第二十八話「届かない言葉」
二〇二六年(令和八年)四月二十八日、火曜日。
午後五時十分。
東京都立桜丘高校、職員室。
山本凛は、机の上の書類を揃えていた。
今日の三年四組で起きた出来事について、早川奈緒との確認は一段落している。
結衣の様子は、引き続き複数の教員で見守ることになった。
グループチャットの問題についても、学年主任を交えて事実確認を進める。
まだ終わったことは、一つもない。
凛は書類を引き出しへしまい、席を立った。
職員室を出る前に、早川へ声をかける。
『……早川先生。莉子と、もう一度話してきます』
「……橘さんと、ですか」
『……はい。今日は、まだ伝えていないことがあるので』
早川は少し考え、頷いた。
「……分かりました。ただ、あまり長くならないようにしてくださいね。橘さんも、今日は大変な一日だったでしょうから」
『……承知しました』
凛は、職員室を出た。
今度は、問い詰めるためではない。
まず、自分が言うべきことを言う。
そう決めていた。
◇
莉子は、帰り支度をしていた。
友人たちは先に帰り、教室には数人の生徒が残っているだけだった。
『……莉子』
「…………」
声をかけると、莉子は露骨に嫌そうな顔をした。
「……また私ですか?」
『……ああ。少し、時間をもらえないか』
「……もう、今日ずっとその話なんですけど」
『……分かっている。長くは取らない』
莉子は鞄を肩にかけた。
「……何ですか?」
『……ここでは話しにくい。場所を変えよう』
「…………」
莉子は少し迷ったあと、ため息をついた。
「……分かりました」
二人は、空いていた面談室へ向かった。
莉子は椅子に座ると、腕を組んだ。
「……それで?」
凛は、その正面に腰を下ろした。
『……月曜日のことを、謝りたい』
「…………え?」
莉子が顔を上げた。
『……私は、お前の話を十分に聞かなかった』
『……結衣を避けていることだけを見て、お前が悪いと決めつけた』
莉子は、黙っている。
『……あの聞き方は間違っていた。すまなかった』
凛は、頭を下げた。
「…………」
莉子は、しばらく何も言わなかった。
また怒られると思っていた。
今日の教室でのことを、蒸し返されると思っていた。
だから、何を言われても反論できるようにしていた。
それなのに。
「……先生って、謝るんですね」
思わず、そんな言葉が出た。
凛は顔を上げた。
『……間違えたら謝る。それだけだ』
「…………」
莉子は、視線を落とした。
月曜日のことは、まだ納得できていなかった。
けれど、あのときの先生の言い方が間違っていたと、本人が認めた。
それは、少し意外だった。
「……別に、もういいですけど」
莉子は、小さく答えた。
凛は頷いた。
『……ありがとう』
そこで会話を終えていれば、莉子もそれ以上身構えずに帰れたかもしれない。
しかし。
『……ただ、莉子』
凛が続けた。
『……今朝、結衣に言ったことについては――』
莉子の表情が、変わった。
「……また、私が悪者扱いですか?」
『……そういうつもりではない』
「……じゃあ、何なんですか?」
莉子の声に、先ほどまでとは違う硬さが混じる。
『……結衣に向けた言葉を、お前自身がどう考えているのか聞きたい』
「……それって、結局、謝れってことですよね?」
『……莉子、私は――』
「……もう、分かってますから」
莉子は、凛の言葉を遮った。
分かっている。
自分が、ひどいことを言ったのは分かっている。
水瀬が驚いた顔をしたことも。
教室が静まり返ったことも。
昨日から何度も思い出している。
周りが水瀬を悪く言っていたとき、止めなかった。
それどころか、話を合わせたこともある。
あのとき、違うと言えばよかったのかもしれない。
そんなことは、もう何度も考えた。
でも。
他人から指摘されると、急に認めたくなくなる。
先生に言われたから謝ったのだと思われたくない。
自分が全部悪かったと認めさせられるのも、嫌だった。
「……先生は、私が全部悪いって思ってるんですよね」
『……そんなことは言っていない』
「……じゃあ、もういいじゃないですか」
『……莉子』
「……説教なら、聞きたくないです」
莉子は、椅子から立ち上がった。
『……待ってくれ。まだ――』
「……失礼します」
莉子は、凛を見ずに言った。
扉を開け、そのまま廊下へ出ていく。
凛は、追いかけなかった。
閉まった扉を見つめたあと、机の上に置いていた書類を手に取る。
椅子を元の位置へ戻し、面談室の照明を消した。
◇
廊下へ出た莉子は、早足で歩いていた。
「……あれ、莉子!」
階段の近くで、同じクラスの女子生徒に声をかけられた。
「……今帰り?」
「……うん」
「……また山本先生に呼ばれてたの?」
「……そうだけど」
「……また水瀬のこと?」
莉子は、答えかけた。
いつもなら、適当に話を合わせただろう。
大変だった。
面倒くさい。
もう、うんざり。
そんなことを言えば、友人も頷いてくれる。
けれど。
「…………」
莉子は、口を閉じた。
「……莉子?」
「……別に」
「……え?」
「……何でもない」
それ以上、何も言わなかった。
友人が不思議そうな顔をする。
莉子は、少しだけ歩く速度を上げた。
鞄の持ち手を握り直す。
(……何やってんだろ、私……)
その言葉が誰に向けられたものなのかは、自分でも分からなかった。
◇
翌日、四月二十九日、水曜日。
昭和の日。
午前九時二十分。
凛は、自宅の洗濯機の前で立ち止まっていた。
『……また、これか』
液晶画面には、見慣れない表示が並んでいる。
洗濯物を入れ、洗剤を用意した。
あとは動かすだけ。
なのに、どのボタンを押すべきか迷ってしまう。
『……普通に洗えれば、それでいいんだが……』
しばらく表示を眺め、ようやく運転を始めた。
洗濯機が動き出す。
『……よし』
小さく頷いた。
四月も、もう終わろうとしている。
二〇二六年の暮らしには、まだ分からないことが多い。
それでも、最初の頃よりは随分慣れた。
仕事にも。
家の中の機械にも。
スマートフォンにも。
少なくとも、メッセージのやり取りくらいなら、自分でできるようになっていた。
凛は、部屋へ戻ってスマートフォンを手に取った。
画面を開く。
連絡先の中から、一人の名前を探した。
三浦聡美。
少し迷ってから、メッセージを入力する。
『今日、時間はあるか?』
送信。
しばらくして、返信が届いた。
「あるよー! どうしたの?」
凛は、続きを打つ。
『よかったら、昼食でもどうだろう』
今度は、すぐに返ってきた。
「いいよ! 珍しいね! お昼どこにする?」
凛は、画面を見つめた。
『場所は任せてもいいか?』
「もちろん! お店決めたら送るね!」
数分後、地図のついたメッセージが届いた。
凛は、地図を拡大する。
『……ここか』
場所を確認すると、スマートフォンを置いた。
洗濯機の動く音が、廊下から聞こえている。
今日は、学校へ行かなくていい。
授業も、部活動もない。
凛は、少しだけ肩の力を抜いた。
◇
午後零時十五分。
駅から少し歩いたところにあるカフェ。
「……凛、こっちこっち!」
店に入ると、奥の席から聡美が手を振っていた。
凛は、そちらへ向かった。
『……待たせたか?』
「……ううん! 私も今来たところ」
聡美は、楽しそうに笑った。
「……それにしても、珍しいね」
『……何がだ?』
「……凛から誘ってくるなんて」
凛は、椅子に座りながら首を傾げた。
『……そうか?』
「……うん。いつも私から誘ってるじゃん」
『……言われてみれば、そうかもしれないな』
「……でしょ?」
聡美は、メニューを凛の方へ向けた。
「……とりあえず、何食べる?」
『……そうだな』
凛は、メニューを眺めた。
写真つきの料理が並んでいる。
パスタ。
サンドイッチ。
ハンバーグ。
デザートも、随分種類が多い。
『……私は、これにしよう』
「……あ、ハンバーグ!」
『……何だ?』
「……ううん。凛って、そういうの好きなんだなって」
『……嫌いではないな』
「……ふふっ」
聡美は笑いながら、自分も注文を決めた。
料理が運ばれてくるまで、二人は他愛のない話をした。
聡美の勤める高校のこと。
初めての授業で緊張したこと。
提出物を整理していたら、思った以上に時間がかかったこと。
「……もうさ、授業より書類の方が大変なんじゃないかって思うときある!」
『……分かる』
「……えっ、凛も?」
『……ああ。教えること以外にも、やることが多すぎる』
「……それな!」
聡美が、声を弾ませる。
凛も、つられて笑った。
食事が始まり、しばらくして。
聡美が、ふと箸を止めた。
「……ねえ、凛」
『……ん?』
「……何かあった?」
凛が、顔を上げた。
『……何故だ?』
「……だって、今日ちょっと静かじゃない?」
『……私は、いつもこうだと思うが』
「……うーん、そうなんだけど」
聡美は、少し考えた。
「……いつもの静かさと、ちょっと違うっていうか」
『…………』
「……学校のこと?」
凛は、目を瞬いた。
『……よく分かったな』
「……分かるよ、それくらい」
聡美は、少しだけ笑った。
「……それで?」
凛は、グラスの水を一口飲んだ。
『……生徒とのことで、少しな』
「……そっか」
『……こちらが伝えたいことと、相手が聞きたいことが、うまく噛み合わないことがある』
聡美は、黙って聞いていた。
『……自分の考えを伝えるだけでは、足りないらしい』
「……うん」
『……だが、黙って見ているわけにもいかない』
凛は、少し困ったように笑った。
『……教師というのは、難しいな』
「……ほんと、そうだよね」
聡美も笑う。
「……私もさ、この前、生徒に説明したつもりだったことが全然伝わってなくて」
『……そうなのか』
「……うん。ちゃんと言ったのに! って思ったけど、あとで聞いたら、向こうは違う意味で受け取ってたみたい」
『……なるほど』
「……難しいよね、人に何か伝えるのって」
凛は頷いた。
聡美は、続けた。
「……でも、凛から誘ってくれて、ちょっと嬉しかった」
『……そうか?』
「……うん。いつも一人で何でも考えてそうだから」
『……別に、何でも一人で考えているわけではないぞ』
「……はいはい」
『……本当だ』
「……分かったって!」
聡美が笑った。
凛も、少しだけ口元を緩めた。
自分の学校の出来事を、すべて話す必要はない。
聡美も、詳しく聞き出そうとはしなかった。
それでも。
誰かと食事をして、こんなふうに話すだけで、気持ちが少し軽くなることはあるらしい。
凛は、ハンバーグを一口食べた。
そして、ふと思い出したように口を開く。
『……そうだ、聡美』
「……ん?」
『……一つ、調べてほしいことがあるんだが』
「……何?」
『……今度の土曜日に、どこかで空手の大会をやっていないだろうか』
聡美は、目を丸くした。
「……空手?」
『……ああ。できれば、一般の人も見られる大会がいい』
「……ちょっと待ってね」
聡美は、すぐにスマートフォンを取り出した。
画面を操作する。
「……凛が出るわけじゃないよね?」
『……違う』
「……だよね。じゃあ、何で?」
『……生徒たちに、一度見てもらいたいと思っている』
「…………え?」
聡美の指が止まった。
「……生徒?」
『……ああ』
「……土曜日に?」
『……そうだが』
聡美は、凛の顔をじっと見つめた。
そして。
「……あはははっ!」
突然、笑い出した。
『……何がおかしい?』
「……ごめん、ごめん!」
聡美は、口元を押さえながら続けた。
「……リンなら絶対しないね!」
『……そうなのか?』
「……絶対! 元のリン、休日は自分の時間って決めてたもん!」
凛は、少し考えた。
『……休日に生徒と会うのが、そんなに珍しいのか』
「……いや、そういう先生もいると思うけどさ」
聡美は、笑いながら首を振った。
「……少なくとも、私の知ってるリンは、自分からそんなこと言い出さない!」
『……なるほど』
「……でも、凛なら納得かも」
『……何故だ?』
「……だって、本当に空手が好きなんだね」
凛は、少しだけ目を細めた。
『……ああ』
その返事には、迷いがなかった。
聡美は、再びスマートフォンへ目を落とす。
「……えっと、今度の土曜日って、五月二日だよね」
『……そうだ』
「……近くで……一般観戦できる……空手大会……」
検索結果をいくつか開いていく。
「……あ、これかな?」
『……見つかったか?』
「……うん。市民体育館でやる地域の大会みたい」
聡美は、画面を凛へ向けた。
そこには、大会の案内が表示されていた。
「……一般観戦可、だって」
『……ほう』
「……これなら行けそうじゃない?」
凛は、画面を見つめた。
大会名。
会場。
開催日。
記載された情報を、一つずつ確認する。
『……ああ。よさそうだ』
「……じゃあ、これ送っとくね」
『……助かる』
聡美は、案内のページをメッセージで送った。
「……でも、凛」
『……ん?』
「……空手の試合を見せたら、生徒たちに何か伝わると思う?」
凛は、少し考えた。
『……分からない』
「……え?」
『……何を感じるかは、本人たち次第だろう』
「…………」
『……ただ、私は見てもらいたいんだ』
聡美は、凛を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……そっか」
それ以上、何も聞かなかった。
◇
同日、午後九時四十分。
凛は、自室の机に向かっていた。
机の上には、一冊の日記帳。
四月に書き始めてから、少しずつページが増えている。
凛は、ペンを取った。
しばらく考えてから、文字を書き始める。
《二〇二六年四月二十九日、水曜日》
《悠真は、勇気を出して助けを求めてくれた。》
《結衣は、自分の願いを話してくれた。》
《莉子の本当の気持ちは、まだ聞けていない。》
凛は、そこでペンを止めた。
三人とも、同じ教室にいる。
けれど、見ているものも、考えていることも違う。
凛は、続きを書いた。
《今日は、聡美と昼食を取った。》
《誰かと話すことで、少し気持ちが軽くなることもあるらしい。》
《まだ分からないことは多いが、明日も私にできることをしよう。》
最後の一行を書き終えると、日記帳を閉じた。
スマートフォンには、聡美から送られてきた大会案内が残っている。
凛は、それをもう一度確認した。
五月二日、土曜日。
まだ数日先だ。
凛は、机の照明を消した。
◇
翌日、四月三十日、木曜日。
午前十時二十分。
桜丘高校。
『……悠真』
休み時間、凛は廊下で悠真へ声をかけた。
「……あ、山本先生」
『……少し、話せるか?』
「……はい」
凛は、人通りの少ない場所へ移動した。
悠真は、少し緊張した様子で凛を見ている。
『……火曜日のことを、気にしているんじゃないか』
「…………」
悠真は、答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「……俺が、先生に話したから……」
『……悠真』
凛は、静かに遮った。
『……お前が相談してくれたことは、間違いじゃない』
「…………」
『……そのあと私がどう動くかは、私の責任だ』
悠真は、顔を上げた。
「……でも……」
『……お前が話してくれなければ、私はあの画面に何が書かれているのか知らないままだった』
「…………」
『……だから、助かった。ありがとう』
悠真は、しばらく凛を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
『……学校としても、対応を続けている。お前が相談したことを、勝手に誰かへ明かすつもりはない』
「……ありがとうございます」
悠真は、少しだけ表情を緩めた。
『……それと、悠真』
「……はい?」
『……また困ったら、話しに来てくれ』
悠真は、少し驚いたように目を瞬いた。
そして。
「……はい」
今度は、さっきよりもはっきりと答えた。
◇
同日、午後四時二十分。
体育館へ向かう廊下。
『……結衣』
「あ、山本先生」
結衣が、振り返った。
手には、女子バレー部の練習記録が入ったファイルを持っている。
『……これから部活か?』
「はい」
『……そうか。少しだけ、時間はあるか』
「……大丈夫です」
凛は、頷いた。
『……今度の土曜日、空手の試合を見に来ないか』
「…………え?」
結衣は、目を瞬いた。
「……空手、ですか?」
『……ああ』
「……試合って、見られるんですか?」
『……一般の人も観戦できる大会だそうだ』
「……へえ……」
結衣は、少し興味を持ったようだった。
「……先生、空手やってたんですよね」
『……ああ。長くやっていた』
「……そうなんですね」
『……どうだろう。もちろん、予定があるなら無理にとは言わない』
結衣は、少し考えた。
「……土曜日なら、大丈夫だと思います」
『……そうか』
「……はい。空手の試合って、見たことないので」
凛は、嬉しそうに頷いた。
『……それなら、ぜひ来てほしい』
「……分かりました」
結衣が、少し笑った。
「……楽しみにしています」
『……ああ』
凛は、大会の案内を見せ、集合場所と時間を伝えた。
結衣は一礼すると、体育館へ向かっていった。
◇
午後四時四十五分。
三年四組の教室。
莉子は、鞄へ教科書をしまっていた。
ほかの生徒たちは、ほとんど帰っている。
『……莉子』
「…………」
莉子が、ゆっくりと顔を上げた。
「……何ですか」
声には、まだ警戒が残っていた。
凛は、できるだけ普段どおりに話しかけた。
『……今度の土曜日、空手の試合を見に行かないか』
「…………は?」
莉子が、目を丸くした。
「……空手?」
『……ああ』
「……何で?」
『……一般の人も観戦できる大会があるんだ』
「……いや、そうじゃなくて」
莉子は、眉を寄せた。
「……何で私が?」
『……一度、見てほしいと思ってな』
「…………」
莉子は、凛を見つめた。
そして、呆れたように息を吐いた。
「……先生、意味分かんない」
『……そうか?』
「……そうでしょ」
莉子は、鞄のファスナーを閉めた。
「……ていうか、空手って、ただの殴り合いじゃん」
『…………』
「……喧嘩と何が違うの?」
凛は、すぐには答えなかった。
莉子は、さらに続けた。
「……痛そうだし、見て何が楽しいのか分かんないんだけど」
凛は、少しだけ笑った。
『……それも、見てから決めてくれ』
「……はあ?」
『……話で聞くのと、実際に見るのとでは違うかもしれないぞ』
「……いや、別に興味ないし」
『……そうか』
凛は、頷いた。
『……無理に来いとは言わない』
「…………」
『……だが、私は来てくれたら嬉しい』
莉子は、少しだけ顔をしかめた。
火曜日。
この先生の説教を、途中で拒絶した。
まだ、話したいとは思えない。
なのに。
今日は突然、空手の試合を見に来いと言う。
(……ほんと、何なの……)
莉子は、凛の顔を見た。
真剣だった。
けれど、火曜日のように、自分を問い詰めようとしている顔ではない。
ただ、本当に空手の試合を見てほしいと思っているようだった。
「……先生って、ほんと変わってる」
『……よく言われる』
「……自覚あるんだ」
『……少しはな』
莉子は、思わず口元を緩めかけた。
しかし、すぐに真顔へ戻った。
「……で、何時から?」
凛の表情が、少し明るくなった。
『……午前中からだ。集合時間と場所は、ここにある』
凛は、スマートフォンに表示した大会案内を見せた。
莉子は、画面を覗き込んだ。
「……結構、朝早いんだ」
『……試合は午前から始まるからな』
「……ふーん」
『……予定は大丈夫そうか?』
「……まあ、別に」
莉子は、少しだけ視線を逸らした。
「……行けばいいんでしょ」
『……ありがとう、莉子』
「……別に、先生のためじゃないし」
『……ああ。それでいい』
凛は、頷いた。
『……一般の観客もいる大会だ。会場では、ずっと私と一緒にいる必要もない』
「……はいはい」
莉子は、鞄を肩にかけた。
「……じゃあ、帰ります」
『……気をつけてな』
「……失礼します」
莉子は、教室を出ていった。
廊下を歩きながら、少しだけ首を傾げる。
(……何で、空手なんだろ)
よく分からない。
ただ、あの先生があそこまで言うものを、一度くらい見てみてもいいかもしれない。
そう思ったことは、誰にも言わなかった。
◇
同日、午後九時十分。
凛は、スマートフォンの画面を確認していた。
聡美から送られてきた大会案内。
会場までの行き方。
集合場所。
開始時間。
必要な情報を、一通り確かめる。
結衣も、莉子も、来てくれることになった。
凛は、画面を閉じた。
二人に何かを強制するつもりはない。
試合を見て、どんなことを感じるかも分からない。
それでも。
『……楽しみだな』
凛は、小さく呟いた。
久しぶりに、空手の試合を間近で見られる。
そう思うだけで、少し気持ちが弾んだ。
そして、五月二日、土曜日。
結衣と莉子が待ち合わせ場所で顔を合わせたとき、どんな反応をするのか。
このときの凛は、まだ深く考えていなかった。




