「……もしかしたら、嫌われてるのかなって……思ったことはあったんです」


『…………』


「……でも、あそこまで……」


 声が、小さくなった。


 凛は、結衣の言葉を待った。


 しばらくして、結衣が顔を上げた。


「……先生、橘さんとは……」


『……ああ』


「……幼稚園から、一緒だったんです」


 凛が、目を瞬いた。


『……そうだったのか』


「……はい」


 結衣は、小さく頷いた。


「……小学校も、中学校も同じで……」


「……小さい頃は、いつも一緒に遊んでました」


 その声は、少しだけ柔らかかった。


「……休みの日も、どっちかの家に行ったりして……」


「……学校でも、帰り道でも、ずっと一緒で……」


 結衣は、少し笑った。


「……周りから、また二人でいるって言われるくらいだったんです」


 凛は、静かに聞いていた。


 あの莉子と結衣が、いつも一緒だった。


 今の教室だけを見ていたら、想像できなかったことだった。


「……でも、中学三年生のときに……」


 結衣の笑みが、少しだけ薄くなった。


「……クラスが、分かれたんです」


『……そうか』


「……それぞれ、別の友達ができて……」


「……最初は、休み時間とかに話してたんですけど……」


 結衣は、少し考えた。


「……だんだん、会うことも減って……」


「……気づいたら、前みたいに話さなくなってました」


『…………』


「……喧嘩したわけじゃ、ないんです」


 結衣は、はっきりと言った。


「……何か、嫌なことをされたわけでもなくて……」


「……ただ、自然に……」


 凛は、静かに頷いた。


『……そういうことも、あるんだな』


「……はい」


 結衣は、少しだけ笑った。


「……高校でも同じ学校になって……」


「……三年生になって、同じクラスになったときは……」


 そこで、言葉を止めた。


『……嬉しかったか?』


 凛が、そっと尋ねる。


 結衣は、少し考えた。


「……うーん……」


 そして、小さく笑った。


「……嬉しかった、とは思います」


『……そうか』


「……でも、何を話したらいいか分からなくて……」


「……昔みたいに話しかけていいのかなって……」


 結衣は、膝の上へ目を落とした。


「……多分、橘さんも、同じだったのかもしれません」


 凛は、顔を上げた。


『……結衣』


「……はい」


『……莉子と、また仲良くなりたいのか?』


 結衣は、すぐには答えなかった。


 しばらく考えてから、ゆっくりと首を横に振った。


「……別に、昔みたいに仲良くなりたいわけじゃないんです」


『…………』


「……もう、お互いに違う友達もいるし……」


「……ずっと一緒にいるのが、当たり前だった頃とは違うので……」


 結衣は、少しだけ息を吸った。


「……だから、仲直りしたいっていうのも、ちょっと違う気がして……」


『……喧嘩したわけじゃないからな』


「……はい」


 結衣は、頷いた。


 そして。


「……でも……」


 凛を見た。


「……普通に、話せるようにはなりたいです」


『…………』


「……廊下ですれ違ったら、挨拶して……」


「……何か聞きたいことがあったら、普通に聞けて……」


「……それくらいで、いいんです」


 結衣は、少しだけ笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


「……それも、もう無理なのかなって……」


 凛は、ゆっくりと息を吐いた。


 昨日。


 莉子を問い詰めた。


 結衣を避けているだろう、と。


 その態度が周りに影響しているのではないか、と。


 それが間違った指摘だったとは、まだ思わない。


 実際、莉子の態度は周囲に影響を与えていた。


 けれど。


 自分は、二人のことを何も知らなかった。


 莉子が、なぜ距離を置いているのか。


 結衣が、何を望んでいるのか。


 何一つ聞かないまま、答えを出そうとしていた。


(……私は……)


 凛は、拳を握った。


(……二人を、ちゃんと見ていたつもりだった……)


 けれど、見えていなかった。


 教室で起きていることは、分かっていたつもりだった。


 でも。


 そこに至るまでの時間も。


 二人の間にあった関係も。


 知らなかった。


 凛は、顔を上げた。


『……結衣』


「……はい」


『……話してくれて、ありがとう』


 結衣は、小さく頷いた。


『……お前がどうしたいのか、よく分かった』


「…………」


『……昔に戻らなくてもいいんだな』


 結衣が、少しだけ顔を上げた。


『……今の結衣が、普通に話せるようになりたい。それが願いなんだろう』


「…………はい」


 結衣の目が、少し潤んだ。


 凛は、静かに続けた。


『……無理に仲良くさせるつもりはない』


『……莉子にも、ほかの生徒にも、話を聞いていく』


『……それから、教室で起きていることは、先生たちできちんと対応する』


「…………」


『……結衣が一人で我慢する必要はない』


 結衣は、俯いた。


 そして、しばらくしてから小さく答えた。


「……ありがとうございます……」


     ◇


 午前十一時二十分。


 校内の別室。


 莉子は、椅子に座っていた。


 早川との話が一段落し、一人になる時間をもらっていた。


 机の上には、飲みかけの水。


 莉子は、それを見つめていた。


(……何やってんだろ、私……)


 朝の教室。


 水瀬の顔。


 そして、自分が言った言葉。


「……ウザいんだよ!」


 何度思い出しても、胸の奥が嫌な感じになった。


 言ってしまった。


 初めて。


 水瀬本人に、あんな言葉をぶつけてしまった。


(……何で、あんなこと……)


 莉子は、額に手を当てた。


 怒っていた。


 先生に責められたことが、納得できなかった。


 水瀬が何か言ったんじゃないかと、疑っていた。


 でも。


 それは、あんなことを言っていい理由にはならない。


(……分かってる……)


 莉子は、小さく息を吐いた。


 けれど、素直に謝りたいとも思えなかった。


 まだ、先生への怒りが残っている。


 自分だけが悪いことになっているのも、納得できない。


 それでも。


 水瀬の顔が、頭から離れなかった。


 驚いたように、自分を見つめていた。


 あんな顔を、させたかったわけじゃない。


「…………」


 莉子は、俯いた。


 そして、小さく呟いた。


「……最悪……」


 誰に向けた言葉なのか。


 自分でも、よく分からなかった。


     ◇


 午後四時三十分。


 職員室。


 凛は、早川と向かい合っていた。


「……水瀬さんは、午後からは落ち着いて授業を受けられたようです」


『……そうですか』


「……ただ、しばらくは様子を見ましょう。本人の気持ちも確認しながら」


『……はい』


 早川は、メモを閉じた。


「……橘さんについても、引き続き話を聞く必要があります」


『……分かっています』


「……それから、SNSの件ですが……」


 早川の表情が、少し引き締まる。


「……今回のことと切り離さず、学年として対応を進めましょう」


『……はい』


「……実際に書き込んだ生徒たちも含めて、確認が必要です」


 凛は、頷いた。


 悠真が見せてくれた画面。


 あの言葉を書いたのは、誰なのか。


 どこまで広がっているのか。


 結衣が、どんな思いをしているのか。


 まだ、分からないことは多かった。


 けれど、一つだけ。


 昨日より、はっきり分かったことがあった。


『……早川先生』


「……はい?」


『……昨日、私は莉子を問い詰めました』


 早川は、黙って聞いていた。


『……結衣のことを、どう思っているのかと』


『……なぜ避けているのかと』


 凛は、少しだけ視線を落とした。


『……でも、莉子が何を考えているのか、ちゃんと聞いていなかったんです』


「…………」


『……私は、最初から答えを決めていました』


 凛は、拳を握った。


『……結衣を避けている莉子が悪い。だから、やめさせなければならないと』


「……山本先生」


『……はい』


「……橘さんの行動には、考えてもらわなければならない部分があります」


『……はい』


「……今日の発言も、許されるものではありません」


『……分かっています』


 早川は、静かに続けた。


「……でも、それと、橘さんの話を聞くことは別です」


 凛は、顔を上げた。


「……相手の言い分を聞くことは、行動を認めることとは違いますから」


『…………』


「……教師は、どちらもやらなければいけないんだと思います」


 凛は、しばらく黙っていた。


 そして、深く頷いた。


『……はい』


 結衣を守る。


 悠真の勇気に応える。


 莉子にも、向き合う。


 そのどれか一つを選べばいいわけではない。


 自分の生徒なのだ。


 全員が。


 凛は、机の上のメモを見つめた。


 昨日、莉子に言われた言葉が、蘇る。


「……何で、私なんですか?」


 あのとき。


 自分は、何と答えただろう。


 きちんと答えられていただろうか。


『……私は……』


 凛は、小さく呟いた。


『……結衣を守ろうとしていました』


 早川は、黙っていた。


『……でも……』


 凛は、ゆっくりと顔を上げた。


『……莉子も、私の生徒だったんです』


 早川は、静かに頷いた。


「……そうですね」


『……私は、二人のことを何も知らなかった』


『……それなのに、分かったつもりになっていました』


 凛は、息を吐いた。


 教師になって、まだ一か月も経っていない。


 分からないことばかりだった。


 生徒との距離。


 言葉の選び方。


 相手の気持ちの聞き方。


 空手なら、相手と向き合うことは得意だった。


 拳を交えれば、相手の迷いも、覚悟も、少しは伝わってくる。


 けれど。


 教室では、そうはいかない。


 相手は、拳を構えてくれるわけではない。


 何も言わずに、傷ついていることだってある。


 それに気づけなかった。


(……私は、まだまだだ……)


 凛は、拳をほどいた。


 そして、早川へ向き直った。


『……もう一度、莉子と話します』


「……はい」


『……今度は、ちゃんと話を聞きたいです』


 早川は、少しだけ笑った。


「……それがいいと思います」


 凛は、頷いた。


 窓の外では、部活動の声が響いていた。


 体育館から聞こえる、ボールの弾む音。


 グラウンドから響く、掛け声。


 生徒たちは、それぞれの場所で、それぞれの時間を過ごしている。


 凛は、窓の向こうを見つめた。


 結衣が望んでいたこと。


 昔のように仲良くなることではない。


 ただ、普通に話せるようになりたい。


 それだけだった。


 なのに。


 その小さな願いさえ、今の教室では叶えられない。


 凛は、静かに目を閉じた。


(……どうすれば……)


 まだ、答えは分からない。


 けれど。


 少なくとも、昨日と同じやり方では駄目だ。


 相手を問い詰め、正しさを認めさせようとするだけでは。


 誰も、前には進めない。


 凛は、ゆっくりと目を開いた。


(……まずは、話を聞こう)


 莉子の話を。


 そして、結衣の話を。


 自分の考えを押しつけるのではなく。


 二人が、何を思っているのか。


 何を望んでいるのか。


 それを、ちゃんと知ることから始めよう。


 凛は、机の上のメモを閉じた。


 そこに書かれているのは、まだ解決していない問題ばかりだった。


 けれど。


 今度こそ、目を逸らさずに向き合おうと思った。


 教師として。


 そして、一人の人間として。

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